Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

環境に優しい?

2007-05-01 11:10:29 | 時事
バイオガソリンの販売が始まりました。
バイオエタノールを混合したガソリンですが、なぜこれが導入されたかと言うと、光合成で二酸化炭素を吸収する植物由来の製品ゆえ、二酸化炭素排出をゼロとしてカウントできるから、計算上環境に優しいと言うことです。

しかし、それはあくまで計算上の話であり、二酸化炭素の排出はあります。ただ、バイオエタノールの組成にある炭素分が、光合成により二酸化炭素を吸収して出来たと「看做す」ために、吸収と排出を計算上相殺しているだけです。
また、燃費が若干劣るという話や、混合比率如何では窒素酸化物の排出量が増えると言う話もあるわけで、計算上はクリーンでも、現実の環境に対して本当に優しいかは疑問です。

その意味で、姑息ともいえる計算上のクリーンではなく、燃料電池や電気自動車といった、本当に化石燃料を脱する現実のクリーンを目指すべきでしょう。




このバイオガソリン、エンジンの腐食に対する懸念とそれへの対応や、精製施設の操業などを考えると、全体での化石燃料の消費や二酸化炭素の排出はどうなんでしょうか。
日本製紙が先頃、再生紙100%の紙の生産は、インキなどの漂白除去にかかる環境負荷が高く、環境に優しくないとして生産を中止して、古紙混合率を適切なレベルに落とした再生紙に切り替えることを発表しました。
このように、環境に優しそうに見えても、全体で見たときにそれほどでもないことは有り得る話であり、特に今回のこれは、あくまで計算上の二酸化炭素の話である点も、疑念を大きくしています。

もう一点、と言うか最大の問題ですが、このバイオガソリンに使われるバイオエタノールが、穀物由来と言うことです。
つまり、これまで食料や飼料に利用されていた穀物が燃料に回ることで、食糧不足や価格高騰という影響が出ているのです。
これを防ぐためには作付面積の増加、つまり、耕作地の開墾と言う一種の自然破壊を余儀なくされるわけですし、生産作物の偏倚も懸念されるわけで、これまで食料、飼料の需要で回っていたサイクルが破壊される懸念があります。
特に我が国の穀物自給率は米を除けばお寒い限りであり、輸入食糧の高騰が、穀物輸入や、それを飼料とする食肉等のコスト高という面で発生することが予想されます。

もちろん、穀物ではなく廃材その他の廃棄物になる植物製品を使うことで、食料への影響を減殺することも考えられますが、現在の流れは確実に穀物由来の製品の普及と対応であり、非穀物系の製品の普及がすすむかも疑問です。

ある製品、行動が環境にいいということは事実であっても、それを推進することによる変化が、全体にどういう影響を与えるのか。
100%再生紙の事例を挙げましたが、その他にも、古紙や空き缶などのリサイクルを地域ぐるみで進めた結果、これまで事業として成立していた回収業にダメージを与え(人件費ゼロで回収してしまうから勝てない)、とはいえ全部をボランティアで賄えないから、結局リサイクルの循環に穴が開いたと言う話もあるわけです。

また、ごみの分別にしても、結局再生出来ずに埋立処分をするくらいなら、高性能の焼却炉で焼却すれば、ダイオキシンも発生させずに、溶解した金属を回収し、残った灰は容積が大きく減少して埋立容積も減少するし、セメント材等の代用にできるわけです。
また焼却で発生した熱エネルギーも回収できますから、リサイクルや環境負荷という意味では、「無分別」と言う選択肢も有り得ます。

足下話題のレジ袋にしても、ごみ収集日が減少した昨今、屋内やベランダと言った生活空間にごみを貯めざるを得ない状況において、気密、水密性が高く容量が小さいレジ袋を家庭で活用しているわけです。それを大容量の指定ゴミ袋で代用すればそれは無駄ですし、また、衛生面でも問題が生じるわけで、ごみ容器を利用する、また、マイバックを利用するにしても、それを洗濯、洗浄することで発生する汚水を考慮する必要があります。このようにある局面だけを抽出すれば確かに正しいその行為も、他の局面で環境負荷を高めていないかを考えないといけないわけで、特に、自然発生的ともいえる状態でサイクルが完成しているケースは、よく考える必要があります。








震災場外乱闘

2007-05-01 10:31:59 | 時事
春の叙勲が先日発表になりましたが、前の兵庫県知事が旭日大綬章を受賞しています。
震災と復興を乗り切り、震災関連の財団で震災の教訓を発信していることが評価されているようです。

この前知事ですが、先に東京都知事が、防災関連の談話の中で、阪神・淡路大震災時の首長の判断が遅かったため自衛隊の派遣要請が遅れ、犠牲者が二千人増えた、と発言したことに対し、反論したことで話題を呼んでいます。当時を思い起こせばどう考えても判断が遅く、対応が遅れたことは疑う余地もないわけで、その後の県や神戸市、また国などがこの「失敗」を教訓にしているわけです。
もちろん想定外の出来事で混乱するのもやむをえない面があるし、実際には初動が迅速でも都知事が言うほどの救出は有り得なかったという意見もあるわけですが、それはあくまで結果論であり、ベストを尽くしての結果と、尽くさずしての結果では同じ数字でも重みが違います。

その意味で、「ほとんどが即死だから(大意)」と言う弁明は当時の責任者としては口にすべき言葉ではなく、よしんばベスト(に近い)を尽くしたとしても、行政のトップとして結果責任を甘んじて受けるくらいの対応であって欲しかったです。
にもかかわらず手記まで出して反論する姿には違和感すら感じたことは否めず、今回の叙勲のニュースを目にしたとき、叙勲の栄に浴さんとしていた時だから、ネガティブキャンペーンに過剰に反応してしまったと勘ぐりたくもなりました。






さて、この前知事と都知事の「バトル」ですが、ブレーンやネットでの素人談義も含めて盛り上がっていました。
ただ、そこで気になったのは、批判するにしても擁護するにしても、「事実」を踏まえていないのでは、ということです。
特に気になったのは、都知事のブレーンで危機管理の専門家とされる方が、「お気の毒ですけれども、我々はやはり最初に、8割圧死というのが本当かどうか疑っております。火災でもって、生き埋めになった人で、あの、火あぶりになった人たくさんいるんだから。」と発言していることが一人歩きし、都知事も援用していること。

例えば兵庫県警の公式データ(直接検視5000件、聞き取り480件であり、信頼度は極めて高い)では、圧死・窒息死が全体の83%であり、5時46分の地震発生から6時までの15分程度で亡くなった方が59%となっています。神戸大の調査では県警の検視のうち法医学会派遣医師の調査分には死亡推定時刻ではなく確認時刻が含まれていることを指摘し、それを除外すると6時までに93%が亡くなっているとしており、こうした調査結果を踏まえれば、危機管理の専門家の言は、根拠のない「個人的所感」と言わざるを得ません。

また、「火あぶりになった人たくさんいるんだから」にしても、上記の県警の公式データでは焼死が全体の4%(236人)、焼けた骨で見つかり死因が特定できない「焼骨」が6%(328人)とあり、その合計のうち4割以上の259人が火災がひどかった長田区(死者全体は919人)に集中しているわけです。絶対値としては確かに空前の数字であり「たくさん」ですが、ここでの話は全体像のはずで、全体像を語るにはどうでしょうか。
最大の死者を出した東灘区や、芦屋市、西宮市などの火災件数などを総合したら、このような発言は出てこないはずです。

「生き埋め」「火あぶり」と言うセンセーショナルな言葉を使い、「無策」を論っているだけに感じますし、本来これらの一次資料に通じているはずの「危機管理の専門家」が犠牲者が即死ではなく苦しみ抜いて死んだ、と事実を枉げてまで主張しているとも捉えかねられないこの発言はいかがなものでしょう。

もう一つ気になったのは、ネットで孫引きされているうちに変貌している情報です。
横浜市立大学の助教授で、県警の監察医だった方が、「当時専門医が検死した遺体はわずか2400。4000近い遺体は死因は愚か死亡時間も特定できない」「圧涛Iに多い死因の一つは圧死による即死ではなく(煙での)窒息死だ」とテレビで発言したとあり、引用者が、ゆえに火の手が回るまでは大多数が生きていたから対応の遅れによる犠牲が多い、と自説を補強するケースが目立ちます。

焼死、焼骨の合計が全体の1割程度というのは兵庫県警の資料に明記されているわけで、「圧涛Iに多い死因は...(煙での)窒息死だ」ということは有り得ません。煙での窒息死(ex:一酸化炭素中毒)は焼死に分類されるからです。
そういう論理矛盾よりも問題なのは、その助教授がまとめた資料を当たって見ると、上記の「孫引き」が助教授の発言であるかが極めて疑わしいということです。

この助教授が、梁や構造物などの直撃で頭や内臓が瞬時に破壊される「圧死」ではなく、胸や腹に圧し鰍ゥって圧迫することで発生した「窒息死」の多さを各所で指摘している一次資料が多数あります。圧迫による窒息ですから、即死ではなく「30分以内なら助かったかもしれない」と助教授はこれらの一次資料で推測していますが、いずれにしても残念ですが早い時間帯に亡くなったことは疑いづらく、県警資料や神戸大の調査による死因と死亡推定時間の関係に無理はないでしょう。

それがなぜ「(煙での)窒息死だ」となったのでしょうか。括弧書きは引用者の推測でしょうが、これでは死亡推定時刻を繰り下げんがための「捏造」とされても仕方がないミスリードです。



もちろん当時の対応は批判されるべき部分が多く、忘れてはならないとともに今後の対応にこの尊い犠牲を活かしていかねばなりません。
そういう意味で、都知事が震災の状況を引いて、自らが預かる自治体の対応を考えることもまた正しいわけで、都知事の発言を殊更に批判する必要はないです。

しかし、その前提となる部分を情報として上げる際や、議論をする際に、事実を枉げていると取られかねないことは問題です。震災の教訓が正しく伝えられていないと言うことは、都知事と前知事の面子や好き嫌いのレベルであればまだ「無害」ですが、それが一人歩きして次の災害における教訓にならないという可能性をはらんでいることを考えるべきでしょう。