Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

弔意どころか...

2015-09-02 22:27:00 | 書評
鉄道ジャーナルの前編集長で、前社長でもあった駐㈲I元氏の訃報につき、各誌がどのように取り上げたか。訃報から各誌の刊行まで、DJを除きほぼ1ヶ月あるので、時間的問題はないはずであり、その結果は各誌のスタンスが透けて見える結果になりました。

発売時期が若干早いDJ、そして最後発のJトレインは記載なし。まあこれは仕方が無いというか、人的交流と言う面では若干壁がありますし。
そして主力3誌とされるなかで、「格」が一つ頭抜けているRPは別とすると、先輩格のRFと3番手のRJは何かとライバル心をむき出しにして、というか、駐√メ集長が意識しすぎの面もありましたRFに記載がなかったというのは何とも大人気ないですね。RJ創刊前にRF誌上で「北の流れ星」と題した「はくつる」のルモf載しているのですが。(別冊No.1に転載)

RPは今津編集長、RMは名取編集局長名での囲み記事。功績や人となりを簡潔にまとめ、「仕事でのお付き合い」を超えた思いが滲み出てます。
RPは一時期スタッフ?だったことへの言及が無いのが残念ですが、それ以外は満点でしょう。

そしてRJはどうだったか。
もうお分かりでしょう。他2誌と比べると事務的に過ぎるとしか言いようが無い「告知」です。
確かに編集長であり社長だった経歴は「身内」であり、弔辞は受ける側とでもいうのかもしれませんが、宮原氏に編集長を譲り、成美堂に経営まで譲って久しいわけで、先代、いや、初代、創始者の訃報なんですから、もう少し「想い」が欲しかったです。

編集後記で宮原編集長が言及はしていますが、直接追悼の辞を述べているわけではない「鉄道趣味との出会い」というタイトルです。社員カメラマンだった沖勝則氏が急逝した際の扱いと比べても「軽い」わけで、駐㍽≠フ「遺産」で商売をしているというのに、その程度で送るのか、と言うのが偽らざる気持ちです。

おまけに編集後記には信じられない一文も。
その「北の流れ星」を駐㍽≠フ会心作と紹介しながら、写真の原板をいつの間にか散逸、ってどういうことでしょうか。鉄道をテーマとする出版社が、記録として重要な写真の原板を散逸とは、駐㍽≠フ作品だからと言う以前の問題として論外です。

1965年にRFに初出、最後は1978年の別冊への再録でしょうか。確かにそこからだと37年の時を経ていますが、出版社が、プロが「記録」を散逸とは信じられません。
訃報の体裁といい、仕事の質が問われます。





擁護できない、してはいけない

2015-09-02 21:39:00 | ノンジャンル
些か旧聞に属する話ですが、「しまむら」が発売した服に「カギ十字」がデザインされていたと言う報道がありました。

会社側は販売を中止しましたが、ベタ記事的な報道の段階では、過剰反応では、という感覚も抱きました。そもそもナチスドイツのシンボルであるカギ十字は右マンジですが、仏教における瑞祥デザインとして左マンジがあり、地図その他の寺院のマークでもマンジはお馴染みですから、言葉狩りならぬマンジ狩りは文化への過剰な圧力ともいえます。欧州でもフィンランドが航空機の国籍識別マークに使っていたわけで、ナチスドイツのように斜めに傾けての使用以外を排除することは、古来から続く文化の否定になりかねません。

と、思いきや、問題の商品の写真を見て「こりゃダメだ」と投げ出しました。
マンジの文様が散らしてある、というデザインを想定していたのですが、タンクトップに付属するアクセサリでした、問題は。
しかも鉄十字の真ん中にカギ十字です。これ、ナチスドイツ時代の勲章では?と調べてみると、モロです。「騎士鉄十字章」じゃないですか。

これは仏教がどうのという話ではなく、ナチスドイツのデザインそのものです。これはアウトです。
バイヤーがミスった、と言うような話も聞きますが、「見た感じ勲章」でカギ十字付き、というアクセサリに何も反応しないのはダメでしょう。感度が低すぎですし、このレベルだととんでもない意味の文字列が書いてあるような服でも仕入れそうです。



エンブレムの後遺症

2015-09-02 01:33:00 | 時事
五輪エンブレムは「白紙」になりましたが、出血を止めたに過ぎない状態で、様々な問題が残っています。
気になるのは、この期に及んでなお追求する側に非があるような論調が見られることであり、確かに「祭り」に乗じただけの野次馬的参加者も少なくないでしょうが、早い段階で徹底的に追求したことで、開催直前と言った取り返しが付かない時点で混乱するリスクを回避できたわけです。

ネット時代だねぇ。という既存メディアを中心とした論調と言うか批判は、老人の世間話なら通用しても、社会の木鐸としては通用しません。
是は是、非は非を峻別するギスギスした社会への変質をこれまで看過、というか後押ししてきたのもメディアであり、コンプライアンスと言う規範で縛る以上は、そこに曖昧な取り扱いを許されなくなっていることを前提に論陣を張るしかないのです。

そもそも今回は重箱の隅、というレベルではないのです。他社のデザインを取り入れた作風としかいいようが無いわけで、高度にオリジナリティが問われる国家イベントのデザインにふさわしいか否か。そこの判断が甘すぎます。
ネット時代だからここまで追及、というのであれば、ネットで掘り起こされた「模倣された」デザインは、デザイナーも組織委もネットで検索が可能と言うことであり、模倣していないにしても既に同様のデザインが世にでている、としてオリジナリティを理由に没にすることが可能でしたし、普通ならそうすべきでした。いわば特許で先願を十分に確認していなかったようなものであり、権利関係のチェック担当者は職務懈怠でしょう。

やはりというか、今朝の各紙のコラム子は俳句や短歌などを例に引いて「擁護」しているのですが、天声人語子は偶然の一致となった作者は謝罪、訂正したと書いたように、元になった俳句、短歌を踏まえた作品であるということを誰もが認識しているから許されるのであり、その違いを無視しては、意図的にミスリードして擁護しているか、無知かのいずれかでしょう。

そして、問題なのは今回のデザイナーだけではありません。よく知らない業界を批判するのはいけないことでしょうが、素人目に見て、デザインとかの業界は「模倣」に対する認識が甘いのではないか。著作権や意匠権といった確立された権利が存在するのに、同じようなものになる、と言うことを無条件に容認したら上記の権利は意味を成さなくなります。

デザインの類型、例えば、今回の騒動を通じて明らかになった群馬県太田市の美術館のロゴのような、細身の直線と円形でローマ字を表現する手法のような汎用性のあるもの、また今回のエンブレムのように図形の組み合わせでローマ字を表現するもの、というデザインについて、パターン名を定義して、手法を編み出した人を明記する、とすれば、今回のデザイナーにしても、「○○」の技法を使いました、と説明すれば済むだけですし、それがオリジナルかどうかもすぐに分かるわけです。

そういう手法が確立していれば、模倣、盗作の謗りを受けることも少なくなると思うのですが、現状はグレーゾーンしか存在せず、相当怪しいものまでが「擁護」されてしまうわけで、それを是とする業界の改革も望まれる、と言うのが今回の教訓でしょう。

それにしても組織委が最後の最後まで擁護したことで、新国立競技場に続き税金が無駄に使われることになります。
チェックは甘かったかもしれないが、我々も被害者だ、と突き放さず、実は初稿の段階では問題のデザインとは似てなかったんです、という大技を繰り出してまで擁護したことで、「共犯」になってしまったのです。

そう、最終案のデザインは組織委側との共同作業という仕立てになってしまったことで、組織委の責任が免れないのではないでしょうか。
そうなると未だ納得しないベルギー側に加え、「白紙」で経済的損失を被ったスャ塔Tー各社や自治体に対する損害賠償を誰が負担するのか。組織委が責任ありとなると、そのコストは税金でしょう。自己資金、つまり協賛金でまかないます、といった瞬間にスャ塔Tーはドッチラケますよ。結局スャ塔Tーが損を被るのですから、