Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

後出しジャンケンはどっち

2010-12-19 22:25:00 | 時事
名古屋市議会のリコール請求は二転三転して実施が決まりました。
署名の審査で1/4の無効が出たと思ったら、再審査でひっくり返ったのですから何が何だかの世界です。

市長派は選管の恣意を批判し、基準があとから強化されたと後出しジャンケンの表現で批判していますが、それでもこの署名にはどうしても拭えない不信があります。

確かに住所の表記がちょっとでも違っていたら無効というのはやり過ぎでしょうが、かといって署名者の意思があれば細かいことは気にしなくていいものではありません。

そもそも署名に名板借りと思しき不正票が続出したことが署名精査の原因と言えるわけですが、どこの馬の骨か分からない「市民団体」による請求ではなく、事実上市長が主導する運動において、こうした不正が出てきたことは、より高いレベルの清廉さを求められる局面において非常に問題であり、「市長が不正のお先棒」と言えなくもないだけに、こちらこそきちんとした調査が必要です。

また、手続違反も見え隠れするわけです。
請求代表者が集めたことになっている署名簿の署名者が受任者が集めていたと言って無効となったわけです。そもそも代表者が1人万人単位で署名を集めるというスーパーマン的活動でないと説明が付かない状態の署名簿は精査以前の問題ですし、ルールの順守という意味ではやはり市長主導の運動としては「手段を選ばぬ」というのは問題です。おまけに署名者が「正直に」答えてしまい、どうにもならなくなったわけです。

一番おかしいのは、異議申し立てを署名者本人ではなく、主催者側が一括申請したこと。
よしんば署名者の意思が同じであっても、申請段階でその意思は確認できていません。要は「代筆」であり、架空の署名と根は一緒です。
そのあとで主催者側が依頼した、つまり要は「口裏を合わせた」質問書への回答で意思を確認という茶番でひっくり返ったのが真相です。

本件の問題はここにあるわけで、実は後出しジャンケンをしているのは市長派なのです。
テストで名前を書き忘れた。当然0点ですが、「本人の答案を尊重しよう」とごねて事後に名前を書かせたとか、回答欄を間違えた、でも本当はこう書きたかったのだから、と回答欄の修正に応じたというようなものです。

本人の意思が総てで手続は関係ないというのであれば、手続法は不要でしょう。
選挙で投票箱を間違えてもOKということになりますし、区ごとの署名管理がおかしいという声を聞くと、じゃあ選挙区で無い投票所で投票してもOKというのと同じでしょう。

選挙で識別しづらい表記を精査して本人の意思を推測するくらいだから、意思が総てと言いますが、選挙の場合は投票者の実在性は選挙人名簿の管理に始まり、投票所での投票用紙の交付など、基本的には実在性に疑いが出ない状態です。

一方でこうした署名運動は通常でも1割程度の無効(不正)が出るように、実在性を確認することから始まるという違いがあるわけで、そうした不正と紙一重の位置にある行動で投票への道が開けるといった、参政権を歪めるリスクを排除するためには、手続きを甘くすることは危険です。

請求代表者と受任者の問題にしても、大都市でこのルールは厳しいと言いますが、一部少数の代表者が「集めたことに」してもOKということになれば、大都市で少数による投票の発議が可能になってしまうわけで、投票時のプロパガンダ次第ではまさに少数派によるリコール成立が事実上可能になるのであり、その影響を考えると、大都市だからハードルが高い、大都市ならそれ相応の代表者がいなければならない、というのは妥当な制度です。





主観的批判でいいのでは

2010-12-19 21:46:00 | ノンジャンル
あるもの、ある事象への批判が起こった時に見られる対応として、少しの可能性もそれこそ針の穴を穿つようなレベルで追及することがあります。

しかしそれがどう使われるかと言うと非常に興味深いわけで、批判を加えるために追求する場合と、批判を逃れるために追求する場合という正反対の局面があるわけです。

そこに共通することとして、自分の立場と逆の側に対しては、少しの可能性も追及することを批判することがあるわけで、要はその基準を恣意的に運用していると言わざるを得ません。

また同様によく見られることとして、Aというもの、事象が批判された際、ではBはどうなんだ、Cはどうなると、現段階で批判の矢面に立っていないもの、事象を挙げて、Aへの批判を相対化する批判というか弁解もよく見られます。

こちらは一瞬正当なようにも見えますが、冷静に考えればBやCの帰趨によってAの評価が変わることは無いわけで、Aへの評価とは別個にBやCを再評価すればいいだけの話です。

もちろんAのほうがBやCよりも罪が軽い、という意見もありますから一概には言えませんが、それでもAの評価自体は変わらないはずです。

こうした「基準」のブレを見て思うのは、結局はその対象を客観的に評価しているというより、自分達にとって必要だから、という主観的な評価であるということです。

もちろん、そうした主観に従った批判も有効ですし、それを排除する必要もありません。
民主主義はそう言った主観に基づいた評価という側面も十分に持ち合わせていますから。

しかし、そうであるのなら、まず「自分達にとって必要なのだから」というエクスキューズを主張すべきであり、その前提において自分達の批判が受け入れられるかを世に問うべきでしょう。

現状はそうした主観の部分を含めて客観評価のオブラートに包んでしまっているように見えるのであり、そこの典型的な発露として無理筋にも見えるレベルでの可能性の追求や「Bはどうなんだ、Cはどうなる」という論理があるのです。
そしてそれが説得力を下げているようにもある部分であるだけに、かえって損な議論になっているのではとも思います。