Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

人の親として気が重い

2007-05-16 16:48:28 | 時事
なんとも気が重いニュースです。
「赤ちゃんャXト」自体に反対なのですが、そこに3歳児です。

物言わぬ赤子なら良いという訳ではありませんが、自分の名前やどこから誰と着たかを話すような子供が「捨てられた」わけです。
この子にとって今のところは、父親とお出かけして、なぜか父親がいなくなった、いつ迎えに来てくれるのかな、という認識なのでしょうが、それが「永遠の別れ」と言うことを考えると、不憫でなりません。

どういう神経であの空間に置いて来たのか。寝ている間だったのか、公共スペースのベビーベッドと言いくるめたのか。この子にとっては普段と変わらない父親との時間だったはずなのに、突然悲劇が訪れたのです。

3歳児と言えば、言葉も話すし、歩き回ったりもします。
親を信じて無邪気に親についてくる世代です。虐待死の事件で、殺された子が親にされるがままになったり、相談所の救いの手があっても親の元に戻りたがるのも、それでも親を信じているからです。

「捨てられる」直前までこの子は父親に対して一生懸命お話をしてたんでしょう。その直後の悲劇を微塵も疑うことなく。
同じ「別れ」にしても、施設に出すと言う方法もあるわけです。もちろん子供が受けるショックは一緒ですが、それであっても、「きちんと別れる」という最低限の礼儀はあるわけです。

今朝のニュースショーで、他県の児童相談所のコメントの中に、施設に出された子供が施設を出たときにまずすることは親探しだ、というのがありました。
それだけ子供にとって親の存在と言うのは大きいのです。にもかかわらず、今回は匿名で「捨てた」のです。

今回のケースでは、病院が「捨てられる」ことを前提にした受け入れ姿勢を取り、県も承認していたことから、犯罪性はないとのことですが、法律上は良くても、人の道としてあってよいことなのか。

かつて仏教が現世での悪行を戒めるように地獄図を描いたり、田舎での「間引き」を戒めるために、間引く人の影が般若になっている絵が描かれたりしましたが、「赤ちゃんャXト」には「赤ちゃんに、なにかを残してあげて」と訳の分からない短文があるだけで、平和そうな画しか描いてありません。本来は、そこに「捨てる」ことに対する最後の説得となるべく、それこそ地獄図の類でも描くべきなんですが、安閑としたムードで人の道を外すことを容認していることは、受け入れる側の罪深さを浮き彫りにしているのです。