彦四郎の中国生活

中国滞在記

リンクも溶かす友情、これぞ五輪―女子スピードスケート500m、日韓・小平奈緒と李相花

2018-02-26 10:48:06 | 滞在記

   2018年2月9日(金)から始まった韓国平昌での冬季オリンピックが昨夜25日(日)に閉幕した。近年の冬季オリンピックとしては、とても心に残ったオリンピックだった。日本と時差のない韓国なので、注目された種目もリアルタイムで見ることができた。そして、「北朝鮮美女応援団」の存在には改めて私も惹きつけられた。韓国そして北朝鮮にとっても実りのあるオリンピックとなったという印象のオリンピックだった。金正恩のそっくりさんも現れ会場を沸かせていた。

 金正恩の妹・金与正氏が開会式に向け韓国入りし韓国・文大統領から「上にも下にもおかない歓待」を受け、歓迎の文氏主催の食事会は4回にも及んだ。一方のアメリカ副大統領とと歓迎食事会は1回だけとなった。この差は、文大統領の北朝鮮やアメリカ・日本・中国などとの外交姿勢を如実に表すものと映った。アメリカによる「斬首作戦」に不安を持っているとも言われる金正恩だが、彼がもし殺された場合の金王朝・後継者第一位は現在は妹の金与正なのだろうか。

 次回は2022年に北京で開催される。おそらく北京オリンピック開催の余波と台湾統一(※武力侵攻もありうる)、そして一帯一路などの経済政策の一定の成果をもとに、2022年秋に開催される「中国共産党第20回大会」で、3期目の習近平政権が誕生する予定も見て取れる。このための布石の一つとして、今日の朝日新聞朝刊では「中国国家主席任期廃止へ―憲法改正案、習氏の権力強化―習氏の終身制化懸念も」という記事が発表されていた。2026年の冬季五輪には札幌市が立候補を表明した。(札幌オリンピックは1972年にあった)  北京冬季オリンピックまでは生きることができるだろうが、2026年にはどうなっているか確率は低いような気もしている。札幌での開催が決まったら嬉しいが。娘が学生時代を過ごした札幌の街は美しい。とりわけ北海道大学の広大なキャンパスに咲き誇る春の季節が大好きだ。

 私が今回のオリンピック競技で最も印象深かったのは男女のフィギア―スケート場面だったが、もう一つは小平奈緒選手と韓国の李相花選手との500mスピードスケート決勝戦後の場面だった。金となった小平、そして銀となった李、地元韓国の期待を一心に背負って惜しくも小平に敗れ肩を落とす李に対して、小平が抱きかかえるように歩みより慰める姿だった。この場面を巡っていろいろな記事が伝えられていた。小平31才、李28才、選手として決して若くはない二人。お互いにライバルとして励み合ってきた関係があるのだろう。

 小平が転倒事故を続けて不振に陥った5年前、李は誰よりも小平をなぐさめ励まし続けたという。今回のレース後に2人で交した言葉は、それぞれが心からの思いだったと伝えられた。「今もあなたを尊敬している」と小平、李は「あなたを誇りに思う」と小平に。リンクも溶かす二人の友情、これぞ五輪と思った。韓国メディアもこの小平と李の二人のことをとても好意的に報道していたのは嬉しい「五倫の一つの花」が咲くような思いを感じた。

 女子のスピードスケート競技「パシュート」などの熱戦での高木姉妹のこと、カーリング女子の奮闘、ハーフパイプ(スノボ)での平野歩夢、肋骨が折れていながらの渡部暁斗のスキー複合競技で頑張りなど、いろいろと日本人選手の熱闘が感じられた今季の冬季オリンピックが閉幕した。そして、私が日本に滞在できる日も、あとわずかになった。

 

 


世界の羽生結弦・メドベージェワと京都「晴明神社」❸二人が参拝し「絵馬」がある神社に

2018-02-26 07:21:41 | 滞在記

 男子フィギアスケートからほぼ1週間後の2月23日(金)、女子フィギア―スケートのフリーの演技が行われた。宮原知子の演技は完璧だった。「蝶々夫人」の曲に合わせての演技は、丁寧でとても素晴らしかった。初々しく清楚な蝶々夫人を演じきっていた。これは3位になるかもしれないと思った。宮原知子は、小学校は立命館小学校、中学校も立命館中学校らしいので京都に実家があるのだろうか。坂本花織もとてもよい演技だった。

 続くカナダのオズモンドの「ブラックスワンと白鳥の湖」の曲に合わせての演技。これは圧巻だった。妖艶な女性の黒い白鳥を見事に演じていた。「これには宮原も負けるわ」と思った。そして、ロシアの新鋭ザキトワの演技。小柄な小悪魔という感じの、若干15歳の美しくも躍動した演技に驚嘆させられた。最後にロシアのフィギア―界の女王メドベージェワの演技。18歳という年齢以上を感じさせる成熟した美しい演技だった。

 結果は、ザキトワが少し上回って金メダル、銀がメドベージェワ、銅がオズモンド、そして宮原が4位、坂本6位となった。翌日の朝日新聞の見出しには「ザギトワ降臨、メドベ圧巻、宮原全開」とされていた。なかなか的確な表現だと思った。私ならこの見出しに付け加えて、「ザキトワ降臨、メドべ圧巻、オズモンド妖艶、宮原完璧・清楚、坂本全開」とつけたい。

 ロシア人女性コーチが二人を抱きしめる写真があった。ザギトワもメドベージェワも同じフィギアスケート学校の同窓生だ。ロシア人の演技力は、この国のバレーの伝統がなせる業かとも思う。私は2000年代初頭に4回あまりロシアのサンクトペテルブルグ(旧・レニングラード)やハバロフスク、ウラジオストクなどに行ったことがある。その時、2回、サンクトペテルブルクのマリンスキー劇場にバレー講演を見る機会があった。

 ロシア人女性バレーダンサーから聞いた話によると、「7才の頃に名門バレー学校の試験がありますが、母親も一緒に試験を受けなければなりません。母親の乳房が大きすぎると、合格できません。子供の受験生も15才以降 乳房が大きくなる可能性が高いからです。つまり、バレーには大きな胸はよくないのです。私も可愛い乳房です」と話していた。このフィギアスケートの名門学校の試験も同じかもしれない。

 ロシアは4年前のソチ冬季五輪に向けて各種競技の育成システムを強化してきていたが、これが今回のフィギアスケートの世界でも花開いた感じだ。8歳の年齢で3回転ジャンプができるほどに育成とているとも聞く。次の4年後の北京冬季五輪に最大焦点を合わせて育成しているというから、ザギトワやメドベージェワに続く選手が続々と控えているのだろう。

 ロシアのフィギアスケート女王メドベージェワがこの晴明神社に参拝して絵馬を記して残していったという記事を最近インターネットで知って驚いた。彼女がこの神社に来て絵馬を書いたのは2017年5月16日。なぜこの神社に来たのだろうか謎だ。その後、羽生結弦が6月と7月に来て参拝している。なにか、羽生との心のつながりがあるのだろうとは思われる。彼女は京都のレンタル着物店で日本の着物姿に和傘をさしている写真もインターネットで見ることができる。日本が好きなようだ。ロシア人はおおむね「親日」が多い。

  「京・一条戻𣘺 晴明神社」は、一条通りが堀川にさしかかる場所に架かけられた𣘺の近くにある。この橋が架けられたのは平安遷都の794年で、名前を「土御門(つちみかど)𣘺」と名付けられた。それからおよそ100年後の918年、紀州熊野で修行中の浄蔵という者のもとに父危篤の知らせが届く。急ぎ都へと向かってこの𣘺にさしかかると父の葬列に出会う。父の臨終に間に合わなかったことを悟った浄蔵は"父に一目会いたい"という一心で祈る。法力が届き父は一時的に蘇生し冥府からこの世に戻る。そしていつしか人はこの橋を「一条戻り橋」とよぶようになったようだ。渡辺綱がこの橋に出没する「愛宕山の鬼女が乙女に化けて出て来る」物の怪の片腕を切り落とした逸話などもある橋だ。

◆安倍晴明921年—1005年、陰陽道を司どる著名な陰陽師(おんみょうし)。今昔物語にも彼の陰陽師ぶりが描かれている。彼が住んで呪術を行った場所に、「晴明神社」がつくられたのは 1007年。現在の安倍首相の実家がある長門の安倍家は この晴明の流れをくむ一家である。

 

 

 

 


世界の羽生結弦・メドベージェワと京都「晴明神社」❷二人が参拝し「絵馬」がある神社に

2018-02-25 09:49:44 | 滞在記

 「晴明神社」で今年初めての「おみくじ」をひいた。実は、この神社に来たのは一つの訳があった。1月上旬に胃カメラで「二か所の胃潰瘍」と診断を受け、その後ずっと薬を飲み続けていた「胃潰瘍の具合」があまり良くなっていないからだった。1カ月以上も薬を飲み続けていても一向に良くなっていなかった。そこで、羽生結弦の金メダルにあやかって、「病気回復祈願」に来たという意味合いがあった。

 この2カ月近く、ほとんど好きな酒も飲んでいなかった。欲しくないのだ。親しい友との食事でもノンアルコールビールだった。しかし、胃の不快感や軽い痛みがなくならなかった。「胃潰瘍が治癒されていなくて、さらにもう1箇所、新しい胃潰瘍が出来ている可能性」も考えられた。ちょっとゆうつな日々が続いていた。

 おみくじをもらった。小吉だった。「見る人も なくて散りぬる 奥山の もみぢは夜の 錦なりけり」と記されていた。この短歌の意味は、「人に知られる知られぬは問題ではない。世間にあって世間を気にせず、己の所信に基づいて行動できる人は幸なるかな。この様な人こそ不幸にも強く幸福にも酔わぬ不動の人である。」と記されていた。なかなか味わい深い、今の自分に少しは合ってもいる短歌だと思った。さらに気になる「健康」には次のように記されていた。「軽快すべし」と。「やった!治るんだ!」と少し安心した。さらに「願望」は、「人の助力ありて叶う」と記されていた。まさに神頼みの心境だった。神社の「お守り」を4つ買った。一つは自分に、他の3つは妻や福井の親友などに後日渡した。

 この参拝が功を奏したのか、参拝から4日後の2月22日(木)の朝から、胃の不快感や軽い痛みがなくなった。そして、その翌日23日(金)の早朝、予約していた胃カメラ検査を受けた。医者からは「胃潰瘍はきれいに治癒しています」と告げられた。「よかった!!」と安心した。その晩、気のおけない友人たち4人と京都伏見の居酒屋で久しぶりに 本物のビールや日本酒をけっこう飲んだら、アルコールに慣れない胃腸は激しい下痢症状を引き起こし何度も何度もトイレに行くこととなった。しかし、翌朝は不快で少し痛い胃潰瘍の症状が再びでることはなかった。「まあ、ほぼ全快だ!」とその朝 安心をした。この羽生結弦の聖地ともされ始めてきた「晴明神社」、けっこう御利益があるのかもしれないと思った。

 


世界の羽生結弦・メドベージェワと京都「晴明神社」❶二人が参拝し「絵馬」がある神社に

2018-02-25 05:44:49 | 滞在記

 2月16日(金)午後1時半過ぎ、平昌冬季オリンピックの男子フィギアスケートのシングル演技。羽生結弦の冒頭のジャンプが成功するかどうかに全世界の、とりわけ私たち日本人はかたずをのんで見守った。続く翌日17日(土)のフリーの演技、羽生は「SEIME(晴明)」の曲に合わせての迫真の演技を終えた。そして「羽生連覇、宇野銀」という結果となり日本中が歓喜に包まれた。昨年11月のケガの回復が十分ではないままの痛み止めを施しながらの覇業だった。

  18日(日)の夕方、羽生結弦が願掛けに何度か訪れて、彼の書いた「絵馬」もあるという京都市内の「晴明(せいめい)神社」に行ってみた。この神社は今や「羽生結弦の聖地」となっている神社でもある。(※京都御所や同志社大学からわりと近い「堀川今出川交差点」を少し南に下ったところにある小さな神社)

  この「晴明神社」には初めて行った。小さな神社なので最初見つけるのが難しかった。夕方の4時半すぎにようやく到着したのだが、まだ けっこうたくさんの人が訪れていた。中国や韓国からの観光客も何人か来ていた。羽生結弦に対するたくさんの絵馬があった。「金に向かって!!ケガを乗り越えてよく頑張ってきたネ!!SEIMEの神プログラム信じている!!2018.2.17 PM9:07」。これはフリー演技6時間前に参拝に千葉県より来た人の絵馬だった。「最高の舞台で最高の演技ができますように!!FLY  YUZU 2018.2.17」。これは福岡県から来た人の絵馬だった。

  晴明神社の社紋は「星型」。俗に晴明桔梗(ききょう)と言われるもので、安倍晴明が陰陽道で用いた祈祷呪文の一つのようだ。天地五行を象とり万物の除災清浄をあらわすとされる。西洋諸国でも魔除の印としてしているらしい。そういえば、「ユダヤ教」にもこのような紋があると思い至る。「星型に勝」と記されたお守りが売られていた。羽生選手もこれを購入して平昌まで行っているのかもしれないと思った。

 羽生結弦の直筆の絵馬はどこにも見つからなかった。どこにあるんだろうと、ふと「売店」に入ってみたら、たくさんの絵馬が架けられていた。この神社に参拝に来たいろいろな有名人の絵馬だった。映画「陰陽師」(野村萬斎主演)の原作・脚本の夢枕莫氏の絵馬もあった。羽生のフリーでの演技曲は、この「陰陽師」の映画でのテーマ曲だった。その中の、「祝 金メダル 羽生結弦選手 晴明神社」と書かれた白い紙の上に、羽生の絵馬が2枚架けられていた。「ケガなく最後まで自分らしくできますように 2017.7.2」「思い描く演技ができますように そして、私の演技がきっかけで 皆さんに幸せがおとずれますように! 2017.6.4」と記されていた。横には鈴木明子選手の絵馬もあった。

 

 


講演会「私の目に映った中国社会の実像」―中国人、中国社会、そして「中国」という国

2018-02-20 12:22:34 | 滞在記

 2月16日(金)、午後7時から9時半:「京都府京田辺市中部住民センター(せせらぎ)」に於いて、講演会が開かれた。講座(講演会)の講師を昨年の8月下旬に依頼され、日本に一時帰国中の2月中旬開催という日程がほぼ決まった。この日に向けてこの半年間、講演に向けて多くの中国関連の書籍を読むことなど、ずっと心の中で準備をしてきた。私が話す時間は約2時間、質疑応答で30分という内容だった。主催は「山城社会科研究会」という組織で、もう30年間近くこの研究会は続いている伝統と実績のある研究団体であった。今回私が担当する講座は第262回目となった。主に京都府の大学・高校・中学校の社会科学や社会科教員、及び一般人が参加する。京都府近辺の大阪や奈良や滋賀からの参加者もある。

 ―講演会(講座)案内パンフより―【内容】現代中国の実際の姿を正しく知り、互いに学び合える関係に―2月例会では、中国の大学で教えておられる日本人教員の方から「中国の今!」をお話しいただきます。正しく知り合うことが問題の正しい認識につながり、それが友好の第一歩になります。         

 <<講師の先生より>>中国福建省福州市にある福建師範大学と閩江大学に赴任して5年目に入っています。この間、「中国人という民族のこと、中国社会のこと、そして中国共産党一党支配下の中国という国のこと」などを、日本などとも比較しながら、その共通性や強烈な違いなどについてずっと考え続けた4年半でした。中国の2つの大学で、日本語教育だけでなく、「日本概況・日本文化論・日本近現代文学・日本古典文法」などの講義を担当してきた経過もあり、中日の様々な比較に関する調査・研究をしながら講義に臨むという日々の連続でもありました。

 私の目に映った「中国人と中国社会は今後どうなっていくのだろうか、中日関係はどうなっていくのだろうか」ということについて、私なりの私見を伝えられればと思っています。また、中国での生活は、終始大変な苦労がつきまとってきましたが、そのことについても話したいと思っています。乞うご期待!ご参加のほど、どうかよろしくお願いいたします。

 中国から日本への1か月間あまりの一時帰国の2月。最初の1週間は、病院で胃潰瘍の診察に行ったり、孫と遊んだりという日々であっという間に過ぎた。そして次の1週間は講演に向けたPP(パワーポイント)作りにそのほとんどを費やした。およそ1万枚あまりの中国関連の写真から、約200枚あまりを選びPPを作った。完成したのは講演開始の4時間ほど前だった。

 講演前日の15日(木)の「朝日新聞(京都府版)」の朝刊には、小さいが講演の案内が掲載されていた。この日の朝刊の一面は「小平 銀、高木美 銅―スケート1000」「渡部暁 銀―スキー複合」「平野 銀―スノボ・ハーフパイプ」の平昌オリンピック関連。前日、彼等の決勝競技場面を見ながらPPを作り続けた。

 16日当日、この日の講演会(講座)に集まってくれた参加者は40名を少し超えていた。この会の運営の中心者である事務局長:片桐さん、会長の広瀬さん、そして幅広く参加を呼び掛けてくれた鈴木さんたちの姿があった。京都府内外からの20代や30代の若い教員たちの参加者がけっこう多くみられた。

 講演の主な内容は、次のような順序で話をすすめた。❶初めに―1:中国の春節時期のこと、2:中国の大学と学生(閩江大学及び福建師範大学)の様子について、3:中国の教育と全国統一大学入学試験(高考)について 4:福建省及び福州について ❷中国人という民族について―1:日本人と中国人の共通性と強烈な違いとは何か、2:中国の歴史とそこで生きてきた中国民族について(日中の歴史比較) 、そこから生まれる人間関係のあり方や民族の特徴について 3:中国人と日本人の自然観の共通性と違いについて ❸中国社会と人々の暮らしを見る―その背景には中国特有の歴史の歩みがある―おそろしいスピードで変化する中国社会 

 ❹中国共産党一党支配化の中国―習近平政権の目指しているものとは  1:中国共産党支配下の歴史―その歴史的特徴 2:習近平政権2期の特徴―光と影「貧困への取り組み・一帯一路」 3:人権問題や情報管理のすざましい実態とは―『1984年』・ジョージ・ウォーエル以上の世界となる 4:2020年を境に「台湾統一の武力侵攻」の可能性も―尖閣諸島問題 ❺日本政府の取るべき今後の方向性とはどうあるべきか―日本の高校・大学の教育の現場で求められること

 2時間という時間では時間がたりなかったので、❺については十分な時間がとれなかったのは悔やまれる。日本の大学で「中国論」をテーマとして15回ぐらいの講義をするだけの内容はこの5年間近くで蓄えたが、2時間くらいの2回連続「講座」などの形式で話をするのが望ましいかもしれないとも思った。

 質疑応答は若い参加者を中心に行われたが、いろいろな質問が行われ、それに応答した。時間が足りなく、講座(講演)終了後にも、若い参加者から質問をいろいろ受けたので、片付けも含めて午後10時頃にようやく会場を去ることができた。おおむね、今回の講演は好評だったようだ。若い参加者の多くからは、「とてもとても面白かった!」との感想を聞くことができた。

 この私の冬休み日本滞在中の最も大きな行事が終わった。私の妻も参加してくれていたが、「私でもとてもわかりやすい説明だったよ」と言ってもらえたので、まあまあのできだったのだろう。今回の講演に関する自己採点としては80点ぎりぎりくらいだろうか。参加者のある方から3月〜4月期の「講演」の依頼をされたが、もうすでに中国に戻っている時期なので受ける事ができない旨を伝えた。講演のまたの機会があれば改善をしてぜひ行いたいと思う。