庵KM

技術屋OBの環境問題独り言

経済問題。交通問題。健康問題。そして、日本の国創り問題。快適社会問題。

排出量取引の初期配分で、入札方式は財源増加がメリット。 

2010-03-16 | 環境問題
「国内排出量取引制度」の創設を、政府の温暖化対策基本法の中に閣議決定で盛り込んでいる。
しかし、その中身は総量で規制するのか、原単位(生産する効率に相当する)による規制で行うかは、権益争いの様相で,曖昧なままの表現になっている。
そして、この制度の創設を検討する期限を1年以内としているが、一番、大きな問題としての「初期配分」に対する議論は、対立したままの状況である。
これからの1年以内で決着するには、中身の議論がどれだけ進んで、国民の理解(その前に、議決する国会議員の理解)が得られるのか、問題含みである。

初期配分を「排出量の許可枠」として、「入札方式」(オークション方式)とする考え方は、公平性を価格メカニズム(市場の取引の原理)にゆだねる考え方である。
企業活動に必要な資源(化石燃料)を、必要としている企業同士が、需要と供給に取引にゆだねることによって、適正な価格で配分が行われる制度と言われている。

事例として具体数値を上げれば、A社は年間で100万トンの排出枠を必要と考えて、1トン1.1万円で買えば、100万トン分で1.1億円の購入資金が用意される。
B社は50万トンで1.2万円で入札すると、6000万円の経費を覚悟したことになる。
入札方式では、1億トンの排出枠に対して、高い価格で入札した企業の順に割り当て、1億トン分量に達した線で、線引きして、それ以下の企業には売り切れとなる。
入札価格の最低ラインが1万円/トンであれば、全排出枠はその価格になり、政府には1兆円の「排出量許可証券の売上」つまり、温暖化対策に使える財源が入る。

この事例の様に、1トン1万円が線引きのラインであったならば、9999円/トン、で入札した企業には、排出枠は一切ない。
また、排出量許可枠を少な目に入札した場合は、排出枠が足りなくなる事態が生じる。
それでは企業活動が出来ないので、他社から「排出許可量」の証券を買うことになる。
最低でも1万円/トン以上になり、証券が足りない企業が多くあれば、価格はドンドン吊上がる。
この価格が高騰するのは、悪影響も懸念されるので、最低入札価格の1.5倍に取引価格を抑えようと考えるならば、排出許可量以上に排出した企業から、1トンあたり、1.5万円の課徴金を取る仕組みにしておけば良い。
課徴金を払う企業が多いほど、政府に入る財源は増えるので、翌年度の排出削減政策に、予算を多く投じることが可能になる。

この入札方式による「排出許可量証券」の販売での「初期配分」方式は、役所の仕事が殆ど不要であり、政府の関与は最小で済む。
「排出許可量証券」と、実際の「排出した実績」を検査して、不足を監視するだけである。
そして上記の事例の様に、販売による売り上げ収入と、枠をオーバーした企業からに課徴金収入で、政府が促進したいと考える政策、(再生可能エネルギーの普及促進が一番の急務)に多くの予算を割り当てて、一気に排出削減の促進を図れることである。

アメリカのオバマ政権が構想している「排出量取引」(キャップ&トレード)の狙いは、まさに、この財源を調達できるメリットを狙ったものである。では政府による配分ではどうか?(次回に)。

排出量取引制度は初期配分をどうするかが最大の課題。

2010-03-15 | 環境問題
温暖化対策基本法案のなかで、一番、不透明なものが「国内排出量取引制度」である。
その中でも一番の問題は、排出しても良いとする許可量の「初期の配分」が問題点である。
しかし、マスコミの解説や論説で、この「初期配分」という用語は出てくることは滅多にみられない。

それは、今までの社会や生活の中で、有害なものを出すことが、「大量生産、大量消費」の方向で経済の量を膨張させることが、良いことだという流れが当然であった時代には「廃棄物の量の配分」は問題とならなかった。
しかし廃棄物の様に、増え続ける事は環境に良くないことだとなって、減量する方向に社会の必然性がでてきた。

ゴミの減量についてはいろいろな方策があるが、多くの自治体ではすでに、廃棄した量に対して、処理費に相当する金額を、排出した人から徴収して、公平性を確保している。
個人の出すゴミは有料のゴミ袋に入れることを義務付け、それ以外の廃棄の仕方は禁止している。
勝手に、どこかに捨てれば不法投棄の罰則が待ちかまえている。
だから、個人はゴミに出す量を減らす努力をするか、それが限界とおもえば、余分にゴミ袋を買うことになる。

それと同じ発想を、温室効果ガス(主として炭酸ガス)の排出について、排出用の袋を売り出せば、公平性が保たれる。
現在であれば、約1億トン分の「排出許可袋」を、有料で売り出すことになる。
10年後は、このゴミ袋の量は7500万トン分に制限される。

では、お金を払ってでも、排出量を確保したい企業はどうするか?
もし、固定した価格で売り出せば、徹夜で並んで1年分以上の許可袋を買い占めるであろう。
余分に買っても余りそうになれば、買い手はいくらでも出てくるとみれば、高値で売れることは確実である。
これは、実生活においては、徹夜で並ぶという事態であるが、産業においてはあり得ない。
それで、「公平性」のある方法では、「オークション方式」、「入札方式」ともいわれるが、排出許可枠が必要な企業ごとに、買う量と価格を入札する仕組みを導入する。

この「排出許可量の枠」を入札方式で実施することが、理論的には優れている制度であり、多くの国が検討している。
アメリカのオバマ政権が、法律で導入しようとしている制度の基本は、この「排出量許可枠のオークション方式」である。

前回のブログに書いた様な「政府が許可量枠」を、産業の状況を見ながら配分する方式とは、逆の発想である。
同じ「排出量取引制度」の名前でも、中身の違いは大きい。
それを説明してみよう。(次回に)

排出量取引制度については誰も中身を理解していない。

2010-03-14 | 環境問題
「温暖化対策基本法」が閣議決定されて、これから国会での法案審議に移っていく。
総論的には2020年に向けて1990年比で、温室効果ガスを25%削減すると宣言した、国際舞台への声明を、日本の国民全体で責任を負う、とする全員を奮起させる基本法である。
しかし中身については、日本の国内での理解は非常に乏しい状態である。
特に、「国内排出量取引制度」については、99%の人が理解が出来ていないと思われる。

そこでこの「排出量取引制度」の中身に立ち入って、私の理解している範囲での説明を加えてみます。
まず、この制度は「国内」の排出量を削減する制度であって、世界での議論されている「国際的な排出量取引制度」とは、ひとまず、関係しないモノと扱うことにする。
つまり、日本の国内において、総排出量を25%削減する活動を促進する為に取りきめる制度である。

この「取引」つまり、排出した量を売買出来ることが前面に出されすぎているので、これをひとまず、横においておく。
外来語をなるべく使いたくないが、「キャップ&トレード」と呼ぶのが、国際的には通用する用語である。
「キャップ」すなわち「上限」を定めることが先になる。
この上限を、だれが、どのような根拠で、法律的な義務として決めるのか?
また、その正当性と公平性を守るために、どのような原則で実施するのか?
それに違反した企業や個人?には、どのような罰則を科すのが妥当なのか?

確かに日本全体で、国際的に25%削減すると言う上限を定めたのだから、全体に割り振って、責任を分担するのは、当然のことである。
25%削減は過大な目標だ、とか、削減を強いると産業活動を圧迫するから、とかいう議論はあるにしても、切り離した別の議論にしておく必要がある。

では、最初の問題として、「全体での削減目標」を、部門別に割り振る仕事、権限はどこにあるのか、を突き詰めてみると、「お上が配分する」ことが一番初めにでてくる。
政府の権限で、国内で活動している企業や個人に、「使っても良いですよ」と言う化石燃料の使用量を許可する制度。
「排出許可量」を配分することになる。
これを「排出許可証券」(排出権ではない!)として、1年間の許容量に上限をかけていく。
年々、その許可証券の発行量を一年毎に減らしいけば、許可した量以上の排出はないものと出来る。

1990年における排出量を仮に1億トンとすれば、2020年における「排出許可証券」の発行量は、7500万トンになる筈である。
これに違反して排出をした企業には、どのような罰則がかせられるのか?

取引によって余剰分を売ることで「利益動機」が働くから、市場取引の制度を利用して削減の動きが活発になる。
と「排出量取引推進」論者は説明している。
果たしてそうなるのか?(次回に)

経済活性化へつながるか、『温暖化対策基本法案』は闇鍋。

2010-03-13 | 環境問題
鳩山内閣の目玉公約であった「温暖化対策」の具体的施策を実現する前段階の、基本法制定の材料を書きこんだ法律案を閣議決定した。
この中身は、連日のごとくマスコミで報道され、環境省と経済産業省、それに外務省関連の綱引きがうごめいた迷走劇が伝えられた。
鳩山首相のリーダーシップ不足によるこれからの迷走が心配な内容である。

ともあれ、前政権が腰の据わらない政策に終始し、世界の潮流から置いていかれる状況を、転換したことは評価に値する。
中身が煮えていない「ごった煮のよせ鍋」の様な状態ではあるが、2020年には25%削減を目指すと明記した「基本法」として、一歩前進であろう。

麻生政権では、基本法もなく、目標も1990年比では8%と言う低い目標しか出せなかったので、
世界から嘲笑と軽蔑、批判の嵐を呼びこむことになってしまった。
今回の鳩山政権の閣議決定に対しても、従来の8%を言い続けるだけで、批判するにしても20世紀への逆戻りの説明しかできない体質で、何も学んでいない状況で情けないの一語に尽きる。

一歩前進の評価をするにして、今回の基本法の中身に羅列した「具体的な政策」は、中身がまだ煮えていない段階である。
「ごった煮よせ鍋」は、煮えて食べるには時間が必要で、これにあと1年かけるとしている。
キチンと食べられる様に、ていねいに料理して煮込むことで、効果的でおいしい中身が、国民生活や産業に提供されることを期待して、しっかりと見守っていこう。

ただ、問題がある煮込み具材もある。
その具材が煮込めば本当に健康によく、産業の栄養になるか怪しい材料が紛れている疑念がある。
しかし、その具材の素性も栄養素もごまかしたままで「よせ鍋に入れてしまった」のが、今回の「基本法」の経過なので、食えない状況だと思わなければならない。

具材としての代表は次の様な「呼び方をされた制度」である。
「(国内)排出量取引制度」
「地球温暖化対策税(炭素税)」
「再生可能エネルギー発電の全量買取り制度」
「原子力発電設備の増設」

この「原子力発電設備の増設」は、自民党政権時代には温暖化対策の目玉として、煮込む腹づもりであったが、不祥事と事故多発で、国民はとても食えないとして、吐き出してしまった。
今回も、その問題は良くなっているとは限らないし、不健康になる恐れも多分にある。
それを隠したまま、「ごった煮鍋」に入れるのは、「闇鍋」の様なものである。
食べた人がエライ目に会う恐れもあり、下痢を起こしてもトイレはどこにも、出来ていない。
そして、「大きな闇のなか」にある具材は、『排出量取引制度』である。
次回から数回にわたって、排出量取引制度の「生煮え状態と闇」を、書いてみようと思います。

政権交代の目玉公約も反故同然の迷走ぶりに信頼感ゼロ。

2010-03-12 | 環境問題
日本の活力を取り戻すためには、新産業を育成する必要がある。
それには、「環境先進技術」を最重点に育成する政策が、今の時点では効果があることは明確になっている。
1998年に京都議定書の締結時に、日本は1990年をベースにして、温室効果ガス(CO2)の排出を6%削減する目標を公約した。

この時点で、「再生可能エネルギー関連産業」に対する優遇制度を、国策として決めて、産業界をその方向に向けさせれば、今頃はかなりの産業規模となって、雇用も創出されて、格差社会などの弊害は起きなかったであろう。
しかし、歴代に自民党政権、小渕、森、小泉、阿部、という「エネルギー政策に無知」な政治家の首相が続いたこともあって、経済産業省と産業界の守旧派の意向のままに、従来型の石油と石炭と、そして、原子力発電に頼る体制を、惰性のままにズルズルと続けてきた。

そのせいで、再生可能エネルギーの中でも、一番の将来性を秘めている「太陽光発電」の産業は、世界一の生産量であったにも関わらず失速してしまい、今ではドイツ、スペイン、中国、アメリカに抜かれて6位に転落してメダル圏外におちた。。
せっかく、「金メダル」を採れる実力があったのに、育成を怠って新産業として大事な発展期を逃してしまった。

代わりに「CO2排出削減」の主役として、経済産業省が力を注いだ「原子力発電」は、不祥事と事故だらけで、まったく停滞したままであり、産業の育成にもならず、雇用の維持すらままならない。
電力業界や原子力産業の関連業界に加担したばかりに、日本は大事な「環境先進技術」の分野でつまずいて、10年間を無駄に過ごしてしまったのである。

今回の政権交代で、そのような守旧派は一掃されたかと思ったが、あにはからんや、経済産業省に巣くう原子力官僚と、民主党の原子力発電業界の代弁をする労組出身の政治家が、またまた、
再生可能エネルギーの育成、促進にブレーキをかけている。

鳩山政権の目玉であり、民主党のマニフェストに明確に掲げていた、「温暖化対策基本法」の政府案制定において、足元が少しも定まらずに、迷走状態を繰り返している。
「環境に良くない発電」である原子力発電の推進を潜り込ませ、産業界の代弁をする労組の言い分にすり寄って、肝心の「環境税の創設」や、「再生可能エネルギー発電の全量買取り義務化」の法案を、骨抜きにする意図を、あからさまに押し込んでいる。

鳩山首相は無責任にも、原子力発電の増設を容認をする姿勢に、丸めこまれてしまった。
この次は、何が腰砕けになるのか、ここしばらくはマスコミの報道を注視しなければならない。
民主党の中でも、きちんと公約を守ろうとする動きをする政治家も多くいるが、マニフェストの中身には賛成ではなかったなどと、今になってヌケヌケと発言する「裏切り政治家」が画策している。
これでは、政権交代は、見せかけであったと言わざるを得ない状況が起きそうである。

環境先進立国を宣言するのに原子力発電所増設の怪?

2010-03-11 | 核エネルギー・原子力問題
原子力発電所は「環境に良い」と言う売り文句は、偽物の誇大広告である。
言うまでもなく、放射性物質は人類が取り扱うには、あまりにも危険なもので、技術的にも未完成の領域が多い。
原子力発電所の建設において近隣に出来るのは困るから、遠いところに造ってもらうなら良い。
と言う都合のよい条件を押し付ける[NIMBY](not in my back yard)の典型である。
これを環境に良い設備、事業だとは、どの様な理屈で言うのか、不可思議なことである。

一時期には、原子力発電所の事故が頻発し、その中でもアメリカのスリーマイル島の発電所事故と、ソ連(当時)のチェルノブイリ発電所の大事故が、大きな不安を引き起こした。
秘密のベールの中で行われた事業の中身は、あとから検証してみると、無知とズサンの積み重ねの様な事態が明るみにでて、これ以上の原子力発電所の増設は、無理を強いることになる。
ということで、縮小産業になる傾向であった。

それが、復活して力を得たのは、新興国の台頭による石油需要の急増と、1990年代から世界の主要課題になってきた、「気候変動対策」の流れである。
化石燃料の削減になり、「温室効果ガスであるCO2」の排出削減に貢献するのは、原子力発電が一番、効果が大きい。と主張し始めた。
それでも、アメリカでは原子力発電は、安全性の確保に費用がかさむのと[NIMBY]の気風で、復活しなかった。

日本では勢いを得た「旧原子力族」が、経済産業省(当時は通産省)の中で力を温存して、京都議定書の履行の為には、原子力発電所を10基以上の増設が必要として、国のエネルギー政策を押し切った。
しかし、その後も相変わらず、原子力関係の不祥事や事故が相次いだ。
特に東海村の放射性燃料製造における「臨界事故」を引き起こした段階で、決定的に原子力事業への不信感が増大した。

さらに、新潟沖地震による東京電力の原子力発電所の被害による全原子炉の停止は、電力の受給問題に、大きな懸念を引き起こした。
それまでに、原子力発電は「安定供給」が一番すぐれたベース電源になる、と強く主張していたメリットが、完全に誤りであったことが証明された。
東京電力はメンツにかけても、停電をしない様に、旧型の火力発電所をフルに稼働させて、冷夏のお陰で何とか乗り切ることができた。

結局、原子力発電に頼るエネルギー政策は、京都議定書の順守を難しくし、環境問題への貢献にブレーキをかけて、再生可能エネルギー産業の育成を邪魔した実績を残した。
これを「環境に良い発電事業」と誰が言うのであろうか。

さらに、旧時代に増設した原子力発電所の老朽化が問題となっている。
新規に設置するには10年以上もかかるので、旧型の原子力発電所を、寿命としていた40年を手直しして60年までひき伸ばそうと言うのである。

そして、何度も言う様に、高レベル放射性廃棄物の処理方法と処分地は未決のままである。
廃棄物の処分もままならない事業を、「環境に良い」などと呼ぶ、欺瞞は許されない。

核密約はキレイごとの看板で国民をだましたが鳩山政権は?

2010-03-10 | 核エネルギー・原子力問題
日本の表看板であった「非核3原則」は、曖昧なままの問題を嘘と惰性で続けてきたまやかしの看板であった。
核兵器のもたらす恐怖と不安を、少しでも改善するために「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」とした、美しい心構えを世界に向けて表明したので、これを明言した当時の佐藤栄作首相は、「その栄誉をたたえる」意味で、ノーベル平和賞を受賞している。

今、「持ち込ませず」は日米の当時の関係からして、アメリカ側艦船の寄港時に、核兵器を積んでいても持ち込むには当たらない、と言う、都合の良い解釈を押し付けられたということが、判明した。
歴代の首相や外務省は、「冷戦時」のことだとして、その虚構をそのままとして密約として処理した。
しかし、冷戦も終了し、世界は核兵器の削減時代に入ったと言うのに、引きついた政権の首相は、
この曖昧な嘘を放置して、自分は知らなかったとでもいう様な無責任を決め込んでいる。
この事実を公表して、ノーベル平和賞は辞退して返上すると言うのが筋であろう。

今後も、日本は「非核3原則」を世界に先頭で堅持していくと、鳩山政権は公約している。
一方、核兵器の廃絶に向けての動きを、アメリカのオバマ政権は力を入れているが、日本のできることは何であろうか?
それは、世界に核兵器が拡散する事態を極力、防ぐことに協力をしていくことである。

前にも書いた様に、原子力発電所を持てば、容易に核兵器の開発が出来てしまう。
イランや北朝鮮がその意志を持って、核技術を自国のものにしたいと、画策していることは公然のことになっている。
隠れた核兵器保有国のイスラエルも、初めは原子力発電の技術を平和目的に限定して利用することで、世界の目をごまかしてきた。

その危険と隣り合わせになる「原子力発電」を促進しようと言う動きが、「環境先進立国」を目標とする新政権の政策に取り入れられる動きが本格化している。
表向きは、「CO2排出削減、化石燃料依存からの離脱」と言う、きれいごとの看板であるが、本音は「既存の原子力産業界の生き残り策」に加担する、旧原子力族の一部が、主張しているにすぎない。

しかし、鳩山政権は表向きはキレイごと、本音は旧体質の温存のままという、「核密約疑惑」の様相をそのまま、踏襲しようとしている。
核兵器拡散への疑念や、前に書いた様に、「高レベル放射性廃棄物」の処理方法と処分地の難題が、未可決のままであることを、隠そうとしている。
聞こえの良いことばかりを国民に説明して、都合の悪いことは隠したり、問題でない様に嘘で言い逃れたりする体質は、「当時の佐藤栄作政権」と同じであることに気付くべきである。

原子力発電を促進する政策を採るならば、鳩山政権は「環境先進立国」と「核兵器のない平和な世界をつくる」というキレイごとの看板を、即刻下ろすべきである。

省エネルギー産業の一分野、住宅の断熱性の改革がやっと。

2010-03-09 | 経済問題
日本の将来は「本当の構造改革」によって、「新産業育成」を活発に継続出来るかにかかっている。
この「新産業」としての分野には「再生可能エネルギー」の新技術開拓に期待するところであるが、「省エネルギー産業」の様に地道な技術開発により、既存の産業を活性化することも重要である。

省エネルギー家電製品の普及や自動車の分野では、日本の省エネルギー技術は、世界のトップレベルを進んでいる。
これをさらに普及促進して、需要を引き出していくことが、政策的な課題である。
ただし「エコカー減税」の様に、本来は優遇すべきではない大型車や高級車の分野にまで、減税対象車を含めることは、愚かな政策の部類に入る。
本当に将来につながる、育成すべき技術分野に、貴重な財源を回すべきである。

昨日、「住宅エコポイント」の制度が発足した。
新築でも改装工事でも、断熱性を高めて冷暖房の熱を有効に利用することで、電力消費や化石燃料消費を抑える効果を期待できる。
この技術は、目新しいものではなく、断熱材の進化も徐々に進んでいるが、古い住宅の改修をしてまでも、省エネルギーをしようと言う意欲は、なかなか起きてこなかった。
また、サッシ窓でも2重ガラスにしたり、内側に窓と追加して、2重窓にする方法などで、断熱性を上げられる。

問題は、家の所有者が断熱性を良くすることによるメリットを理解していなかった。
これを有効にアピールしていないことが主要な原因である。
つまり、改修工事に20万円かかったとして、その投資したお金が、何年間で元が取れるか。
このことが、理解されていないので、技術があっても需要が生まれないのである。
政府の担当も、エネルギーは経済産業省、家屋は国土交通省の管轄であって、その連携は殆どとれていなかった。

このためもあって、「CO2排出」の削減義務が国の目標になった「京都議定書」以後も、国は何の施策も打たずに、断熱性向上の政策は、放置されていたに等しい。
ここにきて、ようやく、政府内の連携も調整できて、「住宅の断熱性工事」を優遇して、改修を促進する政策の第一弾として「住宅エコポイント」の制度を、開始したわけである。

やっと動き出したか、という感じがする。
本来は、京都議定書の締結後にすぐに検討開始して、スタートすべき分野であった。
政治家の無知と行政の縦割り、怠慢がこの大幅なスタート遅れを引き起こしたのである。

報道によれば、住宅エコポイントの制度をきっかけに、断熱性の向上改修の相談が大幅に増えて、受注も順調に伸びているという。
この分野の産業界は、大忙しになる状況で、太陽光発電の設備業界と並んで成長産業の一分野になるであろう。
この方向こそ、本当の構造改革であって、規制緩和や競争環境を作るのが良いなどは虚妄であり、偽の構造改革であることの証拠である。

本当の構造改革は地域主権を優先して活性化することである。

2010-03-08 | 暮らし・健康問題
1990年代の不動産バブルの崩壊以後、金融業の立ち遅れから不良債権の処理がなかなか進まずに経済不況が続いてきた。
これを、アメリカ側の要求に沿って、規制緩和を実施することが経済活性化の解決策だ、と思い込んで「構造改革路線」を歴代の内閣が実施してきた。
小泉構造改革路線は、その延長の仕上げとして「郵政民営化」を実現し、小泉首相は志を遂げたとして、あとを自民党の2世議員たちに任せた。

しかし、アメリカの住宅バブルの崩壊により、金融業による経済活性化に依存した政策は、大きな誤りであったことが、はっきりした。
それで今は、あの構造改革とは、何だったのか?問い直されている。
構造改革論者の言い分は、日本の金融業は規制に守られた護送船団であり、自由な競争をしないから立ち遅れていた。
だから、不良債権を抱え込んでも処理を遅らせて、日本の産業に適正なお金を融資しないので、
産業界の設備投資や新事業が活発にならないのだ。と言っていた。

今は、金融業界は護送船団ではなくなり、お金も金融緩和で潤沢に貸し出せる状況である。
しかし、企業は国内への投資は割に合わないとして、借入は殆どしない。
海外にはビジネスチャンスが多いので、積極的に新規投資や、日本から生産拠点の移転にお金を借り入れて使っている。
結局、構造改革だ、規制緩和だと、アメリカ流の経済活性化策を吹聴していた経済学者の言っていたことは、すべて間違いで、国内の経済は停滞し、特に地域社会の崩壊が極度に進んでいる。

つまり、本当の構造改革の目的は、日本の地域からの活力が、新規の事業や地場産業の活性化によって、人のやる気が増加することで経済を向上させることにあった。
しかし、経済学者はアメリカ流の机上学問を、ただ輸入して、もっともらしく理論を展開して、
政治家に売り込んでいた。
規制を緩和すれば競争環境が整って、企業のやる気が増えて、投資が活発になる筈である。
それで、雇用も増えて地域も潤い、生活は向上するので、国内需要も増える。と・・・・。

競争環境が整った状況で参入企業が増えて、結局は価格競争に陥り、人件費の削減競争に入った。
企業は生き残りに必死で、国内需要が落ち込むことなどに、懸念をしている余裕はない。
人件費をこれ以上下げられない状況では、どしどし、生産拠点を海外に移転していった。
「間違いだらけの構造改革路線」を突っ走ってきた、迷走の20年と言う状況であった。

本当の構造改革は、脱化石燃料時代に向けて、「再生可能エネルギー産業」を徹底的に優遇して、「新産業」として自立できる状況に改革することである。
同時に進めるべき改革は、中央集権による地域社会の依存体質を、自立的な地域経済に転換する環境を整えることにある。

企業間の競争環境を整えて激化するなどは、地域社会を疲弊させる逆行路線である。
地域の市民活動を活性化し、『協創環境』を整えることこそ、本当に求める構造改革になる。

地域主権の活動の原点を志向する名古屋市長の試み。

2010-03-07 | 暮らし・健康問題
市民発の公益活動が地域社会の活性化に不可欠であることは、総論としては多くの人が賛同している。
そこで、実際の活動を具体化するにあたっての方法、各論となると、実践している例はほとんどなくて、一般の市民には縁のない話としてしか、受け取られていない。
このブログを読んでいただいた方でも、3月1日から6日までの内容について、首をかしげる人が多いのではないかと推察しています。

実例としては、千葉県の市川市では、市民が納める「住民税の1%分」を自分が応援した市民活動団体の資金支援に回せる仕組みを導入している。と伝えたが、1%ではインパクトが少なくて、あまり、マスコミでも採りあげていない。
本日の朝日新聞(3月8日9面)のオピニオン欄に名古屋市長の挑戦に話題が大きく採りあげられていたので、この一部を実例として紹介してみよう。

昨年の4月に就任した河村たかし市長は、議会の反対を受けながらも「市民税の10%減税」を実施した。
河村氏は国会議員時代(民主党)から、市民活動を活性化する政策に力をいれてきて、現在の「NPO制度」の国会法制化についても、大きな貢献をしてきた実績がある。
市長は、この減税分を、「NPOを育てるために、市民税の減税分を寄付してもらえんか」と表明している。
「一杯飲んでも、孫のみやげに使ってもええが、出来れば地域の為に使ってもらえんか」と呼びかけている。

この気持ちや行動が、地域主権の社会における市民感覚の原点になると、考えて欲しい。
記者の質問は「鳩山政権の言う新しい公共ですか。でも、この国の社会は、寄付がなかなか根付かないようですが・・・」と言う、一般論にとどまっている。
「銀行のATMに寄付先の一覧表を張り出したり、寄付控除の仕組みを作ったりしたい。・・・・いい知恵があったら教えてチョウよ」と河村市長は呼びかけている。

国の財政赤字や地方自治体の火の車の状況をみると、増税論議が盛んになる傾向は、逆らえない潮流となっている。
しかし、それでも一般庶民、市民の感覚からすれば、税金の無駄使いの現状は、目に余るひどさであるから、まずは無駄遣いの根絶が先だと言う認識である。
専門家や政治家が、国や自治体が借金まみれだからと言っても、増税には簡単には納得しない。

役人の無駄遣いを削減する制度としては、自発的な「市民公益活動」団体への資金支援となる寄付制度を充実していきたい。
前々回に挙げた
【納税額の一部を自分の信じる『公益活動団体』に直接、寄付金を回せる制度】が、実効性が期待できる仕組みである。
この仕組みになれば、国や自治体の官僚が、大義名分の隠れ蓑の陰で、自分たちの権益や利益をむさぼることは出来なくなる。

納税者の全員が、「役人」に任せるか「市民団体」に任せるかの選択を「事業仕分け」できる。

明治維新以来の中央集権から地域主権への第一歩は。

2010-03-06 | 暮らし・健康問題
民主党の政権公約には「地域主権改革」を主要な5原則のひとつに掲げている。
政権発足後に半年過ぎてようやく、改革の第一歩である「国と地方の協議の場」をもうけて、「地域主権戦略会議」に反映して、方針を決定することになった。
国と自治体の関係を対等の地位として、自治体側が「住民の意見を代行する」地域主権を持つ組織に組み替えていく方向である。

本日の朝日新聞(朝刊)に、「大風呂敷を歓迎する」との表題で、支持する社説が出されている。
今までの自民党政府の発想は、肥大化した中央政府の機能を地方自治体に権限を移して、身軽にしていく【地方分権】政策であった。
これですら、中央官庁の官僚の既得権と予算を削減することになるので、強力な抵抗活動があって、ホンのわずかしか地方分権は進まなかった。
官僚に依存していた保守党政治家では、これくらいしか出来ないのは当然かもしれない。

民主党連立政権は、政治主導を基本としているので、官僚の抵抗で出来ないとなれば、それこそ、根本的な実力を疑われてしまう。
壮大な理念をもって、明治政府以来の中央集権国家を、【地域主権】をもたせた地方政府に自律的な意識を醸成して、地域の活性化を図る方向に進めていく。
この壮大なビジョンは、大風呂敷と言われても、目指すべき方向である。

しかし100年以上続いた中央政府の「指示待ち自治体」の体質は、そうは簡単には転換出来ない。
地域主権と言っても、中間に「県自治体」と言う、中途半端な役所が厳然として続いている。
この組織をどうするかは、これからの大きな問題である。
地域に自律的な政策を任せていくのは、住民と直接に接して行政サービスを提供する「市自治体」(町村自治体含む)が、大きな役割を担う必要がある。
そして、「市自治体」を超える、地域の連合を必要とする政策には、もっと大きな政策決定に責任を負う行政組織、「地方政府」が必要である。

自民党政権時代には、この、国の代わりに地域を統括する組織として『州政府』を作り、大きな権限を委譲する構想であった。
いわゆる『道州制』の構想であるが、これは、まだ議論は殆どされていないので、国民、市民の間では、まったくと言ってよいほど、地方政府のイメージは浮かんでこない。
このような未来にわたる重要なビジョンを、一部の学者や利害関係者の議論にとどめておかないで、「地域の公益活動」を活発にする意志を持った人たちが、「市民活動団体」を組織して、おおいに意見を提案すべき段階に来ている。

市民活動は、まだ参画する人が少なく、活動予算も限られているので、その任務には向かないと思われるかもしれないが、地域主権、住民参加、が是非とも必要である。
千葉県の市川市では、市民が納める「住民税の1%分」を、自分が応援したい市民活動団体に資金支援に回せる仕組みを5年前に導入した。

中央政府の動きを待つだけでなく、地域からこそ、改革を実行することが必要である。

日本の豊かさの追求には市民発の公益活動の拡大を。 

2010-03-05 | 暮らし・健康問題
先進国における暮らしや生活をさらに向上させるには、公益的な面での活動が盛んになる必要がある。
日本は先進国のなかで高い経済水準にあるが、なぜか、生活を取り巻く環境が貧しいと感じられ、各地で公共的な施策の遅れが報じられる。
豊かさはモノが十分に溢れていても、物足りなく感じられるのは、この公共的な面での不備が心理的にも貧困を感じさせるからである。

ここ数回にわたって、「公益活動」の拡充を進める必要性を書いてきた。
公益活動を中央政府や自治体行政に任せれば、一定のレベルに達するであろうが、同時にマンネリと権限維持の停滞に陥り、一部では組織的、個人の腐敗が始まっている。
それを補完する意味と、監視、批判する役割として、『市民活動』が行われてきたが、個人のボランチィア活動の域を出ないので、活動の広がりとレベルの向上があまり期待できない。

そこで、『NPO制度』を創って、活動の継続性と広がりを図ってきた。
現在で3万9千団体の登録があり、福祉や地域社会活動で一定の成果をあげている。
しかしアメリカやイギリスにおける、市民自発の公益活動のレベルは、はるかに先の段階に進んでいる。
日本の市民発の公益活動をもっと重視して、地域に密着した公益活動や、市民感覚と目線による公益活動を活発にすることが必要である。
何かと言うと、政府がやるべきだとか、自治体行政はもっと住民に配慮せよなどと、お役人に依存することでは、公益活動のレベルが進化していかない。

前回に書いた「市民活動に寄付をする」ことを、国民、地域住民の意識に根付いて活かせる政策が、今こそ必要な時期である。
これは、政府や自治体に納める税金の一部を、直接、自分の信じる「公益活動をする市民団体」の財源として寄付をすることである。
たとえば、年間で20万円の所得税を納めている人が、その10%分の2万円を『認定NPO法人』に寄付をすることで、納税額は18万円に減額される制度の実現である。
つまり、役所の行政機構を経由して、NPO法人に補助金が2万円分回ることと同様な、NPOへ団体への助成政策である。

この直接寄付することで、政府や行政を仲介することなく、納税者の考える公益面を間違いなく
実施している団体にお金が回ることになる。
地域社会のことを重視するならば、地元のNPO団体に活動に寄付をすればよいし、環境活動を重視するならば、環境NPO団体に寄付をすればよい。
これは、議員や首長を選挙で選んで、議会や行政機関に任せて公益的な活動を一括して進めてきたやり方を、一部でも良いから直接に支援する制度を採り入れることである。

それには対象となりうる『認定NPO法人』のレベルを維持しながら、法人の拡大を図らなければならない。
まだ僅か116団体しかないのでは、制度を創っても実効性がない。(以下、次回)

市民の為の公益活動は市民自身か、政府の役人かを選択。

2010-03-04 | 暮らし・健康問題
今までの日本は利益を追求する企業の活躍によって、世界にも通用する技術やサービスを実現して、世界中から収益を吸い寄せて、経済発展してきた。
その利益の一部を税金で徴収し、配分や使い方を監督する官僚政治が、日本を支配している。
官僚はシナリオを作り、与党の政治家を意のままに操り、権限の維持と増大に努めていた。
1990年頃までは、これで生活水準が向上していたので、国民もこれでいいのだ!と錯覚をして、バブル景気の恩恵をむさぼってきた。

この20年間で、それが一時的に咲いたあだ花であったことに、どうやら気付いたときには、多くの面で、世界の先進国から遅れている実態が明らかになっている。
国民が官に頼り企業に依存している「生活感覚」が、将来への希望を持てない様になっている。
つまり、何かと言うと、国や自治体が何とかしてくれないので困る。
政治家は何をやっているんだ。
役人は無駄なことばかりやっていて、けしからん。
会社はもっと公共面への費用を増やすようにせよ。
このような他者への不平と要求をするばかりの人が増えてしまった。

自分たちで、この国や地域の将来をどうしていきたい、と考えることが乏しくて、お上や企業経営者の方ばかりを頼っている。
これは途上国型の社会であり、トップダウン、中央集権型の管理社会である。
あるレベル以上の生活水準になれば、自分たちの意思で地域社会つくりや、福祉面、環境面などの生活基盤となる「公益的インフラや制度」を創っていくのが、先進国型の自立社会である。

それには、自発的な市民活動が盛んになって、多くの人が自分の自由な時間を社会つくりに参加して、「活動する感覚」が身につく必要がある。
とりかかりは母体となる「非営利活動」の組織をしっかりと築いていくことが手段となる。
この「非営利」と言う呼び方は、「営利活動」を目的にする企業活動との区別で、このように言うが、企業が主で、補助的に非営利活動を付け加えた様なイメージで、良くない傾向である。
このような活動は『市民活動』と呼んだ方が、本来の目的に沿っている。

この市民活動に必要な費用を、個人が自発的に寄付の形で出すことが、一般国民の人たちに浸透することが、先進国の市民としての意識レベルに向上することになる。
市民団体の活動に賛同した人が、「税金を納める」と同じ感覚で「市民活動に寄付をする」ことが、根付くような制度を創っていくことが、当面の目標になる。

今の時点での市民団体の要求は(前回の末尾に書いた様に)「課税される金額から直接、寄付した金額を下げる制度」である。
この意味は、一定以上の収入のある国民は、税金を納める義務があるが、そのうち、個人が委任先への配分を選べるという制度にすることである。
国に税金として納めて、役人と政治家に使い方を委ねる一方で、一定金額は、自分の信ずる「市民活動団体」(今の制度では、『認定NPO法人)にゆだねて、『公益的活動』に使ってもらう。
この選択を出来る制度に変えていこうという動きである。

鳩山首相は「友愛の精神」を広める意味でも、この制度の実現に意欲を示している。(以下次回)

天下り公益法人は縮小し、市民発の公益法人を育成する。

2010-03-03 | 暮らし・健康問題
官僚が統括する「公益団体」は、必ず所管官庁の意向が反映される。
このような制度のもとで、官僚が監督する財団法人や社団法人の数は、現在6625法人がある。
官僚OBが常勤の役職員として在籍しているのは、2353法人にもなる。
そして、政府からの支出が1000万円以上、支給されているのは1306法人にもなっている。
これらの費用は国民の税金であるが、使い方の中身は、官僚の裁量、判断に任されているので、本当に公益的な事業に使われているかどうかは、不透明になっている。

今回、民主党連立政権になって、この税金の使い方が適正か、公益という大義名分による事業が、本当に必要なのか?を見直す、「事業仕分け第2段」が4月下旬から始まる。
民主党の公約である「天下り公益法人の原則廃止」に沿って、政府が関与する公益的な事業を精査して、税金の無駄使いを削減しようという政治主導の動きである。

この見直し活動は、戦後60年にわたって官僚政治の利権構造、省益優先の仕組みにメスを入れることで、税金の有効活用を図る、意味のある改革である。
しかし、これは、公益活動を削減する方向にしか、機能しない政策である。
日本の将来は、市民参加の公益的な活動を、もっと盛んにしていかなければならない。
そこで、前回に取り上げた、市民発の「特定非営利活動法人」の制度を拡充して、活動が活発に行われて、地域社会や福祉、環境面での公益活動が成果を上げる様にしなければならない。

この「特定非営利活動法人」は、通称名で[NPO](non profit organization)とよばれる。
時々マスコミでは、不祥事を起こした[NPO]団体や所属個人の事件が報道されている。
その影響もあって、[NPO]団体は、何やら得体のしれない意図をもった、変わり者や非就労者のやっている仕事と思われて、悪いイメージも持たれている。
事実、[NPO]団体の1/3は、公益と言う活動からは、かなり離れた私益的な活動をしている実態もある。
これは官僚支配の公益限定の悪影響を受けないために、官庁の監督を避けて、一定の設立要件を満たせば、登録手続きだけで認証される制度にしたが、その弊害でもある。

そこで、3万9千になっている[NPO]団体のすべてを、育成、優遇していくのは無理があるから、適切な公益活動をしている[NPO]団体を新たに審査して、『特定非営利活動法人』として認可して、育成していこうという考え方である。 
この団体を通称『認定NPO法人』とよぶが、制度の制定後5年以上たっているが、殆ど知られていないので、まだわずか116法人(2010年2月時点)にとどまっている。
この『認定NPO法人』になれば、企業からの寄付金を受けやすくなる。
(寄付をした企業は、寄付金額を経費として会計処理出来て、税務上有利になる。)
しかし、個人が寄付をしても、寄付金額の分が非課税となって所得から控除される制度であるので、寄付する人にとって、あまりメリットもなく、知られていない。

これを所得から控除するのではなく、課税される金額から直接、税額を下げる制度に変えようという動きである。
鳩山首相が、この制度の実現に意欲を燃やしているという。(以下、次回に)

公益活動の拡大充実は、市民参加の団体を優遇する制度で。

2010-03-02 | 暮らし・健康問題
社会における公益的な政策の転換、進化が必要になっているが、今までは、官僚が公益を担う役割であった。
公益的な事業を計画して実施しようとすると、必ず、担当の官庁は実施の窓口となる、「公益団体」を設立して、そこに予算を流して事業を実施していく。
そこには、必ず何名かの官僚OBを役員として送り込み、実質的な下部組織となっている。
公益事業は「官僚が計画し、統括する」と言う、基本の考え方が明治政府以来、ずっと継続している。

この公益団体は、「特定公益増進法人」の制度が出来るまでは、市民の方から設立をすることは、困難であった。
事業の性格、内容からみて、どの官庁が監督するのが適切かの議論があって、財団法人にするのも、社団法人を作るのも、必ず担当の決まった官庁の認可を受けなければならない。
その際に、事業の内容を審査すると言う名目で、官僚の都合のよい方向に「公益団体」の定款、目的、目標が定められる。
その事業の中身は、毎年、官僚の監査の対象となって、次年度の予算の配分の決定を左右される。
つまり、官庁の意向に逆らうことは、事実上、不可能な組織である。

これでは、「公益とはなにか」と言う判断は、すべて担当官庁の意向と、官僚の裁量の範囲に限定されてしまう。
予算の制約もあるので、すべての公益的な事業を網羅できるわけにはいかないので、官僚側としては、自分たちの責任の負える範囲の事業にしか、手を出さないし、天下り先となる「公益団体」にしか、関心を示さなくなる。
官僚自身の側からすれば、責任の負えない「公益団体」は認可すべきではない対象であるから、制限することは正当な判断であった。

この制度が長年続いてきた影響もあって、公益の中でも「官僚政治による統治」の対象から外れた公益に資する事業を行うのは、自発的な小さな活動であった「市民団体活動」にゆだねられた。
この活動は、任意の団体として行われるもので、町内会や同窓会の域を出ない同好会的な活動にとどまることが大半である。
福祉面や、地域社会の公益的事業や、環境問題の活動などは、市民団体の形で活動することはあっても、規模を拡大したり、継続的な活動はやりにくい面が大きい。

そこで1990年代の半ばから、市民活動のメーンの団体の有志があつまって、「市民活動を支える制度をつくる会」結成し、官庁の監督を受けないで済む「公益活動団体」を、認可ではなく、届け出による形式で法人として登録出来る制度を提案した。
6~7年にわたる粘り強い活動で、政治家を動かして、超党派の支援を受ける立法化の動きに結び付けて、「特定非営利活動法人」を制度化することが実現した。
しかし、この段階では、「組織を法人化して継続性を持たせる」ことに貢献しただけで、資金面での優遇措置は、殆どないに等しい。

数年後にやっと、寄付金に対する優遇措置を講じる制度が実現した。この内容は次回に。