Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

弦楽器としての声

2009-03-22 16:58:58 | Weblog
金曜日の夜、那覇入りした。

以前、沖縄入りの回数が増える度、複雑な思いが募って行く、という事を書いたのだが、正直な気持ちを書くと、今回、私はこう思ってしまった。

「沖縄、きついな」

私が個人的に、肉体的に、もしくは精神的に追い詰められていた訳ではない。沖縄、という観光化された、もしくは「癒しの島」として売り出すことを余儀なくされた沖縄と、私との距離感が無くなることで生まれた、正直な気持ちだったと思う。正直、沖縄に住んでいる人たち、特に現状に批判的な態度を持つインテリなどは、もっと辛いだろうな、そう思った。

それでも、私はこう言いたい。

「私は沖縄が好きです」

沖縄の持つ独特なリズムに触れると、私の中で何かが覚醒して行く気がする。

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那覇では、首里フジコさんのライブに行ったり、栄町にて地元のおじさん達が引くギターに合わせて「栄町の歌」を歌ったりして、楽しい時間を過ごすことができた。また、桜坂のライブハウスR Greenにて聞いたジャズバンド「Element of the Moment」の演奏クオリティが高く、本当に驚いた。沖縄の音楽のレベルの高さには、いつもながら驚かされる。

今回の滞在中、沖縄の方とこんな話になった。(私の中で整理がついていないので、かなり乱暴、かつとりとめの無い話になってしまうが、ご容赦頂きたい)

以前、私は民謡酒場で、宮古出身の民謡歌手である上原正吉さんの歌を聞いた時、声が弦楽器の様だな、と感じた。私は人の声を聞いてそう思ったことは無かったのだが、その話を、本土から沖縄へとやって来て民謡を歌っているウクレレ奏者にお話をした際、「人間の声帯は、弦楽器と同じ作りになっています」と説明され、ああ、そう言われてみれば、そうだな、なんて思った。

また、沖縄の方と話していて、沖縄には飴耳の方が多い、という話になった。私自身は粉耳なのだが、日本本土に暮らしていて飴耳・粉耳の話になることはあまりなかったので、興味深かった。

私は初めてアメリカに留学した時のこと。アメリカに耳かきが売っていなかった為、確か両親に頼んでもらって送ってもらった記憶がある。その時、アメリカ人の友人が私の部屋に置いてあった耳かきを見て、「これ何?」と聞かれ、耳かきだ、と言うと、大変驚かれた記憶がある。他のアメリカ人の友人に見せても、いわゆる日本の「耳かき」が「耳かき」だと認識できた人はいなかった。

インドのアーグラーに行った時、公園に耳かき屋さんが沢山いて、「Ear Cleaning, Ear Cleaning for Free」と言って売り込んでくるのだが、もちろん無料のはずがなく(インドは耳かき屋さんを巡るトラブルが多い)、それよりも私は、知らない人が私の耳をほじる、というのがどうしても怖くて、頼めなかった記憶がある。(私はもともと、耳を触られるのが苦手だ)

いったい、耳かきとは何時生まれたものなのだろう?と疑問に思って「耳かき」でググってみたら、耳かきの先端に付いているボンボンのことを梵天と呼ぶらしく、梵天の語の由来は、ヒンドゥー教のブラフマーから来ているそうだ。ヒンドゥー教の由来で漢訳されている、ということは、インドから中国に伝来したものが日本に伝来した、と考えるのが筋だろう。

私の友人のアングロサクソン系の白人は、小学校の授業で、先生から「あなたの肘よりも大きなものは、Ear Holeに入れてはいけません」と教わり、一生に一度も耳の掃除をしたことが無い、と言っていた。「Swab(綿棒)さえ使ったことが無いの?」と私が聞くと、「無い」と答えていた。いわゆる白人の多くは飴耳だとされているので、粉耳の人に比べて、メンテナンスの必要が無いのだろうか?それとも、小学校の先生がまずかったのだろうか?!

そんなことを書いていたら、私の知人で、蒙古痣の付いたユダヤ人のことを思い出した。ユダヤ人に蒙古痣が付いている、というのも微妙な話になって来るのだが、蒙古痣の付いた人はお酒が飲めない、という話を聞いたことがある。彼もやはり、お酒に弱かった。

上記を踏まえて、かなり乱暴な議論をすると、沖縄の人がいわゆる縄文系だったとして、フォッサマグナ以北の日本人は、やはり、沖縄の人と同じ傾向があるのだろうか?

フォッサマグナ以北のみから縄文土器が出る、と言う仮説をとりあえず信じるとすると、約5000年ほど前に富士山の大噴火があり、フォッサマグナにてより北東と南西の文化が分断された。そして、朝鮮半島から入ってきた、いわゆる弥生系の人たちが弥生土器や飛鳥文明を築いた時に、東北地方は違った文化を築いていたのではないか。

これはイメージに過ぎないが、新潟よりも北に住む人たちは、何故か酒豪のイメージがある。そして、これもイメージの話ばかりで申し訳ないが、私が東北人、と聞いた時に思い浮かべてしまう顔が、寺山修司の顔である。そう言われてみると、彼の顔も縄文系ではないか?

日本は明治維新の近代化の過程において、1920年代までは多民族国家であることを売りにしていたが、30年ころから単一民族国家という幻想を打ちたてて行く様になった、と読んだことがある。その前の文献に当たれば、当時がどういう認識だったのか、考えることができるかもしれない。

私は、自分自身を弥生系だと認識したことはあまり無かったが、冷静に考えてみると、どちらかと言うと弥生系かな、そんな風に思った。