Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

時計の針

2007-05-13 00:28:06 | 時事
続いてはウォッチ欄。

「時計の針戻す委員主張」として、「子どもと家族を応援する日本」重点戦略会議の分科会における、ワークライフバランス(仕事と生活の調和)は問題、性差役割分担は合理的という議論に対し、そのメインでもある委員の長谷川三千代埼玉大教授を名指しで指弾しています。


狡猾なのは、多様な意見を否定するつもりはない、と言いながら、時計の針を戻すような主張には違和感を感じる、として、「時代遅れ」「守旧派」のレッテルを貼っていることです。

結局、いわゆる「戦後民主主義体制」の中心を担ってきた「進歩的文化人」の発想なんですよね。
「進歩的」という、「進んでいる」から「優れている」という印象を与えるものを自称し、その対極として「保守反動」呼ばわりしてきたのと同じです。マルクス主義が、社会主義を資本主義の「次の段階」と定義したのと一緒です。

政治体制をはじめ、社会の制度、体制その他あらゆるものが、時計の針のようにある方向へ向かって不可逆の動きをするのであれば、それに棹差す行為を「時計の針を戻す」と言う批評はありえます。
しかし、これらは本来、その方向へ向かう必然性が必ずしも無く、別の方向へ向かったり、過去の方向に戻ったりすることもあり得る、しかもそれが足下やこれまでの方向性を否定して戻ると言うこともあり得るという、自由な運動をするのですし、そうでなければ民主的に決定すると言う「民主主義」は成立しえません。社会主義のように、ある目的に向かい、前衛が大衆を指導するのであれば、目的へ向かわない動きは「時計の針を戻す」ことにはなりますが。

なお、子育てにおいて、母性と父性は異なり、それを代替出来ませんし、増してや同姓の他人でも完全には不可能です。
人間以外の動物においても、授乳以外の分野における性差役割分担があるケースがあるわけで、性差役割分担は、生物的な本能と言える可能性すらあります。それを無視したばかりか、そこからの「転換」を「進歩」とすることは、決して「時計の針」のような自明の話ではありません。

プロへの違和感

2007-05-13 00:09:44 | 時事
8日の朝日を読んで朝から違和感をいろいろ感じました。
感じてから時間が経っていますが、ちょっと手が空かず、六日の菖蒲になってしまいました。

まずはオピニオン欄の「ドキュメント医療危機(22)」、「医療崩壊」などの著作がある医師のオピニオンが引かれていました。
確かに「医療崩壊」の内容には首肯する部分も多いのですが、読後に違和感を感じる部分も多かったことは事実です。一連の著作に対しては医師の間では評価が高い反面、我々のような素人から見ると、どうしても理解できない、納得できない部分が残るのです。

「医療崩壊」の根底に流れるものは、医師という「プロ」に対する理解と畏敬の不足に対する不満と、過剰な期待という誤解への不満と言えます。
確かに我々素人はプロを理解することは難しいし、プロゆえの高い技術を当然視している面があることは否定しません。

しかし、技術のプロであることは、結果において素人を超越する必要があることと同義でしょう。いわゆる「千三つ」のレベルでプロというのはありえませんし。
難しいのはそこに完璧を求めうるかどうか。プロ野球選手はイチローですら打率は4割に達しません。10回打てば6回は「失敗」するのですが、プロの中のプロという評価ですから。

ただ、医療の現場におけるプロの「確率」によって相場は変動するとしか言いようがありません。医療技術の向上で「ほぼ完璧」になったから完璧を当然視することに疑義を抱く医師もいますが、医療が進歩していなかった時期、つまり「3割バッター」がベストの時代であれば「3割」を求めていたわけで、決して無茶を求めているわけではないのです。

プロへの理解不足の典型として指摘されるのが、医療事故での司法権の介入です。
司法という「医療の素人」に何が分かる、というのが本音でしょうが、素人を相手にしている以上、素人が理解出来ないものは、例えそれがプロにとっては常識であっても、「間違い」になるのです。
いわんや素人をクレーマー呼ばわりしては、畏敬の念など望めません。技量は確かに「プロ」であっても、それに対する正邪の判定は「素人の理解」になると言うことを忘れています。理不尽でもそれが民主主義のルールであり、「判定のプロ」である司法の場に「司法への国民参加」が謳われるのもその原則に基きます。





さて、医療事故への司法の介入は医師の医療行為に対する萎縮を招く、と指摘しており、事実、ハイリスクな部門からの「逃散」が激化しています。そもそもが形式上人を傷つけたり、もともと病んでいたり傷ついている人における病状や容態の進行に逆らって救おうとするのが医療行為ですから、100%の努力を尽くしても改善しなかったり、死に至るなど悪化するケースは確実に存在します。
しかし、だからといってあらゆるケースに対する免責ということはどうでしょうか。医療事故への対応を無過失責任で、として医師を事実上免責するというわけですが、医療行為という形式がある以上、殺人や傷害の故意犯は有り得ないわけで、その業務上における過失を総て免責するというのは、総理大臣でも天皇陛下でも有り得ない待遇です。

結局、結果を問うのであれば「プロ」として期待しうる結果を、プロセスを問うのであれば、「プロ」として相応しい方法をベンチマークとすべきであり、その場合でも結果を問うのはさすがに酷であり、プロセスにおける問題で過失の有無を判断することまで放棄することは、他の「業務」と比較して公平が取れません。

そのプロセスの判定を「素人」である司法がすることへの抵抗があるわけですが、では「プロ」側が中立公平に判定するのであれば、医療事故において、そうした第三者機関の助言もしくは認定により立件したり、訴訟において判断材料を提供することにすれば、バランスとの取れた制度になるはずです。
しかし、現実は「プロ」側が中立公平な判定を下せるかについて疑いがあるわけですし、事故隠しと見られても仕方が無い事態が発生している現状では、まずそうした不信感を払拭できるように自浄能力を高めるべきです。

事故隠しは顕著な例としても、プロセスや結果に対する認識において、「プロ」の判定が世間一般が難易と言う意味ではなく、論理として理解できるものかどうかと言う問題があります。新聞記事では慈恵医大青戸病院での内視鏡手術での医療事故について、死因は「輸血ミス」であるとして「未熟な医師が不慣れな内視鏡手術に手間取った」という司法の断罪を批判しているわけですが、輸血コントロールさえ成功していれば確かに「死亡」はしなかったでしょう。

ただ、今の医療は終末医療に代表されるように、「死なせない」、あるいは「相当期間死なせない」ことは可能です。そういう現状にあっては、よしんば最終的な死因が輸血の遅れであったとしても、なぜ予定以上の輸血をしなければならなかったのか、と言う原因があって初めて輸血と言う行為に至ると言うのが常識的な的な論理です。そしてその原因行為こそが「未熟な医師が不慣れな内視鏡手術に手間取った」であるからこその責任は、少なくとも医療関係者以外の誰もが疑いを持たないものです。

もし、このようなケースですら輸血ミス以外は患者死亡の原因にあらず、というのが「プロ」の論理であるとしたら、「プロ」の判定への信頼感は醸成されるのかどうか。実際、少し前まで、さまざまな病気の終末として発生した「心不全」を死因としていたわけですし、関東のある病院では、医療事故により1年以上植物状態になったというのに、死亡して初めて事故として公表したと言うように、原因と結果を問うプロセスの判定において、疑義を抱かざるを得ないケースが多々見られます。

「プロ」を理解する必要は確かにあります。
しかし、その前提として、「プロ」は「素人」と同じ基準、ルールの体系にいなければなりません。そしてその基準やルールは共同体に共通する論理に貫かれている必要があります。
ベースとしている基準、論理が違っていたら、それは「プロ」と「素人」の関係ではなくなるのです。そして、論理を醸成するのは「プロ」だけではない。
それを踏まえてあるべき姿を考える必要があります。