鉄道ジャーナルの前編集長で、前社長でもあった駐㈲I元氏の訃報につき、各誌がどのように取り上げたか。訃報から各誌の刊行まで、DJを除きほぼ1ヶ月あるので、時間的問題はないはずであり、その結果は各誌のスタンスが透けて見える結果になりました。
発売時期が若干早いDJ、そして最後発のJトレインは記載なし。まあこれは仕方が無いというか、人的交流と言う面では若干壁がありますし。
そして主力3誌とされるなかで、「格」が一つ頭抜けているRPは別とすると、先輩格のRFと3番手のRJは何かとライバル心をむき出しにして、というか、駐√メ集長が意識しすぎの面もありましたRFに記載がなかったというのは何とも大人気ないですね。RJ創刊前にRF誌上で「北の流れ星」と題した「はくつる」のルモf載しているのですが。(別冊No.1に転載)
RPは今津編集長、RMは名取編集局長名での囲み記事。功績や人となりを簡潔にまとめ、「仕事でのお付き合い」を超えた思いが滲み出てます。
RPは一時期スタッフ?だったことへの言及が無いのが残念ですが、それ以外は満点でしょう。
そしてRJはどうだったか。
もうお分かりでしょう。他2誌と比べると事務的に過ぎるとしか言いようが無い「告知」です。
確かに編集長であり社長だった経歴は「身内」であり、弔辞は受ける側とでもいうのかもしれませんが、宮原氏に編集長を譲り、成美堂に経営まで譲って久しいわけで、先代、いや、初代、創始者の訃報なんですから、もう少し「想い」が欲しかったです。
編集後記で宮原編集長が言及はしていますが、直接追悼の辞を述べているわけではない「鉄道趣味との出会い」というタイトルです。社員カメラマンだった沖勝則氏が急逝した際の扱いと比べても「軽い」わけで、駐㍽≠フ「遺産」で商売をしているというのに、その程度で送るのか、と言うのが偽らざる気持ちです。
おまけに編集後記には信じられない一文も。
その「北の流れ星」を駐㍽≠フ会心作と紹介しながら、写真の原板をいつの間にか散逸、ってどういうことでしょうか。鉄道をテーマとする出版社が、記録として重要な写真の原板を散逸とは、駐㍽≠フ作品だからと言う以前の問題として論外です。
1965年にRFに初出、最後は1978年の別冊への再録でしょうか。確かにそこからだと37年の時を経ていますが、出版社が、プロが「記録」を散逸とは信じられません。
訃報の体裁といい、仕事の質が問われます。
発売時期が若干早いDJ、そして最後発のJトレインは記載なし。まあこれは仕方が無いというか、人的交流と言う面では若干壁がありますし。
そして主力3誌とされるなかで、「格」が一つ頭抜けているRPは別とすると、先輩格のRFと3番手のRJは何かとライバル心をむき出しにして、というか、駐√メ集長が意識しすぎの面もありましたRFに記載がなかったというのは何とも大人気ないですね。RJ創刊前にRF誌上で「北の流れ星」と題した「はくつる」のルモf載しているのですが。(別冊No.1に転載)
RPは今津編集長、RMは名取編集局長名での囲み記事。功績や人となりを簡潔にまとめ、「仕事でのお付き合い」を超えた思いが滲み出てます。
RPは一時期スタッフ?だったことへの言及が無いのが残念ですが、それ以外は満点でしょう。
そしてRJはどうだったか。
もうお分かりでしょう。他2誌と比べると事務的に過ぎるとしか言いようが無い「告知」です。
確かに編集長であり社長だった経歴は「身内」であり、弔辞は受ける側とでもいうのかもしれませんが、宮原氏に編集長を譲り、成美堂に経営まで譲って久しいわけで、先代、いや、初代、創始者の訃報なんですから、もう少し「想い」が欲しかったです。
編集後記で宮原編集長が言及はしていますが、直接追悼の辞を述べているわけではない「鉄道趣味との出会い」というタイトルです。社員カメラマンだった沖勝則氏が急逝した際の扱いと比べても「軽い」わけで、駐㍽≠フ「遺産」で商売をしているというのに、その程度で送るのか、と言うのが偽らざる気持ちです。
おまけに編集後記には信じられない一文も。
その「北の流れ星」を駐㍽≠フ会心作と紹介しながら、写真の原板をいつの間にか散逸、ってどういうことでしょうか。鉄道をテーマとする出版社が、記録として重要な写真の原板を散逸とは、駐㍽≠フ作品だからと言う以前の問題として論外です。
1965年にRFに初出、最後は1978年の別冊への再録でしょうか。確かにそこからだと37年の時を経ていますが、出版社が、プロが「記録」を散逸とは信じられません。
訃報の体裁といい、仕事の質が問われます。