彦四郎の中国生活

中国滞在記

2020+1東京オリンピック始まる➋薄氷を踏むオリンピック、感染1万超は五輪開催が原因??

2021-07-31 10:46:34 | 滞在記

 7月23日(金)に行われた東京五輪開会式だが、翌日24日付の日本の大手新聞各社の一面での、東京五輪に関する報道姿勢は2極化されていた。朝日と毎日は新型コロナ第五波感染拡大をトップに置き、続いて東京五輪開会式を報道。読売と産経と日経は東京五輪開会式をトップに置き、続いて感染拡大を報じていた。スポーツ各紙は日本代表の男子サッカーとソフトボールの活躍を一面に掲載。

 私が数十年間にわたって定期購読している朝日新聞などはこの間の東京五輪の開催に、社説記事なども含め否定的な見解を述べる記事が多い。この報道姿勢には疑問を感じることもままある。24日付では「東京五輪コロナ下の開幕 感染拡大傾向 乏しい祝祭感」の見出しが一面に。二面・三面などには、「東京 歓声なき祭典」「花火・ゲーム音楽‥‥場外から"五輪中止を"」の見出し記事。「光を探して幕は上がる」の見出し記事も。

 東京五輪の開会式でのある場面を巡って、中国や台湾では物議を醸す出来事があった。台湾(チャイニーズ・タイペイ)選手団の入場の際、場内にこれまでのオリンピックで通常使用されていた「チャイニーズ・タイペイ」のアナウンスが鳴り響いた。だがその直後、NHKの報道アナウンサーを担当していた和久田麻由子アナが突然、「台湾です!」とはっきりした口調で言い放ったことに驚きの声が上がった。この瞬間、台湾の人々の多くが歓喜をしたと伝えられる。台湾メディアも「台湾に誇りの瞬間をもたらした」と報道。

 中国の政府系新聞「環球時報」は「公共放送として"一つの中国"を損なう報道はするべきではない」と批判した。週刊ポストの最新号では、「和久田麻由子になぜこんなにも惹かれるのだろう」との見出し記事が掲載されていた。この間の東京五輪のNHK報道のメインアナウンサーとして、開会式でも非常に落ち着きの中にも明るいトーンの彼女のメイン司会ぶりは評価が高い。

 また、アメリカの放送局が東京五輪開会式を生報道した際に、中国の地図に台湾がなかったことに、中国政府は厳重抗議をしている。香港では、香港のフェンシング選手の決勝戦を、大型商業施設でのパブリックビューで多くの人々が応援観戦。香港選手の優勝が決まり、表彰式で中国国歌が流された際に、人々の間でブーイングが巻き起こり、「WE ARE HONGKONG(私たちは香港だ!)」の歓声が一斉に起こった。この出来事の中、昨年6月に施行された「国歌条例(中国国歌を侮辱することを禁じる法律)」に基づく初めての逮捕者が出た。

 週刊文春と週刊新潮の最新号、週刊新潮では「台本11冊入手 開会式"崩壊"全内幕—計1199ページに全ての変遷が」のトップ記事が掲載されていた。この1年間にわたる開会式の演出チームの変遷をかなり詳細に述べるこの記事を読んでみたが、もし仮に、演出チームのリーダーの交代がなかったとしても、それほど開会式の内容はスケール的にもテーマ性においても大きく変わらなかっただろうというのが私の感想だった。MIKIKO氏にしても、「日本の国とはどんな国なのか」「日本民族とはどんな民族なのか」「日本文化とはどんな文化なのか、日本文化の基底は何なのか」があまり分かっていないとも思った。

 この開会式について、ビート武(北野武)は、翌日のテレビ報道番組で 開会式を一刀両断して「金返せよ‥外国に恥ずかしくていけないよ」と発言していた。北野武は国際的にも俳優・映画監督として多少は有名人。この発言は、中国でも韓国でも、東京五輪開会式の評価の低さを物語るものとしての格好の発言として報道もされていた。開会式の内容の問題はあるにしても、北野武もまた、国際社会の中での日本の立場を考えることのできない人だと思う。私は彼について、その論舌など評価すべきところも多々ある人だと思うが、残念ながら、ある種の知的レベルの低さを合わせもった人物だとも思う。(※北野武は開会式の演出チームに関わることを希望していたとも伝わる。結局、チームに参加できなかったが、それがあってか?その後、東京五輪開催に否定的な意見を公にしていた。)

 7月27日付朝日新聞の文化蘭に、「開会式 日本をどう映したか」という見出し記事が掲載されていた。思考家・佐々木敦さんの「散漫で安直な"多様性"」と題された開会式についての文章は秀逸だった。また、物語評論家・さやわかこさんの「ゲーム・マンガ工夫なく」もまた、この開会式の問題点について的確な指摘をしていた。

 週刊文春の最新号ではまた、「西浦教授が緊急提言—このままではパラ中止も―夏コロナの核心」というテーマの記事を掲載していた。この記事は、パラリンピック開催前に、東京の新規感染者は5000人を超える可能性を指摘し、中等症の患者が急増しつつあり、第四波の大阪のような医療崩壊が起きる可能性が高いことを指摘したものだ。東京パラリンピックは、東京オリンピック閉会2週間後の8月24日に開幕、20余競技を9月5日まで開催予定だ。7月28日付朝日新聞、「東京の感染最多2848人 大阪も急増741人に」の見出し記事。

 日本共産党の機関紙「赤旗」7月26日付日曜版、「感染が急拡大 五輪は中止を」の一面の見出し記事。日本共産党はこの1年間、一貫してこの夏の東京五輪・パラリンピックの開催に反対をしてきている。しかし、東京五輪がすでに開幕しているこの時に、「中止を」訴えているのには、ちょっとその異常さにがっかりさせられる。これが日本という国の政治に責任のもてる政党なのだろうかという疑問だ。

 私は日本共産党の政策にはかなりの支持できるものも多いが、五輪開催の是非問題や、現在の国際情勢下でのこの政党の対外政策などに関してはその政策立案人材のなさに悲しさを感じたりもしてきた。政策立案スタッフの決定的な欠如を感じる。また、「民主集中制」の党是のもと、党内の意見がほぼ一本化し、異論を言いにくい党の長年の体質は、この党の最大の問題点だと思う。

   各種競技が、すでに、予選、準決勝などと進んでいる途中でそんなに簡単に「中止」ができるものでもない。そんなことほしたら世界で赤っ恥をかくこととなる。それこそ日本人は「恥ずかしくて外国に行けない」こととなる。立憲民主党も基本的に開催に反対をしていたが、開会後はどんな見解なのだろうか?

 7月29日、茨城県の大井川知事は、全国で初めて9千人を突破する新型コロナウイルス急拡大の事態を受け東京五輪の中止論が出ていることについて、「感染拡大と五輪開催に直接的な因果関係があるかどうか検証されず、ただ感染者が増えたから中止せよというのは暴論ではないか。あまり安易に中止を言うのは無責任ではないか。五輪開催よりも、緊急事態宣言などの長期的な発動からの自粛疲れによる人流の抑制が効いていないことや、デルタ株の蔓延、ワクチン接種のスピードの鈍化が、感染急拡大の要因ではないか」との見方を示した。

 また、大井川知事は、五輪の開催が間接的に人流に影響を及ぼしている可能性について問われると、「私は逆だと思う。五輪開催と人流との因果関係が証明されない限り、感染拡大を五輪のせいにすることは少し乱暴ではないかと思っている。自宅で五輪の観戦をする人が増えているとしたら、五輪は逆に人流の抑制に貢献している可能性もある」と指摘した。私もこの意見に賛同する。

 7月29日、ついに日本の1日の新規感染者数が1万人超となった。この日の東京は3865人となり3日連続で過去最高を更新した。7月30日、新規感染数は1万743人(東京3300人、大阪882人、千葉753人、神奈川1418人、埼玉853人など)に。京都も167人となった。そして再び、8月2日~8月31日までの期間、東京・埼玉・神奈川・千葉・大阪・沖縄に緊急事態宣言が延長又は新たに出されることが決まった。京都・兵庫・石川は再び又は新たな蔓延防止措置法。

 関西の京都市や大阪府全域、神戸市など兵庫県の15市町はこの期間、酒類提供の全面的禁止が発表された。これは今までの宣言や措置法の中で一番厳しい初めての禁酒令となる。8月3日に1年以上ぶりに友人たちと3人で一杯飲みを京都市内で予定していた。それを楽しみにもしていたのだが‥。

 日本の感染者数が1万人に迫る中の29日、韓国メディアは「薄氷を踏むオリンピック」と報道していた。日本の東京の真夏日の灼熱的な暑さにこの薄氷も割れそうな中、東京オリンピックは後半に入り、残すところ8日間となった。

 世界の眼は日本での感染拡大状況について、「(無観客などで)前例のないほど衛生的な五輪開催が開かれている。選手らは厳しい規制下、東京五輪開催によることが原因の感染者の急増はおこっていない。選手や大会関係者と外部は遮断されてもいる。しかし、緊急事態宣言はほとんど無視され、昼は都心で人出が多く、夜は騒がしい地域もある。五輪まで東京都民や日本国民は何万人もの外国人が来て感染拡大をもたらす可能性を非常に心配していたが、開催が始まり、五輪とは関係のないところで、感染爆発が起きているのが現実だ。(米紙・ワシントンポスト)」と報じている。

 

 

 

 

 


2020+1"東京オリンピック"が始まった➊—光を求めて幕が上がる―その開会式は‥①

2021-07-30 08:24:26 | 滞在記

 7月21日(水)よりサッカーやソフトボールの予選リーグの試合が始まった東京オリンピック。ソフトボールも男子サッカーも好発進、女子サッカーの緒戦は引き分けた。この3つの試合をテレビで観戦していて、ほんとうに久しぶりに胸が少し熱くもなった。7月23日(金)の夜には開会式が行われた。そして、今日7月30日(金)で10日目となる。8月8日(日)の閉会式まであと残すところ10日間。

 6月上旬では、この夏のオリンピック開催についての世論調査は、「①今年夏の開催に賛成53%、②開催に反対27%、③再延期に賛成20%」と、5月上旬の世論調査に比べて①が②や③の合計を少し上回り始めていた。私は③に賛成だったが、6月中旬~下旬に入り「開催の流れ」となった時点で、「もう、開催することが決定なら、それなりの成功をしてほしい」と願ってきている。

 開会前日、7月20日の東京の新型コロナ新規感染者数は1832人。その多くをデルタ株(インド型)感染が占めていた。7月22日付朝日新聞には、「8月上旬に第3波越え 東京の感染 週平均2600人予想」の見出し記事が掲載されていた。そして、そんなコロナ第5波の状況下、"光を求めて"東京オリンピックの幕が上がった。

 開会式はこの1年間、開会式の内容の企画・立案、準備を巡ってその中心となる演出組織のトップが2〜3度にわたって変わるなどの混乱を呈した。(野村萬斎・MIKIKOの辞任➡佐々木宏[電通]・小山田圭吾・小林賢太郎の辞任)  この結果、7月23日の開会式では、この演出チームの中心が誰なのかわからないという式典となった。このためか、開会式の内容は、ストリー・テーマ性がかなり欠けるものとなっていた。

 思い出せば、2008年の北京オリンピックでは、開会式・閉会式の演出の中心は張芸謀(チャン・イーモウ)監督だった。[映画監督として数々の名作を創り出した]  そして、開会式では中国という国の歴史パノラマをすごい演出で表現し優れた開会式となった。今回の東京オリンピックの開会式演出のチームには、張監督のような「世界史の中の日本、世界の現状、人類の今の課題、日本民族」などを哲学的にも理解の深い人物 を人選するべきだったのだが‥‥。(例えば、スタジオ・ジブリの宮崎駿監督など)   

 野村萬斎氏でもそのあたりはまだまだ小粒だが、佐々木宏氏などは開会式の演出リーダーとしてまったくふさわしくない人物だったことも判明した。(佐々木氏はCM作成では優れたものをいくつも作ってきたが‥。渡辺直美を豚にする演出案で批判を受け辞任。音楽担当の小山田氏は過去の障害者や同級生いじめが批判され辞任。ショー担当の小林氏はユダヤ人へのホロコースト揶揄問題での辞任。まあ、類は類を呼ぶというメンバー構成だったのか。) オリンピックでは最も重要な開会式の演出チームを、電通などに丸投げし、このような状況となったことは、日本オリンピック委員会の森前会長や武藤事務局長には重い責任はある。

 まあ、2000年代に入り、日本のテレビ放送などでは、吉本(お笑い)興業のタレントが跋扈(ばっこ)、低俗な番組が多くなる中、日本人の知的・文化的レベルはかなり低下した。その反映が、オリンピック開会式を巡る一連の問題点噴出とも言えるのかもしれない。

 そんな中、幕が開いた東京オリンピック開会式では、「①新型コロナパンデミック下のアスリートたちの葛藤やパンデミック下での死者への追悼、②日本の木の文化の披露とダンス、③選手入場、④ピクトグラムによる50競技の紹介、⑤日本文化の一つ歌舞伎とジャズ演奏の共演、⑥カラー木材による人類や大会エンブレム(市松模様)演出、⑦聖火、⑧ドローンによる市松模様と地球の演出」という構成だった。そのなかで、④と⑧はかなり優れた演出だと思った。

 ①は全体的にあまりにも暗すぎた。②は日本文化の本質は米作りにあるのだが、そこも含めて「日本ってどんな国なのか」がスケール的にも表現不足。(日本ってどんな国と聞かれれば、「森と水の豊かな国、日本」なのだが‥) この①と②の内容構成で、スケール的にも内容的にも、残念ながら、あまり世界の人々や日本の人々に感動を起こさなかった失敗作だったように思う。

 この開会式で最も優れていたものは、ピクトグラムによる50競技の演出だった。次々とピクトグラムによる各種競技の表現は素晴らしかった。

 ピクトグラムとは、例えば男女トイレの表示とか禁煙表示の絵とかの表現方法だ。一目見て理解ができ表現(示)方法だが、この演出は「息を呑むようなパフォーマンスだ!」「言語の壁を超えたピクトグラムに世界は賛辞!」「しばらくは語り継がれるだろう」と、世界的にも評価がとても高かった。このピクトグラムのパントマイムを演じたのは、パントマイムデュオ「GABEZ(ガベジ)」ら。

 ドローンによるエンブレムや地球の表現も素晴らしかった。このドローン演出とピクトグラムに「退屈だった開会式が救われた」とも言われている。

 閉会式の最終ランナーと日本選手団の旗手は、大坂なおみ選手(テニス)と八村塁(男子バスケ)・須崎優衣(レスリング)だったが、なぜこの3人だったのか、あまりピンとこなかった。日本人でも須崎さんの名前を知っている人はほとんどいなかったのではないだろうか。また、大阪選手や八村選手の人選は、あまりにも人種融合を意識しすぎたような感がある。

 この日の開会式、日本でのテレビ平均視聴率は56.4%にものぼった。1964年の東京オリンピック開会式の視聴率は61.2%だったので、それに迫る視聴率だった。(あの素晴らしかった2008年北京オリンピック開会式視聴率は37.3%[日本との時差は1時間]、前回のリオ・オリンピック開会式視聴率は23.6%だった。) 今年の夏の東京オリンピック開催の是非に日本国民の間で賛否両論が分かれていたので、この高視聴率は以外でもあった。

 各国の海外メディアは、この開会式について、「非常に控えめなセレモニー」「今までとまったく異なるオリンピックが、見たこともないような開会式で始まった」「カラフルではあるが、妙に落ち着いたセレモニーが独特なパンデミックの中でのオリンピックにふさわしい雰囲気を醸し出した」などと報道されていた。国立競技場周辺でのオリンピックに反対するデモに言及する海外メディアも多く、特に韓国では「開会式当日までも、日本国民に愛されなかった大会」などと伝えていた。

 これらの一連のデモでは、「菅内閣打倒、オリンピック中止」と、政治活動を訴える参加者も多く、極左暴力集団「中核派」などの活動家が逮捕されていた。これらのデモは海外メディアにとってかっこうの記事になる。日本国及び日本人にとっては世界に恥をさらされることになっているのだが‥‥。デモ参加者にはこれらの意識はまったくないのだろうか…。

 

 

 

 

 

 

 

 


長ーい梅雨明けて、猛烈な真夏日来る―日・中・べ国際交流会、留学生たちの感想より

2021-07-21 14:35:01 | 滞在記

 7月17日(土)、梅雨明けとなった京都。梅雨明けを最もよく察知できる生き物はセミではないだろうか。京都の自宅近くではこの日の朝からセミの声が木々から聞こえ始めた。翌日18日の朝、セミの声は一段と数を増し始めた。
 木々に羽化したあとの蝉(セミ)の抜け殻がたくさんついている。木々の下には蝉が暮らしていた地中の穴がたくさんある。羽化して鳴き始める蝉の寿命は1週間から2週間と言われている。地中に数年間暮らし、地中から出てきて羽化後のなんと短い命。この1~2週間の間に、蝉は子孫を残すために木々に卵を産み付ける。この卵は樹木の中で1年間を過ごし、そして地中に潜る。蝉の種類によって、その地中で生きる年月は違うようだ。ツクツクボウシで1~2年、アブラゼミで3~4年、クマゼミで4〜5年と言われている。

 まあ、それにしても蝉の一生とは「子孫を残すため」の一生と言える。そう思うと、あの蝉のうるさい鳴き声も、感じ方が少し違ってもくる。「たった1~2週間の生の歓喜の声」にも聞こえてくる。

 梅雨明けの翌々日の19日(月)、孫の世話に行った。この日は猛烈な暑さの一日だった。京都市内では午後4時30分の気温が体温よりはるかに高い37.2度を記録。今年の全国の気温では3番目に高い気温だった。夕方の4時半すぎに、娘の家の近くの真如堂や光明寺に孫の寛太をベビーカーに乗せて、日陰、日陰を通りながらの散歩。光明寺に行くと、涼しい風が少し吹き始めた。菩提樹の木にも蝉の抜け殻があった。

 7月9日にあった「日本・中国・ベトナム国際交流会」について、留学生たちの感想が届けられたので、以下に紹介したい。

 

■ファン・フン・アン(ベトナム)上記写真左から①枚目の写真の左側の人

 7月9日鴨沂高等学校文化交流会の感想について以下に述べます。まず、学生のみんなが選んだテーマについてです。飲食文化や年中行事や京都の観光地とお祭りや昔の遊びなどといった日本の文化の幅広いテーマがとり上げられましたので、外国人の私にとっては、それは日本文化の代表的なことを知る機会で、役に立つ情報です。

 紹介された内容の中に、私が気になったのはいくつかがあります。和食テーマでは「うまみ」が取り上げられました。「うまみ」といえば、日本のうまみとベトナムのうまみはかなり違います。日本のうまみは昆布や魚から作られるのに対して、ベトナムのうまみは主に豚肉から引き出されます。私は昔の遊びのテーマが一番好きです。お手玉を持ってきて、実際にやってみせてくれて、面白かったです。ベトナムでもお手玉のような遊びがありますが、お手玉の代わりに、小石を使って遊びます。

 皆はやさしい日本語で説明してくれましたので、わかりやすかったです。しかし、時間が少しきついためか、スライドに移るのが少し早すぎて、私が読み過ごしてしまったところはときどきあります。

 日本文化だけでなく、中国文化にも少し触れられました。チャイナドレスは中国の伝統衣装ではないこと新しい情報を得ました。中国人に日常よく使われているアプリもわかってきた。そのうち、「タオバオ」はベトナム人にもとても人気があります。品類が多くて、値段がすごく安いですから、わざわざ中国からものを注文してきたベトナム人も多くいるそうです。

 以上のことは、交流会で印象に残っている内容です。オンライン形式の交流会で、やりとりは少し不便だったようですが、先生方と学生さんはとても頑張って、交流会を準備してくれたこと、とても感動しました。

■グエン・レ・イエン・ニ(ベトナム)上記写真左から①枚目の写真の右側の人

 この交流会を通じて、たくさんの京都について知らないことを身につけました。最も印象に残っているのは京都の紹介してくれた3つの観光スポットです。なぜかというと、京都といえば、神社のイメージを浮かぶ人が多いはずですが、キリシタンとしての私は神社ってどこも同じではないかと思っているからです。しかし、みなさんが教えてくれたおかげで、それぞれの神社は紛れもなく独特な意味をもっているようです。本来は別々にあった神殿と礼堂を一つ屋根で覆った日本でただ一つしかない特徴のある八坂神社を気になっています。残念ですが何回京都に行ってもこれを見逃してしまいました。なので、今度はぜひ八坂神社に行ってみて、皆さんに教えてもらった様々な特徴を目の前に試みて、自分の知識になれるように楽しく体験します。もしよかったら、このような交流会に参加したいです。                

■許艦文(中国貴州省) 

 鴨沂高校の学生さんに中国の文化を紹介することができて、とても光栄でうれしかったです。もっと多くの日本人に本当の中国はどんな様子なのか紹介したいと思います。鴨沂高校の学生さんも京都や日本の伝統文化を紹介してくれて、とても面白く、たくさんのことを知りました。

 両国の民間交流は、両国の関係にとって非常に重要だと思います。中日友好の一環として、私は光栄です。もし将来はこのような交流の機会あれば、私も積極的に参加したいと思います。

■向穎(中国四川省)

 コロナの影響を受けて、安全を保障するために、私たちは京都に行って、鴨沂高等学校のみなさんと対面交流をすることができません。しかし、インターネットの交流会ができたのは大変幸運だと思います。

 まず、高校のみなさんが鴨沂高等学校の紹介をしてくれました。百年以上の歴史をもつ鴨沂高等学校は今も古代の京都の歴史建築を残して、とてもいい歴史的雰囲気を持っている学校だと思います。もし機会があれば、本当に京都に行って、実際に京都ならではの歴史の雰囲気を感じたいと思います。

 次は、私たちが中国の伝統衣装である漢服文化を紹介して、中国の美食を紹介して、中国の今の生活を紹介しました。そして、ベトナムのみなさんと日本のみなさんが、ベトナムの文化と日本の代表的な文化を紹介してくれました。例えばベトナムの祭り、日本の和食、菓子、日本の伝統遊びなどです。たくさん勉強になっただけでなく、とても楽しかったです。これは国際交流の魅力だろう。みんな違う国から来たとしても、各自の国の面白い文化を一緒にシェアすることができます。これは自分がインターネットで資料を調べることよりもっと深刻な文化体験です。

■黄暁婧(中国福建省)

 コロナの原因で、交流会は遠隔になりましたが、私もそのおかげで参加できるようになりました。嬉しかったです。約3週間の発表準備はとても得難い機会として、私にたくさんの勉強をさせました。

 鴨沂高校の学生達からも、日本について、伝統的な玩具とか建築物とか いままで知らなかったことをたくさん学びました。生徒達の熱情を感じられ、心までポカポカになってしまいました!めちゃめちゃ楽しかったです!

 

 

 

 

 

 

 

 


コロナ禍下、留学生たちにとって初めての日帰り旅行—丹波篠山、日本の原風景に案内する

2021-07-20 07:27:12 | 滞在記

 5月16日から続いていた近畿地方の長ーい梅雨がようやくあけた7月17日(土)、神戸の女子大学に交換留学生としてきている閩江大学の3回生たち3人を丹波篠山に案内した。彼女たちが憧れる京都を案内したいところだが、学生たちの一人の父親が、コロナ感染を危惧していて、兵庫県内からの移動を厳禁しているため、「じゃあ、兵庫県内で高速道路を使えば比較的に神戸からも近く、日本の田舎の風景もたくさん見られる丹波篠山に行こう」ということになった。

 彼女たちはこの8月20日に日本を離れ中国に帰国する予定だ。本来は昨年の9月下旬に来日予定だったが、日本でのコロナ感染問題で留学生たちは来日できず、ようやく11月下旬に来日、2週間の隔離(大学の寮での)を経て、大学の授業に参加できた。その後、日本では相次ぐ緊急事態宣言や蔓延防止措置の連続で、なかなか他府県へは行くことができなかった。唯一、この7カ月間で行ったのは兵庫県の姫路。この時、姫路城天守閣は改修作業中で、中には入れず、外から天守閣を見て、早々に神戸に戻ったとのこと。せっかく日本に留学したのに、ほとんどどこにも行けないのは、ちょっと かわいそうだ‥。

 いつもは、大学近くの女子寮と大学の往復。コロナ禍下で、大学の授業も70%はオンラインだったとのこと。2月~4月上旬までの2カ月間余りの春休み期間中も、ほぼ寮の部屋という生活だったようだ。

 17日の前日に、丹波篠山のどこに行こうかとネットで検索していたら、「日本の原風景がよく残る"集落丸山"」のことが書かれてあった。ちょうどレストランもあるようなので、ここでの昼食を予約した。そして、京都から神戸の寮、神戸の寮から丹波篠山までの、目まぐるしく変化する高速道路を利用しての道筋を頭に入れて(私の車にカーナビはなし)17日を迎えた。

 朝の7時過ぎに京都の自宅を出発、途中で道に迷いながらもなんとか寮に9時半頃に着いた。それからなんとか、変化しまくる各高速道路を乗り換えながら丹波篠山市の中心地の丹波篠山城に11時ころに着いた。丹波篠山市の市街地の周辺は、緑の濃い水田と丹波黒豆の畑が延々と一面に広がっていた。留学生たちはこの光景に感動していた。

 丹波篠山市の中心地から車で20分ほどの谷川筋の奥にところに丸山集落はあった。集落の軒数は12軒と少ないが、そのほとんどが茅葺(かやぶき)屋根の形をした伝統的な田舎の民家だった。民家の周囲は谷地田の水田だった。

 昔、日本のどこにでもあった懐かしい「日本の原風景」がここには残されていた。集落内を流れる黒岡川の小さな流れ。この奥には川の水源となる保沢池があるようだ。

 この集落にはフランス料理のレストランと蕎麦(そば)料理店の2軒がある。留学生の一人が蕎麦アレルギーがあるため、フランス料理店を予約していた。2時間ほどをかけてコース料理が出された。ここの集落で、のんびりと3時間あまりを過ごすことになった。ここ集落 丸山は次のようなところだった。

 —「集落 丸山」―兵庫県篠山市「集落丸山」に見る農泊の成功法則より―消滅寸前の集落を救った古民家宿泊ビジネス(以下、その記事より)

 「消滅集落」という言葉をご存じだろうか?高齢化や転居などで住民がゼロになってしまった集落のことを指す。過疎化に悩む地方では、農村や漁村の限界集落化が猛スピードで進んでいる。こうした限界集落では、里山の景観は放置され、農地の維持などは望むべくもない。そんな窮状を救うものとして「農泊」が注目されている。ここは約10年前から「農泊」を手がけ、農村再生を見事に成功させた兵庫県篠山市の「古民家の宿 集落丸山」の成功とその奥にあるものを見て行く。新緑の丸山集落。里山の中に古民家が絶妙のバランスで配置されている。日本の原風景とも言える美しさだ。

 以上が、この記事の冒頭の文章だった。

 今からおよそ250年前の江戸時代、丹波篠山の城下町に流れ込む黒岡川の上流域にある山間地での「水守り」として移り住んだ人々が作った丸山集落は、できた当時から12軒だけの小さくてのんびりした 集落のままだ。何かが特別にあるわけでもない集落だが、「なつかしさの中にも 何か新しさも感じる 日本の暮らし」がこの集落にはあった。

 1960年代の昭和後期になってから、集落の外に働きに出る人が増え、2009年には、集落内12軒のうち7軒が空き家となる。人が暮らす家は5軒に減少した。この丸山集落は、日本の原風景がのこされた地区として、ちょっとは知られている集落ではあったようだ。(「知る人ぞ知る」程度の)  いわゆる「限界集落」から、「消滅集落」へとなりそうな集落だった。

 それから10年が経過したした今、ここは農村再生の成功例として注目される集落へと変化してきた。その再生のポイントが「農泊」であり、集落内に新しくできた「レストランと蕎麦店」、そして「水田の再生」(田植えや収穫時には、集落外の人たちが農作業をする)だった。再生組織としては、「集落外のNPO法人」と「集落の人全員」との共同プロジェクトだった。

 集落には今、空き家だった古民家を改修した宿が二軒ある。食事は宿では提供せず、レストランか蕎麦店で食べるというシステムだ。宿の維持管理や接客は、集落の人たちがあたる。最近では海外からの宿泊客も泊まるようになってきているようだ。年間に800人(レストランや蕎麦店だけの利用客+宿泊客)の人がこの集落を訪れる。この集落の光景だけを見に訪れる人を含めれば、何千人もの人になるのかと思う。

 梅雨明けの晴天のこの日の気温は35度ちかく、午後2時半に丸山集落を出発し、凉を求めに篠見四十八滝に向かった。滝までの道々に田園風景が広がる。この滝群は丹波篠山市街から北東方向にあるようだった。この春先には、このあたりの山城(「細工所城」「籾井城」「八上城」など)に登っていたが、この篠見四十八滝に来るのは初めてだった。麓から山道を登りいくつかの滝を見る。留学生たちは歓声をあげていた。(※この篠見の滝はそれほど有名ではない。かっては修験者たちの修行の滝群だった。)

 丹波篠山市街に戻り、大正ロマン館や篠山城などを巡る。篠山城天守台から見る市街と丹波篠山盆地の景色が美しい。天守台下の堀越しには赤い瓦屋根の篠山小学校の木造校舎。丹波富士とも呼ばれる高城山には、八上城の山城がある。午後5時に丹波篠山市街を出発し一路、来た道を神戸に向かう。カーナビがないので、道を間違えないよう緊張しながら1時間と少しで、六甲山トンネルに至り、神戸市街に到着。

 留学生がこの8カ月間暮らしている女子大学の寮に着く。さあ、これからの京都までの帰り道も、カーナビなし、ほぼ"感"で、名神高速道路までたどり着く。京都府の名神山崎ICに着くと夕闇が迫っていた。自宅近くの石清水八幡宮一の宮の朱門の屋根の上の空が美しかった。「茜空(あかねぞら)」を久しぶりに見た。午後8時自宅に戻れた。カーナビなしでの複雑な経路の連続した運転からのストレスのためか、手の甲にストレス性湿疹が激しくできていた。

 7月7日、鴨沂高校との国際交流会にオンライン参加をしていたベトナムからの留学生たち2人は、7月14日に帰国予定だったが、ベトナムでのコロナ感染拡大を受けて、在日ベトナム大使館から「帰国時期を遅らせるように」との連絡があり、8月上旬に帰国することとなったようだ。8月20日に帰国予定の中国人留学生たちは、中国の空港到着後に2週間の隔離ホテル暮らしを経て、その後、閩江大学の寮にて隔離1週間。そして、9月上旬からの大学前期授業を受けることとなる。このため、彼女たちの故郷である四川省や貴州省に戻ることはできない。12月には、中国の大学の大学院試験を3人とも受けるため、故郷に久しぶりに帰れるのは来年の1月となるようだ。

 広島大学へ交換留学生として昨年12月から来日している閩江大学の学生たちとは、コロナ禍下、まだ会うことができずのままだ。

 

 

 

 

 

 


滋賀の"ラピュタ"とも呼ばれる土倉鉱山跡—付近の山々にはブナやトチノキの巨木林群が

2021-07-16 10:42:20 | 滞在記

 7月12日(月)、京都への帰路、滋賀のラピュタとも呼ばれる土倉鉱山跡地に立ち寄ってみることにした。湖北のJR木ノ本駅付近から杉野川沿いの国道303号線をかなり走ると八草トンネルがあり、そこを抜けると岐阜県に入る。そのトンネル手前(滋賀県側)の近くの沢に土倉鉱山跡地があるようだった。

 この日、北国街道の木ノ本"東野"集落付近からの間道(近道)を通り、国道303号線に合流した。杉野川沿いのいくつかの集落を通過して、ようやく杉本という集落に着いた。東野からここまで約20kmほどあった。(JR木ノ本駅からだと約15kmほどかと思う)  この道々は初めて行くところだった。

 茅葺屋根の民家も残る杉本集落。奥地のあるためか、この季節にはまだアジサイも美しい。そして合歓木の花もたくさん見えた。古民家の旅館もあった。杉本集落を過ぎると「杉野小中学校」が見えた。さらに杉野川上流に行くと金居原という集落に入った。金居原は「合歓の里」とも呼ばれている。

 この金居集落からほど近いところに土倉鉱山跡があるようだ。国道303号線を金居集落から八草トンネルに向かう途中に細い脇道があり、そこから土倉鉱山跡地に行けるようだ。その脇道を見逃さないように車を走らせる。「あっ、この脇道かもしれない!」と気づく。脇道に入ると「土倉鉱山跡まで1.8km」と書かれた小さな木の看板が。ここから土倉谷の渓流沿いの林道を進む。また「⇦土倉鉱山跡地350m」の小さな目印板があった。そこから道はさらに狭くなる。とすると、すぐに、自然と同化している古代遺跡を思わせる建築物がそびえ立っていた。土倉鉱山第三(三代目)選鉱場跡の建物だった。

 草木に覆われている選鉱場の建物跡が山の斜面に残り、木々に包まれている。その姿がアニメの名作「天空の城ラピュタ」の舞台を思わせると、インターネット上では「滋賀のラピュタ」とも呼ばれている。

 立ち入り禁止の貼り紙とともに、この選鉱場のことが次のように書かれていた。「ここに遺されているのは3代目の選鉱場。1942年(昭和17)から閉山の1965年(昭和40)まで稼働しました。ここから2km先の奥土倉には先代の選鉱場(2代目)も残っています。土倉鉱山は最盛期には従業員366人とその家族など約1000人の人がここに暮らしていました」と。

 外から見ても、その廃墟感というか、ラピュタ感がみてとれる。斜面に階段状に何段にもつくられている建築物に上がることはできないが、少し整備して最上段まで上がれるようにしたら、さぞかし素晴らしいスポットになるだろうと思われる。最近では、土日になると、漫画やアニメのコスプレを着た若い人たち20~30人ほどが毎週ここを訪れてくるようだ。この6月には、滋賀県の三日月知事が「地域活性化のための調査」としてここを訪れた。

 第三選鉱場跡地を少し行くと、入り口に柵をされたトンネルのようなものがあった。このトンネル内は水が流れて川のようになっていたが、水底に線路が残されている。かっては、ここをトロッコが走り、坑道から鉱石を選鉱場まで運んでいたようだ。

 土倉鉱山(銅鉱)は明治末期に発見され、1910年(明治43)から採掘が始まった。最盛期の1955~58年のころには、ここの鉱山と近くの金居原集落には180世帯、1000人が暮らしていたという。土倉地区には映画館や銭湯の他、スーパーマーケットのような店もあったようだ。また、鉱山事務所や独身寮もあった。付近は大豪雪地帯(4mほどの積雪)のため、冬季間は杉本にある小学校まで通えなくなるので、冬季分校もあった。また、麓の杉本集落には、診療所や鉱山幹部が住む一戸建て社宅もあったという。

 1965年(昭和40)に閉山となった。その閉山により土倉地区に人が住まなくなってから56年が経った今、かってここに1000人あまりが暮らしていた町の痕跡は何も見当たらなかった。選鉱場も草木に覆われ、自然に返ろうとしているかのようだった。

 ここ土倉鉱山があったあたりは1000m級の山々に囲まれる。第二選鉱場や第一選鉱場跡に至る山道の方向(北方向)を見ると、西には横山岳(1131m)、東には土倉岳(1008m)、そして北には三国岳(1209m)が見える。三国岳は、滋賀県・福井県・岐阜県の三県にまたがる高山だ。近くには三周ケ岳(1292m)があり、この二つの高山の間の稜線には夜叉が池がある。ここは私の故郷・福井県南越前町の今庄地区になる。

 この横山岳、土倉岳、そして三国岳にかけての豪雪地帯の山々はトチノキやブナ、ミズナラなどの巨木群がある地域として近年注目もされている。土倉鉱山のある杉野川源流域の「土倉の森」と呼ばれるところでは、すでに200本あまりのトチノキの巨木群が見つけられている。こうした自然環境に目を向け、長浜市(※土倉地区のある木ノ本町を含む)の「長浜森林マッチングセンター」や「金居原の歴史と森を守る会」、「滋賀県自然環境保護課」などがこの地区の調査やエコツアー・フィルドワークなどを一般人向けにも最近実施し始めた。県では2023年中に伐採などを規制する自然環境保全地区指定構想をもつ。

 この天然林巨木群と土倉鉱山跡地という地域、今回は一人ではとても行けなかったが、フィールドツアーの計画があれば、トチノキやブナの巨木群落をぜひ見に行きたいと思う。この5月下旬から6月上旬、3日間をかけて「土倉の森 秘境トレッキング 巨木と鉱山2021」が、長浜森林マッチングセンターなどの主催で行われていた。次回はいつになるのだろうか。