続いてはウォッチ欄。
「時計の針戻す委員主張」として、「子どもと家族を応援する日本」重点戦略会議の分科会における、ワークライフバランス(仕事と生活の調和)は問題、性差役割分担は合理的という議論に対し、そのメインでもある委員の長谷川三千代埼玉大教授を名指しで指弾しています。
狡猾なのは、多様な意見を否定するつもりはない、と言いながら、時計の針を戻すような主張には違和感を感じる、として、「時代遅れ」「守旧派」のレッテルを貼っていることです。
結局、いわゆる「戦後民主主義体制」の中心を担ってきた「進歩的文化人」の発想なんですよね。
「進歩的」という、「進んでいる」から「優れている」という印象を与えるものを自称し、その対極として「保守反動」呼ばわりしてきたのと同じです。マルクス主義が、社会主義を資本主義の「次の段階」と定義したのと一緒です。
政治体制をはじめ、社会の制度、体制その他あらゆるものが、時計の針のようにある方向へ向かって不可逆の動きをするのであれば、それに棹差す行為を「時計の針を戻す」と言う批評はありえます。
しかし、これらは本来、その方向へ向かう必然性が必ずしも無く、別の方向へ向かったり、過去の方向に戻ったりすることもあり得る、しかもそれが足下やこれまでの方向性を否定して戻ると言うこともあり得るという、自由な運動をするのですし、そうでなければ民主的に決定すると言う「民主主義」は成立しえません。社会主義のように、ある目的に向かい、前衛が大衆を指導するのであれば、目的へ向かわない動きは「時計の針を戻す」ことにはなりますが。
なお、子育てにおいて、母性と父性は異なり、それを代替出来ませんし、増してや同姓の他人でも完全には不可能です。
人間以外の動物においても、授乳以外の分野における性差役割分担があるケースがあるわけで、性差役割分担は、生物的な本能と言える可能性すらあります。それを無視したばかりか、そこからの「転換」を「進歩」とすることは、決して「時計の針」のような自明の話ではありません。
「時計の針戻す委員主張」として、「子どもと家族を応援する日本」重点戦略会議の分科会における、ワークライフバランス(仕事と生活の調和)は問題、性差役割分担は合理的という議論に対し、そのメインでもある委員の長谷川三千代埼玉大教授を名指しで指弾しています。
狡猾なのは、多様な意見を否定するつもりはない、と言いながら、時計の針を戻すような主張には違和感を感じる、として、「時代遅れ」「守旧派」のレッテルを貼っていることです。
結局、いわゆる「戦後民主主義体制」の中心を担ってきた「進歩的文化人」の発想なんですよね。
「進歩的」という、「進んでいる」から「優れている」という印象を与えるものを自称し、その対極として「保守反動」呼ばわりしてきたのと同じです。マルクス主義が、社会主義を資本主義の「次の段階」と定義したのと一緒です。
政治体制をはじめ、社会の制度、体制その他あらゆるものが、時計の針のようにある方向へ向かって不可逆の動きをするのであれば、それに棹差す行為を「時計の針を戻す」と言う批評はありえます。
しかし、これらは本来、その方向へ向かう必然性が必ずしも無く、別の方向へ向かったり、過去の方向に戻ったりすることもあり得る、しかもそれが足下やこれまでの方向性を否定して戻ると言うこともあり得るという、自由な運動をするのですし、そうでなければ民主的に決定すると言う「民主主義」は成立しえません。社会主義のように、ある目的に向かい、前衛が大衆を指導するのであれば、目的へ向かわない動きは「時計の針を戻す」ことにはなりますが。
なお、子育てにおいて、母性と父性は異なり、それを代替出来ませんし、増してや同姓の他人でも完全には不可能です。
人間以外の動物においても、授乳以外の分野における性差役割分担があるケースがあるわけで、性差役割分担は、生物的な本能と言える可能性すらあります。それを無視したばかりか、そこからの「転換」を「進歩」とすることは、決して「時計の針」のような自明の話ではありません。