Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

ことばはなぜ言・葉と表記するのだろう?

2006-10-25 10:17:05 | Weblog
今日レヴィナスの他者に関する文章を読んでいて、一つひらめいたことがある。「ことば」がなぜ「言・葉」と書くのか、少し分かった気がしたのだ。

言葉で世界における全ての事象を表現することは不可能である。全ての事象を言語で表現する、ということはある意味愚かなことなのかもしれない。しかし言葉の数を増やすことによって、言葉が伝えられるものの限界の中で、その真理に近づくことは可能だ。そこで、言葉が伝えられることの限界、すなわち有限性(言葉が伝えられること)の中における無限(言葉の数を増やす)、というメタファーとして、漢字語圏の先人は有限の中における無限の代表格である切片曲線のごとく、葉のメタファーを用いたのではないだろうか?

またさらに、この表意文字から類推すると、ことばというツールを用いて表現できることは僅かである、という反省から、葉という言葉を用いたのではないか、という疑念が出てくる。すなわち、言葉をしゃべる前に言葉で表現できないことを対峙させることにより、その存在を立ち上げたのではないか、と思えるのだ。

そうすると、ハイデガーが「フランス語は制限であり、ドイツ語は可能性である」と論じたことに関し、面白い解釈が可能になると思う。ドイツ語は新しい言葉を創造することによって、表現できる領域を増やすことができる言語である。しかし、フランス語の場合、統治言語という側面が強く、制限の中でしか動けないという制限がある。しかし、もっとマクロな視点で見ると、言葉を増やしても、そればバベルの塔のようなもので、真理に到達しているかに思えるものの、永遠に到達しない。むしろ増えている分だけ、遠ざかっているとも言えるかもしれない。しかし、そこにおける自己反省は、西洋近代の中にどれだけあったのだろうか?言語をロゴスとしてキリスト教世界の内部に取り入れてしまった反動が、ここに出ている気がする。

レヴィナスは、言語が到達しえないものを、あえて言語によってアプローチしていた気がする。それは、彼自身が行っていたタルムード研究と関係があるのだろうか?また、「名づけえぬもの」というタイトルを使って言語の逆アプローチ、すなわち反小説を書いたベケットがフランス語をしゃべるアイルランド人、というのも関係があるのだろうか?とても興味がある。もっと言ってしまうと、ベケットがゴドーを書けたのにも、この問題が絡んでいる気がする。

万葉集は、葉を世(よ)と掛けて、いつの世までも、というのが定説らしいが、万葉(まんよう)とは、なんと綺麗な言葉だろうと思う。言葉にもっと、現代とは違った力があった時代の表現であったような気がする。その問題に興味が湧いたのがリービ秀雄だ、というのも、上に書いた社会的コンテクストにおけるベケットと関係がある気がする。

レヴィナスを読んでいてつくづく思ったのだが、私自身、自らが紡ぎだす言葉が、だんだん希薄になってきている気がする。もっと反省しなくては。