京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

島原出口の柳、角屋、角屋の障子

2017-09-08 08:11:46 | 京都百景

江戸幕府公認の花街として栄えた島原と角屋(重文)を紹介します。

昨年徳力富吉郎『版画京都百景色』の作品を紹介していますが、
今回思い出したように「島原出口柳」、「島原角屋」、「角屋の障子」の三作品をお届けします。

作品 「島原出口の柳」昭和20年(1945)





作品解説文

島原旧遊郭の入る門まだそのまま残っている。門のわきの柳「出口の柳」という。
客を島原の住人見立て、住人からすればここは出口ですよという遊郭側のしゃれた思い入れである。
これに対して裏口という門が残っている。表門から乗り込む客は「角屋」「わちがい屋」等の大きな店へ遊びにいく人たち、裏からコッソリ行く客は、小さな店でひっそり遊ぶ客、この方がいわゆる通であろうか。
今はないが、それでも少々のお茶屋が残り、太夫もいて、島原情緒をそこはかとなく味わえるのは嬉しいことである。
かつて千賀勇という踊りの名手がいた。高砂太夫は今も残っている。


作品 「島原角屋」昭和13年(1938)





作品解説文

寛永18年(1641)の遊郭建築として国宝に指定されている名建築である。
この遊郭はもと六条三筋町という京の町のまんなかにあった。
その頃、時の所司代板倉周防守重宗が二三の供を連れて市中見廻りの途中、鋲打ち乗り物と言われる駕籠に出会った。鋲打ちというのはきらびやかな駕籠で、公卿のお姫様の乗り物である。所司代は馬から降り、道の端に寄り目礼をしてその駕籠を見送ったが、ちょっと気になって供の一人にその後をつけさせたところ、乗っていたのは三筋町の太夫であったから、板倉周防守は多いに怒った。
そこで市中より遊郭追放冷が出て、早刻三日の内に立ち退きがされ、テンヤワンヤの大騒ぎであった。
ちょうどその頃九州肥前島原で天草の乱が起こり、幕府方の大将板倉重昌が戦死し、これまた大騒ぎだったので、京の町の人々が板倉と大騒ぎを引っかけて、皮肉にもこの遊郭を島原と呼んだという。
本当の名は西新屋敷揚屋町だが、旧市電の停留所名も島原口と言った。
東京国立近代美術館にも同刷のものが保存されている。


作品「角屋の障子」昭和39年(1964)





作品解説文


遊郭建築というものは寺院建築と違って特に珍好んだのであろうか。
「角屋」の座敷にはいろいろと趣向がこらされている。
たとえば青貝の間という部屋は壁に青貝がはめこまれており、蝋燭の照明にチラチラと反射する効果をねらっていたり、当時としては珍しいオランダ風のベランダがあり、椅子も用意されていたり、当時非常に高価であったギヤマン(ガラス)のはまった障子も用意されている。
版画の障子はいろいろの線を使った変り障子の一つで、外の窓と交わって美しい模様をかもし出している。
島原の角屋の塵はなつかしや
元禄の塵、享保の塵 勇


現在の島原の大門
今も柳があります。




明治10年頃の写真です。
江戸時代末期の面影が見えてきそうです。









現在の角屋は美術館になっています。
春と秋に建物内を公開しています。





私が行ったときは閉館中でした





角屋ホームページより画像を借用しました。









角屋はさまざまな歴史の舞台にもでてきます。











一方ここは平安京初期には国の迎賓館があった場所でもあります。





島原太夫は歌舞、茶道、華道、俳諧など の多彩な芸と豊かな教養で知られ、かつては天皇に謁見できる官位が与えられていました。
現在活動するのは数人おられるようで、京都市は島原の文化を 含む「花街の文化」を市独自の無形文化遺産に選定しています。

京都の市電は1978年全廃となりましたが、現在も市バス停留所に「島原口」はあります。