Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

新車は福音か毒饅頭か

2014-06-23 23:00:00 | 交通
広島地区にJR発足後初めてとなる新車227系が投入されることが公式に発表されました。
思えば「ひろしまシティ電車」として1982年から投入された115-3000系を最後に、各地域の「お古」が跋扈する状況でしたが、同系列の最終投入から約30年ぶりの新車直接投入というのは、さすがは「国鉄広島」の異名を取るだけあります。

ただそれまでは1978年の115-2000系の直接投入による80系や113系(111系)の置き換え、115-3000系による153系の置き換えなど、他地域と比べても遜色ないというか、一歩進んだ感じでしたが、どこでどう歯車が狂ったのか。同じような「車両の墓場」状態だった千葉支社は、国鉄末期の労働問題が尾を引いての「懲罰的」対応というある意味分かりやすい状況でしたが、広島の状況は説明が付かないままに続いてきました。

まずはおめでとう、というところですが、さすがは広島支社、そうは問屋が卸さない、という「地雷」が混じっています。
つまり、今回「置き換え」をする227系は3連と2連。対象となる115系は4連と3連です。JRWの地方線区ではお馴染みの「減車」が露骨に見えるわけで、新車は嬉しいが、座れなくなった、では困ります。

ラッシュ時の8連がどうなるのか。3+3+2なんて器用な編成を組むのかどうか。3+3の6連に詰め込むのではないか。そして日中の4連は3連で決まりでしょう。
広島から東方面だと八本松で座れないことが多いのに、3連になるとそれが西条、下手をしたら西高屋で埋まる可能性もあります。西方面だと世界遺産宮島へのアクセスにもなっているのですが、詰め込みでしょうか。この区間は広電も居住性が悪く遅いので困りますね。

公式発表ではいろいろな新基軸を盛り込んだ新車であり、地上側対応が整い次第運行するとありますが、それが白市♀竝曹ニいうのも気になります。
現在毎時2本見当の三原方面直通は当面115系(の4連)で残るのならいいのですが、3連、あるいは白市での系統分割となり、「セノハチ」を越えないということで、105系の2連が出てくる可能性も否定できません。

なにせ呉線の日中で、柱エ、三原系統を誰がどう見ても呉、広島方面に向かうはずの広で系統分割するような支社です。白市で系統分割しても不思議ではありません。
それどころか、三原のホーム使用法を変えて、本線岡山方面の折り返しを1番線にして、呉線は2番線か3番線で折り返して105系2連が広℃O原#虫s、なんて運用もありえます。
(須波→三原→本郷は2、3番線で折り返せる。逆は3番線のみ)
※残る毎時1本は3番線折り返しか、糸崎折り返し。

上記の呉線の系統分割もそうですし、山陽本線では相生で本線岡山系統が赤穂線系統の新快速に乗り換え(有年以遠から姫路に行くのにも相生乗り換え)ということを平気でしてますから、新車がとんだ毒饅頭にならないことを祈ります。



サッカーに熱狂するのもいいが

2014-06-20 23:34:00 | ノンジャンル
サッカー日本代表、W杯の予選リーグ第2戦を引き分けてまさに崖っぷちです。
初戦のコートジボアールは相手主戦を欠いた状態で先制したものの、主戦が戻ってきた途端浮き足立ってあっという間に逆転されましたが、今回は相手がレッドカードで1人少ないと言うのに、完璧に守られてしまいました。

まあ、相手のギリシャも勝たなければ話にならないはずで、お互い勝ちに行く殴り合いのような試合になるべきところ、勝ちに行かない姿勢を取られてしまっては苦しいですが、1人多くてもそれまで、というのは厳しすぎます。

今回のW杯は地球の裏側ということで、試合時間が日本時間でとんでもない時間、と思いきや、真裏が幸いして向こうの夜はこっちの朝ということで、深夜や未明にならずに済んでいます。
しかし結局は朝ということで、平日の試合となった第2戦は早出して会社のそばで観戦して、試合終了とともに出社する、と言う人も多かったようです。

メディアも各紙各局とも大騒ぎですが、ふと冷静に考えると、それこそ2002年の日韓共催、1998年の初出場の頃にここまで熱狂的だったのか。
サッカーファンは「W杯の重要性も理解しないとは」と2002年の開催などを後押ししてきていましたが、我が国においては高々10年程度の「熱狂」であり、なんでそこまで「サッカー一色」にならないといけないのか、と思うときもしばしばです。

「W杯の重要性」と言っても、サッカーが盛んなら日本の将来もバラ色か、というとさにあらずで、逆にサッカーに無関心だったかつての頃こそ日本経済が隆盛を極め、サッカーにうつつを抜かすようになって「失われた...」のドツボに嵌っているともいえます。

そして前にも批判しましたが、フェイスペインティングなどの「妙な風習」の「輸入」や、渋谷スクランブル交差点に代表される騒乱の跋扈も、サッカーに対する熱狂と明らかに連動しているわけです。

欧州や南米と言った「サッカー王国」におけるサッカーは何か。そう考えると、一定の経済成長を成し遂げてはいるが、経済発展を必ずしもなしとげておらず、階層分化がある国における「下層」に属する勢力の「発散」ツールとして機能しているわけで、日本がサッカーにのめり込むようになった軌跡と、経済の低迷や格差社会化のリンクは偶然ではないでしょう。

俗に言う3S政策じゃないですが、90年代以降の「サッカー文化」の導入は本当に純粋なものだったのか。為にする政策はそれこそ10年単位のスパンで「仕込まれる」わけですが。


捏造して居直る病理

2014-06-17 00:35:00 | ノンジャンル
「技のデパート」として名を馳せた元小結の舞の海。今ではNHKの解説者と旅番組などの二束のわらじが定着しています。
引退直後からそうしたお仕事が舞い込んでいたようですが、旅番組で土地の名物を前に、よくある「美味しそうな」形容詞が出てこず、ありゃありゃ、と頭を抱えるようなコメントを耳にしたこともあります。
それが今では確固たる地位を築いているわけで、小兵のハンデを技を磨くことで克服していたように、「第二の人生」でも人知れず苦労していたのでしょう。

親方として角界には残らなかったものの、解説者として今では親方OBのベテランに交ざって活躍していますが、角界は離れたものの、解説は的確でかつ厳しいものもあり、解説者としても地位を築いています。

その舞の海が妙な「トラブル」に巻き込まれました。
ある集会で、外国人力士を題材に「排外主義」的な講演を行ったと雑誌に書かれたのです。
まあ掲載した雑誌が有名な左派系雑誌であり、その時点でバイアスがかかっている予想はしたのですが、相撲というある意味伝統文化の世界の人で、保守系団体の集会ですから、ひょっとしたら、と思った人も少なくなかったでしょう。

しかし実態は違いました。報道があったあと、テープ起こしの文章や、さらには動画まで出てきて、舞の海の講演は当該記事とは全く違い、異郷で頑張る外国人力士へのリスペクトをベースに日本人力士への奮起を促す内容だったのです。

要は誤報、いや虚報、捏造の類だったのです。
保守系団体の集会での講演だからそんなところだろう、という「予定稿」というには酷過ぎる内容であり、意図的にその団体を貶める目的で捏造したとしか思えない話です。
そのとばっちりを受けたのが舞の海ですが、普段「色」が付いていないだけに、「これはおかしい」と裏を取る動きがあって助かったと言えます。

雑誌側は動かぬ証拠(動画ですから「動く」証拠ですね)を突きつけられたわけで、ここまで来ると解釈の違いともいえないレベルの「捏造」とあっては、雑誌の信頼、存立にかかわる問題です。
さすがに編集部名でお詫び記事を出したのですが、素直でないですね。

そもそも複数の発言をつまみ食いして「舞の海氏の特徴的な発言を一つにまとめたものでした」というのを歪曲や捏造というのであり、「意図的な歪曲や捏造ではありません」とは恐れ入ります。
おまけに「昭和の日」を祝う保守系団体の集会に招かれて講演することが悪い、アジア侵略を肯定する連中だから排外主義といっても問題ない、と言う論調は、メディアとして決定的な、致命的な「捏造」であっても、相手が保守系団体であれば許される、というが如きであり、「造反有理」を叫んだ文革の紅衛兵だってもっとマシな理由で活動していたわけで、話になりません。

俗に息を吐く様に嘘をつく、といいますが、その嘘がバレてなお居直るのを見ると、左派系のメンタリティの罪深さが相当深刻なことがよく分かります。
自らが信じる正義のためなら嘘をつくことも平気であり、無実の罪に陥れることも辞さない、というわけです。

そういうスタンダードで行動する勢力が唱える「民主主義」は、反対する勢力に一切の意見も許さないどころか意見を捏造するわけで、これでは意見を戦わせる以前の問題であり、民主主義のつまみ食いに過ぎません。



唇寒し民主主義の問題点

2014-06-17 00:27:00 | ノンジャンル
「吉田調書」がいまいち不発だったので、今度は「福山調書」ときました。
全文を正確に開示せずに、都合のいいところだけ小出しにして、調書の何倍もの「独自解釈」で換骨奪胎する手口はもう通用しません。

メディアが笛や太鼓で「脱原発こそ正義」と囃し立てていますが、自分たちの意見が正義だ、という主観的尺度で動いているわけです。だからこそ規制委の人事で、脱原発、反原発の人間でないからケシカラン、というトンデモを公言するわけで、「偏った人事」という意味ではメディアが批判する「推進派の登用」と何等変わるところがないのに、自分たちは正義、それ以外は不義、というわけです。

まあそれでも「独り相撲」で世論が冷ややかに見つめるのであればいいのですが、あの手この手で世論を誘導している、しかもそれが「自分たちに対する反対意見」を封殺することで、ノイジーマイノリティに属する主張しか世の中に流通しないように仕向けているのが問題です。

先日異業種のそれなりに社会的地位にある方々と会食する機会を得ましたが、何かの弾みで再生可能エネルギーの話になり、「それはいいんだけどベース電源になるかと言うと...」と言う至極もっともな流れになりました。

ところがそのあとを受けるはずの「だから原発を...」と言う部分を誰もが口を濁すのです。
まあ「そのあとはお察し」と言うことでしょうが、あまりにも不自然な会話になったわけです。何でこんな会話に、と思うに、プライベートも含めて「原発稼動(推進)」を口に出すことが、それが正論であっても憚られる空気が蔓延していることがあります。

理路整然と訴えても「原発推進→フクシマの悲劇を何と見る→ケシカラン!」と感情的な批判を浴びるだけでなく、そのような社会的地位にありながらケシカラン!という社会的地位を人質に取った批判を受けるリスクが高いのです。つまり、その地位を失わせるような「運動」がメディアを含めて横行しているがゆえに、発言に慎重にならざるを得ず、その結果、ノイジーマイノリティが跋扈することで、メディアを含めたその手の勢力の「圧力」となる常套手段となっています。

そういう「圧力」の影響を受けない階層。例えば学生、主婦、高齢者といった社会的地位と無縁な階層や、アカデミズムや教員のような、良く言えば圧力に屈せず、悪く言えば統制が甘い集団、さらには市民団体など最初から「色」ついている傾向にある階層の声が「世論」として幅を利かせている構造的問題が、日本の「民主主義」の問題と言えます。


桂宮殿下の薨去を悼む

2014-06-08 23:33:00 | ノンジャンル
桂宮殿下が薨去されました。謹んで哀悼の意を申し上げます。

「ご危篤」が公表された時点で時間の問題と推測できましたが、病床にあることが多かった殿下がついに力尽きた格好です。

三笠宮殿下の次男ですが、三男の高円宮殿下が2002年に急逝され、長男のヒゲの殿下こと寛仁親王も2012年に薨去されており、あろうことか父宮殿下を残して男子皇族が総て薨去されるという事態は、皇族の男系男子の後継者問題を象徴しています。

ネットでは取ってつけたような「哀悼の意を表します」系の書き込みが散見されますが、そう言う手合いに限って日頃皇室、皇族をきちんと意識していたのか。桂宮殿下の存在をきちんと認識していたか。といいたくなりますね。
そうそう、MS-IMEも三笠宮や高円宮は一発変換できますが、桂宮は「かつらのみや」と入力しても変換できません。これを笑えない(怒れない)レベルの認識で、「謹んで...」と書いていませんか?

一方でネットでは「薨去」の表現に異を唱える人もいますが、崩御、薨去の語を意図的に排除するメディアは「ご逝去」としたり、「ご」もいらんとばかりに「逝去」としています。
これも皇族に専用の敬語など、という反体制気取りの対応ですが、そう言うメディアに限って、「死去」と「逝去」を使い分けているわけです。

しかもその基準がはっきりしない訳で、なぜ「死去」なのか、なぜ「逝去」なのか、皇族に「崩御」「薨去」を充てるよりも曖昧で、メディア風情がランク付けをしているわけです。
皇族には「格上の表現」を拒む一方で、一部の一般人に対して自社基準で「格上の表現」を使うことが自己矛盾でないと、整合性ある説明をしてほしいものです。

まあ、今回は産経が「薨去」を通したのは評価できます。
寛仁親王の際には「ご逝去」としたヘタレぶりでしたから。