Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

未だゆとり礼賛の影が

2010-12-23 00:40:00 | 時事
国際的な学力調査(OECDによるPISA調査)の結果がでて、日本はやや持ち直しましたが、アジア各国と比較すると中国や韓国との格差が大きいという結果がでました。

以前の調査で「優秀」だったはずの日本の学力が実は急落していたことが判明したという事実が、「ゆとり教育」を見直す契機になったわけで、一部の特殊な発想で社会実験まがいのことをした弊害の恐ろしさと、客観基準の導入がそうした施策への歯止めになるという好例でしょう。

以前の結果が絶対的な学力の低下を浮き彫りにし、今回は相対的な学力の低下を浮き彫りにしたわけで、グローバル化を否が応でも進めないといけない状況において、この状況はまだまだ危機的です。
しかしそうした客観的根拠を見せつけられたにもかかわらず、「ゆとり」の夢からまだ覚めないのか、学力だけあっても、とか、競争する必要は、とか寝言を言う勢力が存在するわけです。

もちろん一握りのエリートを育てて良しとする中韓のようなスタンスも嫌ですが、そうならないようにするには、まず日本全体で絶対的な学力水準を向上させ、国内で熾烈な競争をしなくても国際的に見ればハイレベルの人材が揃うという体制にもっていくわけで、それはすなわちこうした客観評価における絶対的な水準の底上げから始まり、それの結果としての国際比較での優位性の確立となるわけで、この手の「ゆとり」礼賛の論理では決して辿り着けません。

まあ「天然」であればまだいいんですが、為にする意図があって「ゆとり」を推進しているとしたら、国力や将来性という意味で非常に問題ですし、教育というものは10年、20年単位で国を作ることもあれば国を滅ぼす方向に働くこともあるので要注意です。

上記のような「ゆとり」礼賛はメディアにも多く見られるわけですが、馬脚を現すというか、同じ紙面、誌面で、日本企業が優秀で即戦力の中国などアジア各国の人材を採用しているといった、まさに日本の学力低下を象徴するような事象を報じているわけです。

それと「ゆとり」礼賛を両立させるには、中国や韓国などの優秀な人材の下で「ゆとり」脳に侵された日本人が使われるという事象しかないわけで、そういう意味ではあらゆる局面におけるこの手のメディアの動向と一致しているということはいえます。


もう少し有害コミック問題

2010-12-23 00:37:00 | 時事
もう少し「有害コミック」問題を考えて見ます。

この手の作品が性犯罪に影響する、そこまで行かずとも青少年に悪影響を与えるという主張に対し、そのような客観データは無いという批判があります。
しかし私も含めて、少年たちが通ってきた道を思い起こすと、紙媒体から映像媒体への進化はありますが、この手の出版物に無縁であったとはいえませんし、「大人ってこういうことをするんだ」という知識を蓄えてきたことは否定できません。

そもそも初心な二人に老職が手取り足取り教えたといわれる近世以前の上流階級や、共同体の中で年長者が自然と教えている近代までの村落でも無い限り、本能があるとは言いますが、「お手本」無しで具体的行動は判るはずが無いからです。

いきなり露骨な表現になりましたが、そういった「役割」も担う必要悪でもあるこの手の「有害」系の出版物から受ける影響は少なくないわけです。
それがもし、いわゆる「アブノーマル」を一般化する役割を果たしていないとは言い切れませんし、アブノーマルは特殊なケースですが、今でこそ当たり前であっても昔はアブノーマルだったとか、行為の低年齢化に影響を及ぼしていることは事実でしょう。
そう考えれば、今回規制対象となった「行為」に対するゾーニングはやはり妥当なものといわざるを得ません。

一方、こうした表現や媒体がなぜ求められるのか。売春、つまり性産業は人類最古の職業であるといいますが、そうした需要のライト版という感じで、読者の性的嗜好に応えるために他ならないわけで、そういう嗜好品に対するゾーニングは酒やタバコ同様存在することを否定しません。
一方でコミックの表現上どうしても必要だ、と言い切れるのであれば、それは「猥褻か件p(表現)か」という論点で真っ向から世に問うべきですが、例えばいわゆるヘアヌードのように一昔前はご法度だったものが今は当たり前という評価基準の変化もあるわけで、それが期待できないのであればやはりエロの域を出ずに件p(表現)としても容認されないというオチでしょう。

そういう意味では今回「あの名作のあのシーンはどうなる?」と言われているものにも、実は性的嗜好、とまでは言いませんが読者のスケベ心に期待するだけというものもあるわけで、規制反対派がいの一番に挙げる「ドラえもんのしずかちゃん」だって、はっきり言ってしまえばのび太のドジを表現する展開で入浴シーンを絡ませる必要は全く無く、単なる「サービスシーン」に過ぎないわけで、水戸黄門の入浴シーン同様、無くてもストーリーは成立します。

極論を言えば、読者の性的興味、欲求(ライトであってもスケベ心もその範疇ですよね)を満足させるための表現という意味では「有害コミック」との共通点が程度の差は甚だ大きいとはいえあるわけで、程度の差による法律、制度上の区分が難しければ排除側に回されてもなんらおかしくないといえるのです。

しかしそんな無味乾燥、人畜無害な作品ばかり世にあふれても面白くないですし、今回の規制対象となった性的表現以外の暴力的表現などを含めて、若干の毒、雑味があってこそのコミックですから、青少年向けとはいえそんなコミックは存在価値がありません。
そう考えたとき、そこのボーダーラインをきちんと自主的に引いてこなかった出版社と作者の罪は非常に大きいわけで、自浄能力がないと判断されてからあたふたしても後の祭りですし、世の賛同も得られません。

これまでの動向を見ても、コミック黎明期からあったこの手の批判に対し、小手先の対応で済ませてきたツケといえるわけで、ほとぼりが覚めたらより「過激」かつゾーンニング無視に走ってきて、何を今更という思いもあるわけです。

さて、そういう出版社と作者が「言論・出版の自由」「表現の自由」を大上段に振りかざしているわけですが、ゾーニングすら許さないという鼻息の荒さを見ると、さぞや作品の発表、出版に関しては自由を担保していると思うはずです。

しかし実際には自由どころか自主規制、ひどいときには発表後の差し替えも多々あるわけです。
また、とある大御所の作品では、触法行為でもない特定の行為について一切表現しないと宣言して、以後作中に一切その描写を出さないというケースもあるのですが、そうした自主規制はどうなのか。「有害」問題のように作中での描写についての批判が一般的に見られるレベルだったのか。

それも表現のうちといわれればそれまでですが、「言論・出版の自由」「表現の自由」という原理原則を振りかざす中での正反対の対応は理解しにくいものですし、それこそ「商売」にかかわるかどうかで対応を使い分けているといわれても仕方が無いとも言えます。

最後に、今回の都条例に反発して出版社が都主催のイベントへの出展を「拒否」したことが話題を呼んでいますが、そういう対応の中で気になったのが、自社作品をアニメ化したケースに対し、製作会社に対して出展しないように要請したという記事です。

契約関係次第ですが、原作がその出版社であっても、出版社が所有する著作権などの権利を侵害するような行為で無い限り、製作会社の行動を全面的に縛れないはずです、というか、一定の使用権利を持っているはずです。
もしこの出版社が一切の使用を認めない、常に使用許諾を要求するといった契約なら「要請」ではなく淡々と契約に従って処理すればいいだけですし。

もし都主催のイベントへの出展が、製作会社に属する一定の使用権利の範疇であれば、出版社の「要請」は独禁法に抵触する可能性があります。(こうした「要請」が独禁法に抵触する可能性があるということはコンプライアンスに注意を払う社会人なら常識ですよね)
「言論・出版の自由」「表現の自由」の危機と言うのはあくまで出版社側であり、明確に自由が侵害された、憲法違反の事態とまでは言えない状態に対し、独禁法違反という具体的な法律違反が発生してはいけないでしょう。


出版、表現の自由とは

2010-12-23 00:35:00 | 時事
言論・出版の自由、そして表現の自由というものは、民主主義、自由主義の根幹をなす基本原則です。
その自由を取得するために、また、守るために多くの人が努力し、また血を流してきたわけです。

それが担保されない状態とはどういう状態か。自分の意見も言えない、言うと弾圧されるという状態になるわけですから、その自由の重きこと、尊きことは言を待ちません。

その自由の危機が喧伝されているのが昨今の「有害コミック」を巡る問題です。
確かに主観的で曖昧な定義、性描写にとどまらない対象を考えると、蟻の一穴ではないですが、それが拡大される可能性を危惧することは理解できます。

しかし一方でこの規制レベルが自由を云々するようなご大層な問題になるのか、とも言えるわけです。
この自由を云々するのであれば、それは言論・出版や表現そのものが規制されるような重大事態を意味するはずです。しかし今回の規制はあくまで年齢対象商品といったゾーニングの問題に留まっており、ゾーニングを除けば言論・出版や表現そのものへの規制はありません。

他方この規制に賛成する側のスタンスとして、青少年への悪影響という倫理的側面があります。
件pか猥褻か、という論点に代表されるように、言論・出版や表現と倫理は時に対立するわけですが、法律論、制度論で見れば、法律、制度という客観的基準で判断することが正義であり、倫理的感覚という主観を拠り所にした自由の規制はありえないわけです。

そういう意味では原理原則論で自由を振り回すことは、倫理的感覚、社会の慣習といったものを破壊する方向に働くことは否めず、男女同権思想が昂じてジェンダーフリーになり、家族制度を破壊する方向に働くのと同じベクトルで行動しているわけで、今回の規制に反対する向きを見ていると、本来そうした方向性と対立する立ち位置のはずが、要は知らず知らずのうちに自己矛盾を犯しかねない面を持っています。このあたりも大義を掲げながら実は主観に基づいた行動という側面が見え隠れしています。

この問題が複雑であり、かつ狡猾であるのは、おそらく一般常識の域として疑いが無い倫理的規範に抵触するものを対象とする意思に対し、ごく一部の件p性が認められ、表現の自由の果実として相応しいものが対象になるとして反対する構造です。

悩ましいのは極めて主観的で定義が難しいが、意見が分かれる事は無いであろう「件p作品」を救済することは、法律や制度が最も苦手とすることということです。
ゆえに分離が出来ず、他方誰が見ても、というような対象もそのお相伴に預かれるのです。

それでも法律や制度が介入しないといけない事態にあるのかどうか。
残念ながらそういう状態であることは否定できません。「有害」なのは「コミックだけではない」、という声もありますが、「not, but」ではなく「not only, but also」である以上、コミックが槍玉に上がることを回避できません。

もちろんそうした批判にもある電子書籍が対象外というのはいまや規制の空文化すら招きかねない手抜かりであり、例えばこのブログや拙掲示板に携帯でアクセスすると、「有害系」コミックのバナー広告が否が応でも出てくるわけで、こうした媒体でのアクセス制限をどうするのかという問題が抜けています。

それを差し引いてもゾーニングの不備による青少年の「有害コミック」への安易なアクセスが可能な状態であることは疑いが無いわけで、最たるケースとしては今回の規制に反対する大手出版社が出している某少女マンガ雑誌のように、いわゆる「少年誌」の立ち位置のように見せかけて内容は成年指定レベルというものもある状態です。

過去幾度かこの手の規制論議が沸き起こり、自主規制などの対応を取ってきてはいますが、結局は雑誌等の出し手がこうした状態を放置、推奨していて改善が期待できない状態です。
そういう状態においては、既存の法律や制度との整合性にはある程度目を瞑ってでも、期待される効果を手に入れるための劇薬的な法律や制度を社会は求めるのであり、それもまた民主主義の産物なのです。そしてそういう劇薬を処方してようやく幾許かの効果がでるという、自浄努力の対極にある状態もまた現実です。

今回の規制はあくまでゾーニングを目的としています。ゾーニングで仕分けられるャCントが主観的かつ恣意的という問題はありますが、ゾーニング以外に自由を束縛するものはありません。
ですから作者や出版社がその作品を世に問いたければゾーニングに従った出版、販売をすればいいだけですが、なぜその選択肢を考えないのか。

20年ほど前にあった「有害コミック」問題でも「成年コミック」マークをつけることで出版は出来たのですが、一部を除いてなぜか出版社はそれをせず、絶版扱いしましたが、それこそ自主規制という名の焚書ではないでしょうか。ゾーニングを絶版と読み替えて、自ら踏み込んだ自由の束縛をして、社会が要求しないレベルの「絶版」という作品への死刑宣告をしたのは、あくまで出版社と作者サイドではなかったのか。

要はゾーニングを潔しとせず厳格に身を律するなんてことではなく、ゾーニング対象になると取次ぎその他で不利になり売れないから、という純コマーシャルベースでの判断でしょう。だとすれば、ご大層なことを建前にしてはいますが、要は売らんかなの世界、ゾーニングすると儲からないから反対という下世話な理由ということになります。

そして今回の都条例のような「劇薬」が必要な状態にしたのも、同じコンビではないのか。そしてそれへの批判は当時と同じ本音が見え隠れしていないか。
その疑念がどうしても拭えないがゆえに、言論・出版の自由、そして表現の自由の危機といわれても、なおそれに無条件に首肯できないですし、命をかけて守ってきた自由を軽々しく口にするようなレベルなのか、という疑義すらあるのです。


ああ播磨灘

2010-12-20 00:16:00 | ノンジャンル
と言っても相撲漫画の話じゃありません(爆)

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めっきり寒くなりました。というわけで牡蠣のシーズンなんですが、猛暑の影響で生育がやや遅いそうで、店頭価格も流通量も今一つに見えます。

神戸在住時はスーパー店頭に並ぶ牡蠣の産地は赤穂、坂越、日生と地元の播磨~備前の海岸線の街が並んでいましたが、千葉では宮城、広島とかなり遠隔地のそれが並んでいます。

そうした中でこのところイオン系の店で目に付くというか耳に付く宣伝にはちょっと首をかしげました。

「播磨灘産の新鮮な牡蠣」

関東ではあまり聞かないだけに目新しさを感じるということでしょうか。字面から良い海流に揉まれた印象も受けますが、牡蠣は穏やかな内海で育つものですからちょっと違うのですが。

しかし、冷静に考えると何とも広いエリアです。
そして店頭で添えられたキャッチコピーだと、千種川や揖保川の恵みを受けとのことですが、相生、室津、赤穂あたりは分かりますが、産地として挙げられた街を見るとちょっと無理があるような地名も。

ちょうど売ってた品物を見ると岡山県虫明とあり、播磨灘の西端というか、播磨灘に入るか微妙な小豆島を向かいに臨むエリアです。
まあ百歩譲って播磨灘と言っても、揖保川や千種川云々というのはちょっと無理があります。

ちなみに播磨灘と言っても兵庫県とは限らないわけで、岡山県でもいいのですが、そう考えても今度はおかしいことがあります。
虫明まで含めているのなら、さらに東寄りで牡蠣の産地として名高い日生が入っていません。

イオンが日生の漁協と提携できなかったんでしょうが、播磨灘と謳うのならどうして、と思わざるを得ない瞬間でした。




後出しジャンケンはどっち

2010-12-19 22:25:00 | 時事
名古屋市議会のリコール請求は二転三転して実施が決まりました。
署名の審査で1/4の無効が出たと思ったら、再審査でひっくり返ったのですから何が何だかの世界です。

市長派は選管の恣意を批判し、基準があとから強化されたと後出しジャンケンの表現で批判していますが、それでもこの署名にはどうしても拭えない不信があります。

確かに住所の表記がちょっとでも違っていたら無効というのはやり過ぎでしょうが、かといって署名者の意思があれば細かいことは気にしなくていいものではありません。

そもそも署名に名板借りと思しき不正票が続出したことが署名精査の原因と言えるわけですが、どこの馬の骨か分からない「市民団体」による請求ではなく、事実上市長が主導する運動において、こうした不正が出てきたことは、より高いレベルの清廉さを求められる局面において非常に問題であり、「市長が不正のお先棒」と言えなくもないだけに、こちらこそきちんとした調査が必要です。

また、手続違反も見え隠れするわけです。
請求代表者が集めたことになっている署名簿の署名者が受任者が集めていたと言って無効となったわけです。そもそも代表者が1人万人単位で署名を集めるというスーパーマン的活動でないと説明が付かない状態の署名簿は精査以前の問題ですし、ルールの順守という意味ではやはり市長主導の運動としては「手段を選ばぬ」というのは問題です。おまけに署名者が「正直に」答えてしまい、どうにもならなくなったわけです。

一番おかしいのは、異議申し立てを署名者本人ではなく、主催者側が一括申請したこと。
よしんば署名者の意思が同じであっても、申請段階でその意思は確認できていません。要は「代筆」であり、架空の署名と根は一緒です。
そのあとで主催者側が依頼した、つまり要は「口裏を合わせた」質問書への回答で意思を確認という茶番でひっくり返ったのが真相です。

本件の問題はここにあるわけで、実は後出しジャンケンをしているのは市長派なのです。
テストで名前を書き忘れた。当然0点ですが、「本人の答案を尊重しよう」とごねて事後に名前を書かせたとか、回答欄を間違えた、でも本当はこう書きたかったのだから、と回答欄の修正に応じたというようなものです。

本人の意思が総てで手続は関係ないというのであれば、手続法は不要でしょう。
選挙で投票箱を間違えてもOKということになりますし、区ごとの署名管理がおかしいという声を聞くと、じゃあ選挙区で無い投票所で投票してもOKというのと同じでしょう。

選挙で識別しづらい表記を精査して本人の意思を推測するくらいだから、意思が総てと言いますが、選挙の場合は投票者の実在性は選挙人名簿の管理に始まり、投票所での投票用紙の交付など、基本的には実在性に疑いが出ない状態です。

一方でこうした署名運動は通常でも1割程度の無効(不正)が出るように、実在性を確認することから始まるという違いがあるわけで、そうした不正と紙一重の位置にある行動で投票への道が開けるといった、参政権を歪めるリスクを排除するためには、手続きを甘くすることは危険です。

請求代表者と受任者の問題にしても、大都市でこのルールは厳しいと言いますが、一部少数の代表者が「集めたことに」してもOKということになれば、大都市で少数による投票の発議が可能になってしまうわけで、投票時のプロパガンダ次第ではまさに少数派によるリコール成立が事実上可能になるのであり、その影響を考えると、大都市だからハードルが高い、大都市ならそれ相応の代表者がいなければならない、というのは妥当な制度です。