Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

ジャーナル8月号

2009-07-10 23:41:00 | 書評
少し経ちましたが、ジャーナル8月号の書評です。

何を今更の感もある夜行列車特集ですが、列車追跡に小技が効いていました。
「あけぼの」については機関車を巡る話題。なるほど、こういう事情が、という解説を見ると、取材力と言うか編集の妙味を感じます。
「ドリームにちりん」はこれは取材対象のセレクトの妙。意外な列車の意外な実態と言う意味で面白かったです。

その夜行列車に関する分析はこんなもんか、と言うレベル。
よく言われてきた分析を丁寧になぞったものですが、では夜行はなぜ廃れたのか、と言う事実を考えた時、この分析は概ね正しいものの、なぜそうなったか、と言う部分と、需要がないのか、と言う部分においては消化不良感が残ります。

その消化不良感の源泉は、奇しくも列車追跡で取り上げた両列車の「実態」にも出てくるのですが、概論として一般化するには、こうした例が「特殊」としない限り難しいのです。

次いで「日本縦断各駅停車」、なんとご当地総武線に進出です。
ならば厳しく見ないと、と思って目を通すと、編集部も「総武緩行線」沿線ですから「望むところ」なんでしょうか、いつになく充実している印象です。

唸ったのは亀戸の「新子と岩雄」ネタ。「岩男」じゃなかったかな?とも思うんですが、亀戸駅長に語らせているとはいえ、技有りの一文です。
駅頭の描写も亀戸だと水神森側に足を運んだり、小岩の地下タクシープールや「夜の街」とか、きちんと見ています。
そうかと思うと市川市役所が本八幡にある謎を、市川署の位置と合わせて解説するなど、トリビアネタもあってうまく出来ています。

ただし不出来というかもう知らない人も増えたのかと嘆息したのが両国駅。
閉鎖された階段の写真に「昔の臨時改札口への階段が残る」という説明がありますが、これは臨時改札口ではなく電車ホームからの改札への階段であり、現在の階段が昔は列車ホームへの連絡階段で、両国発のない時間帯は閉鎖されていたのです。つまり、逆なんです。

例の頭端式の本駅舎の脇に電車用の改札があり、本場所開催時などのために列車ホームへの通路から今の改札口の少し奥に臨時改札があったのを、2000年頃かその少し前に本駅舎を商業施設化し、列車ホームと電車ホームからのコンコースを現在位置に統合したのですが、そのころを知る人も少なくなったと言うことですね。

あと、千葉支社管内のトイレの改装は知りませんでした。
これを読んだ後注意して見ると多くの駅で確かにきれいになってますが、ショッピングセンター並は褒めすぎでしょう。確かに鉄道駅としては出色の出来ですが、同じ交通でも空港や高速道路に比べるとまだまだ。商業施設とは比べるまでもないです。

あとは「鉄道の町の記憶」の米原駅と、「鉄道幾春秋」の飯山線高場山トンネル崩壊のコラムが読ませましたね。
全通50周年の紀勢線関係ももう少し内容が欲しかったですし、今号はメインディッシュよりもサイドメニューが味わい深かったです。




心を鬼にしてでも守るべき一線

2009-07-10 23:32:00 | 交通
2005年4月のJR宝塚線脱線事故で、神戸地検はJR西日本の山崎社長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴しました。
事故現場のカーブをJR東西線直通に伴い付け替えた際の安全対策が十分でなかったとし、当時の関責任者である鉄道本部長だった現社長の責任を問うたものです。
つまり、事故の直接の原因は運転士のミスだが、鉄道本部長には事故が起きることへの予見可能性があり、責任を問いうるという判断です。

あの悲惨な事故から4年余りが経ちました。事故当日、テレビに映し出された事故現場の凄惨な様子。また翌日たまたま出張で、伊丹から飛び立った飛行機の窓から見えたあの現場。
あの事故に対する遺族、被害者の怒りは4年余りで治まるものでもないでしょうし、JR西日本は事故を起こした会社として永遠にその重い十字架を背負っていかねばなりません。

しかし、一方で「法的責任」となるとそうした感情だけでは語れないものがあります。
事故調の報告書が公表され、事故の状況、原因に関する内容に目を通して感じたことは、あれだけの大惨事の直接の原因があの内容だとすると、まさに「振り上げた拳」のやり場に困るとしか言いようがないわけで、しかも会社の施策があのカタストロフィに向かうべくあった面は否定できないとはいえ、補足状況を読み込むと、そうした会社の施策の有無にかかわらず発生した可能性を否定できないほど属人的な原因が前面に出てきてしまうことは否めないのであり、だからこそ今回の起訴理由がこの一点に収斂してしまったといえます。

会社の道義的責任は重く、永遠に雪がれるものではないですが、法的責任に関してはこの国が法治主義である以上、たとえ感情に反する部分があっても厳格に法に従って決定されるべき部分です。
そう考えたとき、今回の起訴理由はどうでしょうか。急カーブでのATSの速度照査につき、当時の安全基準を超えた義務を求めたのです。

よしんば基準はクリアしていても事実上各社が自主的に設置していたのなら、事実上の義務が認定できますが、JRより安全とされるATSを設置している在阪私鉄ですら、本事故後に急カーブなどの手前に速度制限標が設置されたケースがあるように、当時の段階でそこまでの対策を求め、それの不備を断罪するということは、「明文上も事実上もルールがない」部分の義務を後出しで要求したことになるわけで、法治主義、罪刑法定主義の大原則に照らして極めて疑問が残ります。

今回の起訴は、遺族や被害者の声に応えるものと言う話もありますが、いわゆる国策捜査を彷彿とさせるようなこうした無理筋とも言える起訴で法廷闘争に持ち込んだとしても、法的根拠に無理があれば先行きは暗いです。
そうなると遺族や被害者の方々は「裏切られる」わけで、(法律上の問題とはいえ)「無罪」の判決を聞くという二重の苦しみを味わされるのです。

誤解なきように再度言いますが、JR西日本は事故を起こした会社として永遠にその重い十字架を背負っていかねばなりません。
しかし、この国の司法システムに則って法的責任を問うのであれば、それ相応の手順や根拠が必要なのです。本件はその基準を緩めて、別の件では厳格に、というような恣意的運用がなされたら、それは法治主義とは言えません。
その意味で、メディアや監督官庁も今回の起訴に関してはかなり懐疑的なのはある意味当然と言えますし、法治主義と言う大原則に関していえば、健全な反応とも言えます。

JR西日本に「責任」はある、しかし法律では問いづらい。そのジレンマに苦しみつつも受け入れないといけないのが法治主義国家の国民の責務ですが、とはいえなかなか受け入れがたいのも事実です。
その難しい部分を受け入れるように啓蒙すべき存在のひとつがメディアなのですが、7月9日の神戸新聞社説のように、「法的な義務を超えて、安全対策に細心の注意を払うのが務めという指摘だ。」と書いてしまうのはどうでしょうか。

法を司ると書く司法府が、「法的な義務を超えて」責任を問うべきとするのはいかがなものか。
事故以来厳しく弾劾してきたJR西日本だから当然と言わんばかりの論調ですが、斯様な姿勢を司法府に容認することが何を意味するのか。
社説として語るにはあまりにも軽々しい論調と言わざるを得ません。