彦四郎の中国生活

中国滞在記

韓国「徴用工判決問題」を考える❷—日本国内では、判決・文政権への批判が溢れているが‥

2018-11-29 20:42:10 | 滞在記

 11月29日(木)の午前、韓国の「大法院(最高裁判所)」で「徴用工」裁判の判決で、再び「原告たちの訴えを認め、日本の三菱重工に約4800万円の支払いを命ずる(原告の5人への)判決」が決定された。「一人は広島の三菱重工での労働に強制連行されていた人の遺族」、そして4人は「女子勤労挺身隊(徴用)」として名古屋の三菱重工で働いていた人たちである。

 これに関する日本のNHKテレビ報道などを見た。日本の河野太郎外相は、「あらゆる選択肢を視野に入れ、毅然として対応していく」との談話を発表した。

 この11月に入って、かなりたくさんの「徴用工判決問題」に関する日本の新聞・ニュース報道やインターネット記事を聞いたり見たりした。インターネット記事に関しては50以上の記事を読んだだろうか。そのほとんど(90%以上)は、「韓国政府・文政権・判決・韓国民に対する批判記事」だった。その批判記事の多くを読んで、「その批判論調には、賛同できる部分も多いが、何かが決定的に足りないなあ」という感想を私は持った。「批判論調に血が通っていない」というか‥‥。そんな印象だった。

 そんな批判論調の記事の中には、「徴用工強制連行はなかったと言えるワケ—韓国で相次ぐ訴訟」というものもあった。その記事によると「日本が徴用工問題で責められる理由は本来存在しない。朝鮮半島での労働者募集は、企業担当が直接募集する"自由募集"が1939年から始まり、1942年からは朝鮮の行政機関を通した募集である"官斡旋"が行われた。応募するのは個人の自由であり、応募しなくても罰則もなかった。

 "徴用令"の朝鮮半島での発動は1944年9月であり、"徴用"に応じることはすべての国民に課された義務であり、日本国民だった朝鮮人に適応されたのは、当時の国際法に照らして何ら問題がない。」との内容。この記事も「血が通っていない印象」を私は強く受けた。当時の朝鮮人たちの気持ちというものをまったく考慮していない論調だと思った。また、記事内容に間違いや歪曲・捏造があるとも思った。

 丹波マンガン記念館の売店でたった一冊だけ売られていた『死地を越え—帰郷まで・日帝強制徴用の手記』(李相業 著)を読んだ。李さんが15才の時の1943年9月(1944年9月ではない)に朝鮮半島の故郷で「徴用」されたのだった。そして、福岡県の「上山田三菱炭鉱」での朝鮮人たちに対する「人を人と思わない」監督たちの むごいまでの仕打ちの数々がこの手記には書かれている。このような朝鮮人にたいする対応・扱いをした日本の企業ばかりではないだろうが、このようなむごい企業もあったことは事実のようだ。

 この11月に読んだ「徴用工問題」に関する多くの「韓国人・韓国政府」への批判は、「国と国との約束」遵守しない韓国・文政権にあることは私も理解できるし賛同もする。しかし、かりにどんな形(「自由応募」「徴用」「強制連行」など)で日本列島の工場や鉱山などに来て働いたとしても、虐待を伴った「労働実態」はかなりあったのではないかと、私は想像もする。賃金が一銭も払われなかった事例も多かったと聞く‥‥。

 このような「徴用工」などの労働環境実態を考えずして、「1965年に決着済みだ」と、批判をするばかりの論調に「血の通わぬもの」を感じてしまうのだろう。もちろん、文在寅大統領という人にも その思想・考え方に大きな不安も感じる。また、この「徴用工問題」や「従軍慰安婦問題」をもちあげ「反日運動」を展開する諸団体の人たちにも‥。

 今、日本国内のメディアでも日本国民の中にも、「反韓国」の機運が霧のように覆いはじめている。先ごろ、埼玉県秩父市が姉妹都市関係を締結している韓国の都市との「相互職員交流事業」に対して、ネット右翼を中心とした「抗議」(韓国のその年に徴用工像があるとの抗議)が多くよせられ、事業中止を発表した。

   「徴用工」「従軍慰安婦」など、当時の日本政府により海外(朝鮮半島外)に招集された朝鮮人の人たちの数は約100万人にのぼるとされる。「徴用工」だけでも20万人以上だとされている。今後 より多くの「徴用工裁判」が起こされる可能性は大きい。「日韓国交断絶」ということになれば、北朝鮮や中国は「ほくそ笑む」。

 日本人は、この状況で、「あらためて日本と朝鮮半島」に関する歴史も含めた学びなおし(始め)の必要があるのではないのだろうか。真実、事実を学ばずして、この問題などを巡る「日韓の国交正常化」の未来はありえない。これは、韓国人にとっても同じことが言える。私も遅ればせながら、この「徴用工問題」をきっかけに学び始めをしたばかりである。


韓国「徴用工判決問題」を考える❶—日本国内では韓国に対する不信の増大、日韓国交危機にも

2018-11-29 17:03:17 | 滞在記

 日本に一時帰国していた11月13日、京都市内の「丸善書店」の「東アジア書籍」関連のコーナーに立ち寄り「中国・韓国・北朝鮮」に関する書籍を見てみた。『運命—文在寅自伝』という本があった。結局、購入して中国に持ち帰りすることはしなかったが、今年度に入り「東アジア情勢」にかなりの影響力を発揮しはじめた韓国大統領「文在寅自伝書」は、とても気になる書籍の一冊だった。

 2018年10月30日、韓国の最高裁判所が「戦時中に日本の工場など」で働かされていたとされる「元韓国人徴用工4人」が「新日鉄住金」にたいして損害賠償を求めた裁判で訴えを認め、一人につき1000万円の支払いを命じる判決を出した。このことは、日本国内に大きな反発を生んでいる。日本政府の安倍首相は、「1965年の日韓基本条約」締結時の時にこの徴用工の問題は両国間で「補償等」の課題も含めて解決ずみだとして「国際法に照らしてありえない判決」としてこの判決や韓国政府に抗議。同日、河野太郎外相は駐日韓国大使を外務省に呼び出し厳重な抗議をした。これは中国のインターネット記事でも取り上げられていた。

 これに対し、しばらく沈黙を守っていた文在寅大統領は、「判決内容を尊重する」との一言のコメントを行ったきりだ。この判決による「日韓関係」の崩壊も辞さずという「確信犯」的にも思えるような大統領の一言コメントだった。「北朝鮮との融和」政策により大統領になった文在寅氏は、「日本やアメリカとの関係を崩壊させてでも」、北朝鮮や中国との関係を強化し軸足を移そうとする政策にいよいよ本格的に取り掛かるということだろうか。(彼はいったい何をしたいのだろうか?朝鮮半島統一といっても、どのような形の統一にしていきたいのだろうか?)

 このような韓国政府側の対応に対して、日本の有力新聞各紙は、一斉に「韓国大法院(最高裁)判決や文大統領に対する批判」を行い、テレビ報道などの各局も同じように「韓国」に対する不信を報道。これは「韓国大法院(最高裁)」が下した判決とはいえ、この判決を下した「大法院長官・金命洙」氏は、昨年の9月に文大統領の後押しで(文氏と志を同じくするようだ)、最高裁判事の経験がないのに長官に就任した人物だった。つまり、今回の徴用工判決は実質的に文大統領が推し進めた判決と誰もが考えても不思議ではない。

 11月10日ころに日本で買った週刊「現代」も、この韓国徴用工判決記事を特集していた。「これはヘイトではなく正論である」「幼稚な韓国と、どう付き合えというのか」「怒る・裏切る・増長する・居直る・約束を守らない」「日本と世界の親韓派も韓国の反日派さえも将来に絶望した」との見出し文字が‥‥。記事には、「韓国政府が作成した徴用工訴訟対象299社」リストも掲載されていた。

 記事の中で、親韓国派女優として韓国語も堪能な黒田福美さんは、「日韓国交正常化から53年間、さまざまなことがあった日韓関係で、"そこだけは遵守されてきた"という一線が一気に覆ってしまった。韓国には『泣く子は餅をもらえる』とか『泣かない子にはお乳はあげない』といったことわざがある。それに対してこれまで付き合ってあげてきたのが日本ですが、今回ばかりは"やり過ぎだよ"と堪忍袋の緒が切れても仕方ない。私自身、おかしいと言わざるを得ません。」と語っている。

 同じ記事の中で、佐藤優氏は、「韓国の大統領は再選がないので、文政権が続く2022年までは韓国と真っ当な話をするのは無理だと割り切り、対処療法的に徹することです。」と語っていた。

 2017年の春に大統領に初当選し、その後「冬季オリンピック」の韓国での開催、さまざまな北朝鮮との融和行事、米朝会談の仲立ちなどを行なって来た文氏。最も支持率の高い時期には85%もの国民の支持があった。しかし、最近に至って、徐々に、毎週毎週 支持率を落とし続け。11月中旬には52%となっている。最高裁での「徴用工判決」も支持率上昇には転換せず、下降を続けている。このことは、中国のインターネット記事でもとりあげられていた。朴槿恵前大統領の母体政党の支持率がじわりじわりと高まり25%まで上昇していることを伝えていた。文大統領の支持率低下の最も大きな要因は「経済政策」の問題のようだ。

 現在、日本の貿易相手国は順位的には、1位中国、2位アメリカ、3位韓国(7%)。一方、韓国も、1位中国(25%)、2位アメリカ(12.5%)、3位日本(6.5%)となっている。日韓双方とも6.5〜7%という数字は決して小さなものではない。このように経済政策の行き詰まりによる支持率の低下にもかかわらず、文大統領はなぜこのような判決にふみきったのだろうか? 今度日本に帰国した際、『運命—文在寅自伝』を買って読み、彼の人となりを知る必要を思った。八方美人とも言われる文氏だが、日本への御愛想(おあいそ)・八方美人をなぜ止めることにしたのだろうか? 「朝鮮民族の統一」、そして、「日本への徹底的な攻撃、混乱・破壊政策」、という彼の思想が根底にあるような可能性が頭をよぎる。

  このままでは、「日韓国交の断絶」という危機がさらに深まりかねない心配がある。

 このような「日韓両国」の戦後最大ともなる政治的・国民相互の緊張関係の高まりの中で、元首相の鳩山由紀夫氏は、この10月、韓国・釜山大学での政治学名誉博士号授与での記者会見の際、慰安婦問題について答え、「この問題で重要なのは、韓国国民が納得できる方法で解決を模索することなのです」「日本は過去の過ちに対して謝罪の気持ちを持つべきで、韓国人が受け入れるまで謝るべきだ」と発言している。日本の今の「対韓国」世論と対極をなすような発言だが‥‥。

 このような発言には、過去に首相を歴任した人物として、やはり総合的な見識の浅さを感ぜずにはいられない。「日中関係」や「日韓関係」における歴史問題について、彼は単純思考すぎる。少し「黙っていてほしい」とさえ感じてしまう。韓国や中国の現政権に利用されているだけのようも思う。(彼の、特に東南アジア・東アジアでの名誉博士号収集癖は、かっての創価学会会長の池田大作氏のようで、違和感を感じてしまう。)

 では、いったいどのように、今後の「日韓関係」のためにも考え、双方の国が対応して行ったらいいのだろうか?

[次回に続く]

 

 

 

 


丹波マンガン記念館へ行く―朝鮮人徴用工問題を考える❹「応募・徴用・強制連行」の話と写真

2018-11-28 10:52:28 | 滞在記

 1989年の記念館開設の前年に、初代の記念館館長となった李貞鍋さんが人脈をたどり、京都市や丹波地方に住んでいるマンガン鉱山に関わった在日朝鮮人約30人と、日本人約10人を訪ね歩き、話を聞いた時の写真と証言の一部がパネルで掲示されていた。(約20人分)以下はその掲示パネルの写真と話の内容の一部。

  ①李徳南さん(女性)京都府園部町在住—1930年頃、応募に応じた夫とともに日本へ。夫は塵肺で死亡。②金欣也さん(男性)京都府園部町在住—父母は募集で九州の炭鉱に来た。金さんは在日2世。③鄭甲千さん(男性)京都府日吉町在住—九州の筑豊炭鉱に募集で来た。その後、丹波のマンガン鉱山で働く。④金敬道さん(男性)京都市在住—募集で来た。京都府和知町の鍾打鉱山(ニッケル)に入り、強制連行された100人以上の朝鮮人とともに働いたこともある。戦後はマンガン鉱山へ。⑤李達基さん(男性)京都市在住—父とともに日本に募集で来た。

 ⑥全谷介さん(男)京都府美山町在住—募集で日本に来た。塵肺になった。⑦金甲善さん(男)京都府美山町在住—強制連行で日本に連れてこられた。⑧新井敏夫さん(日本人・男)京都府日吉町在住—徴用・30銭のハガキ一枚の徴用で引っぱられた。兵庫県の「福住鉱山」では、タコ部屋があり100人ほどの強制連行された朝鮮人が働かされていた。⑨李新基さん(男)—強制連行。⑩西田勉さん(男)・山口英雄さん(男)・栃下勘左衛門さん(男)—「日本の戦争中は、朝鮮の人を奴隷にして扱っとったんや。働かして金を一銭もやらんと働らかしとった。われわれも、朝鮮人と同じ事をされとったんや。同じ日本人でありながら。」

 ⑪栃下ハルさん(女)京都府日吉町在住—(被差別・地区)の者は土地がなく生活に困窮していた。マンガンの選鉱作業の仕事はの者が多くいた。坑道内から120kgほどのマンガン鉱石を運び出し選鉱作業をしていた。⑫山口英雄さん(男)京都府日吉町在住—大正10年までの人は、田や畑を持てなかった。仕事がないので仕方なくマンガン鉱山で働いて、皆、塵肺にやられた。⑬姜順徳さん(女)京都府美山町在住—募集で来た夫とともに日本に来た。⑭辛秀申さん(男)京都府京北町在住—募集で日本に来た。

 ⑮尹青眼さん(1961年生まれの在日2世・男)—万寿寺住職・寺には日本で亡くなった朝鮮人のための納骨堂がある。「ここに眠っておられる方々は、好きでここで亡くなったわけではありません。強制労働を中心とした、無理やりです。国のない時代に、言うに言われない苦難の歴史の中で亡くなったんです。この人たちの恨(こん)と怒りや悲しみを晴らしてあげたい。それが願いです。そのためにも、日本の人たちには、隣の国の人の気持ちを苦しめたことを、きちんと考えてほしい。」

 ⑯金載錫さん(男)福井県大飯町在住—自分は募集で日本に来たが、大飯町の犬見鉱山(鉄)では、数百人の強制連行の人とともに働いていた。⑰李従基さん(男)京都市在住—募集で日本の鉱山に来た。

 上記写真は、左より、①京都府日吉町四ツ谷にあった「朝鮮人たちに濁酒(ドブロク)を飲ませる店」の廃墟跡の建物。②丹波マンガン記念館への来館者のサイン帳。ほとんとが朝鮮語で書かれていた。③日本全国のマンガン鉱山があった場所の地図。④丹波山地(丹波地方)にあった300箇所あまりの鉱山所在地地図。

 資料館の片隅に売店があって、そこに年配の朝鮮人らしい女性がいた。おそらく、この記念館を1989年に開設した李貞鍋さんの妻・任静子さんだろうか。アンモナイトの化石や鉱物などが売られていた。美しい朝鮮の民族服姿の女性の人形が置かれていたので、「これは販売しているのですか?」と聞いたら、「ここに置いているものですから、販売品ではありません」とのことだった。この日は、小学校低学年の男の子二人を連れた日本人男性(30代後半ぐらい)が客として来館していた。息子たちに小さなアンモナイトを買ってあげていた。

 売店に一冊だけ本が置かれていたので、「これは買うことはできますか?」と聞いたら「はい」とのことだったので、購入した。『死地を越え—帰郷まで—日帝・強制徴用の手記』—「‥‥声を出して泣く人は誰もいなかった。いや、心の中では‥地獄のような労働と飢えと殴打から早く解放された(?)少年の死を、かえって羨んでいた。」と表紙に書かれた書籍だった。2017年3月に初版の書籍で、「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」企画の書籍。

 著者は「李相業」氏。「1928年、6人兄弟の長男に生まれる。1943年9月、15才の時、令状(徴用令状)が来て、福岡県の「上山田三菱炭鉱」に徴用され、飢えと暴力の下、地下の掘削現場の先端で強制労働を強いられた。相続く仲間の死を目撃して、脱出を試みるも何度か失敗し、三度目にやっと脱出に成功。1945年解放を迎えて、故郷に戻ってくることができた。1948年霊岩南初等学校を皮切りに1994年定年退職するまで教員生活を送る。」と、著者紹介に書かれていた。

 書籍を企画した「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」は、2009年に韓国光州市で結成。「朝鮮人・女子勤労挺身隊」の存在を韓国社会に知らせて来た。三菱重工を相手に韓国の法廷で損害賠償訴訟を起こす。2015年には「日本・長崎の軍艦島など」のユネスコ世界文化遺産登録に対する反対運動の先頭に立ってきた。」と団体紹介がされていた。

◆私の「丹波マンガン記念館」への訪問は3回目だった。10年ほど前に初めて来館した時と、記念館の施設や展示内容も何も変わっていなかった。むしろ、10年の年月を経て、展示やパネルなどが一層古ぼけて、文字も薄くなり読みにくくなっていた。ただ変わったのは、2年前の2016年8月に「徴用工像」が突然に建立されていたことだった。

 この像は、前に述べたように、現在の文在寅大統領政権を強く支えている2つの労働組合「韓国労働組合総連盟」「全国民主労働組合総連盟」が、この日本の記念館に注目し、「かなり強く像の建立を記念館に働きかけて」、建立に至ったのだろう。館の運営をしている李さん家族(親子)は、戸惑いや心配を抱えながらも建立同意に至ったものと、館の関係者と話して感じられた。

 資料館の建物内にある、このブログ号で紹介した「証言」なども、10年前となんら変わっていない。開館した1989年から30年間あまり、おそらく変わらず、ここに展示されている「証言」なのだろうと思う。(韓国の労働組合などの働きかけで、「証言内容を変更」した形跡はまったくなかった。) 館を運営している李さん親子たちには、「日本を告発する」という気持ちはあまり感じられず、「ここマンガン鉱で仕事に携わった人々の苦労や苛酷な生活の様子を人々に知ってほしい」という願いが強いのかと思った。

 ただ、万寿寺の住職の「国のない時代(日本に挑戦は1910年に併合され、祖国がなくなってしまっていた)に、言うに言われない苦難の歴史の中で、亡くなったんです。この人たちの恨と怒りと悲しみを晴らしてやりたい。それが願いです。そのためにも、日本の人たちには、隣の国の人の気持ちを苦しめたことを、きちんと考えてほしい。」という一言は日本人である私には心にしみる。私をふくめて多くの日本人は、今起きている「徴用工問題」を論じる際にも肝に銘じておく必要があることだと思った。

 「丹波マンガン記念館」は、来年で開館30周年を迎える。家族で細々と運営し続けて30年間が経とうとしている。

◆「応募(募集)」「徴用」「強制連行」、日本の鉱山で働いた朝鮮の人たちの労働契機は3種類がある。1910年から朝鮮は日本に併合され日本国の一部となった。朝鮮人にとっては「祖国喪失」である。1940年前後は、このような状況だった。日本人が「赤紙ハガキ1枚」で強制的に「徴兵」されて戦地に赴かされたように、朝鮮半島の朝鮮人たちも、「徴用」という形で、日本の炭鉱などに強制的に働かされたこととなる。現在の「徴用工問題」は、日本政府側は「日本の領地の住民だから徴用という形は問題がなかった。募集で来た人も多い。強制連行の事実はない。」という見解をとっているが‥‥。はたしてそうだろうか?  (※日本人の徴兵の場合は「お国のために」という想いも心にいだいて徴兵に応じもしただろうが、朝鮮人の人たちにとってはそんな気持ちは持ちにくかっただろうと思う。)

 「募集(応募)」に、自ら進んで日本に渡り鉱山で働いていた人が多くいたことも、記念館資料館内展示の証言でもわかる。しかし、「徴用でも募集でもなく、強制連行」という形で日本に連れてこられた朝鮮人もかなり多くいたのではないだろうかとも思った。「徴用」の場合でも、朝鮮人の人たちにとっては、「30銭のハガキ」で強制的に日本に行かされたという印象しか残らなかったのかとも‥‥。

 

 


丹波マンガン記念館へ行く―朝鮮人徴用工問題を考える❸「記念館開館・運営」への想い

2018-11-27 20:17:23 | 滞在記

 「坑道の見学を終えて、丹波マンガン記念館」の資料室のある建物に入る。1989年5月22日付朝刊の京都新聞の記事があり、「李父子悲願のオープン—マンガン記念館を見る—採掘90年の歴史を再現」「ノミで掘った作業風景も紹介—坑道の一部300m利用」という見出しの記事。記事の内容によると次のように書かれていた。

 ここ「新大谷鉱山」は明治35年ごろから採掘され始めた比較的大きな鉱山。昭和44年に李さんの会社・白頭鉱業(現在の社長は妻の任静子さん)が採掘権を引き継いだが、安い外国産に市場から追い出され、昭和57年に閉山。日本で最後のマンガン鉱山だった。李さんは長年の採掘作業で「塵(じん)肺」[珪石(けいせき)の粉塵が肺に刺さる肺の病気]となり入院。「なくなっていくマンガン鉱の実態を残したい」という希望を長男・竜吉さん(36)と次男・竜太さん(29)が引き受けた。二年がかりで坑道を広げたり、資料館や事務所の建設、国道からの進入路などの工事をほとんど自力でやり遂げた。」「—先人がどう苦労して鉱山の仕事をしてきたのか、じっくり見てほしい—と竜吉さん。」「日本の近代化、戦後の高度経済成長を脈々と支えてきた人たち。その生の様子をこの記念館は垣間見せてくれる。」

 資料館に掲示されたいくつもの展示物。資料館の冒頭言が模造紙に記されていた。

「丹波マンガンと朝鮮人たち」と題されている。それによると、「1930年代からマンガン採掘が盛んになり、労働力不足のため、募集で朝鮮からやって来た人、九州や北海道の炭鉱などに強制連行され、そこから逃げだして来た人などが集まった。多い時で、丹波の各炭鉱には全体で3000人以上の朝鮮人がいた。」

「昨年初めから、当時の李貞鍋館長の人脈をたどり、丹波や京都市内に住んでいる、マンガン鉱山に関わった在日朝鮮人約30人と、日本人約10人を訪ね歩き、貴重な話を数多く聞いた。ここに掲げた写真の人々は、その一部である。」

「日吉のどの山を掘ってもマンガンが採れた。当時の2000円あれば、採掘権を買うことができた。鉱山師と相談し、有望な山の採掘権を買い、試掘して見て有望なことがわかれば、人を大勢雇い鉱山の規模を大きくした。労働は健康を収奪した実態があった。」などと冒頭文には書かれていた。

 山陰線「殿田駅」(日吉町)、丹波山地の300近くあったマンガン鉱山で採掘されたマンガンは、ここ「殿田駅」に集積されたとの説明。

◆マンガン—「乾電池」の材料や「鋼鉄を作るための材料の一つ」として使用される。

 


丹波マンガン記念館へ行く―朝鮮人徴用工問題を考える❷鉱山の坑道内作業の苛酷さを想う

2018-11-25 18:19:53 | 滞在記

 「徴用工像」の近くにマンガン鉱山の坑道口がいくつかあった。人が一人やっと這って入れるような「川端下坑」。1977年まで採掘していたという「川端斜坑」は 人が少ししゃがんで入れるような傾斜がきつい坑道。鉱石を運び出すための手押しトロッコ(木製)用のレールが設けられていた。長さは142mあると記されていた。

 「川端大切坑」の入り口には、「幅80cm、高さ1mの坑道として掘られ、採掘をしていた」が、「丹波マンガン記念館開設に向け、昭和62年に観光用に坑道を広げたもの」と書かれていた。この坑道は昭和25年に掘られ始め、2年間をかけての昭和27年に鉱脈まで手彫りで掘り進められたと書かれている。「坑道内温度は12℃です。(年中不変)」のようだ。夏は涼しく冬は暖かく感じるのが坑道内。坑道内に入って行く。当時は灯火用に「石油ランプ」が使われていた年月が長かったのだろうか。ここまで掘るのに2年間を要しましたと記された場所に着いた。

 鉱脈に到達した当時、幅80cm高さ1mの広さに掘られた坑道から枝分かれするように、人間一人二人が入れる坑道をさらに掘ってマンガンを含んだ鉱石を掘って、坑内木馬と呼ばれた箱型の大きな木箱(下に小さな車輪あり)で運び出している鉱夫像。けっこう広い場所に着くと、坑道内から縦穴が掘られていた。50kgの荷物を40m上まで掘り進めた狭い坑道まで持って上がったと書かれている。上方の坑道を登る鉱夫像。人間が一人やっと入り進める狭い坑道は50mまで掘られたと説明されている。

 坑道内の地層は、「丹波古生層群」と呼ばれる地層群だ。京都府中北部や兵庫県東部の篠山あたり一帯に広がる丹波山地は、この「丹波古生層群地層」が地下に広がる。この地層は、私の自宅近くにある「男山(石清水八幡宮がある)」まで広がっている。このため、丹波山地には約300箇所の小さなマンガン鉱山があった。

 坑道内の説明プレートに「2.4億年前〜1.7億年前の丹波古層群、千枚珪石(チャート)—海底に放散虫が堆積したもの—一つの層ができるのに一万年の年月がかかる。」と書かれている。この丹波古生層の地層からは、丹波篠山周辺では恐竜の化石が発見・発掘をされている。このチャート地層は、とてもとても硬い地層で、チャート石は「火打石」にも使われていた。手掘りで掘り進めることのとてつもない苦労がしのばれる。(この地層が海底でできた後、地殻変動隆起によって丹波山地が形成された。この近くの川原では、海底火山の働きによりできる枕状溶岩を見つけることができる。)

  1950年代後半以降、マンガン鉱山ではダイナマイトを使った採掘や掘削機を使った採掘がおこなわれ始めた。このため、坑道内の空気中に長時間粉塵が充満し、「粉塵」による呼吸器系の病気である「塵(じん)肺」患者が激増したと言われている。

 この「川端大切坑」は、全長500mあまり続き、坑道内は上に下に上下しながらも掘り進められていて、見学しながら坑道の出口まで30分間あまりを要した。丹波山系にある300余りのマンガン鉱はどの鉱山も規模が小さく(この記念館のある鉱山が最も規模の大きい鉱山のようだ)、坑道内での採掘作業の苛酷さ大変さ、苦労が想われた。