【タックの放浪記】  思えば遠くへきたもんだ・・・     by Tack SHIMIZU

心に刻まれたその一瞬、心に響いたその一言、心が震えたその想いを徒然と書き記したい。この記憶から消え去る前に…

『阪神淡路大震災』 

2010年01月17日 | 徒然日記
あれから15年の歳月が流れたのか。

オレ自身が体感した生まれて一番の災害である『阪神淡路大震災』より今日で丸15年である。

カナダ留学より戻り、アリカにてジュエリー業界の営業をするようになってちょうど一年が過ぎた頃であった。

当時はまだ大阪・池田にあった実家に住んでおり、地震の前日はあのひっくり返った阪神高速をクルマで走っていたのであった。

地震がやってきたとき、もちろんオレは自分の部屋で寝ていたのだが、あまりの揺れに目が覚めて、その揺れの大きさで本能的にベッドにうつむせの体勢をとったのであった。

どれだけの時間、揺れていたのかという記憶はないのだが、家が潰れると思い、その時、1階に寝ていた兄貴はやばいかも・・・と思ったのを覚えている。

その揺れで、ベッドの横に立てかけていた額が倒れ、ガラスが飛び散った。そして台に置かれていたテレビが左右に動き、今にも下に落ちそうであった。結局、うちの家は大丈夫であったが、隣の家は倒壊した。

家の裏には『ねずみ公園』という公園があったのだが、地震が落ち着いた後、近所の人たちがみんな公園に避難してきた。

まず震源がどこなのかもちろんわからず、あの凄まじい揺れは震度がどれくらいあるのかも、もちろん経験したこともなくわからなかった。

当時、池田から京都の会社へ親父と一緒に通っていたのだが、当然の如く、名神高速は全面通行止め。仕方がないので下道を亀岡経由の山越えルートで行こうということになり、親父と二人でクルマを走らせたのだが、道には自動販売機が軒並み倒れており、それを避けながら走らなければならず、また渋滞がひどく、京都の事務所にたどり着く頃には昼になっていたのを覚えている。

クルマのラジオでは、どのチャンネルも神戸の悲惨な状況を伝えており、レポートされる死者の数が信じられないくらいに膨れ上がっていくのを耳にしながら気分が悪くなったのであった。

今は老犬となったクマが、その後もしばらくとても怯えていたのをよく覚えている。

オレに直接関係する知人たちは幸い無事であったが、その知人の知人の範囲ではたくさんの方々が亡くなられた。

天災は予期せぬ時にやってくるものであろうが、もしものときのための備えは出来る限りしなければならないと思っている。

震災でお亡くなりになられた6343人の尊き命に、今日はこころよりお祈りしたい。