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彦四郎の中国生活

中国滞在記

もう桐の花や藤の花が満開となっている3月下旬の福建省福州

2024-03-31 20:56:55 | 滞在記

 3月26日(火)の早朝6時20分頃のバス停。これから私はバスで大学に向かうところ。バス停にはヘルメットを被った数人の女性たちの姿も。彼女たちは地方から都市部に働きに来ている農民工たち。仲間たちと工事現場に向かうところだが、故郷の家に帰るのは春節時期など、年に数回程度のようだ。同じ地方を故郷にもつ人たちが共同してアパートなどを借り生活している。

 バスを乗り継いで7時30分頃に大学に着き、バス停近くでレンタル自転車に乗り研究室のある建物に向かう。途中、大学構内の鐘楼が見える水辺には、レンゲの花が咲き、柳の若葉が青めいている。7時40分頃に研究室に入り一服する。

 8時頃には研究室を出て、午前中の授業を行う教学楼群に向かう。途中、この季節、卯の花(うのはな)のような白い花が咲いている。匂いも日本で咲く卯の花と同じ。レンゲも満開で大学構内の野原を彩る。藤の花も開花し始めた。

 8時15分頃、教学楼群の建物に着く。バウヒニア(別名:香港蘭)という樹木の花が咲いている。この樹木の花は、香港のシンボルの花で、香港旗にも描かれている。遠目から見たら、桜の花が咲いているような感じもする。

 授業の休み時間、可愛らしいマスクをしている学生の写真を撮る。キティちゃんのプリントが入ったマスクだ。日本発のキャラクターとしては、おそらく世界的には最も愛されているキャラクターかと思われる。(1974年にKKサンリオによって誕生した。今年は50周年となる。中国では、ドラえもんとウルトラマンも長く愛され続けている。)

 午後12時30分頃、第一食堂に行き昼食を摂る。ごはんと4品のおかずで12元(240円)ほどの学食。

 食事後、1時頃に食堂前からレンタル自転車に乗って大学正門(南門)に向かう。正門近くの大学のホテル「閩院酒店」のそばにこの季節、黄色い花を咲かせる木々がある。

 正門近くのバス停でバス待ち。おばさんが女竹(メダケ)の筍(たけのこ)とワラビを持ちバス待ちをしていた。聞くと、この近くの山で採ってきたそうだ。

 そして、このバス停からバスを乗り継いで1時間30分ほどをかけてアパート近くのバス停に3時15分頃に降りる。アパートの部屋に戻る途中、朝食のパンや牛乳などの、日々暮らしに必要な食品などの買い物をしながら帰宅すると午後4時前になる。(坐骨神経痛や閉塞性血管症による足や腰の痛みもあるので、途中何度も腰かけて休み休みしながらアパートに到着する。) アパートに着くと、一日の疲れ体をまずは休める。けっこう疲れきるが、昨年の9月から11月の3か月間の足腰の痛みと比べれば、かなり痛みの発症の度合いが軽減されているのが幸いだ。

 今学期(後期)は、水曜日の授業担当はない。週の真ん中に一日休みがあるのでとてもたすかる。その水曜日の午前中はほぼ授業準備となるが‥。3月27日(水)の午後4時頃、アパートから1kmほどの距離にある学生街に出かけた。3人の孫たちの土産も探す。

 この学生街の周辺は、昔から「文教地区」となっていて、福建師範大学の大学や専門職大学、専門学校、高校などがとても多い。たくさんの店が立ち並ぶ学生街には、特に週末となると、10代・20代の若い人たちで賑わう。

 その学生街の一角に、1本の桐(きり)の木があり、この季節に花が満開になっていた。日本の桐の花は5月中旬ころから紫っぽい花が咲く。ここ福州の桐の花は白い花が咲く。

※3月下旬になり、気温は(最低気温15度前後、最高気温27度前後)春らしくなってきた。でも、亜熱帯地方の福州はこの季節には、最高気温が35度を超す真夏のような気温の日も週に1度くらいある。4月になると30度を超す日々が多くもなり、5月上旬からは日々30度以上の完全な半年間にわたる夏の季節となる。

 


日本、時効寸前の15年間余りを逃亡した福田和子の事件—中国と日本それぞれ、二人の女性が世間の大きな関心ごとに

2024-03-31 08:41:30 | 滞在記

 昨年2023年12月に、全国指名手配・逃亡20余年にわたった労栄枝の死刑執行が中国では大きなニュースとなって報道された。この報道を視聴して改めて思ったのが、日本で15年余り逃亡生活を送り、時効成立まで21日と迫った福田和子の逮捕だった。ちょうど昨年、2023年1月に日本テレビで「福田和子の逃亡劇完全再現—獄中からの手紙—衝撃の真相」と題された実録再現ドラマを視聴もしていたので、労栄枝と福田和子という、「長年にわたる逃亡者」としての中国と日本の二人の女性のことを考えてしまった。

 美容整形手術で顔を変え(「7つの顔を持つ女」と形容もされ)、何度も名前を変え顔も変化させ、時効寸前まで15年余り逃げ続け、日本中が大騒ぎした福田和子。1982年8月、彼女は、当時クラブの同僚だったNO1ホステスを殺害し、山中に埋めた。愛媛県松山市の勤めていたクラブでは、和子もまた人気のホステスだった。深夜まで働き、始発電車で大洲市の自宅に帰っていた。家には夫と4人の子供がいた。(そのうち前夫との子が2人)

 しかし、彼女には愛人がおり、その愛人に入れ込み、貢ぐためか借金を重ねるように‥。松山市内にアパートも借りた。そして、その借金は200万円になっていた。クラブのNO1ホステスが贅沢な暮らしをしていたことを知っていた和子は、その同僚ホステスを殺害。預金通帳や印鑑、現金を持ち出した。夫に電話をして、殺害場所のアパートに来るように連絡し、到着した夫に殺害を告白した。親戚の男にも連絡し(殺害のことは言わず)、殺害したホステスの家財道具を和子のアパートに運ぶよう依頼した。和子と夫は、松山市中心部から18km離れた山中に遺体を埋めた。

 殺されたホステスの父親や恋人から捜索願いが出され事件性が警察に疑われ始めた。家財道具を運んだ親戚の男や夫が事情聴取され事件が発覚。夫は「和子とともに死体を山の中に埋めた」と自供。警察は和子を全国指名手配として、行方を追うこととなった。四国の松山から逃亡した和子は、しばらく大阪に潜伏し、石川県の金沢に移動、東京で整形手術を受け、金沢市内のスナックでホステスとして働き始めていた。

 逃亡を始めてからおよそ1年。金沢のスナックに客としてきた和菓子屋の若旦那と親しい関係となった。若旦那は妻と離婚し和子と暮らすように。そして、和菓子店の内妻として手伝いはじめ、四国に暮らす長男を(親戚の子と偽って)和菓子屋に見習いとして勤めさせることともなった。しかし、和菓子屋の家族から警察に通報があり、警察は和菓子屋に。警察の姿に気付いた和子は、自転車で間一髪で逃走、5年半潜伏した石川県を離れた。(※この和菓子屋は、金沢市の南方の能美市根上町にあった「松村松栄堂」。プロ野球選手の松井秀喜も子供の頃からこの店の常連だった(近所に住んでいた)ので、福田和子のことを、「当時、お店にいたきれいな人だった」と話している。この店は2018年に閉店となった。)

 その後、名古屋のホテル清掃員として働いた。しかし、福田和子のニュースは頻繁に流れたため、危険を察知すると場所を移すことに。1988年から1996年の8年間で、北海道から山口県まで、名前を変え、職を変え、全国15箇所以上を転々とすることとなった。

 全国を逃亡している間に、愛媛県のかっての友人に電話もかけている。その際に、「あんた、私がつかまるんがおもしろいんやろ」「危ない危ない」などの肉声が録音されてもいた。また、和子の長男に恋人ができて、京都市内で長男とその恋人に会ったりもしている。

 時効まで1年となった頃、福田和子は福井市に現れた。その頃、時効まで1年となったことで、愛媛県警は100万円の懸賞金をかけ、マスコミもこぞって福田和子を取り上げた。(※日本の犯罪捜査史上、初めての懸賞金が設けられた。懸賞金額はその後、整形手術をした医院から400万円の贈呈があり、500万円になった。)

■公訴時効—当時、「➀死刑に当たる罪(※25年)、②無期懲役に当たる罪(※15年)」となっていた。3人以上の殺害の場合は➀となる可能性が高い。2010年に公訴時効が改訂され、「➀は時効なし」に、「➁は30年」に、そして、「③長期20年の懲役に当たる罪は(※時効20年)」となっている。

 JR福井駅から近いビジネスホテルに長期宿泊することになった和子。駅から200mほどのおでん屋に頻繁に客として(中村麗子という名)通うようになっていた。店では、人懐っこくて明るく、カラオケで店内を盛り上げる女性と思われていたようだ。時効成立まで1か月となったある日、テレビで福田和子の生声(肉声)なども報道されると、おでん屋の女将や常連客は、「麗子ちゃんそっくりや」と警察に通報。警察は女将に、瓶ビールとカラオケの時に使うマスカラから指紋を採取してほしいと依頼。しかし、福田和子は肉声などの報道が多くなってからは店に姿を見せなくなっていた。

 時効まであと23日となった日、街中でおでん屋の女将は和子と偶然に出会った。「久しぶりにお店に来てほしい」と女将が伝えると、翌日、和子は店を訪れた。そこで、ビール瓶、グラス、マスカラなどに指紋がついた。それをこっそりと警察に届けた。警察は急ぎ指紋照合、指紋が一致したため、時効まであと21日に迫った日、再び店を和子が訪れているとの女将からの電話を受け、警察が店に向かった。

 店を出た福田和子を警察が取り囲み連行。14年と344日の逃亡劇はこうして幕が下りた。1997年7月のことだった。(※このおでん屋は2019年に閉店となった。女将は懸賞金の500万円を全額、慈善団体に寄付している。)

 その後、愛媛県警へと身柄を移送され、2003年11月に無期懲役が確定した。収監されていた和歌山の刑務所には、長男がたびたび面会に訪れることとなった。(母のことをとても大切に思っていたようだ。)2005年2月に収監先の刑務所で倒れ、和歌山市内の病院に搬送され緊急手術を受けたが、意識は戻らず、3月10日に脳梗塞で死亡したと発表された。享年57歳だった。1948年1月生まれの彼女は、もし生きていれば、現在75歳となっているはずだった。

■福田和子の実録ドラマは、いろいろなドラマとして放送されている。例えば、2023年1月には、日本テレビで、「仰天ニュース2時間スペシャル 福田和子の逃亡劇完全再現」で放送された。(主演:和田瑠子)

 2016年3月にはテレビ朝日で、「実録ドラマシリーズ 女の犯罪ミステリー福田和子 整形逃亡15年」(寺島しのぶ主演、和菓子屋の若旦那・杉本哲太、長男・中村倫也、夫・遠藤賢一など)。2002年には、映画ともなった。(主演:大竹しのぶ)。また、「顔」というタイトルの映画(主演:藤山直美)もあった。書籍としては、『悪女の涙』—福田和子の逃亡十五年(佐木隆三著)などがある。

■日本の逃亡者・福田和子が逮捕に至ったきっかけは、時効1年前となった時期からテレビで多くの報道がされたことからだった。中国の逃亡者・労栄枝の逮捕のきっかけは監視カメラだった。中国においては、ものすごく多かった誘拐事件などが、監視カメラの増加によって激減することとなってもいる。

■日本の監視カメラは現在、約500万台。1968年頃から銀行のATMの監視(リアルタイム映像のみで、録画機能はなかった。)導入が始まった。1980年代に普及が進み始め、特に会社や自宅などの防犯カメラとしての普及が多くなり始めた。(アコム社などの)  世界各国の監視カメラ設置台数の上位5か国は、➀中国・約3億台、②アメリカ、③ロシア、④ドイツ、⑤イギリス。日本は次いでの6位となっている。(中国のような顔認証システムの超高性能監視カメラ社会システムではないが‥)

 2019年における犯罪人検挙において、逮捕の決め手となったのは、最も多いのが「職務質問」(16.5%)、次いで「監視カメラ」(10.2%)。日本でも年々監視カメラの設置は増加しているが、「あなたは、防犯カメラ(監視カメラ)をもっと設置した方が良いと思いますか」というアンケートでは、59.2%が「増やした方が良い」という結果だった。

■中国では、スマホ携帯電話(ネット)を持つと、位置情報や個人情報が携帯運営会社に筒抜けとなることとなる。そして、携帯電話通信会社が把握している情報は、必要(要望)に応じて国家公安とつながることとなる可能性は大きい。その中国のネット人口は、2007年には1.37億人(普及率10%)だったが、2023年には10.79億人(普及率76.4%)となっている。

■2013年9月に初めて中国で暮らし始めて驚いたことの一つに、テレビで、刑務所に収監されている囚人の牢屋の中で、または、面会所でのようすが報道されているものだつた。(日本ではまず、このような報道はないが‥) その報道内容の多くは、囚人が「罪を犯したことを後悔している」ことを話す内容だ。このような映像を国民に視聴させることにより、犯罪防止の一つの取り組みと位置づけているようだ。

 

 

 

 

 


AI監視カメラ大国の現代中国で❷—20年間に及ぶ全国指名手配下、超高性能監視カメラ「天網」にとらえられた

2024-03-24 07:10:04 | 滞在記

 1999年7月の安徽省合肥での殺人事件と法子英の逮捕、労栄枝の逃走。そして、同年12月の法子英の死刑執行。それから丸20年もの時が流れた。

 中国の警察は労栄枝の行方を追い続けたが、安徽省合肥から逃走した後の彼女の行方はようとしてつかめなかった。重慶市に逃れた労は、その後の20年間、全国各地を移り、カラオケスナックなどに勤めながら逃走を続けることとなった。1999年の時には25歳だった彼女は、30歳代を過ぎ、2019年には45歳の妖艶な雰囲気をもつ女性へとなってもいった。(上記写真は、その20年間の間に撮影されたと思われる写真。25歳のころとはその雰囲気や顔立ちは、年相応にかなり変わってはいる。)

 ■2015年頃から、中国では都市部を中心に、全国的に高性能のAI監視カメラが急速に配備されることとなる。

 2019年11月中旬、福建省厦門(アモイ)市にあるショッピングモール「厦門東百蔡塘広場」の監視カメラに映された一人に労栄枝と思われる人物を地元警察は見つけた。中国警察が誇る最新鋭のAI監視カメラが反応し、長年にわたる全国指名手配の人物であることを監視カメラが知らせたのだ。その後、警察はこの厦門市内に労が潜伏している可能性が高く、再びこのショッピングモールに再来すると考えて、人員を配置して網をうつこととなった。

■厦門(アモイ)は「世界遺産」に登録された近世・近代の歴史遺産の残る観光都市でもある。私はこの都市を2回訪れたことがあった。(2014年と2016年) 厦門の近くには、他にも二か所の世界遺産がある。古代からの歴史遺産の残る泉州市、そしてもう一か所は樟州市や龍岩市に広がる「土楼群」。

 11月28日に監視カメラは再びこのショッピングモールで労の姿をとらえた。1階にある時計店で陳列された時計を見ている労を警察は捕らえた。この時、「雪莉(シュエリー)」という別名を名乗っていた女性こそ労栄枝だった。彼女は厦門市内のカラオケスナックに勤めていたことも判明した。

 「20年ぶりに労栄枝逮捕」のビックニュースは全国を駆け巡り、その後の裁判は、2020年1月から始まった「新型コロナウィルス感染爆発」「ゼロコロナ政策」という、未曽有王(みぞうおう)の苦難の中でも、彼女の裁判の行方を中国中が見守ることとなった。

 コロナ下の2021年9月、江西省南昌市の中級法院(裁判所)は、一審判決を下した。判決は求刑通りの「死刑」だった。裁判長は判決文を読み上げた。「前世紀末、被告人は法子英とともに、江西省南昌、浙江省温州、江蘇省常州、安徽省合肥で、暴力犯罪を連続して起こし、計7人を殺害した。その特別残忍な手口は、全国を震撼させた。1999年12月、法子英は、故意殺人罪、誘拐罪、銃刀法罪で死刑となったが、労栄枝は長きにわたって、名を隠し、身を潜め、逃亡生活を送っていた‥‥‥」。

 裁判長が判決文を読み終えると、労栄枝は法廷で泣き崩れて、叫び声を上げた。「判決には不服だ、不服だ!私は控訴する!」と。そして即日、控訴したのだった。「私は法子英に脅されて仕方なくやったのだ」と主張した。約1年後の2021年11月、江西省高級人民法院も、一審判決を支持する二審判決を下した。確かに法子英に惚れた弱みで、法に服従的に従った面はあるが、一連の事件は、あまりにも法と一心同体的に行ったものとの判断だった。彼女は、最高裁にあたる最高人民法院に上告した。だが、最高人民法院も、一審と二審を支持する判決を下し、彼女の死刑が確定したのだった。

 4か月ほど前の2023年12月18日午前、江西省南昌市で死刑執行がなされた。その前に、親族との面会が許された。その親族へ詫びと後悔の念の言葉が、彼女の最後の言葉となった。享年49歳だった。

 中国の思想家「老子」に「天網恢恢疎(かいかいそ)にして漏らさず」という言葉がある。天が悪人を捕らえるために張りめぐされた網の目は粗いが、悪いことを犯した人は一人も漏らさず取り逃がさない。天道は厳正であり、悪いことをすれば必ず報いがあるという意味である。中国では、この「天網恢恢にして漏らさず」の世界を実現するテクノロジーが進んでおり、「天網(てんもう)」と呼ばれている。天網とは、中国において実施されているAIを用いた顔認証テクノロジーのことである。

 顔認証速度は1秒で、全中国国民や外国人居留者を識別照合可能とし、2015年頃から都市部を中心に「天網」のAI監視カメラの設置が急速に進み、2017年には1億7000万台が設置されたと言われ、監視カメラネットワークが構築された。天網は、警察官が装着しているサングラス型のスマートグラスなどとも連動しており、警察犬やドローンやパトカーといったありとあらゆるものに装着され国民を常に監視できる体制の構築につながってきている。

■この高性能AI顔認証は、例えば眼鏡をかけていても、マスクをしていても、本人識別ができる機能がある。

 2022年時点での、「世界の監視カメラ設置台数上位都市20位」のうち、16都市は北京や上海などの中国の都市が占めている。また、人口1000人当たりの監視カメラ設置台数の世界の都市上位20位中、18の中国の都市が占めている。そして、AIネットワーク監視カメラの世界市場シェアでは、中国のトップ2社だけで約45%を占めている。

 2015年頃から急速に設置が進んだこの「天網」などの監視カメラは、2023年時点では少なくとも約3億台が設置されているとも推定されている。(中国14億人口の、5人に1台の監視カメラという数になる。)  そしてまた、2015年頃からスマホ携帯電話の普及が急速に進み、商店での買い物でもスマホアプリを使っての支払いや当たり前となり、社会生活を送るためにはあらゆる分野でスマホアプリを使わなければ生活することが困難な社会が2018年ころまでには出現した中国。(※私は、このスマホの使い方には相当苦労の連続の日々で、いわゆるスマホ難民ともなっていった。)

 この顔認証社会システムは、個人のインターネット・スマホと監視カメラの両輪が連動し、世界一のAIネットワーク社会が出現しているのが中国だ。この社会ネットワークシステムは、2020年1月以降の世界を震撼させた「新型コロナウイルス感染問題」の際にも、遺憾なく発揮されることとなった。

 2020年春節の前々日の1月23日、約1100万人都市の武漢の封鎖が決まると、人口の約半分が武漢を脱出した。脱出者追跡に威力を発揮したのが、監視システムの「天網」と「スマホの個人位置確認情報」だ。2月12日付けのニュースでは、「監視システムが武漢を離れた約500万人の足取りを特定した」と伝えられた。そして、スマホアプリの「健康コード」もまた、中国の3年間にわたる厳格な「ゼロコロナ政策」に大きな働きをした。

 「顔認証」と並んで中国の人々の行動に変化をもたらしてきたのが、「信用スコア」と呼ばれるものだ。いわゆる人間の格付けシステムで、スマホでの発信履歴、行動履歴、友人関係、購買履歴、ルール違反や犯罪歴、税金などの支払い履歴情報などをもとにポイントが決められる。ポイントが高いと優遇措置が受けられるが、低いと鉄道や航空券さえ買えなくなる。

 「社会信用システム」により、身分証や戸籍情報、宗教、民族、学歴、職歴、口座情報、納税・保険情報、顔認証を中心とした生体情報、位置・移動情報、スマホの発信履歴や交友関係、購買履歴、スマホやネットの閲覧履歴などが一連の個人データーとして国家的に管理されることにもつながる。欧米メディア・研究者によって「超監視社会の出現」とも指摘される。

■2024年現在、大きなスーパーマーケットやレストランなど、さまざまな場所で、顔認証で買い物の支払いを行う場所も増えてきている。そのため、私が時々行って買い物をする「永輝超市(スーパー)」でも、2020年ころまでは10か所ばかりあった店員が対応するレジ(スマホアプリ支払いがほぼ中心)は、最近は1~2か所に激減している。

 中国の小中高大学の構内に入る際も、2020年のコロナ問題以前は、一般人も自由に出入りできていたが、その後は登録している顔写真システムを出入り口門でパスしなければ、基本的に出入りが難しくなっている。私も大学構内の出入りは、毎回この顔認証システムを受けている。

■イギリス人の作家・ジョージ・オーウェル(1903-1950、享年46歳)が、1948年に執筆を終えて翌年の49年に刊行された書籍に『一九八四年(1984年)』がある。

 この書籍は、現在再び、世界的に注目をあびる書籍ともなっている。近未来の社会を描いた一冊だ。その近未来への洞察力には驚かされる。

 

 

 

 

 


AI監視カメラ大国の現代中国で➊—評判の才色兼備、美人教師が不良に恋してしまい—23年間の逃亡生活も

2024-03-23 08:58:39 | 滞在記

 昨年の2023年12月18日から年末にかけて、「逃亡20余年、労栄枝、死刑執行」という意味のインターネット記事が、中国の各ネット記事の一面に掲載されているのがよく見られた。彼女の死刑が執行されたのかという感慨があった。小学校の教員時代(21歳頃の写真か)に撮られたと思われる一枚の労栄枝の白黒写真を見ると、日本の女優の大原麗子にとても似ている印象がある。

 中国のインターネット検索に「360百科」というものがあり、さまざまな事項について検索できる。その「360百科」や、2023・12・24付のジャーナリスト・近藤大介氏のネット記事なども参考・引用(※印の文章)にして、「不良に恋し、"連続誘拐殺人犯"に堕ちた美人教師の23年間余りの逃亡生活、そして、ついにその逮捕」に至ったAI監視カメラ大国の現代中国の一面について書いおきたい。

 「魔女」「鬼女」、「女魔頭」だの言われ、1996年から「連続殺人犯」となり、23年間逃亡生活を過ごし、2019年についに捕まり、2023年12月に死刑執行された劳荣枝(Lao  rongzhi)。※日本語読みにすると労栄枝(ろう・えいし)。

 中国の大河・揚子江の中流域にある港町・江西省九江(きゅうこう)市。揚子江と中国最大の湖である洞庭湖の結節地点にあるこの町は、古代のいにしえから、中国の景勝の地としても漢詩によく詠われた地だ。※労栄枝は1974年12月14日、5人兄弟姉妹の末っ子としてこの町に生まれた。少女時代から学業に優れ、ピアノや絵画でも才能を発揮した。おまけに美人で聡明。その才色兼備ぶりが地元で評判ともなり、1989年に15歳で、特例として九江師範学校(3年制の大学)への入学を許可された。三年後に同学校を卒業し、18歳で九江石油分公司(当時、地元で最大の国有企業)の子供たちが通う、国営企業付属小学校の教員となった。(※近藤氏の文章)

 ※1995年、21歳のある日、彼女は、地元のホテルで行われた友人の結婚式に出席した。そこで、やはり出席者の一人だった、これまでの人生で出会ったことのないタイプの男に一目惚れしてしまう。その野性的・ワイルドな青年・法子英(Fa  ziying)※日本語読みにすると(ほう・しえい) は、当時の月給300元(約6000円)の小学校教員では考えられない7000元(約14万円)もする大型バイクに乗って、結婚式場に現れた。すでに前科何犯を重ねていたが、地元のチンピラ・不良仲間からは「法老七」と呼ばれ、一目置かれる存在だった。(法は労よりも10歳年上)  (※近藤氏の文章)

 ※この日を境に、無法者の不良チンピラと模範的な小学校教員という珍妙なカップルが生まれた。ほどなくして、彼女は小学校教員の職を辞めてしまう。そして、反対する家族のもとを離れ、法子英と同棲を始めた。以後、二人は主に、古典的な美人局(つつもたせ)による恐喝によって生計を立てるようになった。(※近藤氏の文章)

 ■上記写真、左より2枚目は南昌市のシンボルである「滕王閣(とうおうかく)」。江南三大名楼の一つとされる。私は2013年11月に南昌に行った際にこの楼を見たが、巨大な名楼閣だった。左より4枚目は江蘇省常州市、5枚目は安徽省合肥市。

 二人は、地元の九江市からはるか南にある同じ江西省の省都・南昌(なんしょう)で暮らし始めた。※労栄枝がカラオケバーなどに勤め、お人好しで金をけっこう持っていそうな客を誘惑し、自宅(出租房/賃貸アパート)に連れ込む。そして、二人がセックスに及ぼうとなったところで、法子英が突如現れ「オレの女に何をしている!」と脅し上げる。それで、客から大金を巻き上げるというやり方だ。1990年代後半、中国は未曾有の高度経済成長の始まりの時期の頃だったので、事業で成功して金持ちになる人が全国的に増えてきた時期であったのだ。(※近藤氏の文章)

 ※1996年のある日、労栄枝は、熊(シオン)という姓の「上客」の男を、自宅アパートに誘い込んだ。そこへ、法子英が現れたが、誤って凶器で熊を殺してしまった。その後、二人は示し合わせて、熊の遺体から身分証と自宅の鍵を奪い取り、身分証に記された熊の自宅に向かった。二人は熊の自宅に上がり込むと、「夫を誘拐している」と言って、熊の妻と3歳の娘を脅しつけ、家にあった現金20万元(約400万円)を奪う。そして、妻も子供もその場で殺してしまい、その他のカネ目のものも奪って家を出た。警察の追っ手から逃れるため、二人は南昌の町を離れた。(※近藤氏の文章)

 1998年、二人は江蘇省常州市に潜伏しながら暮らしていて、ターゲットにする男を物色していた。そして、ターゲットにした男をアパートに連れ込み、拘束し、男の妻に身代金を要求。7万元(約140万円)を奪って逃走した。

 ※1999年、二人は、安徽省の省都・合肥市に流れ着いた。家賃500元(約1万円)のアパートを借り、労栄枝がカラオケバーに勤め、「獲物の男」を物色し始めた。そして殷(いん)という姓の男(35歳)に狙いを定めた。労は殷を誘ってアパートに引き入れ、そこに法が現れて、殷をアパート内にある檻(おり)の中に閉じ込めた。そして殷に妻あての手紙を書かせ、30万元(約600万円)の身代金を用意させた。(※近藤氏の文章)

 ※翌朝、法子英は身代金の受け取り場所に向かった。その際、労栄枝に、「もしオレが昼の12時半までに戻らなかったら、人質を殺してこの町から逃げろ」と言い含めた。結局、殷の妻は警察に通報しており、警察は激しい銃撃戦の末に、法子英を逮捕した。(※近藤氏の文章)

 ※一方、法の帰りを待ちわびていた労は、夜10時になっても帰らないので、覚悟を決めて、檻の中の殷を殺した。そして荷物をまとめ、「私は先に行きます。愛しています」と法に書き残してアパートを出て行った。労が向かった先は、二人がいざという時に落ち合う場所に決めていた、中国内陸の大都市・重慶市だった。警察は中国全土に指名手配をかけてCCTV(中国中央電視台[中央テレビ])なども駆使して必死の捜査を行ったが、労栄枝は見つからなかった。(※近藤氏の文章)

 逮捕された法子英は、合肥市での事件の同年1999年12月、「1996年以降、計7人を殺害した罪」で死刑が執行された。

 四川省にある、特別行政都市・重慶市にまず逃れていた労栄枝は、その後、全国各地逃亡し、それから20年間が経過した。

 

 

 


「歳月静好」(平穏な歳月の日々もまた好し)—異邦人としての孤独感が同居する中国での日々での平穏な暮らし

2024-03-20 22:20:34 | 滞在記

 2月25日に中国に戻ってからもうすぐ1か月余りが過ぎようとしているが、2カ月間余りが過ぎたように思えてしまうのが、私の中国生活でもある。日本での生活の2倍以上の日数の経過を感じてしまうくらい、私の中国生活がけっこう単調からだろうとも思う。特に昨年の6月から坐骨神経痛による腰や右足・右臀部(でんぶ)の痛み、9月からの右足ふくらはぎの痛み(閉塞性動脈硬化症による)を発症してから、昨年の9月から12月までの4か月間の中国生活は、大学への通勤以外はアパートを出る機会はめっきり減った。

 中国生活の中で安らぎを得られるのアパート(8階)から目の前に見える福建師範大学倉山校区の丘のような山が、昨年9月の台風による集中豪雨による土砂崩れが起きた。その土砂崩れに対する工事が昨年の11月頃から始まり、この2月下旬に中国に久しぶりに戻ったら、崩れた山の斜面のかなりの部分が灰色のコンクリートで覆われてしまっていた。安らぎの緑の光景が、少し変わってしまったのは残念だ。

 今回中国に戻り、少し変わっていたことの一つに、洪水の水の流れのような、ほぼ皆が信号無視をしている電動バイク(自転車扱いなので免許不要)が、赤信号の場合に停車して待つ人が少し多くなっていた。(40%余りものバイクが停車しているのには驚いた。)

 3月上旬、アパートのある団地入口付近にある交差点近くに、移動本屋が店を開いていた。この11年間の中国生活で、このような移動販売本屋を見るのは3回目。けっこうたくさんの書籍が売られているが、最も多いのが日本人の作家・東野圭吾の書籍(翻訳本)。2014年頃から東野圭吾は中国でのベストセラー作家となったが、それが現在もまだ続いている。魯迅の書籍もあった。(※中国は書店というものがとても少ない。) この移動販売の本屋の書籍の値段は、重さによる秤(はかり)売りだった。

 アパート近くの道路の歩道沿い。移動式の物売りも多いが、トランプを楽しむ光景がいたるところで毎日見られる。地方から来ている農民工、団地に暮らす高齢者の人たちは、少額のお金を賭けながらトランプを楽しむ光景だ。その歩道を歩く小学4年生くらいの男の子の孫とおばあちゃん。おばあちゃんの腕をとって歩く孫。中国では、小さい時から孫の世話を祖父母が日常的にすることが多いので、日本以上に祖父母と孫の関係は大きくなっても親密だ。

 大学の研究室は、福万楼という教員用の9階建ての研究室棟にある。私の研究室は7階にあり、窓の外はユーカリの大木の並木があり、少し遠くに山が見える安らぎの部屋だった。でも、昨年の4月頃にユーカリは伐採され、建物の建築工事が始まった。工事の音が朝の7時頃から始まり、一日中騒音が絶えない。その建物も建設がすすみ、この3月中旬には7階の研究室の窓の高さを越え始めた。山も少ししか見えなくなってきてしまっている。早朝から働く農民工たち。(中国には現在、約2億9000万人余りの農民工がいるとされる。)

 午後5時頃、大学近くのバス停からバスに乗る。しばらくすると小学校近くのバス停で、小学5・6年生くらいの女の子が4人がキャッキャと声をあげながら乗車。小学校近くの店で買ったらしい菓子を廻し食いしながら、席をたびたび移動してやかましい。その菓子も中国独特の臭いのするもの。中国社会は、大人も子供も、「車内では静かに」というようなマナーはあまりないなあと思う。

 早朝の7時15分頃の大学方面に向かういつものバスの車中、小学1年生くらいの女の子が、祖母に連れられてバス停から乗車してくる。その子はいつも、一人のおじさんの隣に座る。そして二人は話し始める。祖母は別の席にいつも坐っている。おじさんと女の子は、知り合いだが親族とかそんな関係ではないようだ。でも、同じバスに乗るうちに親しく話すようになっているようだ。 

 3月10日(日)、アパート近くの福建師範大学構内にある散髪店で髪を切ってもらった。(料金は30元[600円]) 福建師範大学での教員時代から行きつけの散髪店。散髪後に、たくさんの若者が来る学生街の店々の前を通ると、「藤野造型 東京の最新流行のファッション髪型」(「造型」とは理容店の意味)と、日本語で書かれた看板の店があった。学生街を通って、近くの「上野一番」という名の「日本食」の店に久しぶりに行き、「かつ丼」を食べる。昨年の9月・10月には「福島原発の処理水問題」で、中国の日本料理店は大きな影響を受け、中国人客が遠のいた。しかし、現在は、完全に客足が戻ってきている感じがする。「上野一番」の店の界隈にも、道路わきには露店の店がたくさんあるいつもの光景。

 「上野一番」からアパートまで戻る際、少し脇道に入って1920年・30年代に建てられた建物が多く残る古街の小道を通る。今年に入って、坐骨神経痛や閉塞性動脈硬化症による痛みがかなり軽減されてきているので、かなりの長い距離でも、少し痛みが出始めたらしばらく坐って足腰を休ませることでしのげるようになってきている。古街には、福建省特産の茶の一つである「茉莉花茶(ジャスミン茶)」専門の茶店もある。「蘆忠」と書かれた建物。この建物は、1932年に建てられたもので、蒋介石とその妻である宋美麗の英語秘書をしていた呉淑貞(女士)が10年間余り暮らした建物との紹介文が書かれている。 

 3月7日(木)の午後、携帯電話に中国語でのメッセージが届いた。宅急便配達員からのメッセージ。「中国四川省からの荷物が二つ届いているので、蘭天新天地団地の18棟の宅急便集配所に受け取りに来て」という内容だった。(中国での宅急便や郵送便は、個々の自宅には届けられないで、地区の集配所に取りに行くシステムとなっている。)  さっそく大学からアパートに戻って、しばらくしてから近所の集配所に受け取りに行った。

 商品段ボールが二つあった。「中国四川省内江市名産『血橙』」と書かれたオレンジ。アパートに持ち帰り箱を開けると一箱に24個入っていた。二箱で48個もある。この荷物は中国四川省の内江市の李さんから送られてきたものだ。実は、冬休みで日本に帰国中の2月17日、閩江大学の3回生で、現在は1年間の広島大学留学をしている康さんと、彼の故郷の友達である李さん(2週間の予定で日本旅行に来ていた)と、京都の祇園で会い居酒屋やカラオケスナックに行ったことがあった。その際のお礼ということらしい。

 さっそく日本の広島にいる康さんに荷物が届いたことを連絡したら、康さんから、「李さんにも荷物が届いたことを伝えました。この血橙は、切ると血管のような血の色の脈筋が見えますが、びっくりしないでくださいと、李さんから伝言がありました」と返信が返ってきた。なるほど、試しに切ってみると血管のようなものがたくさん見える。食べてみたら、けっこう味の濃い美味しいオレンジだった。■四川省内江市は「

 「血橙(けっとう)」という名前は、かなり直接的な表現だ。日本ならさしずめ、「赤橙」とでも名前をつけるところだが、中国人は直接的な表現を好む民族性がある。例えば、日本の「歯科」は、中国では「牙科」と表現される。特に料理名などは、直接表現のオンパレードだ。

 二箱も一人暮らしには多すぎるので、いつも私の中国生活のサポートをしてくれている王さんに一箱渡すことになった。

 その王さんと彼の婚約者の甘さん、そして閩江大学の日本語学科卒業生で、現在はここ福州で働いている林さん(日本語学校勤務)と鍾さん(日系企業勤務)の5人で、3月9日(土)の夜に「黄岐海鮮」という店で乾杯の会となった。鍾さんとは4年ぶりくらいの再会だろうか。

 アパート近くの交差点を自転車にたくさんの風船(子供向けの商売品)を括り付けた男が走りすぎていく。電動バイクや自転車にキャラクターが描かれた大きな風船を運ぶようすはよく見られる光景だ。

 アパートの台所にある、「味醂(みりん)」や「めんつゆ」が残り少なくなってきたので、福州市内で日本の調味料や食材が売られている店(私が知る限りこの1軒)に3月16日(土)の午後に、アパートから1時間ほどをかけて、バスや地下鉄を利用して行くことにした。もよりの地下鉄駅で下車し、店に行く前に、地下鉄駅近くの古街の観光地「三坊七巷」に立ち寄った。土曜日とあってたくさんの人出。民族服を着た女性の姿も多い。

 日本食材の店で「味醂とめんつゆ、エスビーカレーのルーとソバ」(いずれも中国の日系企業で製造されている)を買ったが、やはりとても重い。雨も降り始めてきた。重い荷物を持ちながら地下鉄駅まで20分ほどを賭けて歩くと、足腰の痛みも少し出てきているが、雨で座って休むこともできず、疲れてしまった。地下鉄もたくさんの人が乗車していて座ることなどできないが、若い女性がすっと席を立ち座らせてくれた。「謝謝!」(中国では、このように若い人が高齢者に席を譲ってくれても、感謝表現はしない人がほとんどだ。)

 今学期(大学の後期)は、月曜日・火曜日・木曜日の午前中に担当授業があるため、この曜日は早朝の5時50分にはアパートを出て、バスを乗り継ぎ大学に通勤する。そして、午後3時半~4時頃にアパートに戻る日々だ。(他に卒業論文の指導もあるが‥)。授業のない水・金・土・日の週4日間はアパートにいることがほとんどだ。(近所の店に買い物や食事、散歩などに行くくらい。) 単調な繰り返しの中国生活の日々は、「ああ、一人はさみしいなあ」と孤独感をいつも感じる日々でもある。この4日間のアパートでの生活の半分は、大学の授業の準備に費やされるので、多少は気もまぎれるが‥。

 でも、昨年の後半に比べたら足腰の痛みの発症がかなり軽減もされてきているし、2月25日に中国に戻ってからのこの1か月余りは、インターネットがしばらくできなくなったりなどの困りごとはあったりしたが、静かな淡々とした平穏な暮らしが久しぶりに送れている。

 先日、担当している「日本文化名編選読」の授業で学生に配る資料をコピーをするためにアパートの近所にあるコピー屋に行き、そのコピー屋で売られていたものを買った。「歳月静好」と書かれている。20元(約400円)  淡々と歳月が静かにながれていく私の中国生活になにかぴったりのような言葉。

 この言葉(一節)をネットで調べてみたら、中国の女性文学者の張愛玲の小説『傾城之恋』の文章の一節にある言葉だった。「歳月静好」とは、平穏な日々が送れますようにというような意味と説明されていた。「人生いろいろ紆余曲折」も面白く、それはそれで振り返れば充実感もあるが、その日その日が静かに過ぎゆくのもまた好いのではと、思えもする最近の私でもある。     

■張愛玲(1920-1995、享年74歳)—中国の女性近現代文学者としては最も高い評価のある文学者との評もある。その代表作の一つが1943年に書かれた『傾城之恋』。1952年には、中国共産党政権下のイデオロギーと相いれないとして「禁書」とされた。その後1980年代にはいり中国の「改革開放」政策への転換により、「禁書」が解かれ評価が高まった。その『傾城之恋』の一節にあるのが次の文章である。

 阳光温热 、岁月静好、 你还不来、 我怎敢老去。(暖かい太陽があり、平穏な毎日がある。あなたがいなければ、私はどうやって歳をとっていけばよいのだろう。)

    張愛玲は日中戦争の最中の1944年に胡蘭成と結婚した。その時に交わされた言葉にも「歳月静好」があった。二人はその後1946年に離婚するのだが(胡の浮気が原因ともされる)、胡は戦時中、日本に協力的な汪兆銘政権の幹部の一人だったことにより、1950年に日本に政治亡命をした。日本で暮らし1981年に亡くなった。(一時、台湾の大学で教員ともなる。)