彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国体験を聞くという趣旨で集まってくれた人たちとの会食会―京都・地蔵盆、黄金色に色づき始めた稲

2019-08-28 12:13:31 | 滞在記

 中国に戻るまで10日間あまりとなった8月18日(日)、銀閣寺近くの娘の家に昼頃に行き、子守の手伝いをした。この日は娘の家の町内の地蔵盆の日だったため、娘の夫は町内役員として地蔵盆の仕事ででかけていた。孫の栞も遙(7カ月)も、子供ゆかたを着せてもらっていた。地蔵盆にもちょっと行ってみたら、手品師なども来て演じていた。京都の地蔵盆は、盆明けの18日頃から始まる町内や23日頃から始まる町内もある。特にこの京都市の東山山麓には町内地蔵がとても多い。

 この日(18日)の夕方6時に京都市伏見区の「伏見桃山駅(京阪・近鉄)そばにある居酒屋「櫻バー」に6人が集まった。私の「中国でのこと」を聞くことを主旨(酒の魚の一つ)にして集まろうと、鈴木達夫さんが呼びかけてくれた人たちだ。私が初めて会う人もいた。懐かしい小森さんの姿もあった。3時間ほどいろいろと喋りあう。

 この櫻バーという居酒屋は、創業大正9年で95年以上の歴史をもつ老舗だ。もともとは櫻食堂という酒も出す店だった。さまざまな戦争へ出征していく兵士と家族・親戚たちとの壮行会の写真なども掲示されている。

 午後9時頃にみんなと別れて、京阪電車に乗り自宅のある八幡に向かう。ここから普通電車で18分くらいで八幡。電車に座っていると、隣の車両に座る25歳くらいの女性とその母親らしき人の姿が見える。やさしげな娘さんが少し老いた母親を気遣いながら談笑しているような光景が 平凡だが美しい。二人も八幡で下車して行った。

 8月23日(金)の夕方に、妻と彼女の実家がある京都市右京区京北町(旧・京北町)の山国地区に行った。わらぶき屋根の家もちらほら見える丹波山地のこの地。田圃の稲が少し黄金色(こがねいろ)に色付き始めていた。

 妻の実家の周りにも広がる水田と稲。家は母屋の他に3つの家(棟)がある。10月上旬の稲刈りまであと1か月と少しだ。この日、実家をついでいる妻の兄夫妻と 近くに住む妻の姉夫妻、妻の母とともに談笑をしながら夕食をとった。

 翌日の早朝、実家近くの墓地に 妻と母と3人でお参りにいき、孫たちを10時過ぎからスイミングにつれていくために京都市内に戻った。

 8月26日(月)の夕方、東京の上智大学大学院に留学中の陳佳秀さん(閩江大学卒業)が、京都・八幡の自宅に泊まりに来た。夕食は、自宅の近所にある焼き鳥居酒屋で。昨年の秋に 陳さんが京都に来た際は夜行バスでの往復し、我が家に泊った。しかし、今回は 大阪で就職試験を受ける目的もあり来ている(アマゾン社)ので、「新幹線の往復代金はアマゾン社で出してくれるので、新幹線を利用しました」とのこと。8月23日に大阪に来て、ネットカフェーで寝泊まりし(1泊1000円〜2000円くらいらしい)、この日に、奈良観光をおえて我が家にきた。

 8月28日(水)に娘の家で夕食をとり、30日には中国に戻ることとなる。しばらくは孫たちとも会えなくなる。思えば、この夏の日本帰国中、孫の栞の病気入院の付き添いから始まり、その半分は、娘や妻から依頼を受けての子守の手助け(孫とのかかわり)だったような気もする。会っておきたい人もまだ多くいたのだが‥‥。今はもう中国に戻るための諸準備で時間がなくなってしまった。このブログ、今回で999号になったかと思う。

 

 

 

 


お盆帰省❷南北朝の戦「二ノ宮神社」と「丑の刻参り」、白龍伝説の十九社神社、酒の神・松尾神社

2019-08-28 07:11:01 | 滞在記

 8月13日から15日、故郷の漁村にお盆帰省をした際に、家がある福井県南越前町河野地区の糠集落にある神社などにいってみた。集落のはずれの海岸に「白龍の滝」がある。海に迫る越前断崖の山の上から海岸に落ちる滝である。この滝には伝説がある。

「糠浦 白龍の滝伝説」によれば、奈良時代に出雲(島根県)の国から五家族十九人が、反子船に乗って対馬海流に乗りこの糠浦に漂着した。白龍が出雲から十九人が乗る小舟を見え隠れしながらここまでついてきて、無事に海岸にたどり着いたのを見届けたのち、近くのこの滝をみて「上には大きな池があるのだろう」と向かい、その池で疲れた体を休めたという伝説だ。そして池をしばらくの棲家とし、十九人の生活を時々見に行ったという。その十九人の子孫が糠浦の人々であるとのこと。

 糠浦集落の海岸からは敦賀半島や丹後半島が目の前に大きくみえる。また、天気が良ければ鳥取県の大山付近がかすかに望める。古代・中世・近世の日本は、陸路より海路の方がはるかに早く人々は移動ができた時代。古代の出雲王国や出雲文化と近畿が、海路により結ばれていたことは、この景色を見ると納得ができる。

 糠集落の真ん中には「十九社神社」がある。白瀧の滝伝説と出雲からの十九人にまつわる神社だ。江戸時代末期の幕末(慶応2)に、集落は火事による猛火に包まれ、その大半が灰燼と化した。この神社の社殿も燃えた。その後、集落や神社の再建がすすめられた。越前海岸のこのあたりは、越前断崖とよばれる海にせり出した断崖・山地が長く続き、冬にはその断崖に越前水仙が咲き誇る。この情景について作家・水上勉が書いた文章がなかなかいい。

 神社からは海が少し見え、そして糠集落の屋根瓦が一望できる。越前断崖が続く数十kmの海岸線には多くの漁村集落がある。集落が形成される条件は、そこに必ず海に注ぎ込む小川や沢があることだ。昭和最後の時代の1980年代、この神社の本殿が新しく建て替えられた。建て替え発起人十九人のなかに、神社が建て替えられてからしばらく後に62歳で亡くなった父の名前も石碑に刻まれている。

 糠浦集落にとても近い海岸線に「甲楽城浦集落」がある。この集落のはずれに「下長谷洞窟」がある。この洞窟には日本の歴史にまつわる伝説がある。伝説となっているが、おそらく歴史的な事実なのだろう。この洞窟の由来の説明板が洞窟前にたっている。

 1336年10月(室町幕府創設期・南北朝時代)、新田義貞が後醍醐天皇の王子である尊良(たかなが)親王と恒良(つねなが)親王の両親王を守って、二千の兵とともに敦賀「金ケ崎城」に立て籠もった。翌年1337年3月、十万の足利尊氏軍にこの城は包囲される。奮戦力闘したが、城を守っていた義貞の嫡男・義顕(よしあき)は尊良親王とともに自刃。義貞は木の芽峠を越えて南朝方の瓜生氏の居城・「杣山城」(南越前町南条地区)に逃れた。

 敦賀の気比神宮の神官の手引きによって、金ケ崎城から脱出し、小舟で城からこの甲楽城浦にたどりついたのが 当時13歳の恒良親王だった。神官は浦人に「この方は次の天皇になられるお方であるから、どうぞ世話を頼む」と告げる。そして、この洞窟に潜伏することとなった。しかしその後、親王は足利軍によって捕らえられ京都において斬首させられた。

 この下長谷洞窟の上にあるのが「二ノ宮神社」である。祭神に後醍醐天皇と「二親王」を祀る。神社の一の鳥居をくぐり、急な階段を登り二の鳥居を見ると皇族の紋章である「菊の御紋」がみられる。樹齢何百年という巨木に覆われた神社だ。眼下には敦賀半島が目の前に見える。

 さらに登ると、ようやく社殿が見えてくる。実はこの二ノ宮神社には強烈な思い出がある。中学3年の夏休みの時、同じ集落の同級生の宮本君とともに、8月下旬のある深夜に、ここで「丑の刻参り(うしのこくまいり)」(※呪いの藁人形とも呪いの五寸釘ともいう)を目撃したことがあったのだ。糠集落のはずれから歩いて10分ほどのこの神社で丑の刻参りをやっている人がいるとの噂を聞いていて、宮本君と深夜の丑の刻にここに忍びいったのだった。とても鬼気迫る光景を見てしまった。

 それからは怖い記憶がこびりつき、この神社を訪れることはなかったが、3年前の64歳の時、50年ぶりにこの神社を訪れた。闇の中だったのでさだかな記憶はないが、五寸釘を打っていた大木らしきものも残っていた。2年前には、その筋には丑の刻参りでは有名な京都の貴船神社に行き、地元人に教えてもらったある個所で丑の刻参りの釘のあとを多数見つけた。今でもやっている人がいるんだなあと寒気がした。

 明治期以降、鉄道ができて、糠浦などの集落からは、男たちは関西に出稼ぎに行く者たちが増えた。日本海の海が荒れ始めて、小舟では漁ができなくなる10月中旬から翌年の3月中旬までの5カ月間、京都の伏見や神戸の灘にての酒造りの出稼ぎだ。そして、3月下旬から10月中旬までは海での漁業に従事する。私の祖父も父もこのような生活をしていた。

 灘の銘酒に「剣菱」という酒がある。剣菱酒造は4つの酒蔵をもっていたが、この4つとも杜氏(とうじ)―酒蔵工場の工場長は、祖父や叔父や父など、私の一族が代々継承していた。私も大学卒業後しばらく、剣菱で働いていた時期もあった。5カ月間で休みは正月一日の午後だけという日々でもあった。その時だけは半年あまりをともに生活する蔵人たちとともに、神戸の新開地や大阪の九条の繁華街にくりだした。

 このような集落なので、京都の松尾大社(酒の神を祀る)の末神社が、糠浦にある。その名も「松尾神社」。家から1分ほどのところなので、子供の頃の遊び場だった。この夏、孫の栞とここに遊びにいった。

 ◆関西の伏見と灘の酒造郷で働く人が多かった地方は3つある、一つは私の村を中心とした①越前杜氏、二つ目は兵庫県丹波地方の「但馬杜氏」、そして三つめは石川県の「能登杜氏」。蔵の責任者である杜氏は、その蔵(工場)で働く30人ほどの蔵人(くらびと)をすべて 個人的つながりで集めて、神戸や伏見に毎年赴任していた。杜氏に次ぐ地位は「頭(かしら)」となる。