彦四郎の中国生活

中国滞在記

インカ帝国の秘境「天空の都市マチュピチュ」―天空の城郭"ホーエンツオレルン城・万里の長城・チヴィタ村"

2020-08-30 19:47:18 | 滞在記

 なぜ山裾の麓からはまったく見ることができない山上都市がつくられたのか、マチュピチュは謎の「天空の都市」。そして、その天空の都市から人々が突然に去ってしまったのかも謎のままだ。マチュピチュはインカ帝国の都市の一つということは史実としてはわかっているが、文字をもたないインカ文明のためその歴史的な記録などは残っていない。

 「空中の楼閣」「山上の楼閣」とも呼ばれるマチュピチュのあるアンデス山脈の長さは約8000km。地球一周が約4万kmなのでその5分の1近くの長さとなる長大な山脈だ。標高が5000m~7000m級の山々が連なる。このアンデス山脈の高峰に囲まれた谷間などにインカ帝国の都市や村や町がつくられた。

 インカ帝国が成立したのは12世紀、日本の平安時代末期の頃。現在の、エクアドル・ボリビア・チリ北部にまたがる帝国だった。最盛期は1400年頃。人口は600万人ほどと推定されている。宗教と政治が一体化した国家体制で、太陽信仰が国家の基本だった。皇帝は「太陽の子」または「太陽の化身」として統治にあたる「太陽皇帝」だった。

 そしてインカ帝国がスペイン人のピサロたちによって滅亡したのが1533年。8万人の軍隊をもつインカ帝国はたった168人の銃をもったピサロ率いるスペイン人に征服された。その後、スペイン人たちへのインカの末裔たちの抵抗も組織されたが鎮圧され、1572年にインカ帝国は完全に滅亡してしまった。

 インカ帝国の首都はクスコだった。この都市は標高3400mに位置する都市だ。このクスコの北西70kmのところに位置するマチュピチュの標高は2430mと、クスコより1000mあまり低い。1440年頃にマチュピチュがつくられ人々が暮らし始め、そして1533年に、突然に人々がいなくなったと推定されている。スペインの征服とインカ帝国の滅亡に関係しているのは間違いないだろう。

 マチュピチュは聖峰マチュピチュ山(標高3072m)と聖峰ワイナピチュ(標高2720m)の尾根筋につくられている。空中都市「マチュピチュ」とは、その聖峰の名前であり「老いたる峰」を意味するが、この都市遺跡の元の名前は依然わかっていない。

 この世界的にも美しい石造建築群は400年間あまり人々の記憶から忘れ去られていたが、1911年アメリカ人の探検家ハイラム・ビンガムによって発見された。彼は、インカ帝国の古道を調査していてこの山岳都市を発見した。発見当時、2つの家族がここに暮らしていたとも言われている。麓からの高低差は400mあまりあり、現在、山道を歩いて登ると2時間あまりで遺跡に到着できる。

 ビンガムは1913年に『失われたインカの都市』という著書を著し、その年の「ナショナルジオグラフィク」4月号は全てこのマチュピチュに関する特集内容となった。神殿や王の宮殿、門、住居などの石造建築物は200あまりにのぼる。推定の人口は最大で750人とされる。3mずつ上がる段々畑は40段あり、300段の階段でつながっている。ジャガイモ・トウモロコシ・コカなどがつくられていた畑だった。墓地もある。

 インカの人々は農期と太陽とに関連した信仰をもち、太陽信仰の宗教と連動する天文学の知識をかなりもっていた。また、カミソリの刃一枚も通さない石組技術を始め、石を扱う技術に長けていたと言われる。400m下の渓谷へと通じる45度〜75度の急斜面に営々とつくられている段々畑の石垣の石組もすごい。

     前号のブログで世界の棚田について記したが、ここマチュピチュの段々畑とベトナムの有名な棚田群の光景とは似通っているとも思う。(上記写真の右端はベトナムの棚田) 

 このマチュピチュ遺跡の麓にあるマチュピチュ村。福島県の大玉村から南米に移住した野内与吉(1895―1969)という日本人が、1948年からこの村の村長をしていた時期があった。村人にとても尊敬され、村の発展に尽くしたようだ。息子のセサル・野内さん(74)は現在、マチュピチュ遺跡を案内するガイドをしている。(上記写真の左端)  また、別の息子ホセ・野内さんは1981年~83年に村長をしている。この縁があって、マチュピチュ村と大玉村は2015年に友好都市協定を結んだ。ホセ・野内さんが村長をしていた1983年に、マチュピチュは世界遺産に登録された。

※2000年代に入り、南米のブラジルやペルーなどからたくさんの人が日本への労働ビザをとって働きにくるようになり、現在に至っている。私は40代の後半の年齢になって社会人サッカーチームをつくって、サッカーを初めて始めた。15・6人ほどのチーム登録者は私以外は平均年齢は20代前半から30代前半。市の地域リーグ20チームの中でいつも最下位近くに低迷してチームだった。(1部10チーム、2部10チーム) 

  しかし、ある年に、町で働くペルー人が3人、このチームに加入した。とても高いサッカー技術をもつ彼ら3人のそれぞれのポジションはFWとMFとDF。攻守の要となってその年は1部の上位チームに大躍進した。南米人のサッカーの上手さは今でも思い出す。ちなみに私のポジションはGKだった。2年後に彼ら3人がチームを去って、再びチームは2部に戻った。

 世界で最も有名な「天空の城」と言えば、ドイツ南部にある「ホーエンツォレルン城」。標高は855mの山上にある。雲海や霧が発生し、雲海の上にそびえる城郭の建物や塔が美しい。城の創建は11世紀。その後朽ち果て廃墟のようになっていたが、祖先の城郭を再建したいとのこの地の王族により1867年に現在の姿に再建された。

 同じくドイツ南部のミュンヘン近くにある「ノイシュバンシュタイン城」は、麓の渓谷からそびえたつ岩山の長城までの比高は120mほどとそう高くはなく、霧に包まれることはあっても雲海の発生はほぼないようだ。しかし、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルともなっているこの城は、その美しさでは世界でも有名な城郭である。この城はドイツ皇帝のルードヴィヒ2世によって1886年に完成した。

 城ではないが、城郭都市のような村がイタリア中部のローマの近くにある。2500年前の古代から、そして中世の村である「チヴィタ・デイ・バニョレージョ村」。天空の村とも呼ばれ、雲海が発生すると雲海に浮かぶ光景が出現する。ローマから100kmのところにある。別名は「死にゆく町」。今もなお村の台地の風化が進み断崖が崩れ続けている。村内に入るには今は1本の橋が架けられている。そこからしか村に入れない。周りは断崖絶壁に360度囲まれている城郭のような村。

 このチヴィタ村の光景は、「天空の城ラピュタ」のヒントにもなったと言われている。

 そして「天空の城郭」といえば、中国の万里の長城。高い所にある長城の場所には雲海がかかるところもけっこう多いようだ。

 

 

 

 

 

 

 


世界の棚田―中国・日本・フィリピン・インドネシア・ベトナム―世界十大最美中国福建省联合梯田を見る

2020-08-29 15:02:20 | 滞在記

 日本のマチュピチュとも称される三重県の丸山千枚田をはじめ、「稲穂の国・日本」には棚田が全国各地にたくさんある。世界的には東アジアや東南アジアなどの国々にも棚田は多い。中国やフィリピン、ベトナムやタイなどの国々の棚田である。

 それらの国々の棚田にはあまりない棚田光景が日本にはある。一つは海に迫る棚田である。日本は周囲を海に囲まれている島国なので、北九州地方の玄界灘の海や能登の輪島の日本海に沈む夕日と棚田の光景は幻想的に美しい。もう一つは、北アルプスの雪山と麓に広がる白馬村の棚田の光景など。積雪量が世界でも最も多い日本ならではの光景だ。

 日本の棚田で美しいと言われるベスト10には、①星峠(新潟県十日町市)、②白米千枚田(石川県輪島市)、③姨捨(長野県千曲市)、④丸山千枚田(三重県津市)、⑤大山千枚田(千葉県鴨川市)、⑥土谷(どや)(長崎県松浦市)、⑦金山(岩手県一関市)、⑧蕨野(わらびの)(佐賀県唐津市)、⑨椹平(くぬぎだいら)(山形県朝日町)、⑩蘭島(あらぎじま)(和歌山県有田川市)などがあげられる。

 日本の棚田で最も棚田の枚数が多いのは「姨捨(おばすて)棚田」。長野県千曲市の千曲川西岸にある。真田家の上田城のある上田市の近くである。棚田数は約1800枚。なだらかな山腹斜面400m~550mの傾斜地に棚田がつくられている。棚田の総面積は25ha。丸山千枚田7haの3倍以上もある。水が張られた棚田に月が映る光景が美しく、「月の名所」としても古くから知られ、歌川広重の浮世絵にも描かれた。

 アジアには「世界遺産」に認定された棚田群が三箇所ある。まず一つ目は、1995年に世界遺産登録されたフィリピンの「コルディレラ」(スペイン語で山脈の意味)棚田群。「バナウェイ」棚田群とも呼ばれるライス・テラシス。フィリピン最大の島・ルソン島北部の山岳高地帯にある。先住民族のイフガオ族がつくった棚田群で、すべての棚田を平にのばすと地球半周分となる。棚田総面積はなんと2万ha。

 フィリピン有数の避暑地である高原都市・バギオは、3月~5月の最も暑い季節には大統領府などの政府機関が移動する地としても知られている。バナウェイ棚田群はこの町からほど近い。山の頂上までつくられている棚田は「天国への階段」とも称される。キリスト教徒の多いフィリピンならではの呼称。

 二つ目は世界最大の棚田群である中国の「紅河(こうが)ハニ棚田群」。この中に何箇所かの棚田群がある。総面積は約25万haと超広大だ。この棚田群の一つである「元陽(げんよう)棚田」は12万haもあり、棚田の枚数は数万枚。中国雲南省の省都・昆明から南へ330kmのところにあり、ベトナムとの国境が近い。2013年に世界遺産に認定された。標高が1400m~1800mの山々の傾斜地にあり、最も傾斜の大きい地区の棚田は75度。

 他民族に追われ奥深いこの地に逃れたハニ族などの少数民族がここにたどり着き、紀元前から気の遠くなるような労力で山肌を耕し築いていった棚田群だ。本格的に棚田がつくられはじめた700年代から1300年以上の歴史をもつ。

 麓から5000段にも達する地区の棚田もあり、「雲の梯子(はしご)」ともその光景が称されたりもする。また、色とりどりの棚田の光景は「大地のパレット」とも呼ばれる。

 水稲耕作は水の確保と収穫時の水はけを両立しないといけないため、歴史的に最初の水稲栽培は棚田方式から発生したと考えられている。これは縄文時代末期から弥生時代初期にかけて、大陸から稲作栽培が伝えられた日本の場合も同じように考えられている。

 三つ目はインドネシアのバリ島にある「シャティルウイ」棚田。(※上記写真の左3枚)  バナナの樹木が生茂る森が印象的な棚田群だ。棚田群の村々のバリ島の文化とともに2012年に世界遺産に認定された。

 世界遺産には認定されていないが、ベトナムの「サパ」棚田群(※上記写真の右3枚)。渓谷の川から山頂までの斜面につくられた傾斜のきつい棚田のようすは、ペルーの世界遺産・マチュピチュの段々畑(農業区)を彷彿させる光景だ。

 中国南部には大規模な棚田群が多く存在する。雲南省の他に、貴州省も棚田群が多い。また、広西チワン族自治区の桂林に近い「龍勝」(「龍背」)棚田群も、1000m~3000mの山の傾斜地につくられた棚田群。桂林観光とともに一度行ってみたい棚田群だ。桂林の北西90kmのところに位置する。

 森林と山々が多い中国福建省にも棚田群がある。福建省で最も大規模であり美しいとされる棚田群に2015年の4月に行った。大学の学生の故郷・福建省三明市尤渓(ヨーシー)にある「联合梯田」(リエンホーテーティエン)学生の実家から車で1時間ほどのところにあった。中国語では棚田のことを梯田と言う。联合とは日本語では連合のこと。

 そこに到着して、棚田群の大きな看板説明には「全球十大最美梯田」(世界で最も美しい十大棚田)の一つの場所のようだ。この日は、「屏東中学初二 8班」と赤い横断幕をもった中学2年生たちが棚田見学にバスで来ていた。

 ちょうど季節は棚田に水を張り始めた時期だった。日本の棚田や水田と比べると、田の畔(あぜ)のつくりが細く、畦そのものが雑なつくりの印象だった。棚田を車で廻っていると、車の横を村人が3人乗りでバイクに乗って走ってきた。40代くらいの男性と70代くらいのおばあさんと10代の娘さんの3人。おばあさんが落ちないように間に挟む。棚田の村の子供を写真に撮る。弟と姉のようだ。笑顔がとても可愛らしい。

 季節ごとのここの棚田群の写真を見る。霧や雲海に包まれた棚田の光景。棚田の周りの山々には竹の森がたくさん見られた。 

 苗が植えられた棚田の光景やパレットのような棚田の光景などなど、たしかに美しい棚田だった。

 私の故郷の福井県南越前町に隣接する越前町に、「日本の棚田100選」に選ばれている棚田がある。梨子ケ平(なしこがだいら)の棚田だ。私の家から車で30分ほどの越前海岸の断崖の山々につくられた棚田。棚田の下には呼鳥門(こちょうもん)と呼ばれる断崖が海水の浸食で大きく開けられた門のようなところや、近くに越前岬灯台がある。

 今はこの棚田の多くは稲作が行われてはいなくて、一面の水仙畑となっている。12月中旬頃から2月上旬ころまでの季節に このあたり一帯は越前水仙が咲き誇る。日本三大水仙郷の一つだが、ここの水仙郷が全国で最も規模が広い。(他の2箇所は淡路島と静岡県伊豆)

 私の家(実家)も米をつくっていた。私は昭和27年(1952年)生まれだが、私が小学3年生の頃に田んぼを購入した。家から歩いて1時間ほどかかる山間地の小さな谷川に沿ってその水田はあった。棚田のような山の傾斜地の水田もあったが、枚数は全部で6〜7枚。谷川に沿ってつくられたこのような水田を谷地田(やちだ)という。(上記写真の左下あたり) 米は25俵あまりが収穫されたが、その半分以上は家で消費した。

 父や祖父の仕事は4月~10月上旬までは漁業、秋祭りを終えての10月中旬から3月下旬までは酒造りの杜氏(酒倉の責任者)。まあ、半農半漁と出稼ぎ(神戸御影の剣菱酒造)の家だった。よく、1時間あまり歩いて自分の家の田んぼの手伝いに行ったことを覚えている。小学5年の頃に我が家は車を初めて購入した。農業にも漁業にも使える軽トラだ。父はこの車で神戸の剣菱酒造まで行くこともあった。田んぼに行くのが楽になった。特に収穫時期の9月下旬は、田んぼに行く途中や田んぼの周囲でアケビを採って食べるのがとても楽しみだった。

 車が通れる道からさらに10分ほどの山道を登り下りして行くと谷川沿いの田んぼに着く。5年生のころのある日、その道すがら、真黒な蛇に遭遇した。なんとその黒い蛇が4〜5mも跳んだ。カラスヘビと呼ばれるヘビだった。恐怖に襲われた経験の一つだった。最近、そのカラスヘビのことを調べてみたら、これはシマヘビの黒色体というものらしいことがわかった。たまにシマヘビがほぼ全身、黒く変色することがあるらしい。

 今はこの我が家の谷地田は米は作られていない耕作放棄地となり、鹿やイノシシがたくさん生息している山間地となっている。昨年、久しぶりにここに行ってみた。亡き祖父母や父や弟の顔が浮かぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


天空の城六選―竹田・越前大野・備中松山・津和野・赤木・郡上八幡―竹田城址は日本のマチュピチュ

2020-08-28 04:15:04 | 滞在記

 『天空の城を行く―これだけは見ておきたい日本の山城50』(平凡社新書)2015年 著者:小和田泰経 という新書本を最近買って読んでみた。私も山城(やまじろ)を中心に これまでに少なくとも500以上の城には行ってはいるかと思う。この本の50の山城のうち37の山城には行っているので、なかなか厳選された50の山城だなあと感心した。

 この本の序文(はじめに)の一節に次のような文章がある。「山間にある城で、天然の堀となっている川が流れていれば、気象条件によっては、雲海が発生することになる。平城(ひらじろ)が天空の城になることはあり得ないが、平山城(ひらやまじろ)・山城であれば天空の城になりうる。竹田城に勝るとも劣らない天空の城は数多い。福井県の越前大野城、岡山県の備中高松城、島根県の津和野城などは、雲海に浮かぶ幻想的な光景を見ることができる。雲海が発生しなくても、麓から仰ぎ見る姿に圧倒される城もある。本書では、そんな天空の城50城を選んで紹介したい。」と書かれている。

 さまざまなインターネット記事や書籍などを読んだり、実際に行ってみて、私が今のところ知る限り雲海や川霧によって「天空の城」の光景が見られる山城や平山城は17城である。そんなに多くはないというより、城の石垣や曲輪など、城跡が霧や雲海とともに見られる「天空の城」はとても少ないのである。

 日本に約3万はあると言われる城のほとんどは山城だが、そのほとんどは長い間 人が入ったことがなく樹木に覆われて獣道があるだけのところがほとんどだ。石垣がある山城もそう多くはない。20年以上も人が入っていない山城域に行くと不気味さも感じたりする。鹿や猪やサルにも出会う。近くには天然の堀ともなる川がある場合が多いので、霧や雲海に山城が隠れている山が包まれる城はとても多いだろうが‥‥。

 その中で「雲海・朝霧に包まれたり浮かび上がる天空の城」のベスト六選は、いろいろな山城・平山城ファンなどの意見をもとにしても、これから紹介する城址・城郭。①竹田城(兵庫県朝来市和田山町竹田)、②備中松山城(岡山県高梁市)、③越前大野城(福井県大野市)、④津和野城(島根県津和野町)、⑤赤木城(三重県熊野市紀和町)、⑥郡上八幡城(岐阜県郡上市八幡町)。

 まず一つ目の兵庫県にある竹田城は、この六つのなかでも群を抜いて素晴らしい天空の城だ。10年ほど前の晩秋の11月下旬のある日、前日に気象状況なども調べて雲海が出そうだということで、早起きして午前2時半頃に京都の自宅を車で出発して竹田城に向かったことがあった。高速道路を利用してひたすら走り、午前5時前には雲海に浮かぶ竹田城がよく見える場所に到着したら、たくさんの人がすでにカメラを城址に向けていた。城ブームが日本で始まったころである。その後も含めて、7〜8回は竹田城に行っただろうか。まあ、見事という言葉以外になかなか形容できない城址だ。

 日本のマチュピチュとも言われる山城で、標高は約350m、麓からの比高は約250mある。麓には円山川が流れる。山上の城址には多くの曲輪が配置され、建物数も相当多い、大規模な山城だ。特に晩秋の11月中旬から12月上旬にかけて雲海に浮かぶ石垣の山容が神秘的でもある。まさに「日本のマチュピチュ」という呼び名にも相応しい感のある山城だと思う。

 前号のブログで「丸山千枚田」も「日本のマチュピチュ」とも呼ばれると記した。マチュピチュは「住居・神殿」のエリアと「段々畑」のエリアがあるが、丸山千枚田は「段々畑」(農業区)エリア、竹田城は「住居・神殿」(居住区)エリアがそれぞれ「日本のマチュピチュ」とイメージされるのかと思う。ちなみに「天空都市、空中都市・マチュピチュ」の標高は2280m、麓の村や川からの比高は400mほどもある。谷底の川から発生する朝霧や雲海に包まれることもある世界で最も有名な「天空の都市」「天空の城」だ。

 この竹田城もまた、世界に誇れる「天空の城」とも思える。(※比高が300m以上の山城に登るのはけっこうきつい。400mを超す山城に登ったことも何度もあるが、かなりきつい。マチュピチュは比高400mあり、さらに急こう配の絶壁のような稜線の上にある場所なので、山道を歩いて登るのは当時、相当にきつかったのではないかと思う。) ちなみに、竹田城がつくられた時代とインカ帝国の都市・マチュピチュがつくられた時代はほぼ同じだ。

 二つ目の備中松山城。日本の城郭・現存十二天守閣の一つが残る。麓には備中高梁の城下町があり武家屋敷群などもある。城下には高梁川が流れ、雲海が城下町を包み、山上の本丸天守閣などが雲の上に出現する。本丸の天守閣と雲海が望める光景を見るためには、本丸曲輪からさらに遠く高い所にある奥の曲輪(奥の城)に続く城道(山道)を歩いて登らなければならない。備中松山城の標高は約490m、麓からの比高は約400m。マチュピチュの比高とほぼ同じ。

 三つ目の「越前大野城」。大野の城下町の中にある城山に築かれた平山城だ。大野の町には九頭竜川が流れる。四方を山々に囲まれる盆地全体を覆うように霧や雲海が発生する。盆地の西側にある美濃街道(越前一乗谷に通じる)の峠道の途中に城下町を見下ろす展望がひらけたところから、天守閣のある「天空の越前大野城」を見ることができる。季節はやはり晩秋か。

 城下町の北西方向にある白山山系の冠雪を背景とした天空の城を臨むことができる。越前大野城の標高は約250m。比高は約80mとけっこう低い平山城だ。雲海に浮かぶ島のような光景だ。

 四つ目は、島根県津和野町にある「津和野城」。津和野の町を訪れる観光客はけっこう多いが、この城址に来る人はまれだ。私は昨年の夏に初めて津和野を訪れて城址に行ってみたが、まあ 連続する石垣群と曲輪群がとても素晴らしいの一言につきる山城址だった。城跡から眼下に津和野の城下町が一望できる。周囲を山々に囲まれた細長い城下町を津和野川が流れていて天然の堀となっている。麓の森鴎外の旧宅から城を仰ぎ見ると石垣が見える。

 津和野城址の標高は約370m、比高は約210mとけっこう高い。雲海や霧が城下町全体をすっぽりと覆い、城址が雲の上に見える光景は竹田城の弟のようだ。

   五つ目は岐阜県の郡上八幡にある「郡上八幡城」。郡上八幡の城下町には長良川が流れる。そしてこの川に流れ込む支流も城址の下の谷間を流れる。郡上八幡城の天守閣は、日本では木造で再建されたものとしては最も古い復元天守。(1933年に再建)  霧に浮かび上がる本丸曲輪と天守の光景が近年の「天空の城」ブームで注目を浴びている。山々と雲海の中の天空の城は、郡上八幡から岐阜市に抜ける間道である国道256号線の堀越峠付近から見ることが可能だ。本丸曲輪の標高は約350m、比高は約150m。

  そして六つ目が前々号のブログで書いた三重県熊野市紀和町の「赤木城」。標高約230m。比高は約30mととても低い。

 攻城団という人たちが出しているブログ記事で、「天空の城」という特集記事がある。その文章の一節は「天空の城ブームの火付け役となった竹田城をはじめ、日本全国には雲海に浮かんだ幻想的な光景が見られるお城がたくさんあります。備中松山城は雲海に浮かぶ現存天守として有名ですが、現存天守であり国宝でもある犬山城も条件が揃えば雲海を見ることができます。また霧や雲海は山間部に発生することが多いので、岐阜県には郡上八幡城、岩村城、苗木城、岐阜城と4つの天空の城が存在しています。」

 「季節や気象条件が限られているため年に数回しか発生しない城も多く、なかなか見ることができませんが、何度か訪問してみてください。そして幸運にも雲海に遭遇した際はぜひ写真におさめてシェアしてくださいね。」と書かれていた。

◆「天空の城」17のうち、「天空の城ベスト六選」の他の11城は以下の通り。

🔴黒井城(兵庫県丹波市春日町黒井)標高350m・比高240m   🔴利神城(兵庫県佐用町平福)  標高370m・比高220m、別名は雲突城   🔴岩村城(岐阜県恵那市岩村町)標高720m・比高150m   🔴苗木城(岐阜県中津川市苗木町)標高430m・比高170m   🔴岐阜城(岐阜県岐阜市)標高340m・比高320m   🔴犬山城(愛知県犬山市犬山町)標高80m・比高40m、別名は白帝城   🔴高取城(奈良県高取町)標高580m・比高390m   🔴鬼ノ城(岡山県総社市奥坂)標高400m・比高は―?土塁や石垣などで山の周囲約3kmを囲み、城域は約30haと広大。比高はまちまちだが、最も高いところだと石垣から眼下の麓まで200mほどはある。 🔴霧山城(三重県津市多気町)標高560m・比高240m   🔴月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)標高200m・比高160m    🔴岡城(大分県竹田市竹田町)標高330m・比高100m

※「日本三大山城」とはも岩村城・高取城・備中松山城のこと。いずれの城も標高は約500m~約700mのところにある。岩村城は石垣や曲輪が多く配置されている山城で、竹田城と並び「日本のマチュピチュ」とも称される。また、高取城は、高い山の樹海の中に突然に多くの石垣群や曲輪群が連続して出現する。まるで、カンボジアのアンコールワット遺跡群がジャングルの中で、1850年代にたまたまフランス人によって再発見された当時のことを彷彿させる山城だ。突然に城域の石垣が森の中から現れるさまが。

◆上記の「攻城団」の記事への投稿者の投稿より―「攻城団」が指定している16の「天空の城」を訪問すると、丸い缶バッチがもらえるようだ。以下、投稿の一部。

○「天空の城16」はほぼ山城なのですが、天守閣があったり、日本の100名城に選定されている城は道が整備されています。黒井城と利神城はトレッキングできる足元の方が無難です。 ○2017/10/08に利神城登城で16城完了です。利神城は入山禁止なのに完了で良いのかな?  ○最後に赤木城でバッチを獲得することができました。個人的には赤木城はとっても好きなタイプのお城だったので、すごく嬉しいです。 ○越前大野城で完。ただ、このうち、雲海を見たことのあるお城は4つしかありません。雲海込みで16城を制覇できる気がしないです‥‥。


紀伊山地・熊野を巡る❹―朝霧が立ち込める丸山の棚田②―"日本のマチュピチュ?!丸山千枚田"なぜ?

2020-08-26 13:46:08 | 滞在記

 朝霧にすっぽりと包まれ続ける赤木城跡を後にして、丸山千枚田に向かう。15分ほどで到着。棚田の多くも朝霧に包まれていた。時刻は午前6時半頃。

 棚田のところどころに案山子(かかし)が立てられている。フラダンス姿の女性の案山子。

 新型コロナ・疫病退散を願うアマビエの案山子も。蓮畑に花がまだ咲き残っていた。大岩近くの案山子。スイカの帽子をかぶった男性の案山子も。ゆっくりと丸山千枚田を見て廻る。

 最も低い場所にある棚田の稲。棚田を見あげる。最も高い場所の棚田まで高低差は何メートルあり、棚田の段数は何段くらいあるのだろうか。山の斜面に点在する丸山集落の家にも石垣が美しく積まれている。30分ほど棚田にいて、午前7時頃にこの棚田を離れた。

 夕日が落ちるようすの丸山千枚田の景色がパンフレットに。幻想的なくらいに美しい景色なのかと思う。稲刈りが始まるとつくられる、刈り取った稲を干す枷場(はさば)。

 春・夏・秋・冬とそれぞれに美しい棚田群。NHKBSプレミアムの番組「こころ旅」の取材班がここに来たようだ。自転車での旅人・火野正平さんが「山深いね、住んで 田んぼつくって、すごいな人間て‥‥」とのコメント。

 旅館の部屋にあったパンフレットに、「日本のマチュピチェ?!丸山千枚田」という記事がファイルされていた。ここ丸山千枚田は日本のマチュピチェともよばれることもあるようだ。なぜだろう? そのことが、霧に包まれた早朝の棚田をゆっくりと訪れて、少し分かってきたようにも思えた。

 丸山千枚田は現在1340枚の棚田があるようだが、昭和24年(1949年)には2300枚の棚田があったようだ。その当時の白黒写真を見ると、より壮大な棚田であることがわかる。

 紀伊山地・熊野への小さな旅から京都の自宅に戻ってペルーにある世界遺産「マチュピチェ」のことを調べたら、「なぜ、ここ丸山千枚田が日本のマチュピチュと呼ばれたりもするのか」ということが分かってきた。マチュピチェは、住宅や神殿や広場がある「居住地区」と、さまざまな野菜や穀物を育てる山の斜面の「段々畑地区」の二つのエリアがある。3mごとの高低差がある段々畑は40段に及び、最も低い場所の畑から最も高い畑までの高低差は約120m。

 一方の丸山千枚田の棚田の段々は約100段もある。一段一段の高低差は約1mで、最も低い場所と最も高い場所の棚田との高低差は約100m。日本で最大規模の棚田である丸山千枚田の棚田の段々の様子が、マチュピチュの「段々畑地区」に似てもいるからかと思われる。そして、日本にはもう一箇所「日本のマチュピチュ」と呼ばれるところがある。「天空の城、竹田城跡」である。この石垣城址はマチュピチェの「居住地区」をイメージできるからだろう。

 そして、ここ丸山千枚田も竹田城も、マチュピチェも霧や雲海に包まれるという共通点もあるからだろうか。

 

 

 


紀伊山地・熊野を巡る❸―赤木城跡②朝霧や雲海のかかる"天空の赤木城址"が見られるかもと早朝に

2020-08-25 19:12:07 | 滞在記

 三重県紀和町にある赤木城と丸山千枚田に日帰りで行ってみようと思い立って出かけた8月19日(水)。結局、日帰りは断念し、旅館を探して一泊することとなった。ここ10年間あまり続いている日本の城ブーム。さまざまな日本の城や山城に関する書籍や雑誌などで、この赤木城も注目をあびることとなった。今、日本列島の多くに新幹線が開通しているが、ここ紀伊半島の赤木城は新幹線からもJR在来線からも遠く、注目されるが行きにくい城の一つだ。

   なぜ、こんなところに それなりに立派で、現代でも注目される城が築かれたのか。そのような城跡は全国にはいくつもある。例えば、明智光秀が築いた京都府京北町周山にある周山城などなど‥。

 京都・奈良から太平洋沿岸の尾鷲市や熊野市、新宮市、勝浦町に至るために、紀伊半島・紀伊山地を南北に縦断するための街道が古来より二つあった。一つは奈良県五條市から十津川村を通って新宮市に抜ける「十津川街道」。この街道は十津川や熊野川の渓谷にそってほぼつくられている街道だ。現在も十津川と新宮を結ぶ日本一長い距離の路線バスが運行している。もう一つは奈良県大淀町・下市町・吉野町から、東吉野町・天川村、川上村、上北山村、下北山村を通って熊野市に抜ける「吉野街道・北山街道」。この街道は吉野川や北山川の渓谷に沿ってほぼつくられている街道だ。二つの街道は紀伊山地の中の1000m~1900mが連なる屏風のような山脈によっ隔てられ、ほぼ南北に平行に街道が走る。

 さて、ここ赤木城のある紀和町は、山塊が少し低くなり、北上川が流れ、この二つの街道が途中で結ばれる街道が走っている場所にある。つまり二つの街道を結ぶ中間の地点。さらに、太平洋に面する熊野市や新宮市にも近くなる。言って見れば、交通の要衝地とも言えるところなのかもしれない。ここに城を築けば、二つの街道と地域をおさえやすい地だ。さらにこの地には、古来より銅などの日本有数の鉱山資源に恵まれ、森林も豊かで木材が切り出され、北山川や熊野川や十津川の流れをつかって筏(いかだ)流しによって新宮の町に運ばれた。新宮には新宮城という大規模な城郭もつくられていた。

 古代にはこの地は熊野三山(熊野三社)に属し、中世に入ると入鹿氏などの武士も台頭し、谷間の村々には土豪や国人、吉野の金剛峯寺や紀州の根来寺や粉河寺などの寺社勢力などの勢力が混在した地域となった。近畿地方でもここ紀伊山地と四方を山々に囲まれた三重県伊賀は守護の勢力も弱く、自然の険しさにより守護や戦国大名などの勢力が及びにくい地でもあった。

 ほぼ全国を平定した豊臣秀吉は、天正13年(1585年)に実弟の秀長に紀伊国の平定を命じている。ついに強力な全国政権が及び始めることなる。一旦は土豪や国人などの抵抗勢力を平定したものの、翌年の天正14年 北山郷などの土豪たちが一揆を結んで蜂起した。秀長は、すぐさま鎮圧の軍勢を差し向けたものの、一揆側の抵抗も激しいうえ、秀吉の命に従って九州平定にも従軍したため、なかなかはかどらない。結局、秀長が一揆を鎮定することができたのは、3年後の天正17年(1589年)のことだった。

 こうして一揆を鎮圧した秀長は、家臣の藤堂高虎に赤木の地に築城を命じたという。世は移り、1600年の関ヶ原の戦いとなる。紀伊国はこの戦いの後に和歌山城を居城とする浅野幸長の支配下となった。そうした中、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣を契機に再び一揆を結んで蜂起したのである。冬の陣が終結すると、幸長の跡を継いだ子の長晟は、北山郷に向かい、一揆の鎮定に向かった。赤木城はこのとき、浅野勢の拠点として使われた可能性と一揆勢の拠点として使われた可能性のどちらかが高いが、どちらの拠点となったのか明らかではない。赤木城は、その後、元和元年(1615年)に一国一城令が徳川幕府より出たあと、廃城となったらしい。 

 宿泊した「瀞流荘」の部屋に、この紀和町に関連した新聞記事のスクラップファイル(持ち出し禁止と書かれた)が何枚が置かれていた。そのうちの一つが「全国数万の城から―戦国ロマン満載の穴場の名城を選抜―1位赤木城、2位苗木城、3位小幡城、4位玄蕃尾城、5位滝山城」という見出し記事。また、「天空の城ブーム各地で―竹田城に続け―越前大野城・竹田城・備中松山城・赤木城」の見出し記事も。

 翌朝の早朝に赤木城が遠望できる場所に行けば、朝霧や雲海に包まれた「天空の赤木城」が見られるかもしれない。今日、無理に京都に戻らずによかったなあとも思いながら、いつものとおり午後9時すぎには眠りについた。

 翌朝はいつものように午前4時ころに起床した。5時すぎに宿を出て北山川に架かる橋を見る。川から立ち上る川霧に周囲の山々は薄っすらと包まれていた。5時半ころに赤木城を展望できる場所に着く。赤木集落の棚田の稲も霧に包まれていた。山の傾斜地に点在する家々は、石垣が立派に積まれた家屋も多い。その見事さに見惚れた。

 5時半ころになってますます霧が出始めた。周囲の山々も霧に包まれる。

 赤木城の方を見る。霧が濃くわずかに城郭の丘がぼんやりと霞んで見えるだけ。1時間ほどここにいて、霧が晴れてきて城郭の石垣や本郭が見えてくるのを待ち続けた。わずかに石垣も霞んで見えたが‥。このあと霧に包まれる丸山千枚田にも行きたい。だが、旅館ホテルの朝食時間は午前7時〜8時の1時間。遅くても午前7時40分ころには戻らなければならなかった。この日は風がまったくなくて、霧が晴れ始めて城郭が見えてくるのには まだ相当の時間がかかりそうだった。午前6時半すぎに ここから丸山千枚田に向かうこととした。

 ここ紀伊山地は霧や雲海が発生する条件がそろっている。特に晩秋の11月から12月の晴れた朝には、ほぼ雲海に包まれるようだ。高い山々と谷間と渓谷。そこを流れる十津川や熊野川や北山川、そして無数の多くの支流。ここ紀和町の赤木城や丸山千枚田の南東側にある風伝峠にかかった雲海の一部が風におされて細長い雲海が山を登り下りしながら移動する「風伝おろし」というものもよく発生するらしい。

 ホテル旅館の廊下に掲示されているパネル写真やインターネット検索をして赤木城が霧や雲海に包まれた写真を見る。たしかに幻想的な天空の城の光景が見られる「天空の城」だ。この城の標高は高いが、麓の集落道路からの比高はわずか30mに本郭(本丸)がある平山城なのだが雲海に包まれる天空の城ともなるのが赤木城だ。

 秋の紅葉、冬の雪景色や枯れ木、春の桜と新緑、四季折々に風情ある石垣とともに表情を見せてくれる赤木城跡。確かに、「穴場NO1」に相応しい城跡という新聞記事はあながち外れてはいないとも思う。