彦四郎の中国生活

中国滞在記

コロナ禍で半年間が経過した9月上旬—中国の大学卒業後すぐ来日し働いている人たち、京都に来る

2020-09-28 07:22:41 | 滞在記

 「先生、近々 京都に一度行ってみたいと思っているんですが、先生ともお会いしたくて‥」と東京の日本語学校に留学していて大学院への進学を目指していた黄さんから連絡があったのは、今年の3月上旬頃だった。名古屋大学の大学院(社会学研究科)の試験に合格し、4月からの大学院生活を送るために4月上旬に東京から名古屋に引っ越す予定のようだった。そして、5月上旬の大型連休期間中に京都に行きたいと話していた。大阪には閩江大学外国語学部日本語学科時代のクラスメートだった王さんと潘さんが働いているので、彼女たちとも会う予定のようだった。

 しかし、4月7日に新型コロナウイルス感染拡大にともなう「国の緊急事態宣言」が発令され、「不要不急」の移動自粛要請の事態もあり、黄さんたちの京都行はしばらくはお蔵入りとなっていた。

 お盆が過ぎた8月20日頃、久しぶりに黄さんから連絡があり、大阪で働く2人の休暇がとれる9月1日に京都に行きたいと考えているので、私の都合はどうですかと聞いてきた。大阪で働いている潘さんは、大学卒業後の2カ月後の2018年9月(2年前)から日本の大阪のホテルに就職(就労)が決まり来日した。もう一人の王さんも同じ頃に大阪の大型百貨店に就職が決まり来日した。中国からの観光客が激増してきていたため、ホテルも百貨店も日本語が話せる人材がとても必要な時期でもあった。(上記写真:左から王さん、潘さん、黄さん)

    2018年の9月上旬、突然、日本に着いて1週間後の潘さんから中国にいる私に「先生、保証人がいないとアパートを借りることができないので、保証人になってもらえないでしょうか。勤務するホテルの主任さんに頼んだら保証人のOKをもらったのですが、その後、勤務先の人の保証人は結局難しいようでした。」とのことだった。「私が保証人になってあげてもいいですよ」と話したが、「保証人欄に実印が必要」とのことで、中国にいるため「捺印」ができず、この話は沙汰闇(さたやみ)となったこともあった。

 さて、潘さんや王さんたちだが‥。今年1月から中国武漢より始まった世界的感染拡大により、中国から日本への観光客も完全にストップしたこの半年間。潘さんや王さんの仕事や勤務、雇用への不安も大きいかと思う。また、年に1度は休暇を使って中国の実家に戻っていた(里帰り)が、それも当分できなくなっている。辛い日々かと思う。黄さんは待望の名古屋大学での大学院生活がこの4月より始まったが、前期授業は全てオンライン。憧れの大学院生活も1/4が終ってしまっていた。日本の大学院修士課程は2年間だが、あっという間にこの2年は終わってしまう感じなのだ。

 異常な猛暑続きの日本の8月、9月1日もまだ猛烈な暑い一日となりそうだった。3人を京都のどこに案内しようか?と考えたが、涼しいところがいいだろうと思い、「車で八瀬の渓流に行き、近くの大原・三千院も案内する。そして京都市内に戻り、夜は鴨川に架かる四条大橋近くの先斗町の川床(かわどこ)・鴨川納涼床に行こう。」とほぼ決めた。午後1時に京都市内の四条河原町交差点にて車を停車、3人と待ち合わせた。そして、八瀬の渓流に向かった。

 30分ほどで八瀬に到着。渓流の景色が見た目にも涼しい。この日は、20人ほどのネパール人の若い男たちがここに泳ぎとバーベキューに来ていた。「みんな京都で働いているんです。少しだけ留学生もいますが‥」とのことだった。彼らもこのコロナ禍の中で、仕事のことなど日本で生活することの困難さも抱えているのだろう。おそらく、ひさしぶりのリフレッシュかと思う。まったく一人の女っ気(け)もなしの20人あまりの男たちの集団だった。

 渓流の流れの中に大型テントを立てて、足を川に入れながら流れの上でバーベキューをしている日本人男性たちのグループもあった。なんとも涼しいバーベキュー光景というものを初めて見た。

 2時間あまりを八瀬で過ごし、車で大原へ向かう。夕方近くの午後4時頃に三千院に着いた。大原の道路沿いに咲くコスモスが美しい。1時間ほど大原で過ごすと夕刻が近くなってきていた。大原の棚田の稲が色づきはじめていた。少し日本の田舎の風景で過ごしてもらった。

 車で京都市内に向かう。銀閣寺近くの娘の家に車を駐車し、タクシーを拾い、三条大橋へ。先斗町の通りで「川床」の店を探す。1時間ほど夕闇に包まれた鴨川畔で乾杯をして 8時ころまでいろいろと話ながら夕食をとった。

 夕食後、先斗町通りの近くにあるカラオケ居酒屋に誘い、しばし時を過ごす。彼女たちは日本の歌や中国の歌などを歌っていた。午後9時ころ 四条河原町に戻り、潘さんと王さんは阪急電車で大阪に戻って行った。黄さんはこの日は京都市内のホテルに宿泊するようだった。みんなと「再見(ツァイゼン)―さようなら」をした。

 


中国の大学前期が始まり8カ月ぶりに学生が大学に戻った❷大学構内からは出ることができない学生たち

2020-09-25 18:04:57 | 滞在記

 9月中旬までにほぼすべての大学で学生たちが8カ月ぶりに戻った中国だが、日本の大学よりもかなり厳しいコロナ対策をしている面がある。大学に戻る前のPCR検査の全員実施がその一つで、その結果が陰性と判明するまでは大学に戻ることはできない。大学食堂や教室などの建物内に入る場合は必ず検温検査があるが、これは日本も同じだ。

 とても厳しいコロナ対策は、「大学に戻った中国の学生たちは、大学構内(キャンパス)から出ることができない」という措置だ。これはどの大学でも同じなのだろうか。

 中国では1・2・3月の新型コロナウイルス(COVID19)の感染拡大にともない、全国津々浦々で都市封鎖・地域封鎖を強力に行い、感染拡大の防止策を行った。このため、4月以降は新たな感染がほぼ終息した。その後、東北地方(黒竜江省・吉林省・遼寧省など)の都市や北京市などでのクラスター感染はいくつか起きたが、即座に都市封鎖や地域封鎖と住民全員のPCR検査を行い感染の広がりを封じ込めてきている。

 そして、8月上旬、遼寧省の大連市の水産加工関連施設での44人のクラスター感染が発生、即座に市の封鎖と市民600万人全員ののPCR検査が行われる。同じ時期に新疆ウイグル自治区の自治都・ウルムチでもクラスター感染があったが、即座に封鎖及び市民350万人のPCR検査実施。中国ではその後、8月中旬以降の新たな感染はほぼない状況で推移している。ほぼ現在までのこの1カ月間、新たな感染がない状況だ。

 今週の月曜日、日本のテレビ報道番組で「なぜ? 新規感染者ゼロも‥‥大学封鎖?」「なぜ、大学の敷地から出られない?」「寮の学生たち―封鎖を解除せよと‥」「買い物外出も✖」「学生―正当な理由がないと出られない―病院とか」「宅配頼みフェンス越しに受け取る」「海外から入国した人以外、新規感染者がいないのに なぜ?」「感染が0なら"大学封鎖"は不要?」などのテレップが流れるものだった。

 その報道によると、中国の大学では、学生は8カ月ぶりに大学に戻ってきたのだが、病気やけがのための治療などの特別の理由がない限り、大学構内から一歩も外に出れない「大学封鎖」が行われているという。ちょっとした病気やけがの場合は、大学構内には診療所や小さな病院もあるため、学外の病院に行くことは認められないようだ。歴史的古都である西安市にある西安外国語大学の学生から市の教育庁に「9月25日の金曜日までに封鎖が解除されなければ、抗議自殺のようすをネットで中継する」というメッセージが送信されてもきていると報道されていた。25日と言えば今日だ。

 中国の大学構内の敷地面積は広大だ。私が勤務する閩江大学は中国では平均的な敷地面積の大学だが、それでも日本の大学では最も広い北海道大学とほぼ同じ広さをもつ。大学敷地内にはたくさんの学生寮の建物があり、大きな食堂も4箇所ある。大学構内で、生活に必要なものはほぼ購入でき、学生たちはほぼ全員が4年間寮生活を送る。だが、3回生や4回生になると、大学の近くにアパートを借りて生活する学生たちも少数ある。(大学は黙認している場合が多い)  しかし、そのような学生たちも、そのアパートと行き来することはできなくなっていると思う。

 日本のテレビ報道は事実なのか、閩江大学もそうなのか、翌日火曜日の授業の際に学生たちに聞いてみたら、大学封鎖は本当だった。ロシアなど感染拡大が今も多い国々と接している中国東北部や西域の大学や北京など北の方の大学だけの「大学封鎖」ではなく、閩江大学のような南方の福建省福州にある大学もそうだった。これはいつまで続くのだろうか。学生たちにとっては、「大学には戻れたのは嬉しいが‥‥、大学封鎖となっていたのはとても辛い!」である。もちろん、アルバイトに行くこともできない状況が中国では始まっていた。大学の外に出られないストレスも大きいだろう。

 中国での大型連休は2月の春節時期の2週間と10月の国慶節の1週間。例年なら日本をはじめ世界各地へ海外旅行にでかける人が多いが今年はほぼ国内旅行。今年の国慶節の連休は10月1日~8日までと少し長い。中国の大手旅行会社によればこの連休で約6億人のひとが旅行に出かけると推定している。

 今年1月・2月・3月の新型コロナウイルスの禍い後、初めての大型連休となる。最も人気の観光地には新型コロナウイルスの感染が最初に広がった武漢の名所「黄楼閣」が選ばれているようだ。この建物は、新型コロナウイルスの武漢での終息時にライトアップされるなど、復興のシンボルともなっている「中国三大楼閣」の歴史的建造物。中国の衛生当局は「世界の感染状況は深刻だが、中国国内は通常通り旅行して問題ない」とコメントしている。

 さて、大学だが、先週の金曜日に突然、「先生、10月1日~8日までの国慶節に伴う大学の休日は、短くなりました。10月1日~4日までの4日間だけ、半分になりました。」と学生との授業の中で初めて知って驚愕した。今週の水曜日にこのことを大学に問い合わせたところ、「その通りです」との返答。急な変更措置のようだ。中国は大学でもどこでも、中国社会はトップダウン・上意下達の、突然の指令社会だ。忘年会であっても、突然にその日の開催が告げられたりもする。つまり、地位の高い者が下部の人に突然に指令するのが当たり前の世界。長年の共産党一党支配社会の習慣とも言える。

 前述のように学生は大学構内から出ることができない「大学封鎖」の状況なのだが、この国慶節の4日間の休みにもやはり大学から出ることはできないのだろうか。今日の授業でそのことを、4回生「日本文学作品名編」の学生たちに聞いてたところ、「はい、この4日間に縮まった連休も大学から出ることはできないんです」と話していた。なんとも中国という国家らしい状況であるが、「この大学封鎖は、いつまで続くか まったく大学からの説明はありません」とのことだった。ここにも上意下達の「下の者は上のものにだまって従うものだ」という中国社会の現状がある。

 9月上旬、日本の萩生田文科相は、新型コロナウイルスの影響でオンライン授業が続く大学について、「後期もオンラインの学校には違和感を感じる。感染予防策を講じて、教室での対面授業実施の拡大を検討してほしい」との声明を出した。この発言の影響に後押しされてか、9月上旬には「後期もオンライン中心にという方針を出していた大学が多かった」がここ2週間あまりで減少している。「できるだけ対面授業の比率を増やしていく」という方針への転換に。

 日本の私立大学や国公立大学の多くは9月中旬~下旬にかけて後期授業を開始するところがほとんどだ。関西では近畿大学が9月10日ころからすでに開始している。後期授業の形態だが、関西では①対面授業とオンラインの併用が「大阪大学、立命館大学」、②対面とオンライン併用だがオンライン中心が「京都大学」、③オンラインが「神戸大学、関西学院大学」、④対面が「関西大学」、⑤対面とオンライン併用だが対面中心が「同志社大学」などと、9月中旬ごろには報道されていた。オンラインの神大や関学の学生は納得できないかもしれない。「大学 そろり対面授業 秋学期」との見出しの朝日新聞報道も。

 同志社大学では昨日24日から後期授業が開始された。同志社大学では7割の授業で対面授業が開始されるようだ。立命館大学では来週から授業が開始されるが、5割で対面授業を実施するとの報道。

 4月上旬にクラスター感染がおきた京都産業大学でも今週から、対面授業が一部始まった。3割ほどの授業が対面での実施となるようだ。教室棟のある建物入り口での通行者の高体温を画面に映し出す検温検査が実施されていた。

 まずはしばらく日本からのオンライン授業で大学の前期をスタートした私だが、今後 この身はどうなるのか、日々の不安はかなり大きい。いつ中国に渡航しなければならなくなるのか、Xデーが来る日への不安である。それがいつなのか。近づきつつあるようにも感じる。中国政府の外国人の入国を段階的に暖和しつつあるからだ。

 私が中国に10月や11月に渡航することはとても大変なリスクが伴うこととなる。大変なことになる覚悟がいる。もし、大学側から11月中旬までに中国に戻ってほしいとの連絡があった場合、まず、①飛行機の片道チケットを購入することがものすごく難しい。11月中旬までの航空券はすべての路線で売り切れていて、キャンセル待ちである。そして運よく購入ができたとしてもチケットの値段は通常の約10倍以上の金額に跳ね上がっている。コロナ問題が発生する前では、1700元(2万5千円ほど)だった料金は、20000万元(30万円)以上になっている。航空便の運行が極端に減少しているためだ。そして、この料金を大学側が全額支払うとは到底思えない。そのほとんどは自己負担だろう。ばかばかしくなる。(※夏休みと冬休みの日本への帰国と中国に戻る往復航空券は、原則、大学が負担することとはなっているが)

 ②日本を出発する日の3日前にPCR検査を受けなければならない。(自己負担4〜5万円) 陰性証明がなければ、飛行機に搭乗できない。 ③中国の空港に到着したら、すぐに検査を受け、陰性ならば 近くのホテルに2週間隔離となる。もし陽性反応なら、患者用病院に。隔離はビジネス安ホテルだが、一日のホテル代金は400~500元(6000円〜7500元)✖14日間=5600元〜7000元(8万4千円〜10万5千円)は自己負担。基本的に室内から出ることはできないし、来客も許可されない。一日三食の食事と水のペットボトルがドア前に置かれるだけだ。上記写真は、この9月4日に日本から中国に戻った私の教え子が隔離されていたホテルの部屋の微信ラインで送信されてきた写真だ。

 ③隔離が終って、アパートのある福建省福州までの新幹線又は飛行機の予約が必要で、その費用も自己負担。④福州のアパートに戻れても、そこで自宅隔離が1週間。アパートのドアのところに監視カメラが新たに設置され、外出しないように監視される。毎日の体調や検温結果をアパート(団地)の管理委員会に連絡をしなければならない。買い出しにも行けないので、何も食べることはできない。学生に買ってきてもらえればいいが、学生は大学封鎖で外出不可。他の知人もアパートの室内に入ることはできない。つまり1週間は食料が調達できにくい状況になる。

 ④はれて、3週間以上の隔離が終ったら大学に行って授業をすることが可能になる。ここまでにほぼ1か月近くを要することとなる。やってられないと思ってしまう。⑤隔離ホテルでのインターネット状況により、その間のオンライン授業ができるかどうかわからない。また、自宅の福州のアパートのインターネット料金はこの7月までしか支払っていないので、インターネットの再開設のため中国電信の店に行き料金支払いなどの必要があり、開設までに期間がかかるので、オンライン授業はこの間 不可能となる。つまり、3週間の隔離中、まったくインターネットができず、オンライン授業もできない可能性も大きい。

 ⑥大学での前期授業は12月中にほぼ終了予定、1月上旬には期末試験。だから、11月中旬に中国に渡航しても3週間の隔離生活などのため、大学に行くことが可能になるのはどんなに早くても12月10日ごろ。ほぼ前期授業が終わりかけて来る頃だ。しかも隔離中のオンライン授業はできないかも。そうなると3週間分もの補習授業が必要となる。

 ⑦来年の1月20日頃から2月下旬まで大学は5週間ほどの冬休みとなるが、日本に帰国しても2週間の隔離、また中国に戻っても3週間の隔離と、合計5週間の隔離なのですべてが隔離生活になってしまう。このため、毎年、休暇帰国を楽しみに中国生活を耐えている私だが、冬休みに日本に帰国することはできない。

◆なんとも悩ましいことだが、これが今、海外で働く企業駐在員や大学教員たちが置かれている現状だ。海外勤務厳冬の時代である。オンライン授業は、通常の教室での対面授業と違ってとても大変なことなので、中国に戻って教室での対面授業をしたいと思うが、①~⑦のことを考えると、来年の2月下旬までの冬休み終了まで日本に滞在してオンライン授業をしていた方がよりベター(better)かとも思える。しかし、大学の方から「中国に戻って」という連絡があれば、戻ることも考えなくてはならない。Xデーはいつくるのか、日々 不安に包まれる。さて、大学側はどのように判断するだろうか。12月までの中国渡航要請は大学側にとってもデメリットが大きすぎるのだが。

 

 

 


中国の大学前期が始まり、8カ月ぶりに学生が大学に戻った❶―外国人教員はオンライン授業の継続

2020-09-24 16:59:46 | 滞在記

 2800余りの大学数と2400万人余りの学生数を擁する中国の大学は、今年1月10日頃から始まった1カ月間あまりの冬休み(春節休暇)で故郷に帰って以来、新型コロナウイルス感染拡大・パンデミックのため、8カ月間ほど学生たちも大学に戻ることはできなかった。このため2月中旬~7月中旬までの後期授業は全てオンラインで行われてきた。私たち外国人教員は中国に戻ることはできず、日本から時間割通りの日程でオンライン授業を行い、7月中旬からは夏休みとなっていた。

 9月7日頃から中国の多くの大学では前期(新学年)が開始された。私が勤める閩江大学では、9月7日からの1週間は、後期授業で単位を落とした学生たちの再試験期間、そして9月14日(月)から教室での授業が開始された。例年よりも10日間ほど遅い授業開始となった。学生たちは9月13日までには、ほぼ8カ月ぶりに大学構内に戻ってきて久しぶりの寮生活、大学生活を始めている。学生たちから聞くと、「故郷で大学に戻るためのPCR検査を受けて陰性であれば、その証明を携帯電話にインプットしてもらい、大学のある福州に向かいました」とのこと。

 大学の私たち外国人教員たちは、まだ中国に戻ることができない。中国政府は外国人の入国許可については経済活動を優先するために、まず外国企業(日系企業など)の駐在員の入国を段階的に認める措置をとってきている。大学の外国人教員や留学生たちはその次に入国認可をすることとなっているようだ。このため、9月14日から始まった前期授業は、私も日本からのオンライン授業を引き続き行うこととなった。これがいつまで続くかは現在のところ未定だ。(※前期いっぱい続く可能性もあり)   例年なら前期授業は3~4教科くらいを担当するが、オンライン授業はとても準備が大変なこともあり、今学期は2教科の担当となったのはありがたい。

 先週から授業が開始され、今週で2週目に入っている。担当教科の一つ「日本語会話3」は新2回生との授業。この新2回生と私はほとんど面識がなかった。2クラスで40人ほどの学生たち。授業は日本からのオンラインで開始しているが、ほとんど知らない学生たちとのオンライン授業はこれまた大変だ。彼らが1回生の時に担当した教員から各クラス写真を送信してもらい、先週の授業では名簿の名前と個々人の小さな写真を確かめ合うことをした。この授業(90分授業)が週に各クラス別に2回ずつあるので、90分×4回となる。2週目となったので私も学生たちも少し慣れてはきたが、お互いにとても緊張するスタートとなった。

 もう一つの担当教科「日本文学作品名編選読」は4回生の授業。この学年の学生たちは、彼らが2回生の時の「日本語会話3」「日本語会話4」、3回生の時の「日本概論」「日本文化論」の授業を行っていたので、みんなとは顔なじみ。オンライン授業であってもそれなりにリラックスして行うことができている。

 7月上旬に大学から、「9月からの新学期の担当で日本文学の授業も担当してください」と連絡があった。オンライン授業ではこの教科はとても難しいので、その理由も話しながら、「この教科はオンラインでは困難なので、他の中国人の先生で担当してください」と一旦は断ったのだが、「先生しかこの教科を担当できる人はいませんから、お願いします」と連絡があり、結局、担当が決まってしまった。この夏休み期間、この授業の準備に相当苦労した。

 オンラインで日本文学の授業をするために、ユーキャン出版事業部が通信販売をしている朗読CD『聞いて楽しむ 日本の名作CD16巻』『やさしく聞ける 日本の名作CD17巻』(いずれも原稿書籍付)を合わせて6万円で8月に購入した。これと同じものが中国福州の私のアパートにあるのだが、全く同じものの私費購入だ。出費が痛い。

 オンラインでの日本文学の授業は、パソコンに2つのUSBを差し込み、QQという中国版アプリ機能を駆使しながら、オンライン授業のパソコン画面上に、CD音声や原稿や学生たちとの音声通話やお互いの顔のリアル映像、そして扱う作品の作者解説など、同時に5個くらいのものを駆使しながら授業を進めている。このパソコン操作などの技術習得などが私にはとてもとても大変なことだった。ようやく授業に間に合ったというところだ。この授業は、4回生の2クラス別(40人ほど)に週に1回ずつ、90分×2回となる。

 15回の授業では、川端康成『※伊豆の踊子』『雪国』、谷崎潤一郎『※刺青』『春琴抄』、夏目漱石『こころ』『坊ちゃん』、中島敦『李陵』『山月記』、志賀直哉『※城崎にて』、森鴎外『※高瀬舟』『舞姫』、芥川龍之介『羅城門』『蜘蛛の糸』『杜子春』、松本清張『1年半待て』、東野圭吾『麒麟の翼』『さまよう刃』、宮沢賢治『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』、太宰治『人間失格』『走れメロス』、小泉八雲『怪談』、新実南吉『ごんぎつね』、葉山嘉樹(プロレタリア文学作家)『セメント樽の中の手紙』などの作家と作品についての講義をする。

 閩江大学が使用している日本文学の教科書『日本近現代文学選読』は、今私の手元にはなく中国のアパートにある。あまりいい教科書ではないので、作家や作品は私の方で選び講義をすることに毎年している。(※教科書には、上記作品のうち※印の4作品だけは掲載されている。日本語会話3の教科書も中国のアパートにあるので、日本に教科書コピーを送信してもらい授業準備をおこなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紀伊山地・熊野を巡る❽十津川村―信長に追放され非業の死を遂げたあの佐久間信盛の墓が山中に

2020-09-19 19:49:11 | 滞在記

 ロシアが実効支配をしている北方四島以外で、現在、日本には市町村行政区分の村が184ある。その中で奈良県十津川村(とつかわむら)は日本一の面積をもつ。琵琶湖や東京23区よりも広い。和歌山県にある熊野本宮大社から車で15分ほど熊野川沿いに北上して走ると奈良県十津川村に入る。そこから熊野川(奈良県では十津川と呼ばれる)沿いに渓谷沿いのくねくね道(国道168号線=十津川街道)を車で2時間ほど北上しながら走っても走ってもまだ十津川村。

 1000m~1700mのかなり高い山々が十津川の渓谷の両側にそびえている。渓谷に近い山の斜面に家々が立ち並ぶ。司馬遼太郎の『街道をゆく 第12巻 十津川街道』を読む。書籍の裏表紙には、「大阪から五條市を経由して渓谷をゆく。たどりついた奈良県十津川村について、"幕末、十津川の人はじつによく働いた"と書く。十津川郷士と呼ばれ、孝明天皇の信任を得、坂本竜馬らとも親交をもち、新選組とも戦った。そのわりに明治後に栄達し人はほとんどいない。明治二十二年(1889)に大水害で村は壊滅、多くの住民が北海道に移住し、新十津川町をひらいた。ドラマチックな谷間の"街道"がここにある。」と書かれている。

 前号のブログで「熊野古道」(中辺路)について書いたが、ここ十津川の集落や山々の峰々には、熊野本宮大社から高野山に至る熊野古道の小辺路がある。この小辺路の中でも「果無集落」を通る古道には多くの人が訪れる。古道が家の軒下を通る箇所もあり、よくポスターなどにも載っている尾根伝いの熊野古道が通る集落だ。私が車で走ってきた十津川街道(現168号線)は熊野古道の区間もかなり多い。

 8月20日、午後3時に十津川温泉郷に到着、さらに渓谷沿いに北上し十津川役場のある集落に午後3時半ころに到着した。京都からここまでは数年前に妻と車で来たことがあった。今回の旅の中で、この役場から近い場所に織田信長に30年あまり仕えた股肱(ここう)之臣で、柴田勝家と並ぶ織田家の宿老で重臣武将でもあった佐久間信盛の墓があることを初めて知った。信長に高野山に追放されたことは知っていたが、まさかここ十津川の山中に墓があるのはどうしてなんだろうと思った。村役場の前に「十津川歴史資料館」があったので、そこに行き、資料館の人に墓の所在地と行き方を聞いて、そこに向かった。簡単にすぐに着けるだろうと思ったのだが、とんでもない場所に墓はあった。

 役場から十津川の渓谷に沿って旧十津川街道をしばらく行くと、山の方に入る山道(いちおう車道)があった。ものすごい急坂とカーブの狭い道だった。この上に「武蔵」という集落があるらしい。そこに墓があるのだと言うことだった。狭く40度近い急坂とカーブの多い道は対向車とのすれ違いができるところがあるようには思えなかった。ガードレールはほぼなくてとても危険。「どうか対向車が来ませんように!」と思いながら上の集落を目指す。が、対向車が来てしまった。この坂道でバックなど怖ろしくてできない。幸いこの坂道で一箇所だけあるすれ違い可能な箇所だった。対向車がそこで待っていてくれた。こんなところに集落があるんだろうか。そんな山道だった。

 麓から2kmほどの急坂道を登るとやっと集落が見えてきた。安堵、安堵。京都に戻って調べてみると、この狭く急な坂道は、麓の標高161m―武蔵集落の標高379m、つまり220mほどの高低差がある2kmの道。もちろん外灯もないので、夜に車で行き来するのは超危険な山道だ。なんでこんなところに集落があり、なんでこんなところに信盛の墓があるんだろう。

 集落の戸数は二十数軒はあるだろうか。山の中腹にある集落だが、けっこうなだらかな傾斜地があり棚田なども見られる。広大な十津川村で棚田などの水田を見ることはほとんど少ない。ここ「武蔵」集落は、十津川では貴重な米を作ることができる数少ない場所につくられた集落だったのだ。だからここに人が住み着いたのだとわかる。「武蔵」地区は1000m以上の山々の中腹にできた広いテラスのような場所だった。

 木造校舎の小学校のような建物が見えてきた。「楠木正勝の墓・佐久間信盛の墓―十津川村武蔵」と書かれた大きな看板が。

 「旧武蔵小学校跡地」の小さな石碑。明治期の創立を思わせる、立派な古びた校舎は取り壊されずに完全に残されていた。窓越しに校舎内を見る。備品などもそのままだ。校舎跡地からは背後にさらに1200~1500m級の山々がそびえていた。山がとても深い。

 この小学校跡地の近くに信盛の墓があった。「楠木正勝 佐久間信盛 墓」の説明看板や石碑。説明看板の脇に木製の郵便ポストのような箱があって、そこに この墓の由来が書かれた紙が置かれていた。「楠木正勝の墓―正勝は南朝の忠臣・楠木正成の孫で、金剛山千早城落城の後、弟の正元とともに十津川に来て潜伏、兵を募り再起をはかったが、病にかかり応永11年(1404年)正月15日この地で亡くなったと伝えられている」

 「佐久間信盛―信盛は織田信長に30年余り仕え、柴田勝家と並ぶ重臣であったが、信長は石山本願寺攻めの無益な長期包囲を始めとする罪状(折檻状)19条を上げて詰問し、天正8年(1580年)高野山に追放されたが、さらに信長から"高野山に住むこと叶うべからず"との厳命が下りやむなくこの武蔵の里に落ち、天正10年(1582年) この里の麓の湯泉地温泉で湯治中に没した。」と紙には書かれていた。

 楠木正勝の墓はそれなりに立派な墓だった。がしかし、その正勝の墓の背後にポツンと石が3~4段に積まれている小さな墓、これが信盛の墓だった。膝(ひざ)までくらいの野辺の小さな墓という感じで、あの信盛の墓にしてはあまりにも小さな、哀れを誘われる墓だった。となりには同じく小さな墓が一つ並ぶ。最後の最後まで付き添った一人の従者の墓だろうか。

 佐久間信盛は、織田信長の父・信秀に仕えた。後に幼少の信長の重臣として付けられ、信秀の死後の弟たちとの苛烈な家督相続問題や戦いでも一貫して信長に与し、信盛の働きで信長の織田家相続がなったと言っても過言ではない。その後、30余年信長に一貫して仕え、数々の戦いに宿老・重臣として参加している。戦(いくさ)の中で最も難しい「殿(しんがり)軍の戦い」を得意としたことに由来し「退き佐久間」ともいわれた。織田信長にとって最大の忠臣・功労者、「恩人」というべき人だった。

 信長より7才年長で、享年55歳だった。信長による突然の佐久間信盛の高野山追放。高野山の一坊に身を潜めた信盛に「高野山にも住むことは許さん」という異常なまでの執拗な厳命。このことに、織田軍団の師団長たちである明智光秀や柴田勝家、丹羽長秀や羽柴秀吉なども、「信長公から称賛される働きを常にし続けなかったら、明日は我が身か。利用価値が薄れたらすぐに捨てられ、処罰される‥」と心底 恐怖を覚えたことだっただろう。

 明智光秀が引き起こした日本の歴史上最大のミステリーであるクーデター「本能寺の変」が起きる2年前の信盛追放事件であった。そして、高野山には数か月間しか住むことが許されず、高野山から紀伊山地の山中を彷徨い、ここ武蔵の地に辿りつき生きながらえる信盛。信盛が非業の死をとげたのは、本能寺の変の半年前の天正10年(1582年)の1月だった。明智光秀が本能寺の変を引き起こすその動機は諸説あるが、この辺境の地 武蔵の集落と信盛の墓を訪れて、光秀にとってはこの苛烈な信長の信盛への仕打ちは 相当な「明日は我が身か」の心理的影響を与えたのではないかと思った。(※大河ドラマ「麒麟がくる」で、佐久間信盛役は金子ノブアキさんが演じている。)

 「武蔵」の集落をあとにして京都に向かって車を走らせた。十津川村の十津川に架かる「谷瀬の吊り橋」に午後5時半ころに到着した。しばしの休憩をとり吊り橋を眺める。この吊り橋は日本で二番目に長い。橋向こうにはかって黒木御所という南朝方の親王の御所があったところだ。

     陽が暮れるまでに、この十津川渓谷をぬけて吉野川(紀の川)の橋を渡りたかった。午後7時頃には陽が暮れるのであと1時間半ほどだ。ようやく午後6時頃に十津川村と大塔村の境の天辻峠に着く。ここ天辻峠は江戸時代の幕末期に「尊王攘夷」を掲げて天誅組が立て籠もって幕府勢と戦闘を行ったところだった。天誅組の本陣跡地に立ち寄ってみたかったが、時間がなく、以前にも一度訪れているので今回は素通りをした。

 瀞峡からこの天辻峠まで、実にこの十津川村は広大だった。行けども行けども十津川村だった。午後6時半ころに吉野川を渡って奈良県吉野町下市に着いた。ここからは、国道24号線をひたすら北上すれば、橿原市、天理市、大和郡山市、奈良市、そして京都市へと続く分かりやすい道なので夜になってもほぼ道がわかる。(※私の車にはカーナビを設置していないので、夜になると道がわからなくなる場合も多い。) 午後10時ころに京都の自宅にようやく、無事に到着できた。長い長い一泊二日の小さな旅が終わった。

 広大な十津川村を走る路線バスがある。奈良交通の十津川線「大和八木―新宮」だ。全長距離166.9km、バス停数169箇所、所要時間6時間半。高速道路を使わない一般路線としては、距離・バス停数・所要時間ともに日本一のバス路線。奈良県橿原市の大和八木駅から太平洋熊野灘に面する和歌山県の新宮市までを走行している。

 バスの運転手は交代なしの一人での運転。五条バスセンター、谷瀬の吊り橋、十津川温泉郷の3箇所では10分~20分停車しトイレ休憩などをとる。1963年、十津川街道(168号線)の改修にともなって開業した路線だったが、近年の乗客減少のため2014年には廃線が決まりかけた。しかし、十津川村をはじめ存続を願う沿線の自治体の補助金の拠出により廃線とならず、現在でも一日3往復バスが走っている。

 この旅でもこのバスに出会った。奈良交通のバス停には、熊野古道がある天空の集落「果無(はてなし)」に「世界遺産石碑前」などのバス停もある。「大和八木―新宮」の全区間の乗車料金は普通は6190円だが、「バスハイク乗車券」というものを買うと5250円と1000円ほど安い。しかもこの乗車券は2日間有効なので、途中下車をしてどこかで宿泊し、翌日に再び乗車することが可能のようだ。

 もう亡くなっているが、京都市の清水寺の二年坂の近くに住み、山村美紗と内縁の関係にあった西村京太郎(娘は女優の山村紅葉)の「十津川警部」はここ十津川村から小説のテーマである警部名をとっていた。現在でもBS放送で時々、渡瀬恒彦(故人)の十津川警部のドラマが放映されている。

 今回で、「紀伊山地・熊野を巡る❶〜❽」のシリーズを終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紀伊山地・熊野を巡る❼—熊野三山・熊野本宮大社、熊野古道(中辺路)にたまたま行きついた

2020-09-17 05:03:46 | 滞在記

 紀伊山地・熊野を巡る一泊二日の旅となった2日目の8月20日、瀞峡がある北山川と熊野川の合流地点からさらに熊野川沿いの道を北上し、熊野三山の中心的な神社(大社)・熊野本宮大社に向かった。熊野川の渓谷を昔は船が往来し、熊野三山(三つの神社・大社)詣での人々も船でこの川を下って熊野河口の新宮にある熊野速玉大社を目指したことだろう。

 熊野本宮大社周辺には10あまりの温泉地があり湯の峰温泉郷とよばれる。熊野古道を歩いたり登ったり下ったりの三山詣での疲れを湯に入って癒しもしたようだ。その温泉郷の一つ「川湯温泉」に行ってみた。熊野川の支流の一つ・大塔川沿いにあるこの温泉地は、川原を掘れば露天風呂となり、西日本一の大露天風呂がある。

 午後1時頃に熊野本宮大社に到着した。大社の境内に入り参拝する。付近の土産物店に「熊野参拝みやげ餅―よもぎ餅」「熊野古道物語」「熊野古道みちくさ餅」などが並ぶ。ここの大社の神の使いは「八咫烏(やたがらす)」。サッカー日本代表のシンボルマークともなっている。

 熊野本宮大社はかって熊野川の中州にあった。熊野川に支流の音無川や岩田川などが合流する広大な中州だった。参拝する人たちはこの川の中を渡って身を清め、大斎原(おおゆのはら)とよばれる中州に上がって熊野本宮大社に詣でたという。明治22年(1889年)の大洪水で熊野本宮大社の建物が多く流されたが、奇跡的に残った4つの建物や本殿などを山の麓の場所に移転修復し現在に至っている。

 その大斎原には現在、日本で最も大きな鳥居があり、神域には神社の建物もある。今この中州にある神社の周りは水田となっていて、稲が実りの季節を迎え始め黄金色に色づいていた。熊野本宮大社をあとにして、十津川村に向かい始めるとすぐに、道の駅の案内看板が目に入った。熊野本宮大社近くの支流沿いに道の駅があるようなので、まわり道をすることにした。

 道の駅内には小さな展示室があった。鎌倉時代の建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇の熊野御幸(熊野詣)に随行した藤原定家(※百人一首の選者)がこの熊野詣のようすを日記に書いていた。展示室の説明では、「今からおよそ900年前の平安時代後期から鎌倉時代にかけて、上皇(譲位した天皇)による熊野参詣が慣例となり、その回数は約200年間の間に約100回にのぼっています。京の都を出発し、本宮・新宮・那智の熊野三山に参詣し、再び都に帰りつくまでの道のりは約650km、平均所要日数は25日間を要しました。」

 「上皇をはじめとして、近臣や案内の僧侶、警護の武士や大量の荷物を運ぶ人々など、一行の人数は200人前後達しと考えられています。藤原定家は後鳥羽上皇の随員として、生涯にただ一度の熊野参詣を果たしました。旧暦の10月5日に都を出発し、10月29日に都に戻るまでの出来事を"熊野御幸記"として残しています。」と書かれてあった。

 藤原定家たちの25日間にわたる旅の日記が道程の地図とともに現代語訳で展示されていた。それによると、京都の桂川を船で下り淀川に。さらに船で下って大阪(難波津)到着。難波津から海沿いの陸路を通り紀伊・和歌山に。さらに陸路(紀伊路)を通り田辺や白浜に到着。ここから紀伊山地の山々の峠道など(中辺路)を通ってようやく「熊野本宮大社」に到着。

 ここから、熊野川を船で下るなどして熊野川の河口にある「熊野速玉大社(新宮)」に到着。ここから熊野灘の海沿いの道(大辺路)を通って「熊野那智大社(那智)」に到着。ここから峠越えの陸路(中辺道)を通って再び「熊野本宮大社」に到着。そして、ここからは もと来た道を再び通って京の都に戻るという日程だった。定家は病気になり熱のある日もあったようだが、随員として一行とともに無理をしてでも峠道を登らねばならぬ日もあったようで、その大変さも日記には書かれていた。

 この道の駅に近いところの道路脇に小さな木製の「➡熊野古道中辺路」と書かれた看板がたまたま見えた。「どうしようかな、行ってみるか」と思い立ち、狭い山道(車道)を車で登って行った。どこにあるのだろうかと峠道を走行中に、道路の上に架かる橋が。その橋の側面には「熊野本宮大社⇦ 熊野古道(中辺路)   ⇨発心門王子」と書かれていた。7kmあまりを歩くコースのようだ。所要時間は2時間半とある。

 「ここか!熊野古道は…」と、車を駐車し橋に上がる。熊野古道があった。山道には石垣がつくられているところもあった。「三軒茶屋跡」と記された場所。「古道 中辺路」とも書かれている。

 1000年あまりの歴史のある、土が踏み固められている古道、木がおかれた低い階段のある古道。「みんなで守ろう 町の花 ささゆり 本宮町」の木の看板。

 「九鬼ケ口関所」と書かれた木製の門をくぐると「熊野古道」と書かれた木製矢印道標。そこを登って行くと石造りの石畳の山道(古道)が見え始めた。「あっ、ここは熊野古道の写真として よく出て来る有名な場所だ!」と思った。古道沿いの杉の木の並木。京都の自宅に帰ってから、この場所の熊野古道のことを調べてみたら「熊野古道の人気NO1」の古道区間と書かれていた。ここからしばらく石畳の道を峠に向かって登ると、熊野本宮大社の大斎原の大鳥居が見えて来る古道のようだ。ここにはたまたま行き着いたということだった。

 熊野古道は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称、熊野古道ともよばれる。「中辺路、小辺路(高野山と熊野本宮大社を結ぶ古道)、大辺路、伊勢路、大峯奥駆道、紀伊路」の6つの道がある。熊野古道を歩くコースとして最も人気が高いのはここ中辺路(田辺から東に紀伊山地に入り、熊野三山とつながる古道)のようだ。

 2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたが、この登録の中に紀伊路は入っていない。5つの古道など41件が世界遺産に指定された。このうち14の社寺(「和歌山県の熊野三山、奈良県吉野山の金峯山寺、和歌山県高野山の金剛峯寺、奈良県天川村の大峯山寺、奈良県十津川村の玉置神社」など)も世界遺産に指定されている。(※「伊勢神宮」はこの中には入っていない)   熊野古道は日本の中世期から近世期にかけて隆盛した熊野信仰(自然崇拝と神―のちに神仏習合へ)という一貫した目的のために、1000年以上も使われてきた古道である。

  平安時代後期には主に貴族階級の参詣、鎌倉時代になると武士階級も参詣を始めた。室町時代になると、貴族のほかに武士階級や庶民の間でも熊野詣が盛んになったという。江戸時代になると、「伊勢神宮参拝(お伊勢参り)」が大ブームとなる。これは、社会が安定し、経済的にも余裕を持つ庶民層(特に商人層)が生まれたことと関係する。また、東海道や中山道など旅の安全に必要なの諸街道が整備されたことも大きい。この時代、「お伊勢参り」という目的があれば通行がゆるやかに認められていたので、伊勢神宮に参拝し、周辺の大阪や奈良や京都を訪れることもできた。そして熊野詣を兼ねることもできた。

 熊野那智大社に近い古道に大門坂という石畳でつくられた石段の道があり、ここも熊野本宮大社近くの古道と並んで熊野古道の人気のコースらしい。大門坂を上って下ると那智大社や那智の滝に到達するコースで2kmあまり、所用時間は1時間くらいのようだ。大門坂の入り口には「平安衣装」のレンタル貸衣装店があり、これを身にまとい写真を取る人も多いと聞く。