金曜日はアーティストの照屋勇賢さん、斉木克裕さん、河合政之くんと一緒にイーストビレッジにて飲み会。久しぶりに濃いメンバーが集まり、芸術談義に花が咲く。
世界をロゴスと捉える河合くんの話や、作品制作そのものに問いのある勇賢さん、そしてアートがヨーロッパのものだと自覚した上でそこでやっていこうとする斉木さんなど、いろいろな切り口のあるアーティストが集まり、興味深かった。
せっかく面白いメンバーがあつまったので、私は皆がデュシャンをどう捉えているか、という質問をしてみた。一見とてつもなく普通な質問なのだが、最近、私はそこで悩むことが多い。もっと言ってしまえば、西洋中心主義の端的な表れがデュシャンにあると思えるのだ。
斉木さんは芸術そのものが西洋のものなのだから、それに対して批判的であっても仕方がない、そもそも現代美術はデュシャンから始まっているのだから、それを受け入れるしかないし、デュシャンは優れたアーティストだ、と考えているそう。一方、河合君くんはデュシャンの問題は困難な問題と設定し、ロゴスとキリスト教の自然支配、それ以降のモダニズムを解体しないとデュシャン批判は困難だ、またそれをするのであれば、ロゴス発生以前の言霊のようなものを持ってくるのはどうか、という見解を見せた。勇賢さんは、実はデュシャンのことはあまり問題として扱ってこなかったのでそこまで興味がない、といった風だった。
土曜日は最近仲良くなった映画監督のフィリップやその友人と一緒に、19世紀に作られた冒険船「エクスプローラー号」に乗って、自由の女神の辺りを見てきた。やったら寒かったけれど、本格的な帆船にのって海に出るのは面白かった。
フィリップはアメリカ生まれヨーロッパ育ちの映画監督で、大変なインテリだ。前回一緒に飲んだ時も大変話が盛り上がったのだけれど、今回は例によってデュシャンについていろいろ議論する。フィリップは多くのヨーロッパ人のインテリがそうである様に、デュシャンに対して最大級の評価を与えている。私はそれに対して批判的であり、それはヨーロッパ批判や近代批判の延長線上での出来事だ、という話をする。あまりにも錯綜してしまった議論をしてしまった為、その場をここに書くのが難しいのが残念だが、船の上での議論、というのも不思議な影響を与えていた気がする。
どうでもいいけれど、そろそろみんなで、マルセル・デュシャンをやっつけようぜ!
世界をロゴスと捉える河合くんの話や、作品制作そのものに問いのある勇賢さん、そしてアートがヨーロッパのものだと自覚した上でそこでやっていこうとする斉木さんなど、いろいろな切り口のあるアーティストが集まり、興味深かった。
せっかく面白いメンバーがあつまったので、私は皆がデュシャンをどう捉えているか、という質問をしてみた。一見とてつもなく普通な質問なのだが、最近、私はそこで悩むことが多い。もっと言ってしまえば、西洋中心主義の端的な表れがデュシャンにあると思えるのだ。
斉木さんは芸術そのものが西洋のものなのだから、それに対して批判的であっても仕方がない、そもそも現代美術はデュシャンから始まっているのだから、それを受け入れるしかないし、デュシャンは優れたアーティストだ、と考えているそう。一方、河合君くんはデュシャンの問題は困難な問題と設定し、ロゴスとキリスト教の自然支配、それ以降のモダニズムを解体しないとデュシャン批判は困難だ、またそれをするのであれば、ロゴス発生以前の言霊のようなものを持ってくるのはどうか、という見解を見せた。勇賢さんは、実はデュシャンのことはあまり問題として扱ってこなかったのでそこまで興味がない、といった風だった。
土曜日は最近仲良くなった映画監督のフィリップやその友人と一緒に、19世紀に作られた冒険船「エクスプローラー号」に乗って、自由の女神の辺りを見てきた。やったら寒かったけれど、本格的な帆船にのって海に出るのは面白かった。
フィリップはアメリカ生まれヨーロッパ育ちの映画監督で、大変なインテリだ。前回一緒に飲んだ時も大変話が盛り上がったのだけれど、今回は例によってデュシャンについていろいろ議論する。フィリップは多くのヨーロッパ人のインテリがそうである様に、デュシャンに対して最大級の評価を与えている。私はそれに対して批判的であり、それはヨーロッパ批判や近代批判の延長線上での出来事だ、という話をする。あまりにも錯綜してしまった議論をしてしまった為、その場をここに書くのが難しいのが残念だが、船の上での議論、というのも不思議な影響を与えていた気がする。
どうでもいいけれど、そろそろみんなで、マルセル・デュシャンをやっつけようぜ!
>私見では、未来のある時に無名のアーティストが観たこともない理解不能な作品を出品してきたら、そこで学者、評論家は、新しい美学を打ち建てる必要に迫られることになると思う。逆は成功しないと確信している。 結論は、アーティストのみが新しい美学のきっかけになりうる。
私もそう思います。アーティストの方に頑張って頂き、私はそのアーティストに機会を与える形で文化を作るサポートができたらと思います。