【タックの放浪記】  思えば遠くへきたもんだ・・・     by Tack SHIMIZU

心に刻まれたその一瞬、心に響いたその一言、心が震えたその想いを徒然と書き記したい。この記憶から消え去る前に…

バルサ&ミラノ放浪2017秋 『 カタルーニャの街をてくてく行こう!の巻 』

2017年09月30日 | 旅三昧!釣り三昧!
2017年秋、京都のお世話になるお客様らとバルセロナからミラノを巡る旅にでた。

バルセロナでもミラノでも、常にお世話になる取引先の力強いサポートがあり、最高の旅となった。

僕自身、バルセロナにはこれで恐らく5回目程にはなろうが、一度たりと郊外を観光した事もなかってのでとても新鮮な旅となった。





今回の旅はフィンエアを利用したのだが、エコノミー席をエコノミーコンフォートにアップグレードする事により、想像以上に快適なフライトとなった。次からの渡航にも活用したいと思った。

ヘルシンキを経由しバルセロナへ。夜遅くにホテルに到着し、スーパーに赤ワインを買いに行った帰りに屋外でビールとイベリコ豚のソーセージを頼んだ。美味。





思えば遠くに来たもんだ…

バルセロナの1日目、まずアルベルトとカルロスがサグラダファミリア大聖堂を案内してくれた。





大聖堂の半ば光の入る方角を考えてステンドグラスの色が調整されている。



ガウディは天才だとつくづく痛感する。

旧市街を周り、昼食にはカルロスの奥さんも合流して楽しい時間を過ごした。



サンジョセップ市場に並んだ果物が如何にもスペイン色であった。

夜は本場フラメンコを鑑賞しに行って来た。



翌日はレンタカーを飛ばしてアルベルト夫婦とダリ美術館へ。



ダリも負けじ天才であった。鬼才と呼んだほうが良いような気もする。



魚介類のパエリアが本当に美味かった。



ジローナの街並みを歩く。





中世から変わらぬ街並みである。

カタルーニャの起源と云われるモンサレートへはカルロス夫妻とアルベルトが案内してくれた。





山並みはガウディがサグラダファミリア大聖堂をデザインするのに感化された場所である。



モンサレートの教会で世界的に有名な少年合唱団の演奏を聴いた。



バルセロナは奥が深いのだ!



ガウディは偉大なのだ!

今回の旅では、彼方此方にカタルーニャ州独立を求めるフラッグが見受けられた。様々な国で同様な事があるようだが、そもそもカタルーニャはスペインの中でも異なる言語を喋り、違う歴史文化を持つ州なのだ。根っこが深い問題なのである。

バルセロナからミラノへ。



ミラノは慣れ親しんだ街、心にゆとりができる。





ギャレリアの昼と夜。



紫色したドゥオモを初めて目にした。



スカラ座で鑑賞したかのロベルトボッレがプリモを務めるオネーギンは素晴らしかった。


しかし何から何まで真新しい旅であった。

いつも仕入れだけで走り去る街並みだが、ゆっくりと観光する機会が出来て個人的にも楽しめた旅であった。

カルロス、アルベルト、本当にありがとう!




帰りにご当地マグネットを集めているというマイにミラノとヘルシンキのそれを、サクにはピノキオの笛のキーホルダーを買ってカバンにしまった。


バルセロナ&ミラノ万歳!


会社の机の奥の奥から出てきた1枚のディスク

2017年09月21日 | 徒然日記
会社の机の引き出しの奥の奥から1枚のディスクが出てきた。



この放浪記を始める直前まで綴ってきた『TACKの徒然日記 & 旅行記』であった!

失ったと思っていた2005年〜2008年の記録を発見したのだ。

これは少しずつココに写しておかねばなるまい。もちろん自分でも何を書いたか全然記憶にないのだ。少しずつやっていこう。

とりあえず、先ずは2003-2005年に書いた旅行記をちょこちょこアップさせる事にする。

シンパティコ!イタリア!

2017年09月21日 | 旅三昧!釣り三昧!
シンパティコ!イタリア!!

いつの頃からだろうか。海外へ出向くことが億劫になりはじめたのは。

かつて初めて海外旅行に出向いた頃は、あまりの嬉しさに何度も何度も発行されたばかりのパスポートを開いては眺めていたような気がする。

仕事として海外に行き始めるようになってからであろう。現在、年に5回程、西洋骨董と宝飾品の仕入を目的として、イタリア各地へ出向いている。

ご存知の通りイタリアは多くの都市国家が一つとなり出来上がった国である。その歴史と芸術の質の高さは、数々の著書にて取り上げられている通りである。

億劫ながらも、そんなイタリア各地を巡り、その土地の風土と文化の違いを肌で感じることが出来るのは、幸福に値するに違いない。それを僅かでも誰かに伝えたく筆を取る事にした。


<孤独のヴァレンツァ>

宝飾の町、ヴァレンツァ。

その町はミラノとジェノバの間に位置し、ミラノの玄関口であるマルペンサ空港より、車にて約1時間半程で到着する。距離的には約100キロ程なのだが、交通の便が悪く、ミラノよりダイレクトの列車はない。

かつて金が採掘されたという事で宝飾工房が発達したこの町は、人口の約70%が宝飾品に関わる仕事に従事しており、イタリアのみならずヨーロッパにて一流とされる宝飾品のほとんどが、この町で製作されている。

この町では、観光客など一人も見当たらず、タクシーも無く、そしてホテルとは名ばかりの(ロッジ如き)宿泊施設が一件存在するのみである。

数え切れない程ある大小様々な宝石工房。一件商談が終了すると、そこの社員が、次の取引先まで、自ら、車で送ってくれる仕組みとなっているのである。

しかしその静かな街並みは、北イタリアのそれとして、決して奢ることなく、寡黙ながらもどっしりと歴史的重みをかもし出しているのである。
 
くねくねとした石畳の小路を、その磨り減った石畳を歩く。町の子供達は、興味深く僕の顔を、僕の一挙手一投足を、見つめている。じっと見つめ返すが、彼らは目を逸らそうとしない。

これまで数限りなく様々な街を訪問してきた僕が、生まれて初めてホームシックなる症状を覚えた町。初めて訪れた時、日本語はおろか英語も通じぬ、その町唯一のロッジのレストランにて、一人、夕食を取っていたある寒々しき冬の日の出来事であった。レストランの暖炉の薪のみがパチパチと静かな部屋でBGMを奏でていた。一人、スパゲティーを音立てず啜りながら、その薪の音を聞いていた時、それは突然やってきたのである。

なぜ僕はこんな所で一人食事しているのであろう。僕を知る友人知人はこの付近には一人たりともいない。テレビでは、全く意味のわからない言葉が行き交い、違う顔立ちの人々が、何やら討論している。かつてカナダのトロント留学中は、寂しくなれば中華街へ出向き、朱に交わる事によって、なんとなく落ち着きを取り戻したりしていたのだが、そのいるだけで馴染める東洋人的顔立ちの人々も全く見かけない。

あぁ、この状態から脱出したい。

自分の良く知る世界へ戻りたいと、体の奥底叫ぶ。状況を改善すべく、日本の家族へ電話をしようかとも思うのだが、時差を考えると日本は午前4時。それも出来ず、とにかく寝てしまおうと、食事を取りやめ部屋に戻り、やみくもにありったけのビールを喉に流し込み、ベッドに入ったのである。
 
翌日もからりと晴天であった。


<Vicenzaから来た女神>

ベネチアよりミラノへ向かう早朝6時半発、特急列車でのこと。

早朝故、空席の目立つファーストクラス。僕は、誰も隣に座るはずがないと、たかをくくっていた。ところが、次の駅、ヴィチェンツァより可愛いい女性が、僕のコンパートメントに登場した。

無造作に僕の荷物が置かれた隣の席を指差し、そこは自分の席だと主張した。席を譲り、しばらくの無言。

喫煙席のはずのシートだったが、かつての煙草のコマーシャルをふと思い出し、紳士的に彼女に吸ってよいか確認してみた。驚いたことに彼女は少しイタリア訛りだが、文法的には完璧な英語を操った。一服しながら、しばらくの無言。

そして、僕は日本の文庫本を列車の窓際席にて読んでいたのだが、彼女のこちらへの視線がとても気になり、話し掛けることにした。ヨーロッパ人は概して、日本人と韓国人、そして中国人の区別が出来ない。

「僕が何人だかわかる?」と、ありがちの質問をしてみた。移り行く車窓の風景、心地よい車輪音。「私にはあなたが日本人ということが簡単にわかる。」と、ソプラノの女神は微笑んだ。

彼女の名前はニコラ。ミラノで日系商社に勤める女性だった。

取り立てて特筆すべきはないが、車窓から心落ち着く事の出来る田園風景を眺めながら、夢のような約2時間。残念乍、その日、僕はミラノより先、ベロッチェリへ向わなければならず、次回の訪問での再会を約束した。

こんな出会いは大切にしたい。

ミラノから、又一人になり、しばらくぶりの無言人にかえった。



<イタリア人の携帯電話>

日本人の礼儀とイタリア人のマナー。当然ながら、重複する部分が多い。

一般的に西洋的マナーは、気配りがあり、とても優しい(特に女性には)とされている。しかし、納得出来ない所もある。

最も理解できないイタリア人のマナーは、列車やバス中での携帯電話である。最近の日本では、どの交通機関を利用しても、うるさいくらい携帯電話の使用を控えるべき案内がある。しかしながら、イタリアでは、どいつもこいつもが、あのイタリア人独特の身振り手振りを加えながら、「プロント!プロント!!(訳:もしもし)」と、大声で喋っているのである。一人が大声で話すものだから、聴こえ難いのか、別の一人も、そして更に別のもう一人も、という風に、全員が大声で話している。

携帯電話を持たない僕には、これほど耳障りな事はない。

先述の女神・ニコラに、この事を話すと、車中、恥ずかしそうに、彼女は自分の携帯電話の電源を切った。


<太陽の島・シチリア>

イタリアは国土が長靴の形をしており、そのつま先に大き目の島が存在する。

シチリア島である。この島で最も大きな街がパレルモである。

マフィア発祥の地として有名で、かつては、今以上に治安が悪く、「イタリア人が国内旅行をする際も、この島への旅行に関しては、旅行保険に入る事が出来ないのだ。」と、ミラネーゼ達が笑いながら云った事が事実かどうかは不明であるが、他の地域とはまるっきり雰囲気が違う事は、空港に降り立てば誰でも気づくであろう。空港の荷物引取場では、麻薬取り締まり犬が数匹、クンクンと鼻を研ぎ澄まして働いている。

ここパレルモに住む人々は、底抜けに明るい人が多い。

昔、方々の強国により侵略され続けてきた歴史のリバウンドからか、はたまた南国故の温暖な気候からなのだろうか、とにかく明るい。

パレルモ郊外に、モンデーロと呼ばれる海岸地区がある。若者は時間が許す限り、そこへ集まり、ベンチに腰掛け、シシリー名物の揚げたライスボール(中にミートが入っている)やジェラード(アイスクリーム)を食べながら、仲間と楽しい時間を共有している。又、シチリア人は、好んで魚介類を食し、その海岸沿いには、オープンデッキでウニや蛸を食べさせてくれる素晴らしいレストランが軒を並べている。

青い空の下、潮の香る海岸沿いにて、新鮮な魚介類に舌鼓を打つ。

至極の一瞬である。

聞けば、シチリア島界隈で取れるマグロのほとんどは日本へ出荷されるという。取引先の宝飾会社社長が片目を瞑りながらブラッフを云った。

「日本へ輸出する宝飾品はツナ(マグロ)の香りがするはずだ。」

案外いかした奴である。

半分に割られ、山積みにされたウニの棘を気にしつつも、プラスチックのスプーンを立てながら、醤油が欲しいと心から思ったのであった。


<歴史的サンダルのフィレンツェ>

近頃はそれほど取り上げられなくなった狂牛病の話題であるが、イタリアにて最も深刻だったのがフィレンツェのそれである。

フィレンツェのステーキはイタリアでも特に有名で、サンダルの様に大きく、我々にはとっても一人で食べきれる大きさではない。

彫金と皮で有名なこの街は、イタリア随一、治安が良い街としても有名で、そして何より、自分の住む街を誇り、他の街を貶す事を当然としているあらゆるイタリア人達からも、決して悪く云われない評判良き街なのである(近郊のピサ等を除く)。

ご存知の通り、イタリアの首都はローマ。商業地はミラノ。しかし、なぜかイタリア標準語は、ここフィレンツェで語られるイタリア語である事を耳にし、驚かずにはおれない。
街並みを歩きながら、「処刑されたムッソリーニが首にロープを巻かれ、この路をジープで引かれたのだ。」とか、「ヒットラーが、ここを行進したのだ。」等々、知人より聴く。歴史的重大事が起こった状況、風景がそのまま残る街、それがフィレンツェなのである。

その頃と全く変わらないであろう空間に自分を置くことが出来る。様々な想像が膨らみ、まるでタイムスリップしたような気分になれるのである。
 
フィレンツェの街のイメージ色はオレンジだ。古き歴史有る建物は、それ相応に風化しており、道も、壁も、茶色の屋根も煤けている。夕暮れ時の夕焼け色が、そんな情景にかっちりと調和してしまうのである。
 
太陽沈む直前に、ベッキオ橋の川縁から、その夕焼け空へ目をやると、その自然と文化の奏でる芸術を、誰もが堪能できるはずだ。

丘の上のミケランジェロ広場に隣接するレストランで、オレンジ色のフィレンツェ街並みを見下ろしながら食した、そのサンダルステーキを今も忘れる事ができない。


<ミラノのタクシーストライキ>

一番最近イタリアへ訪問した時の事である。

僕は、ミラノでの最終の仕事を万事無事に終わらせ、ホテル内のバーカウンターで一人、ビールを楽しんでいた。

ミラノ滞在中の常宿であるそのホテルは、ドゥオモ近くの三ツ星ホテルで、既にそこで働く人達とは、非常に親しい。特に、バーテンダーのマルコは、気さくで、話に笑いのセンスがある。常にニコニコと微笑みを忘れない。作られた笑みを振りまく日本のホテルとは、うまく云えないが、こういう所が違うのだろうなと思ってしまう。

グラスを磨きながら、マルコは鼻歌を歌う。僕は、部屋で日本から持参した甚平(僕はパジャマにしている)に着替え、1階のバーカウンターへ出向いたのだが、その容姿を見るや否や、「ワォー!キモノ!!」と、マルコは叫んだ。甚平が着物に属するか、よく判らないので、適当に頷いておいた。
 
翌朝、チェックアウトの際、マルペンサエクスプレス(空港への列車)に乗るべく、カドーナ駅へのタクシーを頼むと、今日はタクシーがストで一台も運行していないと、フロントマンが言うではないか。

重いスーツケースはあるし、どうしたものかと考えていると、地下鉄で行けとのアドバイス。重い荷物を両手に、地下鉄に乗りたくはなかったが、それに乗らないと空港にいけないし、トボトボ、ゴロゴロと駅へ向ったのである。

近くの大通りで、タクシーが長い列になってクラクションをワンワン鳴らしながら道を蛇のように走っているのを見かけた。どういう理由でのストかも判らなかったが、誰に対してワンワンしているのだろうか。「ワンワンしながらでもいいから、俺を駅まで連れて行け!」などとブツブツ一人ごちながら、トボトボ、ゴロゴロその路肩を歩いたのであった。
 
地下鉄はどこまで行っても1ユーロ。但し、重い荷物もいっぱしの一人前と見なされ、スーツケース分も1ユーロ払わなければいけなかったのである。


<カルチョ!カルチョ!!>

イタリア人のカルチョ(サッカー)への情熱は半端ではない。
 
今年開催された日韓ワールドカップでの日本の熱狂とて、太刀打ちできるものでないであろう。夜10時頃、意味なくホテルのテレビを付けると、少なくとも3チャンネルでは、カルチョの話題で盛り上がっている。それが毎日なのである。見ている者全員の情熱がひしひしと伝わってくる。

日本の一般的プロ野球観戦の図というものは、畳に寝転びながら、ビール呑み呑み、静かに枝豆などをポリポリ、たまに浴衣の尻をポリポリという図を想像してしまう僕だが、サッカーは野球の様に目を離す事が出来ないのである。

目を離しているうちに、ボールはあれよあれよと、味方ゴール前まで運ばれてしまっていたりするのである。目を離している時こそ、そういう決定的瞬間がやってきたりするものなのである。
 
イタリア人は皆、自分の住む街にプライドを持っているので、その街のチームを応援している。

シシリー島のパレルモに住む友人・ロベルトとピザを食べている時、カルチョの話題となった。彼の熱弁は止まる事無く続くのである。

息つく合間を見て、僕は聴いてみた。

「ロベルト、お前はどのチームのサポーターなのだ?」

「決まっているじゃないか!パレルモ・フットボールクラブだ!」

「そこはセリエAか?」

「セリエCだ!」と友は胸を張って答えた。

カルチョは単なるスポーツではない。これは文化なのだ。

僕はその時そう認識した。




2003年9月 バンコク旅行記

2017年09月21日 | 旅三昧!釣り三昧!
11-9-2003:

この日、朝10時のシンガポール航空・SQ793便に搭乗するためには、関西空港へは午前8時に着いていなければならず、そのためには早朝6時に最寄駅に足を運ばなければいけなかった。俺は、眠い目をこすりこすり嫁さんに石山駅まで送迎してもらい空港へ向かった。途中、三国ヶ丘駅での人身事故の影響で予定を30分ほど遅れつつも関西空港へ、俺の乗る列車『はるか』は到着した。
 
今回も航空券は格安のHISにて入手。そのチケットを団体カウンターにて手にした後、シンガポール航空カウンターへ。どうやら今日のフライトは空席が多いようだ。通路側の席を依頼し、ANAのマイレージカードを提示した。SQとANAは提携しているのだ。こういうのは密かにマイレージを貯めている人間にとってはうれしいものである。今年はアリタリア航空のマイレージでイタリア往復無料券を利用したばかりである。
 
チェックイン後は、いつもの通り1階下の本屋へ。読みやすい椎名誠のエッセイ1冊、神保何某の小説1冊、アジア旅行危険マニュアル本1冊。なぜか鼻水がよく出るので薬屋でティッシュを買い足した。いつも世話になっているサミーへ手土産を購入。黒地に白で『誠』と一文字描かれたTシャツを選んだ。
 
さて出国だ。いつものようにパスポートを提示。今のパスポートとなり109個目となるスタンプを押してもらった。今回は免税店で以前からお気に入りのゴルティェのトワレを再購入しなくてはならない。もう残り少ないのだ。3本目。このトワレはなかなか売ってない。連なる免税店でも、あるのは1軒だけなのだ。それを購入後、積み重ねられたタバコのカートンに僅かに後ろ髪を引かれながらも、そそくさと出てゲートへ向かうモノレールに飛び乗った。いつもであればゴールドカードを所有する人の為のラウンジ『金剛』で残りの時間をつぶすのだが、この日は人が多く席も座れない程の混雑振り。仕方がないので、カゴメのトマトジュースを1本拝借し、すぐに出てきた。
 こないだのアリタリア航空でもそうだったのだが、今回のシンガポール航空も最新機材のようで、各席の前にモニターがあり、各自、映画や音楽、ゲームまで楽しめるのだ。しめた!「マトリックス・リローデッド」があるではないか。これ見たかったんだよなぁ。少し嬉しくなった。しかし結局、この映画を見ながら途中で寝てしまったので最後のエンディングはわからず終いなのであった。機内でのビールの飲みすぎが敗因のようだ。バンコクはイタリアと違いとても近い。時差のマイナス2時間だけである。行き6時間のフライトは、空席を利用してごろ寝してしまった俺にとってはあっという間でしかなかった。
 
現地時間午後2時、BKKドンムアン空港に無事到着した俺は、いつものように空港内で両替をして、1人、タクシーに飛び乗った。今回の滞在は、スクインビット通にあるノボテル・ロータスホテルだ。空港からは約30分程の距離。300バーツ也(1バーツ3円弱)。しかしよくぺらぺらとしゃべるドライバーだった。うっとうしいくらい下手な英語で話し掛けやがる。適当に答える。そして予想通り、最後はマッサージパーラー(ソープランド)の店を紹介するのだ。それだけ日本人が行ってるってことなのかと疑問に思った。これには完全無視してやった。ざまーみろ!
 
ホテルにチェックイン。禁煙フロア―である27階。2704号室だ。今回、このホテルにした一番の理由は、出張の主目的であるバンコク国際宝飾展へシャトルバスが出ているためなのだが、俺がチェックインした午後3時には、すでにその日のシャトルバスの運行は終了しており、会場となっているIMPACTはかなり郊外と耳にしていたので(実はタクシーでも45分で行ける距離ということを後で知り、翌日からタクシー利用したのだが…)、この日は、参加を取りやめた。ホテルから、大学でマーケティングの講師をしつつも自身の宝飾会社を経営する友人・ボラサクへ電話。今、彼は宝飾展会場にいるとのこと。翌日会場で会う約束をした。次に親友・サミーへ電話。午後6時に晩飯の迎えに来るとのこと。
 
とりたててする事が無くなった俺は、先日、ユニクロで購入した身軽な短パンにTシャツと草履に履き替え、久しぶりのBKKの街を探索した。ここスクインヴィット通界隈は、日本人駐在員宅が多く、日本食レストランや日本人向けナイトクラブが多数存在する地区である。近くにはバンコク最大のショッピングモールである「エンポリウム」がある。名だたる一流ブランドショップが、そこには軒を連ねている。今、BKKの粋な若者のためのスポットとなっている。ぶらぶらとそこまで歩き、その後引き返し、今度は逆方向へソイ・アソ―クまで歩いた。ソイというのはタイ語で『通り』という意。ソイ・アソ―クを右に折れて北上すれば日本大使館がある。大きな通りなのである。
 
タイは今、雨季の終わりにあたる。毎日、突然、ドカンと雨が降っては止み、また降ったりする。うっとうしい限りだ。ただ、タイ人はそんなことお構いなしだ。彼らは傘もささずに、路歩く。バイクの連中は雨合羽を被り、路走る。雨が降れば街の交通網は破壊する。かの有名な、究極の交通渋滞が始まるしくみとなっている。
 
この日も夕暮れ、突然それはやってきやがった。雨宿りがわりに目に付いたマッサージへ飛び込みフットマッサージを頼んだ。1時間250バーツ也。これはいわゆる足ツボマッサージなのだが、マッサージをされる前に足の裏を洗われるのが恐ろしくくすぐったいのである。コチョコチョされているみたいなのである。しかし、いざマッサージが始まると、さすがの一言に尽きる。知ってのとおり、足の裏は体の内臓に繋がっているのであるが、痛い所はとても痛いのである。20センチくらいの丸まった木の棒みたいな道具でグリグリと押し付けられるのだ。しかし痛みが終われば爽快がやってくるのであった。
 
雨上がり。部屋に戻り一息ついた。午後6時。タイ人にしては珍しく驚くほど時間厳守のサミーから部屋に電話あり。ロビーに着いたから降りて来いとの連絡。『 YES SIR !!! 』と電話を切り、エレベーターに飛び乗る。ロビーでは、相変わらずの短髪、少し肥えたサミーとサミーの嫁・リンゴが笑顔で待っていた。リンゴは髪を少し褐色に染めており、それがとても似合っていた。ノボテル・ロータスホテルのすぐ横にあるタイレストランへ3人で。このレストランはサミーが高く評価するレストランだ。人気があるのであろう、駐在と思しき日本人も数グループ席についていた。
 
オーダーはサミーとリンゴに任せた。但し、俺は大好きな春雨の辛いサラダを頼んでもらうことだけは忘れなかった。リンゴがこの2月に会った時より格好良くなったとやたらと誉める。お世辞でも悪い気はしない。変わったことといえば、煙草を辞めた事。その頃より少しだけだが痩せた事。サミーは煙草を辞めた事を全然信用しようとしない。タイでは、法律でレストラン等にても店内での喫煙が義務付けられている。良くある話だが、やはり喫煙者に日本ほど甘い国はそうそうないようである。喫煙率が比較的高いここタイでも、もう法律が改正されているというのに、こういうことにかけては日本は本当に発展途上国なのである。
 
途中、現在外資系企業に勤めるサミーの高校時代の親友も合流して楽しい話に花が咲いた。酒の力も荷担してか、俺の目はネムネムモードになりつつあった。時差は2時間だが、BKKの午前3時に起床していると考えれば当然だったのかもしれない。
 
ゆっくりとタイ料理の真髄を学び、シンハ―ビールの咽喉ごしの良さを痛感した後、リンゴをサミー宅に戻し、男たちの社交場へ出掛ける事にした。初日の今日は、軽くタニヤ通りへ行こうということで話はまとまった。タニヤ通りとは日本人でバンコクへ訪れた人は知らない人がいないと云われる通りで、バブルの頃より日本人駐在員・観光客をターゲットに数え切れないくらいの日本人向けナイトクラブ(ラウンジ)が点在する通りなのである。ちょうど、並行に走るシーロム通りとスリウォン通りの間、300メートルくらいの通り沿いにずらりとビルが並び、そのビル全階に日本人向けのナイトクラブが並んでいるのである。その半分は、ラウンジでありながらお金を払えば店の女の子を連れ出してホテルへ持ち帰ることもできるようなしくみになっており、夜な夜なギラギラした脂っこいオッサンや兄ちゃんどもが路をノシノシとカバのように歩き、そういう所へ吸い込まれていくのだ。またそれらの阿呆どもへ、立ちんぼの派手なドレスを着飾った阿呆女どもが必死に呼びこみしているのである。まぁ、言わばそんな場所なのである。ビルに並ぶネオンや看板は全て日本語で描かれているのである。『クラブ理沙』とか『シャネル』とかネオンが光っているのである。よく考えれば本当に不自然な空間なのである。又、余談であるが、そのタニヤ通りに並ぶ通りが、かの有名なパッポン通りと呼ばれる世界一の売春通りなのである。俺は、このパッポン通りへ行けば、その空気に触れるだけで蕁麻疹が起こりそうなので近寄らないことにしているが、最近は欧米人が客の主流のようである。話を戻すが、そのタニヤ通りでも上記のような連れだし可能なナイトクラブへは、俺もサミーも絶対に行かないのである。そう決めているのである。俺達は、その高級で静かで品あるクラブに行ってゆっくりと飲む事が目的なのであった。
 
タニヤ通りからスリウォン通りを横切った所、デュークビルの6階に何度となく訪れたことのあるそのクラブ『鹿鳴館』はある。ここは当然立ちんぼなど居る訳も無く、この界隈でNO.1とのうわさあるナイトクラブなのである。このゆったりとした空間の中にて、俺のことを覚えてくれている店の女性やサミー達とのの会話。あぁ、バンコクにいるのだとしみじみと実感したのであった。最高の一瞬であった。


12-9-2003:
 
朝8時に起床、シャワーを浴びた後、バンコク国際宝飾展へのシャトルバスに駆け足で飛び乗った。昨夜の酒はすべて飛んでしまっている。つまり快調の快調なのである。既にバスには数名の欧米人、韓国人らしき人たち、日本人も数名乗っていた。走ること40分程、会場であるIMPACTに到着した。普通の訪問者達は、まずは参加登録して『 VISITOR 』バッチを貰うのであるが、俺は既にVIP待遇にて金色の『 GUEST 』と書かれた金色のバッチを持っているのである。取引先であるH社が主催者に依頼し発行したものなのだ(これは後々新規開拓に役に立つことになった)。
 
1000社くらいのメーカーは出展していたのではなかろうか。日本の業者としては田崎真珠の唯一の出展を確認した。ここ数年、バンコクの宝飾メーカーは勝ち組と負け組に大きく二極化されてきており、勝ち組はイタリアなどからデザイナーを引っこ抜き、そのデザイン及び製作技術を模倣し、その労働コストの安さを武器に、宝飾業界の本場であるヨーロッパへ売り出して成功している。もう一方は相変わらずのデザインにて新たな投資をすることなく存在する会社達である。我らがBKK主力仕入元の二社も、イタリアで発売されているヴォーグ誌などで大きく取り上げられており、成功の道を闊歩している。
 
これは宝飾品バイヤーでなければわからないことかもしれないが、仕入れのための商品探求というものは、めちゃくちゃ疲れるのである。俺の商品選定は、いつも石の良し悪しは当然なのだが、それ以前にデザインの良し悪し、そのFINISHINGの出来映えを最重視する。目に留まった芸術品を上から、横から見るところから始まるのだ。よってこの日もだが、午後2時を過ぎると目が疲れてしまう。今日の所は、既存2社にて約1200万円程となる商材を仕入れて終わりにする。
 
待ち合わせしていたボラサクへ取引先社長に携帯を借りて電話してみると、胃が痛くて家で寝ているとのこと。何かに当たったみたいである。ほんまにタイミングの悪い奴と思いながら、食事の約束を中止し、タクシーにてホテルへ戻った。そしてサミーとのNIGHT EXCURSIONにむけてしばし休息を取った。晩飯はホテル近くのレストランに1人で出向いた。この日も朝4時近くまで飲みつづけることになった。バンコクの夜の店は午前2時には閉まることが義務付けされているのであるが、唯一、1軒、違法ながらもシャッターを下ろして隠れて営業している店がある。その名は『 Club-K 』。この店とは今から6年ほど前からの付き合いなのだ。当然、オーナーとも懇意である。この前の店で意気投合した総勢6名でグビグビと氷入りビールを飲んだのであった。この場所は誰にも教えられないのだ。恐らく駐在を除く日本人で知っている奴は僅かであろう。


13-9-2003:
 
翌日の13日。昼前にはまた、展示会場にて熱心に数あるブースを見回していた。1件、とても繊細だが優秀なデザインを作るメーカーを発見した。たぶん、デザイナーは女性なのであろう。20代後半から40代にマッチするデザインだ。早速、交渉を開始する。すでに日本に1件取引先があるとの事が気にかかったのだが、東京なのでとりあえずサンプルをオーダーする事にした。300万円程度。初商いなので、D/P(Document Against Payment:先払い)にて了解する。但し、今後はD/A at 30days(Document Against Acceptance:入荷30日後の信用払い)にて納得させた。とても期待できる会社なのである。
 
既存取引先であるN社のブースにてボラサクと落ち合った。相変わらずの感じ。昼飯をごちそうになった。今は二つの大学で教えているとのこと。俺より2歳ばかり年上だから37歳くらいか。未だに独身。彼女は元ミス・バンコクなのである。なぜか知らないが、いつも彼は、会うたびに俺を奴の彼女であるNATに会わせたがる。今回も、夕方、同じタクシーにて彼らの待ち合わせであるサイアムスクエアーへ出向く。今、街の中心であるサイアムスクエアーでは、更に大きな百貨店を建設している。NATは昔より若干太っていたが、相変わらずの美貌の持ち主である。25歳の彼女は英語があまり通じないので話は進まないのであるが、とても感じが良い趣ある女性だ。彼女との会話はボラサクが通訳となる。なぜだか俺は、とても彼女に気に入られているのだとのボラサクの話。やきもちを焼くボラサクに腹から笑った。英語上達の為とメール交換を頼まれる。望むところだ。こいつらの結婚式に出席できたらいいなとふと思った。
 
ボラサクとNATに強く夕食に誘われたのだが丁重に断り、スカイトレインでホテルへ帰還した。今宵は日商岩井に働くPIMと夕食を予定していたためだ。ところがどっこい、このスケジュールは潰れてしまい、結局、1人でレストランへ行く末になった。やれやれ失敗してしまった。そのレストランではサービス精神からだろうが、ゆっくりと飲む俺のビールグラスに給仕する女の子はどんどんビールを入れやがる。これには辟易した。ゆっくりさせろって感じなのだ。
 
午後9時。サミー登場。今日は俺の最後の夜だ。取っておきの所へ連れていってくれるとの事。サミーの新車のMAZDA・4WDに乗りこんだ。そこは恐らく俺が知る限り、これまでで最もソフィスティケイトされたナイトクラブであった。そのクラブ『 THE PENT 』は金持ちタイ人のためのクラブであり、メンバーにならなければ入ることが出来ないクラブなのである。入口を入ると、広くゆったりと落ち着いた店内。バーカウンターもあり、ステージではとても才能あるバンドがよく知ったバラードを詠っている。腰まで沈むソファーにて、サミーのボトル、シーバスリーガル12年を飲む。本来、スコッチはあまり飲まない俺だが、この雰囲気の飲みこまれている俺にはそんなことお構いなしなのであった。驚くのはこれだけではないのだ。美女に手を取られ奥に入ると、そこには次のスペースがあり、なんとそこにはプールがあった。プールサイドには椅子が並べられ、金持ちのタイ人たちが会話を楽しんでいる。プールでは美女達が泳いでいるのである。こんなクラブへ行ったことないのだ。更に奥へ進むと、もうひとつの空間があり、そこはいわゆるDISCO的空間であった。気持ちよく酔った人達は最後そこへ集い、踊りまくるというスペースなのだ。このクラブには正直びっくりしたのであった。そしてサミーに感謝したのはいうまでもない。
 
さて驚き顔にて興奮極まりない俺を、再度高級ソファーに落ち着かせると、サミーが定員に何やらオーダーした。定員は2つのサイコロを持ってきた。こうして我らの『スコッチぐい飲み勝負』は始まったのである。参加者はサミーと俺と俺の横に座る美女。用意するもの。サイコロ2つとショットのグラスとスコッチウィスキー。ショットグラスに約1センチ程、スコッチをストレートで注いでスタートである。ルールはいたって簡単、2つのサイコロを振って、合計が8か9であれば負けなのである。そしてそのスコッチをグビッと一気してしまうのである。6が出れば順番がリバースされる。これだけのルールだが、最高に盛り上がった。スコッチのボトルが空くのはあっという間であった。もう大変なのである。その美女も強い強い。次のボトルとなっても続く続く。そこら辺りから俺の記憶がぼんやりぼんやり。
 
何時の間にかサイコロゲームを終えた俺達は、奥のDISCO空間へトリップしていた。カウンターにてまた飲む飲む。ここはダンスフロア―など存在しない。立っているその場がすでにステージなのである。俺は知らないうちにガンガンとその美女と踊っていたようである。記憶の破片。20代の頃のDISCOで踊る俺とオーバーラップしている。翌日、サミーにあんなに酔った俺を初めて見たと言われた。そう云われるぐらい、俺はトリップしていたのである。どうやってサミーに送ってもらったのか覚えていない。ただただ、我を忘れた夜であった。


14-9-2003:
 
14日。帰国の日。俺はぐっすりと午後2時まで寝てしまっていた。昨夜の深酒が祟ったのだ。その代わり、見事な復活である。部屋のクーラーを全開にしキンキンに冷たくしてから、熱いシャワーを浴びる。毛穴から昨夜のスコッチが溢れ出る。ここではダイエットなどクソ食らえなのである。火照った体をソファ―に横たえ、今回のBKKへの旅の満足を振り返る。強いていれば帰りたくない。でもそうはいかないのである。仕事の目的は達成してある。遊びも爆発してきた。これで良いのである。さぁ帰ろうと自分に言い聞かせた。
 
『鹿鳴館』で知り合った友人と日本食レストランでビールで乾杯、次の再会を約束した後、俺は空港へ向かう帰りのタクシーに乗ったのであった。
 
こうして俺の短いが奥深いBKKの旅は終わりを迎えた。何処の国でもそうだが、俺のことを知る友人がいる街とは本当に良いものだ。今回もまた、最高の旅であった。

Appreciating for all of my surroundings in the wonderful city, BKK…

Ciao!!!!




ハノイ放浪2017晩夏 『 ザーザー雨雨ハノイからのギンギン残暑のハロン湾クルーズ 』

2017年09月18日 | 旅三昧!釣り三昧!
ハノイ家族放浪2017晩夏 『 ザーザー雨雨ハノイからのギンギン残暑のハロン湾クルーズ 』

家族でベトナムはハノイを旅してきた。

初日二日目は雨に大いにやられたが、三日目の世界遺産・ハロン湾クルーズは夏の天気であった。

ハロン湾クルーズは圧巻の眺望であった。

また当たりもハズレもあったがみんなで色んなものを食ってきた。

屋台でフォーやブンにもチャレンジしたが、コレは僕だけが楽しんでいたかもしれない。

最終夜のナイトマーケットの人混みの中で、不覚にも僕はスリにカバンを開けられた。後ろを歩く嫁が気づき、大声で僕に伝えなければ財布を抜き取られていたであろう。反省



残念ながら、ホーチミンおじさんには安置されている遺体の年に一度のメンテナンスがありお会いする事は出来なかった。



楽しそうなマイサク



初めて搭乗した東方南方航空だったが、サービスされた缶ビールが冷えてないのには驚いた!恐るべし中国の慣習である…。



ようやくハノイのホテルに到着。なかなか感じの良いレセプションの対応であった。



ホテルのウェルカムドリンクには人参が添えてあった。



朝の屋台でフォーを頼む。周りが汚く辟易するマイ。



しかしフォーは美味かった。



雨の中、ハノイにある大聖堂へ行ってみた。





旧市街の道端では、地元の人々のベタな生活も垣間見れた。





楽しそうなマイサク。



水上人形劇も観に行ってきた。





リトルハノイで乾杯だ!このレストランは家族には好評であった。



翌朝は屋台でブンを食べた。スープが最高に美味い!





片道4時間弱かけて訪れたハロン湾クルーズは圧巻であった。行って良かった。





島に渡り鍾乳洞を歩いた。



島からの眺望である。



楽しそうなマイサク。



そして楽しそうな僕。

最後にもう少しだけフォーとブンについて…



そもそも両方とも米を用いた麺なのだが、フォーはうどん、ブンはにゅうめんといった感じか。毎朝、道端の店にある低いベンチに腰掛けて食べてみたが、鶏ガラを使った鶏肉のブンが僕には最高であった。

バンコクのバーミーに対抗出来る屋台麺なのであった。



何れにせよ、こうやって家族みんなで旅行に行けるのもそうそうないと思うと、せめて2年に一度くらいは色んなところに一緒に行きたいなと一人考えたりした。

いつまでもこんな時間があるといいな。


ハノイ万歳!






白浜放浪2017晩夏 『 目津の瀬に棲む魚たちを狙え!の巻 』

2017年09月09日 | 旅三昧!釣り三昧!
休日の土曜日〜

金曜日の岩国での仕事から帰洛して帰り、翌朝5時半起床、日曜日も仕事という事で日帰りで南紀白浜へ雑魚釣りに向かった。

かなりタイトなのだがそれでも釣りに行きたいのだ。



雑魚釣りベースにてシンジ兄とウチのスタッフのシミズ君が合流。

午前中は水深140メートル辺りを攻めたのだが、なかなか潮が動かず。

僕はケンサキイカ、シミズ君は小ぶりのオニカサゴ、そしてシンジ兄は前回僕が釣り上げたクロシビカマスの馬鹿でかいのを釣り上げた。



今日の深場はなかなか魚の反応がなく難しかった。

2度ほど大物を取り逃がし、ラインも高切れしてしまった。悔しい悔しい。

浅場に移動し70メートル辺りをいつもの海域を攻めると、僕のジグにはカツンカツンも魚が乗り始め、楽しいジギングとなった。



釣果は〜

クロシビカマス、オニカサゴ、ケンサキイカ、アオハタ、ゴマサバ、アヤメカサゴ、カガミダイ、連子鯛、ホウボウ、サメ、エソの11魚種目となった。

僕が釣った魚は全てシミズ君に進呈した。間違いなく美味いと思うのだ!

今日も浅場ではVSジグ160gが圧倒的な強さを発揮したのであった。

もう一個買っとこうかなぁ…笑笑

次回の釣行が楽しみだ。

釣りロマンを求めて〜

横須賀放浪2017晩夏 『 潜水艦とイージス艦と空母をみた!の巻』

2017年09月04日 | 旅三昧!釣り三昧!
久しくお会いしていないお客様の都合が合えば表敬を考えていたのだが都合が合わず、予定通りとなった旅先での休日、今まで訪れた事はなかったが以前より興味があった「横須賀」という街へ足を運んでみた。

海軍基地がある街である。

街に降り立つと想像していたより都会であった。

街行く外人がやはり多い。アメリカドルが使える街と看板に書かれている。

今回一番の目的である「横須賀軍港めぐり」の船発着場を目指した。

途中、どぶ板通りと呼ばれる少しアメリカナイズされた通りを歩いた。

海軍カレーの店やとてつもなく大きなハンバーガーを売るショップが軒を連ねる。

軍港めぐりはとても面白かった。



今日本の海軍で現に活躍する潜水艦やイージス艦、そしてなんとアメリカのロナルドレーガン空母までもが横須賀のドックに係留されていたのだ。



本日、ふざけた北朝鮮が核実験を実施したが、果たしてこのイージス艦はそのミサイルを迎撃する事が出来るのだろうか?

ロナルドレーガン空母は6000名の乗組員を有するらしいが近々に出航するのであろうか?

横須賀軍港にはフランス軍の船、オーストラリア軍の潜水艦もやってきていた。

潜水艦は果たして水深どれほどの海中をどれくらいの速度で進むのであろうか?

などと想像もつかない事を色々考えながら横須賀中央駅の脇にある大衆酒場で昼からビール、そこから酎ハイへと酔っ払い化していった。

帰りにふと思い立ち、亡きシーナさんがオープンさせたばかりの大森のお店を訪ねてみた。

お店のある通りは歩行者天国となり結構大きめなお祭が行われていた。

シーナさんのお店には不動産屋の貼り紙がされ、新たな借主を探しているようであったが、シーナさんのお店の看板はまだ残ったままであった。

小さいがキレイなお店であった。

少し酔っぱらったアタマでシーナさんの事を色々思い、色々考えて帰ってきた。

帰りに今月家族で訪れるハノイに履いて行こうとサンダルを購入した。

のんびりした1日であった。