Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

似て非なる...

2005-11-15 14:41:58 | 時事
東武野田線の運転士の処分が世間をわかせている中、JR東日本の上越新幹線の車掌が後部運転台で写真を撮って自分のサイトに掲載していたとして懲戒解雇になっていたそうです。

これを見て野田線も解雇当然と色めき立っている人が少なからずいるようですが、本質的に全く違いますね。
まず原因行為に過失性が全くないです。注意しようとドアを開けたら子供が入ってきたのに対し、写真は「撮る気はなかったのに撮れてた」なんてことは有り得ません。撮影という行為が100%故意であり、それが情状酌量されるとしたら、乗客に頼まれて撮ったというような、客商売ゆえのやむ無き行為というくらいでしょう。このあたりは携帯メールで解雇になった運転士も一緒ですね。この着信は親の不幸や家族の危急時と確実に分かる場合に止む無く対応した、と言うのでもない限り、故意しか有り得ませんから。

それと、撮った写真を会社の許可無くサイトで公開したということ。
車窓写真とはいえ、後部運転台という、「内部」からのアングルです。客室のように「外部」ではないのです。被写体の内容は問いません。
内部の写真を勝手に公開することは、どこの会社でも内部情報の管理に属する規定で禁止されているはず、というか、それが無い会社はまずないでしょう。そして内部情報の管理が厳しいことはいうまでもありません。撮影までであれば解雇は重過ぎますが、無断での公開は拙過ぎます。

こちらは、もし野田線の運転士のような家族構成だったとしても、情状酌量を求めるというような擁護は出来ませんね。これは基準も明快ですし、100%自発的な話ですから。

とはいえ、かつては乗務中のこぼれ話を出版したりした「名物」車掌もいたわけで、「車掌」という職業は接客面も大きいだけに、時と場合によってはそういうサイトの運営が業務の研鑚に通じることもあるでしょう。ですから、暴露本や客の誹謗というような会社の信用に関わったり、社内情報の漏洩で無い限りは、目くじらを立てなくてもという気がします。会社のイメージアップにもつながるケースもあるので、職員の私的サイト閉鎖を単純に命令するのではなく、そのあたりは阿吽の呼吸で会社も、育てたり支援するべきケースを見分けていけば、良い結果になるのでしょうが。

まあ、そうなるためには、仕事はしっかりやり、さらに私的サイトの質も高くあるべきですから、生半可な手慰みのうちは大きなことはいえません。(天に唾している気もしますが...(汗))

新企画スタート

2005-11-14 00:57:44 | お知らせ
やぶにらみ的、というか、世間に対する天邪鬼なマナー論を始めてみました。
マナーについての理解が浸透して、お互い気持ちよく交通を利用できるようになった反面、私のような古い人間だと、何でそこまで言われなきゃ、と言うような首を傾げたくなるような「マナー」も見受けられます。
そういったマナーを巡る話について、不快に思われることを覚悟の上で論じてみました。

更新のお知らせなど

2005-11-13 01:25:55 | お知らせ
週末、ひらかたパークの菊人形を見に行ってきました。
96年目という歴史ある企画ですが今年が最終回。それを踏まえて、小品を交通論にアップしました。
今週末は3ヶ月目という節目ですからもう少し手を入れる予定でしたが、風邪気味でもあり、この辺でご容赦ということで(謝)

野田線の運転士

2005-11-11 19:24:22 | 時事
冷たい雨が降っています。

東武野田線の運転士が息子を運転台に招き入れたとして懲戒解雇という報道が波紋を呼んでいます。
当初の報道では「招き入れた」経緯として、悪さをする息子を注意しようと乗務員室の扉を開けたら入りこんで、泣いて座りこんで出なかった、という描写がありました。これがあるのと無いのとでは、運転士の責任に天と地ほどの差が出るんですが、後発の報道では仔細を端折っており、一番肝心な部分をどうして曖昧にするのか、と思います。

もし運転士の弁明がウソだとしても、最初から懲戒解雇と言うのであれば、会社が隠す必要は無いですし、運転士が隠していたとしたら、不完全な状態で変に批判を浴びかねない理由で慌てて懲戒解雇にする必要性はないわけで、何か裏があるのかもと言う勘繰りも出てくるひっかかる話でもあります。

これについては別の場所で、罪はあるが罰が重過ぎると批判しています。
一方で解雇は当然と言う批判の中には、公私混同も甚だしいという趣獅フものがありますが、ではそうだとすると、余計に対応が難しいと言うことになるので、都合の良いところだけを取ってはいけません。
つまり、乗務中は親子ではなく運転士とお客様、というように公私の別を付けたとしましょう。
悪さをする「お客様」を注意しようと扉を開けたら入り込んで座り込んじゃったわけです。運転士はその「お客様」をどう扱うか。首根っこを掴んで放り出すなんて論外。袖を引いて出しても問題になるかもしれません。極力手は出せないのです。駅員が酔っ払いに絡まれても手を出さないのと一緒です。
抱きかかえて出せとか、蹴り出せとか、それが通用するのは「お客様」ではなく、「息子」として扱った場合でして、それも一種の「公私混同」でしょう。

処分も何だかと言う感じ。
茶m塚事故で、当日操作をしなかった相番の係員は懲戒処分で最下位の譴責。その他不正操作をこれまでしてきた係員は懲戒処分で無い厳重注意です。
茶m塚、そして尼崎のあと、厳罰化したとはいえ、不正はしたが、事故には至らなかったと言うケースに対し、茶m塚の基準だったら5段階の懲戒処分にも入らない処分をいきなり最大の懲戒処分にすると言うのは、さすがに公平を欠くでしょう。
法的に見てもおかしいですし、人事処遇と言う面で見ても、そういう不公平な対応というのはやってはいけないことだと言うことは、どんな新米の管理職でもまず教えられる話です。

茶m塚で安全意識に対して批判が集中した経験から、一罰百戒、安全に厳しいと言う、まあいわば「ええカッコしい」をしようとしたのでしょうか。他社では運転中の携帯操作で懲戒解雇になったケースもあるだけに、ウチもいっちょ、と思ったのでしょうが、功を焦って無理な処分をした格好です。
法令違反とはいえ、次の駅に着いたらすぐ出したんですから、まあ遅くは無いでしょう。切り口を変えれば、父親を慕って運転室に入ったが、次の駅で父親が手が空くとそのまま客室に戻された。我が子も可愛いが、客室との扉は越えてはならねぇ、次の駅で乗務は終わるがこのまま一緒には居られない。可哀相だが出てなさい...と、ちょっと良い話仕立てにもなって、現場長と本人が謝って戒告レベルで一件落着、とすれば、事故も無かったし、罪は償うし、八方丸く収まっていたでしょう。

迂闊に振り上げた拳は簡単には下ろせない。ましてや「懲戒解雇」という刀を振り上げてしまった以上、斬らないわけにはいかないですが、それだけ懲戒処分は使い方が難しいのです。
人事権を持つ者としては、社員と家族、そして会社まで必要以上に傷付けた軽率な対応として、教訓にして置きましょう。


アフリカのラストエンペラー

2005-11-09 21:04:47 | ノンジャンル
末{なんですが、ちくま文庫から出ているハイレ・セラシエという本を以前読みました。
1974年に革命により退位させられ、翌年死去(革命政権による処刑説が強い)したエチオピア最後の皇帝の側近へのインタビューで構成された、帝政末期から退位までのドキュメントです。
側近が入れ替りに一人称で語る構成なのでとまどうのですが、人の目を通じた歴史という意味では取っ付きにくいけど面白い本です。

世界最古の帝国と言われ、ソロモン王とシバの女王を開祖とするエチオピア。飢餓と内戦に喘ぐ最貧国と言う現状からは想像もつきませんが、革命まではアフリカでも有数の文化と文明があり、アフリカの有力な国でした。
おきまりの貧富の差、そして宮廷高官の腐敗で土台が腐り続け、皇帝が進めた近代化は、西欧にその範を取ることで、帝政に疑問を抱くインテリ層を育てると言うパラドックスを内包していました。
しかし、皇帝は、絶対政から緩やかに政治の近代化を導入しようとしたテクノクラート、そして開明な皇族も許さず、最後の年を迎えるのです。

社会の不満がピークを迎える中でも、国民の有史以来の流れを汲む皇帝への信頼と忠誠は高かったのです。そして体制変革を目指す軍部を中心にする勢力が実権を握り、腐敗した宮廷高官を次々と粛清して、帝国の改革を進めていきます。最初は貴族、やがては皇族もまた一人消えていき、皇帝の周りにはわずかな側近のみとなり、いつしか軍部に軟禁された格好になっていました。

やがて軍部は、社会の不満を皇帝に向けていくようになります。国富の独占、海外の隠し預金、様々な「新事実」が国民の前にさらけ出されるようになると、次第に皇帝への信頼が薄れてきました。
実権をほとんど奪われ、周りを支える高官もない状態で皇帝の権威には見る見る落ちていきました。

軍部が立ち上がってから7ヶ月。満を持したかのように軍部の代表は皇帝に退位を要求。なすすべもない皇帝は退位し、そのまま幽閉されました。
皇帝の名のもとに改革を行う形で姿を現し、だんだんと実権を剥いで行き、遂には革命に至る。歴史上例の無い7ヶ月に及ぶ巧妙な調略とも言える革命(「月賦革命」とも言われたらしい)により、世界最古の帝国と、国民の絶大な信頼と忠誠を集めていた皇帝はその座を追われたのです。

その後の歴史については触れるまでもないでしょう。
アフリカ諸国で一目も二目も置かれていたエチオピア。その地位の源泉であった歴史を失ったあと、革命勢力内の内訌を制した過激派により社会主義政権が誕生しました。
しかし、飢餓と貧困、さらには隣国ソマリアとの戦争とエリトリアでの内戦。17年の革命政権のもとでエチオピアは見る影もなくなりました。
社会主義政権が崩壊してももはや復活する力もなく、現在に至っています。