【タックの放浪記】  思えば遠くへきたもんだ・・・     by Tack SHIMIZU

心に刻まれたその一瞬、心に響いたその一言、心が震えたその想いを徒然と書き記したい。この記憶から消え去る前に…

バルセロナ放浪2011 『 サグラダファミリアの脇をぬけて~ 』

2011年03月31日 | 旅三昧!釣り三昧!
昨夕のフライトでミラノからバルセロナに飛んだ。

今回の旅の目玉である商談がここではあった。サグラダファミリアの脇をぬけて取引先へ向かった。



BEATRICEと話す。日本の地震の事。スペインの国内失業率が20.5%との事。信じがたい数字である。これでは治安が悪くなるのも当然のように思える。

仕事を首尾よく終え、街の中心を目指して歩いた。

バルセロナという街並みは他のヨーロッパの街並みと異なり、新しい感じを受ける。

ガウディやピカソといった芸術は、個人的には自分の趣味ではない。

ただ唯一、ここバルセロナで最も好きな場所がある。それは『St.Josep市場』だ。だからそこを目指した。





ここの市場は19世紀半ばから今尚にぎわっている。

前にここに来た時はマテ貝を炒めてもらい食べたのだが、今日は歩く途中で立ち寄ったオープンカフェでアンチョビーのビネガー漬、そして友人に聞いたウナギの稚魚のフライらしきものを見つけ食べたので、久しぶりに見学して廻った。

やっぱり市場は活気がある。

ホテルに戻る途中に、ホテルのすぐそばにSUSHI-BARを発見。お醤油飲みたい症候群にかかってしまっているオレは、もちろん晩に行ってみたのだが、そこで頼んだ「焼きそば」には度肝を抜かれた。

まずラーメンどんぶりで出てくるのだが、具材にきゅうりとかが入ってあるのだ。それでもって激マズなのである。ほとんど食べられず…。

ヨーロッパでみつける日本食レストランは、かなりの確率で激マズなのだが、今日もその確率に当てはまってしまった。

長年取引をしていた青森の百貨店「中三」が倒産した。向中野社長の心中は断腸の思いであろう。そして親しくしていた人々も全員解雇となるようだ。

恐れていた震災の被害が、もう目の前に現れている。

BASEL放浪2011 『 誕生日のBASELフェア、そして悲報 』

2011年03月29日 | 旅三昧!釣り三昧!
誕生日の朝、ミラノの常宿にて6時に起床し、タクシーでミラノ中央駅に向かった。

そこから陸路、国境を越えてスイス・バーゼルへ。片道4時間の列車の旅である。

アルプスを抜ける列車から見える車窓は本当に美しかった。

切り立った山の合間を列車が駆け抜けていく。青空には雲、山の上には積雪、山の中腹より下には霧、そしてその下の緑の丘のかけあがりにはポツンポツンと点在する石の家。

こういうところに住む人々はきっと朗らかなんだろうと思った。

しかしスイスは物価が高い。"BASEL FAIR"の会場までのほんの少しのタクシー代が2500円である。

日帰りというタイトな予定にしたのが失敗であった。4時間余りの間に、4件の取引先を廻る羽目に…。

ミラノへの帰りの列車の中、チビらから届いたメールをもう一度読んだ。いつかやつらが大人になった時、間違いなく忘れているであろうこのメールを、製本するここに貼り付けて、残しておいてやろう。


長女マイから、




次女サクから、




もう43歳である。まだ43歳である。


そして… 日本より悲報が入った。

今治にて、振り返れば10年近く、ずっと親しくして頂いてきた外商のUMAKOSHIさんが昨日他界されたとのこと。正直かなりショックだった。

とても個性が強いが心が純粋な方であった。

今月の頭、今治国際ホテルの駐車場でばったり出会った時、いつものように苦虫をつぶしたような顔をして、『わしゃ膵臓癌みたいなんじゃわ。困っとんじゃわ!』といつものとおり、冗談交じりで笑い話すUMAKOSHIさんに、『またまた~(笑)、詳しく検査してすぐ教えてくださいね!』と軽く流して別れたのが最後の会話となった。

本当に癌だったとは…

あれから3週間と少ししか経っていないというのに…

正直、まだ悲しいという実感すら沸かない。帰国したら出来る限りはやくご霊前に挨拶に行こうと思っている。


また4時間かけてミラノに戻った。なんだか今日は心身ともに疲れてしまった。ホテルに戻り、食べに出る気力もなく、日本から持参したカップラーメンを食べた。

今夜は赤ワインを多めに飲んで寝ることにする。

Tomorow never knows...


フィレンツェ放浪2011 『日本に届け~ ドゥオモの鐘の音よ!』

2011年03月28日 | 旅三昧!釣り三昧!
バンコクにて2日間働いた後、昨日、イタリアへ飛び、フィレンツェに入った。

いつもの通り働いて、昨夜は、MEINI家族のご自宅にて晩餐の招待を受けた。

バンコクでもイタリアでもみんなに日本の地震に関する温かい励ましの声を頂いた。

バンコクで立ち寄ったスクンビットにある百貨店「EMPORIUM」では、日本支援のためのチャリティランニング「RUN FOR JAPAN」のカウンターがあり、タイの人々が列をなして寄付してくれているのを見かけ、目がしらが熱くなった。

今朝、フィレンツェのドゥオモの前を通り過ぎる時、ドゥオモの鐘が目の前で鳴り始め、足を止めて聞いていた。この音が被災された方々に届けばいいと心から願った。



そして今、オレはミラノに戻った。明日は早朝から陸路で国境を越えて、スイスのバゼルへ向かう。ミラノから日帰りの旅となる。

気合いを入れていこうと思う。

暇な休日~

2011年03月21日 | 徒然日記
突然の2日間の連休。することを考えるのが大変。仕事ばかりしているとこうなるんだなぁとつくづく思う…。

昨日は朝、義仲寺まで歩いた。5.71KM、小一時間の運動だった。以前にも書いたが、義仲寺には、源義経に討たれた木曽義仲、その奥方で女武将だった巴御前、そして松尾芭蕉のお墓及び供養塔がある。

「木曽殿と背中合わせの寒さかな」芭蕉の弟子であった又玄作

昼、数年来放ったらかしにしていた庭のオレ専用花壇を耕した。そしてアヤハディオに行ってジャンボアスパラの根を買ってきて埋めた。ジャンボアスパラは短年草ではなく、毎年生えてくるらしい。楽しみだ。

ここに書き忘れていたが、サクが先週、小学校を無事卒業した。「おめでとう!これからはいっぱしの大人だなぁ」って話すと、「うん。」と当たり前のように答えた。

本屋で本を4冊求め、早速昨夜から「日本怪魚伝(著・柴田哲孝)」を読み始めた。なかなか面白い。

そして、結局今日は会社に来ている。来週からの海外出張のためにもう一度、何をどこですべきか考えてみるつもりである。

自分の出来る事を!

2011年03月19日 | 仕事!仕事!!
熟考の末、現在の日本で何ができるかを考えた結果、来週水曜日からの海外出張を変更することなく遂行する事にした。

中部以西の市場は、この状況下でも全く動かなくなっているわけではないようだ。

なにが不謹慎でなにが不謹慎ではないかは人それぞれだが、この日本を少しでも救い上げるには、西日本では今まで以上に力強く経済を回すべきとひしひしと感じている。

少なからず日本人全員が被災している現況、自分の出来うる事をして国を救おうと思う。

希望という名の光

2011年03月17日 | 徒然日記
今日、墓参りに行った後、車でAMラジオを聞いてたら突然涙がでてきた。

どうかもう東北と東京を揺らさないでほしい。

もしどうしても揺らすのであれば、東北と東京ではなく、オレのいる京都を揺らしてくれればいい。辛いのは分ち合えるから。

どうかもう東北と東京は揺らさないでほしい。



「アリカコレクション2011展」の延期

2011年03月16日 | 仕事!仕事!!
今朝のALKMEETINGにて、来月下旬に開催を予定していた「ALIKA COLLECTION 2011展・京都」を、6月上旬に延期することに決めた。

また、この震災により、今月来月とスケジュールしていた様々な企画展を中止又は延期せざるえなくなった。

こんな現況で、ジュエリーの催事などしている場合ではないとオレも思う。

個人的に仕事としては、かなり痛いがよく考えてまた組み立てていこうと考えている。

なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり

郵便局へ行ってきた~

2011年03月15日 | 徒然日記
京都から大阪北摂のお客様を表敬する営業の一日。

本来であれば今週は東京、横浜での仕事の予定であったが、このような状況下にて、それは到底不可能。昨日、予定を早く切り上げ京都に戻った。

しかし、福島原発の状況が非常に気にかかる。大変な事態と考えている。

ずっと前から考えていたのだが、なぜもっと早く、近郊の人々を避難させないのであろうか…。少なくとも半径50キロ圏の人々を避難させる動きをすでに進め、その受け入れ先の選定を早めにしたほうが得策と考えるのはオレだけであろうか…。

現政府が頑張っている事はよくわかる。しかし、もし掴んでいる情報がもっとあるのであれば、早め早めに想定される事態の可能性を唱え、それに備えたほうが絶対に賢明だと思う。

今夜は、本来であれば親しくなったFACEBOOKの仲間達との飲み会であった。今回の中止は致し方あるまい。

もしその飲み会に行ったら使ったであろう分のお金を持って、郵便局に行って募金してきた。

オレの出来る事などほんのわずかであるが、それでも少しでも被災した人々のために役に立てもらえればと心から願っている。

オレが体験した東北太平洋沖地震

2011年03月14日 | 徒然日記
3月11日:

数日前から、何度となく揺れていた。日中、朝方。しかし、それがまさかこの余震だったとは…

この日、東北での仕事最終日だったオレは、盛岡滞在のホテルをチェックアウトし、外商に出て、岩手県南の奥州で働いた後の夕方、新幹線にて東京へ向かう予定となっていた。

遅めの午後、お客様の会社事務所にて商談を終え、その社長と外商Hさんと3人で雑談している時にそれは起こった。

突然、その会社のスタッフの携帯電話が数回、アラームのような普段聞き慣れない音を発し、全員で何の音かといぶかしげ、顔を見合わせた直後、会社が大きく揺れ始めた。

尋常ではない大きな揺れに、我々3人は机の下にもぐりこんだ。阪神大震災の時ですら、こんなに長い時間揺れたであろうか…。

社長が咄嗟にストーブの電源を落とす。会社の電灯が揺れの途中で全て切れた。まだ揺れている。そこのスタッフらに机の下にもぐるようにオレは大声で伝えた。

一旦揺れが収まったところで、みんなで外に脱出した。倒壊が怖かった。

近くの会社の従業員らしき人々もみな寒空の外に出てきていた。

全く状況がわからず、携帯も繋がらない。我社で使用しているPHSのみがなぜか使えたので、即座に会社にTELし、大きな地震に出くわしたが大丈夫な事を伝え、インターネットにて情報をチェックしてもらった。

仙台沖にて震度7との事。ただただ愕然とした。

とりあえずそのお取引先を出て、車に戻りラジオを点けて、近くのパチンコ屋の広い駐車場に避難した。ラジオでは、岩手県太平洋岸に津波がやってくる事の警告が何度も何度も、とにかくはやく高台へ上るようにと何度も何度も叫んでいた。

その後、しばらく待機していたがどうしようもないので、Hさんと盛岡へ車で戻る事にした。勿論、電車どころか高速道路も全面閉鎖状態にて、下道を盛岡に向けて北上した。

雪が舞い、陽が陰ってきた。

岩手県全域が停電とのラジオの声、オレは盛岡に戻っても滞在すべき場所がない。京都の会社スタッフに盛岡で滞在できるホテルを探してもらうべくメールしたのだが、繋がらない所がほとんどで、繋がってもお客様を客室に入れれない状況にてホテルロビーにて待機してもらっているらしいとの返信があった。

盛岡に戻り、Hさんと別れて、オレはカワトクの向かいにある「ホテルロイヤル盛岡」へ足を向けた。どこか避難できる場所を見つけないとこの夜空の下では凍死してしまう…。

歩きながら、電気の通っていない街とは、こんなに真っ暗なんだなぁとぼんやり思った。信号も点いていない。ただただ通り過ぎる車のライトのみ。まさに死んだ街であった。

ホテルの玄関に着くと、50人近い客がロビーの思い思いの場所やソファに腰掛けて、かたまっていたので、オレもそれに混じる事にした。

入口のドアから近く、人が出入りする度に外気が入り寒い場所であったが、唯一空いていたそこのベンチに腰掛けた。

フロントにはロウソク。そのロウソクの光の下に従業員と話すと、客室は地震直後の状態のままで、電気も通っていないので、お客様にまだ上って頂けないとの事であった。

フロントに置かれていた毛布をお借りして、ベンチに戻る。しばらくすると、ホテルから蕎麦が支給され、オレも列に並んでそれを頂き食べた。

ラジオの大きな実況中継を聞く事だけが、そこにいる人々の出来る事。IPHONEのバッテリもなくなってしまった。

2回ほど、チビらからのTELが繋がり、その声に元気をもらった。パパは大丈夫と無理に陽気に話し安心させた。

スーツとネクタイ、マフラーにコート、そして革靴を履いたまま、毛布に包まって目を閉じる。

また大きな揺れで目が覚める。ボストンバッグを枕にすこし寝ていたようである。この状況でも寝れるもんだなぁって、ぼんやり思う。

深夜、懐中電灯を手にしたホテル従業員が、フロントの一番近くにいるオレの所へ来て、他の人に一度に聞こえないような小さな声で、「地震がすこし収まったようなので部屋に入られますか?」と聞いてきた。

部屋は508号室。従業員用の通路から真っ暗の中をオレを引率してくれる従業員の手にある懐中電灯の光をたよりに非常階段を上った。

暗がりの部屋に着いたオレは、そのスタッフに懐中電灯を1つもらい、ポツンとソファに腰掛ける。

電気の無い部屋。真っ暗な部屋。無音の部屋。

もらった懐中電灯を、備え付けのティッシュケースの口に挿して、天井に向けて部屋の中心に置いた。こうすればぼんやり部屋全体が見合わせた。

そしてオレはベッドに潜り込んだ。


3月12日:

朝、目覚め、懐中電灯を手に1階へ下りると、出来合いのものでこしらえた朝食が用意されていた。とてもありがたかった。

朝食のおにぎりを食べた後、開いているコンビニを探し歩くと、1軒だけ店主のボランティアの心からであろう開いている店を見つけた。そこで今夜の赤ワインとビール、チョコとポテトチップ、そして時間つぶしの為に活字をと、生まれて初めて「文藝春秋」らを求めた。店にはおつりがないとのことで、財布にあった3000円分だけカゴから計算しながら選んだ。

電気がない生活。

普段、当たり前に日々使用しているものを失うとこうも不便かと深く考えさせられる。身近な物の貴重さがこういうときによくわかる。

唯一、メールが使えていたドコモ携帯も充電が時間の問題となってきた。

部屋に戻り、今の自分の状況を考える。窓の外にはまた雪が舞い始める。

昼、盛岡駅まで歩いた。どうにかして東京に戻る術がないかと思ったからだ。しかしJR及び高速バスは不通、レンタカー屋に行ってみたものの、仙台、福島の下道が断裂しているから車では困難だろうとの話であった。

下手したら、JRか高速が復旧するまで、盛岡を離れられないかもしれない。

また余震があった。1日に何度かかなり強い余震がある。

携帯電話が普段耳にしない音を告げ、嫌なメッセージが届く。

「今、岩手県沖でかなり強いゆれが発生しました。それに備えてください。」

オレは、備えようにもどうしていいかわからない。ただただ、カラダを小さく固めてソファで待つのみである。あるのは恐怖のみだ。

その数秒後、グラグラがやってくる。

つくづく被災地に住む方々の精神的ストレスは相当だと思う。

暗くなる直前、突然ホテルの電気が点いた。従業員ら皆より歓声が上った、オレも声を出していた。

夕方もホテルのロビーでスープと白ご飯が支給され、それを並んで頂いた。


3月13日:

朝、早めに着替えて行動に出た。

もう一度、駅前のレンタカー屋に行ってみた。しかし、どの店も市内全域が停電であった事が原因でガソリンが供給されず車を用意できないとの一点張りであった。

仙台、福島を抜けて東京に戻る事がすぐには不可能と判断したオレは、駅前ロータリーに並んだタクシーから、個人タクシーを見つけ折衝し、秋田まで連れて行ってもらうことに決めた。

それと同時にネットにてチェックしてもらい、運よく1席だけ空いていた14:45の秋田発東京行のフライトを押えてもらった。

そして、これを書いている今は東京への機上にいる。

17年前に大阪・池田で阪神大震災を体験し、そして今回、岩手県南部でこの地震をまた体験した。

自然災害を前にすると、人間とはとっても小さいものだとつくづく感じる。悲しきかな、起こってしまった事態は現状として受け入れざる得ない。

被災者の方々、身内を失った方々、行方不明の方々の事を考えると、いたたまれない気持ちになる。あのオレが体感した揺れによってこのような悲惨な事が起こっているのである。

でもこの現況、全ての人々が辛い悲しい思いという点では、間違いなく同じ方向のベクトル上にいる。

だから、例え小さな事でも、それぞれが出来る事で協力し合いたい。

それが人として最も大切な事だと思う。