なぜ山裾の麓からはまったく見ることができない山上都市がつくられたのか、マチュピチュは謎の「天空の都市」。そして、その天空の都市から人々が突然に去ってしまったのかも謎のままだ。マチュピチュはインカ帝国の都市の一つということは史実としてはわかっているが、文字をもたないインカ文明のためその歴史的な記録などは残っていない。
「空中の楼閣」「山上の楼閣」とも呼ばれるマチュピチュのあるアンデス山脈の長さは約8000km。地球一周が約4万kmなのでその5分の1近くの長さとなる長大な山脈だ。標高が5000m~7000m級の山々が連なる。このアンデス山脈の高峰に囲まれた谷間などにインカ帝国の都市や村や町がつくられた。
インカ帝国が成立したのは12世紀、日本の平安時代末期の頃。現在の、エクアドル・ボリビア・チリ北部にまたがる帝国だった。最盛期は1400年頃。人口は600万人ほどと推定されている。宗教と政治が一体化した国家体制で、太陽信仰が国家の基本だった。皇帝は「太陽の子」または「太陽の化身」として統治にあたる「太陽皇帝」だった。
そしてインカ帝国がスペイン人のピサロたちによって滅亡したのが1533年。8万人の軍隊をもつインカ帝国はたった168人の銃をもったピサロ率いるスペイン人に征服された。その後、スペイン人たちへのインカの末裔たちの抵抗も組織されたが鎮圧され、1572年にインカ帝国は完全に滅亡してしまった。
インカ帝国の首都はクスコだった。この都市は標高3400mに位置する都市だ。このクスコの北西70kmのところに位置するマチュピチュの標高は2430mと、クスコより1000mあまり低い。1440年頃にマチュピチュがつくられ人々が暮らし始め、そして1533年に、突然に人々がいなくなったと推定されている。スペインの征服とインカ帝国の滅亡に関係しているのは間違いないだろう。
マチュピチュは聖峰マチュピチュ山(標高3072m)と聖峰ワイナピチュ(標高2720m)の尾根筋につくられている。空中都市「マチュピチュ」とは、その聖峰の名前であり「老いたる峰」を意味するが、この都市遺跡の元の名前は依然わかっていない。
この世界的にも美しい石造建築群は400年間あまり人々の記憶から忘れ去られていたが、1911年アメリカ人の探検家ハイラム・ビンガムによって発見された。彼は、インカ帝国の古道を調査していてこの山岳都市を発見した。発見当時、2つの家族がここに暮らしていたとも言われている。麓からの高低差は400mあまりあり、現在、山道を歩いて登ると2時間あまりで遺跡に到着できる。
ビンガムは1913年に『失われたインカの都市』という著書を著し、その年の「ナショナルジオグラフィク」4月号は全てこのマチュピチュに関する特集内容となった。神殿や王の宮殿、門、住居などの石造建築物は200あまりにのぼる。推定の人口は最大で750人とされる。3mずつ上がる段々畑は40段あり、300段の階段でつながっている。ジャガイモ・トウモロコシ・コカなどがつくられていた畑だった。墓地もある。
インカの人々は農期と太陽とに関連した信仰をもち、太陽信仰の宗教と連動する天文学の知識をかなりもっていた。また、カミソリの刃一枚も通さない石組技術を始め、石を扱う技術に長けていたと言われる。400m下の渓谷へと通じる45度〜75度の急斜面に営々とつくられている段々畑の石垣の石組もすごい。
前号のブログで世界の棚田について記したが、ここマチュピチュの段々畑とベトナムの有名な棚田群の光景とは似通っているとも思う。(上記写真の右端はベトナムの棚田)
このマチュピチュ遺跡の麓にあるマチュピチュ村。福島県の大玉村から南米に移住した野内与吉(1895―1969)という日本人が、1948年からこの村の村長をしていた時期があった。村人にとても尊敬され、村の発展に尽くしたようだ。息子のセサル・野内さん(74)は現在、マチュピチュ遺跡を案内するガイドをしている。(上記写真の左端) また、別の息子ホセ・野内さんは1981年~83年に村長をしている。この縁があって、マチュピチュ村と大玉村は2015年に友好都市協定を結んだ。ホセ・野内さんが村長をしていた1983年に、マチュピチュは世界遺産に登録された。
※2000年代に入り、南米のブラジルやペルーなどからたくさんの人が日本への労働ビザをとって働きにくるようになり、現在に至っている。私は40代の後半の年齢になって社会人サッカーチームをつくって、サッカーを初めて始めた。15・6人ほどのチーム登録者は私以外は平均年齢は20代前半から30代前半。市の地域リーグ20チームの中でいつも最下位近くに低迷してチームだった。(1部10チーム、2部10チーム)
しかし、ある年に、町で働くペルー人が3人、このチームに加入した。とても高いサッカー技術をもつ彼ら3人のそれぞれのポジションはFWとMFとDF。攻守の要となってその年は1部の上位チームに大躍進した。南米人のサッカーの上手さは今でも思い出す。ちなみに私のポジションはGKだった。2年後に彼ら3人がチームを去って、再びチームは2部に戻った。
世界で最も有名な「天空の城」と言えば、ドイツ南部にある「ホーエンツォレルン城」。標高は855mの山上にある。雲海や霧が発生し、雲海の上にそびえる城郭の建物や塔が美しい。城の創建は11世紀。その後朽ち果て廃墟のようになっていたが、祖先の城郭を再建したいとのこの地の王族により1867年に現在の姿に再建された。
同じくドイツ南部のミュンヘン近くにある「ノイシュバンシュタイン城」は、麓の渓谷からそびえたつ岩山の長城までの比高は120mほどとそう高くはなく、霧に包まれることはあっても雲海の発生はほぼないようだ。しかし、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルともなっているこの城は、その美しさでは世界でも有名な城郭である。この城はドイツ皇帝のルードヴィヒ2世によって1886年に完成した。
城ではないが、城郭都市のような村がイタリア中部のローマの近くにある。2500年前の古代から、そして中世の村である「チヴィタ・デイ・バニョレージョ村」。天空の村とも呼ばれ、雲海が発生すると雲海に浮かぶ光景が出現する。ローマから100kmのところにある。別名は「死にゆく町」。今もなお村の台地の風化が進み断崖が崩れ続けている。村内に入るには今は1本の橋が架けられている。そこからしか村に入れない。周りは断崖絶壁に360度囲まれている城郭のような村。
このチヴィタ村の光景は、「天空の城ラピュタ」のヒントにもなったと言われている。
そして「天空の城郭」といえば、中国の万里の長城。高い所にある長城の場所には雲海がかかるところもけっこう多いようだ。