■「イノセント・ガーデン/Stoker」(2013年・アメリカ)
監督=パク・チャヌク
主演=ミア・ワシコウスカ マシュー・グード ニコール・キッドマン
ミア・ワシコウスカは最近お気に入りの若手女優だ。「永遠の僕たち」のような難役も「ジェーン・エア」のようなコスチュームプレイもこなせる。これまで観た彼女の主演作にはハズレがない。本作「イノセント・ガーデン」は、おまけにパク・チャヌク監督のハリウッドデビュー作という期待もあった。「オールドボーイ」と「親切なクムジャさん」で味わった戦慄は、恐ろしいながらも洗練されていて、目が離せなかったっけ。そして本作への興味と期待を募らせていたが、わが生息地の映画館ではスルー・・・(泣)。DVDでやっとありつけた。
父親を突然失った主人公インディア。母親と暮らす彼女の元に、長いこと海外にいたと聞いていた叔父チャーリーが姿を現し、彼女たちと暮らし始める。ところがその頃から周囲で次々と人が行方不明になる事件が起こる。インディアは叔父の過去を少しずつ知ることになるが、それと同時に多感な年頃の彼女の中で新たな感情が芽生え始める・・・。
これまでの主演作では観たことのない空虚な眼をしたインディアが草むらに立つオープニング。風変わりな主人公のキャラクターを示しているイメージショット?と思ったら、これが後でとんでもないことになることに気付かされる。透明感のある主演女優のイメージが、ストーリーが進むにつれてイメージが次々と変わっていく。ミステリアスな叔父の出現に疑いをもつ、という物語は、ヒッチコックの「疑惑の影」以来続くサスペンス映画のパターン。案の定、彼は連続殺人をしている。それを早い時点で観客に示す。ミアちゃん、危ないぞ。そんな叔父さんといちゃいけない。ところが、多感な少女は次第に彼が隠していた真実に近づいていく。二人でピアノを連弾する場面は実にスリリング。叔父チャーリーは、彼女の背後に手を回し、高音の鍵盤を奏で始めた。そこでインディアがみせる表情に驚かされる。殺人鬼に触れられておびえるどころか、うっとりするような恍惚の表情を浮かべるのだ。
ある晩インディアは、不良学生と森へ。その気になった彼に襲われそうになる。するとチャーリー叔父さんが現れる。彼女を助けるだけかと思ったら、インディアにのしかかる不良学生を殺してしまう。インディアは死に対面してしまった恐怖におびえるのかと思いきや、ひとりバスルームで性的興奮に身をよじる。このあたりで、僕らはインディアが何を考えているのかわからなくなってしまう。その後の展開で、インディアに芽生えてきた感情は、母親と叔父の関係への嫉妬でも、叔父への恋心でも、ティーンの好奇心でもなかった。そこの核心はネタバレになるので、観ていただくとするが、観ている時点で感じる怖さは大したことない。後になってその場面に込められた意味を理解してからがじわじわと怖い。叔父チャーリーの偏執的なインディアへの執着も怖いが、それが単なる男の偏った独占欲ではない結末にぞっとする。そして迎えるラストシーンで、映画冒頭の意味を僕らは知ることになる。少女の自我の目覚めと、隠された一面の覚醒をオーバーラップさせた脚本の面白さ。後味は最悪だけど、この映画の余韻は記憶よりも背筋に感覚として残るような気がするのだ。
■「たまこラブストーリー/Tamako Love Story」(2014年・日本)
監督=山田尚子
声の出演=州崎綾 田丸篤志 金子有希 長妻樹里 山下百合恵
「涼宮ハルヒの憂鬱」以来、京都アニメーション作品はとりあえず観るというのが、自分の中で定着してしまっている。「けいおん!」のスタッフが手掛けた「たまこまーけっと」は、派手さはなく、どちらかというと女子向け?な印象だった。主人公はうさぎ山商店街のもち屋の娘、たまこ。のほほーんとした性格で、向かいに住む幼なじみであるもち蔵の恋心にも気付かない。ある日、南の島から王子のお妃探しのためにやってきた不思議な鳥デラが街に現れる。もちを気に入ったデラは、たまこの家に居候することになり、騒動が毎回起こるってなお話。今どき、南の島の王子様やらお妃探しとか現実味ねぇ~、と最初は思っていたのだが、商店街の心優しい人々とのご近所つきあいや、たまこの高校生活がほんわかとしたムードで描かれて、懐かしいような癒されるような気持で毎回見るのが楽しみになってきた。もち蔵の恋のゆくえに大いに共感しながら。本作はその劇場版だが、テレビシリーズの再編集ではなく完全新作。デラや占い師のチョイなど、作品のコメディ部分を担う南の島の人々は同時上映の短編で登場させておいて、高校3年になり進路選択が迫った主人公たちの迷いと恋のゆくえに絞ったストーリーになっているのだ。
映画館のチケット売り場で、映画名を告げるとスタッフの方が、「ありがとうございます。たまこ、いいですよ~。きっとお若い頃の恋愛とか思い出しちゃいますよ。」とにこやかに話しかけてくれた。僕の生息地の映画館ではこの作品は観られないと思っていたので、「上映してくれてありがとう」と僕も告げた。気持のいいやりとりを経て、劇場へ。
友人のみどり、かんなは大学進学、しおりは留学と進路を考えている中、たまこは家業のもち屋を継ぐこと以外考えていなかった。一方、もち蔵は東京の大学で映像を学ぶことを決めているが、たまこにはまだ言い出せずにいた。もちろん自分の恋心も。みどりのひと言で告白せざるを得なくなったもち蔵は、学校帰りの河原で、東京の大学に行くことを告げ、気持を打ち明ける。もちのことばかり考える"変態もち娘"たまこは、もちろん恋愛に免疫などまったくない。幼なじみの関係がずっと変わらない、と思い続けてきたたまこは、それからもち蔵と会ってもギクシャクしてばかり。バトン部の高校生活最後の思い出に、と出演を決めたイベントの練習もうまくいかない。たまこにとっては、もち蔵の気持と友人たちの進路を決める姿を見て、このまま変わらない自分でいいのか、と悩み続けることになる・・・。コメディ部分を排してたまこともち蔵に話を絞った分だけ、すごく感情移入できる作品になっている。この作品の魅力はキャラクターのよさもあるのだが、今どきの高校生の話なのにどこか懐かしい、僕ら世代にも共感できる要素がたくさんあるからだ。
僕が幼い頃暮らしていたのは駅前の商店街に近い場所で、通学路はまさに商店街のアーケードだった。七夕の頃には高い天井から吊された飾りをかき分けて歩いた。ときどき脇道の"大人の世界"を通って帰りながらエッチな映画のポスターに驚いたり、ツッパリ男子高校生御用達の学生服屋をのぞいてみたり。生まれて初めてもらった賞状は、商店街主催の「ちびっ子まんがコンクール」だった(どうせ怪獣の絵でも描いたんだろうけど・恥)。お祭りの時期には周辺に住む小学生は御神輿かついで商店街を練り歩いた。御神輿かついだ子供に日当300円を手渡してくれるのは、商店街の元締めみたいな優しいおじさん。学校帰りのたまこみたいにお菓子屋やおもちゃ屋のおばちゃんと挨拶していたし、洋服屋を営む外国人一家の息子とは友達だった。クリスマスプレゼントの包装が商店街のおもちゃ屋のものだったのを指摘したら、「そこでサンタさんに預かったのよ」と母親は笑って言った。あの頃、近所の商店街はまさに世界の中心だった気がする。主人公たまこは、もっとディープに商店街の人々と接して育ってきたんだろう。そしてそのまま成長した。
二人の交流はケータイも使わず、子供の頃と同じ道路を隔てて糸でんわ。なんか幼いまんまで、ロマンティックでもない。でも文字通りつながっている二人の関係。そして親世代である僕らを泣かせるのは、テレビシリーズのクライマックスで解き明かされた、亡き母親が口ずさんでいた歌の謎。それは、たまこの父親が母親に告白するために作ったオリジナルの歌だった。この劇場版ではオープニングテーマ曲としていきなり流れ、物語の進展に大きな役割を果たす。歌で告白・・・って、きっと僕ら世代は憧れた行動だと思うのだ。オフコースの「僕はこの思いを調べにのせて」って歌詞に共感したり、チューリップの「ぼくがつくった愛のうた」や、恋人の名前をタイトルにしたポール・サイモンやビリー・ジョエルの曲に涙したり。音楽といえば、商店街のレコード喫茶(たまこの父親とはバンド仲間だった人物)が、主人公たちにつぶやくひと言が素敵。ここで流れる古いロックやポップスもこの作品の魅力のひとつだし、カウンター越しの人間関係というのも、今どきの若い子たちよりも僕ら世代に響くシチュエーション。いやはや、「たまこまーけっと」という作品が狙ったターゲットは実は僕ら世代も含まれていたのか。テレビシリーズでは次々に出てくる女の子たちに気をとられて(恥)、ぼんやりと見過ごしていたのかも。本編では亡き母親が回想シーンで登場(日笠陽子さん、グッジョブ!)。高校時代の父親とのやりとりがまたじーんときます。
みどりの粋な計らいでたどりつくラストシーンの告白。「だいすき」って何気ないひと言がこんなにも心に染みる。
本屋でふと手にした原田マハの「キネマの神様」。山田洋次のあの映画「キネマの天地」のせいなのか、こういうタイトルがつくと映画の作り手側の愛と執念の物語のように思えがち。でもほんわかした雰囲気のイラストと紹介文を読んで、どこか感じるものがあり購入した。通勤中、昼休みに読んでいて、何度も何度も泣きそうになった。この本に書かれている登場人物の気持ちや信条は、多くの映画ファンにとって共感できることばかりに違いない。共感・・・、いやいや共鳴といった方が自分の気持ちにしっくりくる。
主人公歩は都心にシネマコンプレックスをつくる事業を手掛けている会社のキャリアウーマン。しかし突然左遷され、シネコン事業から外されてしまう。会社を辞めた歩に待ち受けていたのは、ギャンブル依存症で借金まみれ、映画好きの父親とそれを支え続けた母親。マンションの管理人室で父が書き続けていた映画日記を見つけた歩は、そこに綴られた映画への愛情あふれる文章に感動する。自分と同じ気持ちで映画に向き合っていると思えた。そして父に健全な趣味として映画を見続けることだけは許す。ある日、父が映画ブログに歩の走り書きした映画の感想を書き込みした。すると歩の元にある映画雑誌の編集長から連絡が入る。歩は再就職を果たすのだが、それは映画と老舗映画館、そして世界を巻き込む大きな騒動に発展していく。
中学3年で映画ファンを宣言(って映画雑誌を毎月買うという宣言だが)して以来、現在に至るまで、僕は映画館に行くことを宗教行事のように思っている。学生時代、映画に関係する仕事がしたくって、最終面接までこぎつけたものの「地方都市出身の地方大学出にうちで何ができんの?」とほぼハッキリと言われて泣いて帰った。しばらく落ち込んだ後で僕は、映画業界で作り手や宣伝する側の立場に立つよりも、受け手として誰よりも映画を愛し続けようと思った。そんな僕は地元の映画館に通い詰める。そこは、僕が中高生の頃は名画座として、多くのクラシックや秀作に触れさせてくれた。いわゆるミニシアターとして個性ある秀作をかけてくれた映画館として現在に至っている。そして僕は、相変わらず映画を愛し続けるミドルエイジとなって現在に至っている。もし、映画会社に入っていたら、主人公のようにシネコン事業にまさに関わっていた世代かもしれない。
主人公やその父親が向き合う映画、映画館への思いは、いち映画ファンとして「そうだよ、そうだよ」とうなづきながら読んだ。父がブログで謎のブロガー"ローズバッド"と激論を交わすようになってからは、もう途中で本を伏せることができなくなり、一気に最後まで読んでしまった。感想というのは人それぞれだ。ほめる感想を述べるのは作り手の術中にはまるようなもの。だからバッサリと斬り捨てるローズバッドのが文章。対して、日本のハゲ頭のじいさんが書くのは、作品そのものや作り手そして映画の物語に自分自身の経験や考えを重ねる文章。その相容れない二人が次第に友情で結ばれていく様子が感動的で。
小説は、シネコン文化が失わせていくもの、引きこもり青年が立ち直る姿、ギャンブル依存症、親子の関わり方を絡めて、よりスリリングにより情感豊かなものになっている。古きよき時代の映画館が育んだ文化と、インターネット文化をバランスよく共存させていることも好印象だ。映画も小説もしょせんは作り話。オーソン・ウェルズだって自作でそう言っている。ブログに書き込んだくらいで編集者の目に止まるはずがない、とか翻訳ボランティアをしてくれる後輩の存在が都合よすぎだとか感ずる方もあるかもしれない。でも、だ。そんな映画や小説を介して人の気持ちや現実の人間関係が繋がっていくことは、決して絵空事ではないだろう。「キネマの神様」はそれを思い出させてくれる。そしてエンニオ・モリコーネ作の、あの映画の音楽を再び聴きたくなることだろう。映画館にはきっと神様がいる。ヴィム・ヴェンダースがかつて"天使"と呼んだ3人の映画監督がそこには仕えており、我らが淀川長治先生はその使徒の一人に違いない。
主人公歩は都心にシネマコンプレックスをつくる事業を手掛けている会社のキャリアウーマン。しかし突然左遷され、シネコン事業から外されてしまう。会社を辞めた歩に待ち受けていたのは、ギャンブル依存症で借金まみれ、映画好きの父親とそれを支え続けた母親。マンションの管理人室で父が書き続けていた映画日記を見つけた歩は、そこに綴られた映画への愛情あふれる文章に感動する。自分と同じ気持ちで映画に向き合っていると思えた。そして父に健全な趣味として映画を見続けることだけは許す。ある日、父が映画ブログに歩の走り書きした映画の感想を書き込みした。すると歩の元にある映画雑誌の編集長から連絡が入る。歩は再就職を果たすのだが、それは映画と老舗映画館、そして世界を巻き込む大きな騒動に発展していく。
中学3年で映画ファンを宣言(って映画雑誌を毎月買うという宣言だが)して以来、現在に至るまで、僕は映画館に行くことを宗教行事のように思っている。学生時代、映画に関係する仕事がしたくって、最終面接までこぎつけたものの「地方都市出身の地方大学出にうちで何ができんの?」とほぼハッキリと言われて泣いて帰った。しばらく落ち込んだ後で僕は、映画業界で作り手や宣伝する側の立場に立つよりも、受け手として誰よりも映画を愛し続けようと思った。そんな僕は地元の映画館に通い詰める。そこは、僕が中高生の頃は名画座として、多くのクラシックや秀作に触れさせてくれた。いわゆるミニシアターとして個性ある秀作をかけてくれた映画館として現在に至っている。そして僕は、相変わらず映画を愛し続けるミドルエイジとなって現在に至っている。もし、映画会社に入っていたら、主人公のようにシネコン事業にまさに関わっていた世代かもしれない。
主人公やその父親が向き合う映画、映画館への思いは、いち映画ファンとして「そうだよ、そうだよ」とうなづきながら読んだ。父がブログで謎のブロガー"ローズバッド"と激論を交わすようになってからは、もう途中で本を伏せることができなくなり、一気に最後まで読んでしまった。感想というのは人それぞれだ。ほめる感想を述べるのは作り手の術中にはまるようなもの。だからバッサリと斬り捨てるローズバッドのが文章。対して、日本のハゲ頭のじいさんが書くのは、作品そのものや作り手そして映画の物語に自分自身の経験や考えを重ねる文章。その相容れない二人が次第に友情で結ばれていく様子が感動的で。
小説は、シネコン文化が失わせていくもの、引きこもり青年が立ち直る姿、ギャンブル依存症、親子の関わり方を絡めて、よりスリリングにより情感豊かなものになっている。古きよき時代の映画館が育んだ文化と、インターネット文化をバランスよく共存させていることも好印象だ。映画も小説もしょせんは作り話。オーソン・ウェルズだって自作でそう言っている。ブログに書き込んだくらいで編集者の目に止まるはずがない、とか翻訳ボランティアをしてくれる後輩の存在が都合よすぎだとか感ずる方もあるかもしれない。でも、だ。そんな映画や小説を介して人の気持ちや現実の人間関係が繋がっていくことは、決して絵空事ではないだろう。「キネマの神様」はそれを思い出させてくれる。そしてエンニオ・モリコーネ作の、あの映画の音楽を再び聴きたくなることだろう。映画館にはきっと神様がいる。ヴィム・ヴェンダースがかつて"天使"と呼んだ3人の映画監督がそこには仕えており、我らが淀川長治先生はその使徒の一人に違いない。