Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

日本語と乖離した日本語で読み書きする私

2009-03-25 00:17:32 | Weblog
アメリカ人ジャーナリストと英語での筆記式インタビューを行いながら、日本語での文章を書き、思考を進めていると、私の思考が英語での思考そのものに類似しており、日本語表記と必ずしも一致していない、ということがクリアになって来た。日本語で書いている私の文章は、私の経験(またはトレーニング)から、英語表記しても問題ないものを無意識に取捨選択していることが、自分で分かってしまった。これは、ある種の恐怖でもあった。

私がドイツ人を好きな理由の一つが、ドイツ人と英語話者が英語にてコミュニケーションを取っている際、言語構造の違いから発生する理解の違いを、ドイツ人が一生懸命、もう一度自身の言語であるドイツ語でさらに思考を進めようとして、それを他者と共有しようとする所だ。

覇権言語を持ってしまったイギリス人やアメリカ人は、そういう他言語を話す人のコミュニケーションのあり様に、驚くほど鈍感だったりするが、ドイツ語話者は、その違いを、ある意味PC的なものを配慮しながら、プログレッシブに進めようとする。そのやり方が、どこか私にそっくりだな、と思い、そういう場に出くわしてしまうと、それだけで相手を抱きしめたくなる。

「あなたは、これからどうするの?」

こういった特殊な状況を共有することで生まれたドイツ語話者から、そう聞かれたことがある。つまり、英語話者でもなく、日本語話者ともかい離した、中途半端なドイツ語をたしなんだ私は、これからどうなるのか?そういう問いである。

言語の思惟性や、ギリシア・ローマ以降のイデア・ロゴス支配の問題というのを乗り越える上で必要となるものを見につけようとしている私にとって、さらに大きな難題が加わってしまった。これは、なる様にしか、ならないのだろうか。

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