Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

夜行の沙汰も金次第

2015-09-16 22:57:00 | 交通
北海道新幹線の開業が3月26日になり、「はやぶさ」11往復(1往復は仙台発着)、「はやて」2往復(盛岡、新青森発着)の13往復でスタートすることが正式に発表されました。それに伴い接続となる「スーパー北斗」「北斗」が12往復、函館駅連絡の「はこだてライナー」が16往復設定となる反面、現行の「スーパー白鳥」「白鳥」「はまなす」「カシオペア」の廃止も発表されています。
同時に青函トンネルは切り替え工事のため、12月30日夜から1月2日早朝、そして3月22日から改正前日まで総ての列車が運休するため、改正前の「乗り納め」は3月25日ではなく3月21日(「はまなす」は3月20日発)となると思われます。
ちなみに津軽線も新中小国信号所の切り替えがあるため、蟹田℃O厩で当該期間中の列車が運休します。

3月改正で「トワイライト」、8月に臨時運行の「北斗星」が廃止となり、今また「はまなす」に加え「カシオペア」まで廃止と、一般列車として運行する寝台列車(寝台車)は客車列車は全廃、残るは285系電車の「サンライズ」だけになります。
夜行列車自体、臨時運行の「ムーンライトながら」「ムーンライト白馬」を残すのみとなっており、「サンライズ」はJR東海、西日本持ちの列車でもあり、今回のリリースとは直接絡まないことから、夜行列車自体が3月で一気に廃止になってもおかしくない状況です。

「はまなす」はかつての「ミッドナイト」のようなスタイルで生き残るか、とも思われましたが、本州連絡の大半は航空機でカバーできるということでしょう。仙台だと新千歳行き最終が20時40分発、新千歳発の始発が9時ちょうど着ではわざわざ夜行を介するまでもない感じです。
「ミッドナイト」スタイルで生き残るとしても、「北斗」と共通運用の気動車使用でしょうから、「ドリームカー」などのアコモが総て消えるわけで、ノーマルのアコモになって乗り得感がなくなった「ムーンライトえちご」のようにフェードアウトするのが関の山でしょう。

一方で「カシオペア」の廃止は予想外という人も少なくなく、確かにデビューから16年と言う時は経っていますが、それをも踏まえてのSUS構造のはずで、他の寝台列車のように老朽化を理由には出来ないはずです。
公式の理由は「今までの機関車が走らせられないから」ということですが、確かにEH500でもなく未だにED79に牽引させているとはいえ、新幹線開業後対応のEH800での牽引は不可能なのか。取るに足らない改造の問題であれば、「やる気が無い」の一言でしょう。

とにもかくにも2016年3月で「カシオペア」は寝台特急列車としての運行が終了し、2017年春に「四季島」がデビューするまでの間は北海道へのクルーズトレインの運行は無し、と割り切るのか、という話であり、しれっと「カシオペア」がEH800牽引で乗り入れるような気もしますね。「四季島」運行開始で「カシオペア」が即座に廃止になるとも思えませんし。

結局は「やる気」の問題に帰結しますが、それよりも大きいのが、「一般列車で運行するのがバカらしい」ということでしょう。
一般列車としての寝台列車、夜行列車の運行は風前の灯ですが、一方でJR九州の「ななつ星」は今まで運行が無かった(昭和中期にまで遡るような)区間での夜行運転をしているわけで、公共交通機関としての認可運賃・料金に縛られない「代金」を領収できる「クルーズトレイン」でがっぽり稼ぎたい、という本音が丸見えです。

夜行列車の運行維持には云々かんぬん、と理由を並べ、社会派諸氏もそうだそうだと経営通振りを示していますが、「クルーズトレイン」ならアドホックの運行でも対応できます、ということですから、どれだけのコストが発生し、ただ1回の運行で負担できるのか。首尾一貫した説明が聞きたいものです。

まあ「クルーズトレイン」の価格は下世話な表現を使えば「ぼったくり」と紙一重であり、「ななつ星」もコストアップを理由としていますが、ひと声10万円の値上げと、公共交通とは全く別物の世界です。
そういえば以前「カシオペア」を使った特別列車の価格の妥当性を検証したことがありますが、どう積み上げても10万円単位の「付加価値」が乗っかっているわけで、平均客単価が何倍にも跳ね上がるのですから、そりゃ「寝台特急列車」として走らせるのがバカらしいのも分からなくもありません。

金さえ積めば肥薩線にも夜行列車が走る、というのを見ると、これが「大人の事情」なんだな、ということなんでしょうね。



「本家」よりもひどい論理破綻

2015-09-16 22:56:00 | 交通
「首都高はなぜ渋滞するのか」で交通の世界に衝撃的な「デビュー」を果たした清水草一氏ですが、大胆な発想で改善策を提起したスタイルから、一部では同著は「道の川島本」の異名をとりました。
「川島」とはご存じ川島令三氏ですが、「社会派」諸氏が蛇蝎の如く氏を嫌い、否定するのと同様に否定の対象とするのではなく、柔軟な発想でブレイクスルーとなるべき内容の評価としての異名です。

清水氏は同著のインパクトもあり、「首都高研究家」という肩書きでメディアに登場することもしばしばですが、今般の首都高など首都圏高速道路の値上げに対するコメントは頂けません。

同じ930円から1300円への値上げなのに、首都高の遠距離値上げは「あるべき姿」という反面、現金車の値上げは「問題だ」というわけで、「問題」の根拠が「約40%の大幅値上げ」というのであれば、首都高遠距離の値上げも同じ現象であり、「大幅」に根拠を求めながらのダブルスタンダードは説得力を持ちません。

同じ距離を走ったら同じ料金、というのは公平そのものですから説得力があるわけで、今回の大幅値上げもそこに理由を求めています。
しかしそこで完全に無視されているのは、なぜ料金格差が発生したのか、という部分であり、個別の利用者にとっての値上げ幅の格差は公平で無いという部分です。

もともと首都高、高速自動車国道、一般有料道路の料金体系は異なっていたわけです。そのこと自体が間違っていたから今回正すのだ、と言うことかもしれませんが、その料金体系の格差を前提に利用者は高速道路を利用していたわけです。
営業車の場合はそれを前提に拠点の進出、建設を決めていたでしょうし、自家用車の場合も住環境の利便性の一つのファクターになっていたはずです。

その状態から高速料金だけガラガラャ唐ナは話は通りません。議論すべきはあるべき姿だけでなく、現状からの変化の格差です。
特定の区間、料金区界撤廃の距離制料金導入時と合わせると神奈川や東京西南部には大甘で、都心を通り抜けないとどこにも行けない千葉方面は踏んだり蹴ったり、という格差は到底容認できません。茨城や埼玉方面は外環や圏央道がほぼ整備されており、環状経由でも円弧を走行する区間が短いので距離=時間=燃費ロスも相対的に小さいのに対し、千葉方面は環状道路が完備してもアクアラインがそのネットワークに入らなければ、半円以上の円弧を走行する無駄なルートが安くなったと言われても困ります。

高速道路料金の大前提として、4公団民営化の際でも将来の償還時における無料開放が謳われており、建設費を通行料金で償却していくことを前提に料金が設定されています。京葉道路や第三京浜は早期の償還が予想されるために低廉に設定されていたのを、東金道路、アクアラインや横横道路とのプール制にして、民営化のときに全国プールにする、という「裏切り」「無料化詐欺」がまずあるわけで、そこの「不公平」にだんまりで、都合のいいところだけ切り取っての「公平」はそれこそ「不公平」です。

今回の値上げや、それに理解を示す人達の発想は、それこそ「どの路線も同じ賃率じゃないのはおかしい」と主張する某鉄道会社を巡る市民団体の主張と相似形です。同じ会社でも開業時期やそこに至る経緯などを踏まえて割増運賃が採用されるケースがあるわけで、いわんや事業者が違えば当然賃率は違います。
もちろん鉄道もゾーン制運賃の発想はありますが、特定の路線、特定の区間の利用者が一人負けになるような料金体系を組む前提ではないでしょう。(今回のやり口を見ると、もしゾーン制を導入するとしたらトンでもないものが出てくるかも)

ちなみに現金車の処遇ですが、コストという意味では現金の取扱いとETCでは格段の差があるわけです。
処理時間の関係もあり、ブース数を確保する必要があり、首都高の場合は料金所配置の関係上本線TBを残し、領収書を確認する人手も必要です。現金取り扱いそのものにもコストがかかることは出納を少しでもやったことがある人なら常識ですし、最大料金を負担頂く、という対応の根拠は定性的ではありますが説明できます。道路側で発生するコストという意味ではいかなるETC利用よりも高く付くわけで、ならばETCでの最大負担額「以上の」負担をすべきところ、同額に割り引いているのですから。

いやいや、現金車への配慮が足りない、という批判もあるでしょうが、走行台数の1割程度の利用にそこまで配慮する必要があるのか。
鉄道であればクレカ紐付きのカード払いを強制というと問題でしょうが、ETCの場合は基本的にクルマの所有者の問題であり、広く国民全体を考える必要のある公共交通とは違います。

そう、クルマを所有できるだけの「負担力」があれば、通常はクレカの与信は簡単に取れます。というか、ETCカードとセットになったクレカを学生や専業主婦でも発行できる、という大手カード会社もあるわけです。
それが出来ない、つまり、与信が取れない、という人はどういうステータスでしょうか。信念でクレカを持たないか、あるいは「訳あり」としか思えないわけで、不利益は承知でクレカを持たないのですから現金が割高でも受容すべきですし、「訳あり」も任意保険への加入などの万が一の際の賠償能力を考えると他者にリスクを負わせる存在であり、配慮ではなく抑制をお願いしたい存在です。

ついでに言えば、遠距離が安いから高速から梃子でも下りない、というくだりも、上限に向かって完全距離制であれば、上限に未達の区間であれば手前で降りたらそのぶん確実に安くなるのですから、本来高速を使うべき通過流動や長距離流動が一般道に下りてくるわけです。
羽田空港からのリムジンバスにしても、R357を大井まで走ればその分安くなりますし、環七との交差点が立体化したから信頼性も高いです。こうしたちょっとでも安く、の志向は、東京シャトルや「かしま号」が京葉道路経由を本則としたように、渋滞リスクという意味では東関道に比べて格段に高い京葉道路を安いからというただその一点で判断する実例があるわけで、どうしようもない時は高速を使うが本則は下道、ということで、下道の交通量を増やし、沿道の環境を悪化させるリスクの評価が全く抜け落ちています。



憲法学者の懈怠

2015-09-16 22:53:00 | 時事
安保法制審議の中央公聴会における公述人の供述がありましたが、反対の立場を取る人は押し並べて「違憲」にその軸足を置いています。
もちろん憲法という最高法規を蔑ろにすることは出来ませんが、「憲法」が絶対でもありません。憲法を絶対視すると言うことは、それこそ「不磨の大典」とされた大日本帝国憲法と同じ扱いになりますね。

それはさておき、「違憲」のみを判断材料にしている反対派が徹底的に避けているのが、「我が国の安全保障はどうあるべきか」という本題の部分であり、公述人はまずそれを述べるべきでしょう。安保法制を審議する本質はそこであり、初めに違憲ありきでは思考停止そのものです。

我が国の安全保障のあり方がまずあって、憲法がそれを制約しているのであれば、解釈改憲ではなく憲法改正をしなければならない。それは国民投票の法整備すら長年怠ってきた与野党議員の怠慢である、というのが憲法学者のあるべきスタンスでしょう。
もちろんあるべき安全保障体制は個別的自衛権どまり、あるいは非武装中立であるから改憲は不要、という結論も可能ですが、前提条件を明らかにすることで、アカデミズムの意見が真っ当なのかお花畑なのかを国民が判断できます。

あるいは、安全保障のあり方の是非を表明するのは憲法学者の専門外であり、踏み絵である、というのであれば、客観的に、我が国の安全保障のあるべき姿に憲法が抵触するのであれば改憲すべきであり、そうでなければ改憲は不要、とすればよく、いずれにしても違憲が基準になるのではなく、あるべき論に憲法を合わせる、という話です。

これは安保法制に限らず、基本的人権の拡張に対しても当てはまるわけで、定義の不足が時代に応じた新しい人権の保護を阻害している、と言うような批判は以前からあったわけです。こうした歪みを放置してきたのも、改憲=反動だから新しい人権を犠牲にしてでも9条改憲を着手すらさせない、という「護憲派」の動きであり、憲法学者は本来こういう政治的思惑で憲法が歪められていることをまず批判すべきでしょう。

ちなみに公述人の1人である名古屋大学の名誉教授ですが、まあ象牙の塔とはよく言ったもんで、集団的自衛権は帝国主義的権益を守るための概念だ、とはおじいちゃんいったい何時の時代の話ですか、としか言いようがありません。

高度成長期の発想で経営する経営者が存在し得ないのに対して、こんな発想でも名誉教授の肩書が維持できるのですからアカデミズムというのも浮世離れしているのも当然視されますよね。今は国立大学法人となっていますから、「税金泥棒」とは言えませんが、時代に応じた安保法制を議論する場に、時が止まったような思考回路の公述人とは何かのギャグとしか思えません。