穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

色々アラーナ(2) 

2021-11-30 07:39:12 | 小説みたいなもの

 「三百万円?!」と青山が突拍子もない大声を出した。毎日何億と言う金をペン先で扱っている経理部員としては驚くほどの金額ではないだろうに。もっとも通常の経理処理ではなくて個人的な金になると感覚が鋭くなるのかも知れない。

「元手はいくらです」

「百円」

「えっ」と驚く青山。

少し彼の驚きを軽減してやろうと付け加えた。「こんな超大穴馬券を一点で勝負するほど私は度胸がないから、色々幅広に百枚買いました」

「するってえと」と経理の専門家は頭の中でそろばんをはじいた。

「一万円が三百万円になった、」と大声で確認した。食事の終わったトレイを持って通りかかった総務課の鬼塚とん子が鋭く聞きとがめた。

「何の話なの」と青山さんに問うた。

「競馬で一万円を三百万円にしたと言う話をこれから聞こうと思ってね」

こうなると色と欲には滅法弱いOLの常としてとん子はトレイを机に置くと以下の隣に座り込んでしまった。

「競馬と言うのは推理するんでしょう。根拠があるんでしょう。よく見つけましたね。アインシュタインが相対性理論を発見したのに匹敵する」

「馬鹿を言っちゃいけません。根拠があってこんな馬券が買えるわけがない」

「するとイカさんはあてずっぽうで馬券を買うんですか」

「いや、何晩も寝ずに検討しますよ。普通はね。ところがたまには面倒くさくなってあてずっぽうに買う」

「へえ」と青山は狐に化かされたような顔をした。とん子の三角眼は異様な光を帯びてきた。

「その日はね、親戚の葬式があってね。馬券を検討している暇がない。本来なら馬券なんか買うべきではないが、毎週買う習慣が染みついているから買わないと落ち着かない。それでね、その日が十六日だったんですよ。十六番を単の頭にしてあとは適当に3連単を百枚ほど買った。葬式から帰ってきて調べたらそのうちの一枚が的中していた。三百万円ですよ」というと一仕事終わったようにつるりと顔を撫でた。

「本当に根拠がないの」とん子が追及した。「日にちが十六日だったというだけ」

「いやね、あとで考えるとないとも言えない」とイカは思い出しながら言った。

 固唾を呑んで見守っている二人に話した。「その二、三日前にね。散歩をしていて民家の隙間に薄汚れたのぼりが風にはためいているお稲荷さんを見つけたんですよ。私はね、知らない神社の前を通り過ぎることはできない。それでね、道路から軽く拝んだんですよ」

「お賽銭はあげなかったの」とん子が咎めるように聞いた。

「薄暗い奥に賽銭箱はあったようだが、どうも中に入る気がしなかった」

「なんてお願いしたの、馬券があたるようにとか」

「いや、お願いなんて何も考えなかったな。ただ軽く頭を下げただけさ」

「それで」

「それでさ、何でもない。二人に根拠は何だと追及されてふとお稲荷さんのご利益かなと思いついたのさ」

とん子は意外に神妙な顔をして頷いている。「きっと、そこはパワースポットなんだよ」

「それで毎週お参りしているんですか」

「うん、二、三度通りかかったときにお辞儀をして敬意をというか敬虔の念を表したな」

「そのたんびにご利益がありましたか」

「ないない、最初の一度きりだよ。きっと最初の時にはお稲荷さんの出勤日だったんだろうな」

「出勤日とはなんです」

「よくお寺なんかボンさんが住んでいない寺があるだろう。無住の寺とか言ってさ。だから神社と言うかお稲荷さんでも神様が常駐していることはないんだろう。俺が行った時はたまたま受け持ちの勤務日だったんじゃないの」

「だから話が通じたのか」と青山が感慨深げに言った。

「そういえば、鉄道でも無人駅なんてあるわね」ととん子が関係があるような、ないような話をした。

「だからさ、お稲荷さんのご利益といってもタイミングやなんかいろんな条件があるのよね。たまたまそこにいらしたとかさ」

「それに沢山参詣人のあるところはだめだな。皆のお願いなんて聞いていられないだろう」と青山が混ぜ返した。

「神様にも好き嫌いがあるだろうしね、いやな参拝客だったら助けてあげないとかね」

おわり

 

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色々アラーナ(1) 

2021-11-28 21:33:51 | 小説みたいなもの

 社員食堂で昼食をとっていると、今度アメリカに行くんですがね、と経理課の青山が五十日(イカ)に話しかけた。
「出張ですか」
「いや、年休を取ってワイフと観光旅行ですよ」
「それはそれは」
「団体旅行ですよ、安いツアーがあるでしょう。それでね、アメリカの西海岸に行くんですが旅程にラスベガスが入っているんですよ」
「はあ」とイカは口の中のカレーライスが飛び出さないように返事をした。
「この間聞いた、あのカンヌのカジノの話ね、貴方はお詳しそうだからもっと教えてもらおうと思ってね」
「ガイドがいるでしょう」
「ガイドなんてどうせ通り一遍の話しかしないでしょう」
「それもそうですね」
「ラスベガスではなにが面白いですかね。女房なんかはスロットルマシンをやるといって張り切っていますが、あんなのは日本のパチンコ屋のスロットと同じでしょう」
「まあ、そうですね」
「なにがいいですかね、簡単なルールのがいいな。ルールがややこしいのはだめだ。なにしろ時間が少ない団体旅行だから手っ取り早く出来るのがいい」
「そうですねえ」とイカは思わず笑ってしまった。
「やはりルーレットですかね」
「アメリカではカードゲームやサイコロゲームが多いようですね。ルーレットは相当大きなカジノでも二台ぐらいしかなかったと思いますよ。まあ初心者ならブラックジャックなんかかな」
「それはなんですか」
「トランプのカードを使うゲームでね。むこうでも観光客がよくやるようですよ」
「バカラというのはどうですか。よく聞くけど」
「あれは大金が動くことが多い。手を出さないほうがいいです」
「ところで、イカさんは相変わらずルーレット一本やりですか」
「いや、今の会社は海外出張もないし、もう何年もしていません。日本では合法でもないしね」
「それじゃお寂しいでしょう」
「日本ではもっぱら競馬ですね」
「ははあ、相変わらず300ワットが点くことがありますか」と青山は無邪気に失礼なことを聞いた。
「いや参ったな」とイカは困ったように笑った。『そうだ、一つほら話をして驚かしてやるか』と青山の顔を見た。
「たまにはね、三百万円馬券を当てた話をしましょうか」

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19の夢(2) 

2021-11-27 10:57:29 | 小説みたいなもの

 彼の前にうずたかく積まれたチップの山は照ノ富士の履く草履のような何枚かのバカでかい高額のチップに変換された。下駄チップを回収していると、クルピエが話しかけた。「二階の特別室ならリミットがありませんからご案内しましょうか」というのである。
「特別室って、メンバーじゃないとだめだろう?」
「いや、厳しいのはフランス人にたいしてだけですよ。外国人、とくに日本の方には制限はありません」。日本人の客は信用があるらしい。もっとも露州が両手で抱えていた下駄チップに眼を遣って、どうにかしてそれを回収しようという魂胆だったのだろう。ここで踏みとどまればよかったものの、まだツキは落ちていないという欲目と特別室とはどんなところだろうという好奇心で彼は特別室に案内させた。
 さすがに特別室は広く閑散としていた。特別室だから高額の金をかける客は富裕で上品な客ばかりだろうと思っていたがそうでもない。なんか一癖あるような危ない連中がやっている。金は唸るほど持っているが、どうやって儲けているのか分からないその筋の風体の客である。雰囲気は、思ったよりよくない。
 ま、とにかくテーブルにつくと賭けを続けた。どうも階下では200ワットで彼の博才を照らしていた照明は20ワットに急速に落ち込んだらしい。ツキは戻らない。一時間もするとすっからかんになってしまった。「すこしご用立てしましょうか」と玉ふりがうすく笑ってお愛想をいったが、さすがにそれに飛びつくほど逆上はしていなかった。かれは手ぶらで立ち上がると部屋を出た。ほとんど茫然自失状態でこのままホテルには帰れそうもない。彼はカジノのそとにある海の見える軽食レストランに入ると一番安いスパゲッテイを食べた。
 ナイフでスパゲッテイを切り刻み、フォークで口元に掬い上げながら、かれは考えた。これからどうしたものだろう、会議はまだ十日も続く。現金は全くない。出張の日当旅費も使い果たしてしまった。二階で借金を思いとどまったので、クレジットカードには手を付けていない。これからは食事もすべてクレジットカードでチェックアウトの時の支払いもクレジットで済ませはなんとかなるだろうと算段を付けると彼は無理やりに気持ちを落ち着かせたのである。 おわり

 

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19の夢(1)

2021-11-26 08:26:25 | 小説みたいなもの

 五十日露州(イカロシュウ)は自分は名前に負けていると思った。五十日(イカ)という姓は祖先代々のものでしょうがないとあきらめているが名前のほうが嫌でたまらなかった。彼の母方の祖父が強制的に押しつけた名前である。働きのない父親はこの祖父の援助がなくては生活できなかったので祖父の命名に反対できなかった。

 祖父は九州の山奥に住まいなす資産家で下手な俳句を捻り回す田舎俳人であった。それで孫にまでいかにもそれらしい名前を押し付けたのである。そう言われてみると露州というのはいかにも俳人くさい名前のように聞こえる。祖父は大変な迷信家でもあった。姓名判断に凝っていて露州は姓の五十日と組み合わさってとてつもない偉人に育つと信じ切ったのである。孫本人にとっては迷惑至極なことであった。

 彼の半生は、四十歳に手が届こうという現在までうだつの上がらないものだった。名前の仰々しさを彼は背負いききれなかった。しかし、と彼は振り返る。時々というか、人生で間歇的に強烈に発光するときがあるのである。普段は20ワットの鈍い行燈のような光なのだが、突如何の前触れもなく200ワットに燃え上がるのである。

 躁うつ病という精神病がある。これは感情の起伏が激しいのだが、彼の場合は感情ではなくて、知的活動の振幅が極端なのである。いわば知的躁うつ病とでもいうのだろう。勿論知的鬱状態が常態で躁状態は短期間しか続かない。

 彼は会社に勤めていたころに、同業者の国際的な寄り合いがあり、一月以上南フランスのカンヌに派遣されて滞在していたことがる。会社からは一人だけの参加だったので、夜は毎晩カジノに顔を出した。うだつの上がらない会社員であったが、博才だけはどういうわけかあった。欧州だからルーレットが主流である。彼も初めての経験だった。見ているとなんとなく『流れ』がある。出る目と言うか球の落ちる番号に傾向があることに気が付いた。テーブルの傍には目を記録する無料の紙がどこのカジノにもおいてある。彼はそれを手に取って目をしばらく記入したみた。もちろん流れのない、あるいはつかめない状態も頻出するが、なんとなく流れがつかめる状態もある。

 彼も参加して小金からかけ始めた。しばらくはとったり、取られたりしていたが、かけ方のコツをつかむと波に乗り出した。もともと儲けるつもりはないから適当にやっていたが大分チップが溜まって余裕が出来たので、もっともギャンブル性が高いかけ方、つまり単番号にかけてみた。十九番。それが当たった。掛け金は三十数倍になってチップが押し戻されてくる。気の迷いか?強気になったのかもう一度十九番に儲けた全部のチップを置いた。来た。驚いたね。それからはさすがに単はやめてもっと穏やかなかけ方にもどったが、ツキを呼び込んだのかチップはたまるばかり。クルピエは感心したのか、あきれたような顔をして、かれが目の前のチップの山を押し出すと、マキシマムを超えているからここでは受けられないと申し訳なさそうに言った。

 

 

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「燃えよ剣」は司馬遼太郎の全学連物語だ

2021-11-20 11:46:33 | 書評

 司馬遼太郎の、と修飾句をつけたのは、どこまで資料に基づいているか怪しいからである。新選組のような徒党の資料はまず残っていなかっただろう。
 その当時、どの当時だかは調べてね、過激な左翼学生運動が盛んでいろいろな徒党(派閥)があった。そして互いに殺しあった。文字通りの意味で殺しあった。内ゲバという。内は内部、ゲバはドイツ語のゲバルトのことだ。内部抗争といことね。つまり同じ派閥であっても主導権を奪うためには仲間を殺したのである。土方歳三が同じ新選組の有力者である新見や芹沢鴨の不意を襲ったようにね。やくざのことを考えるとよくわかる。いや仁義のなさを考えるとヤクザにも劣るかな。
 些細な違いで、言葉尻をとらえて、気にくわないやつらだということで、他のグループは勿論のこと、自派内の勢力争いにも鉄パイプなどの凶器をもって殺戮しあった。待ち伏せ、殴り込みなど土方歳三のようにうまい奴らが生き残った。
 今では考えられない情勢だが、未熟な学生には、いまにも日本国全体をひっくり返してソ連(当時)や中共にそっくり献上できると錯覚させるような不安定さが残っていたのである。
 このようなことを美化している「燃えよ剣」に吐き気がしてきた理由である。
新選組は幕府体制と言う旧体制の用心棒であって薩長などの「志士」の革命思想の正反対であったが、やり方はかっての学生運動と同じだ。それを考えると燃えよ剣がよく売れるのは不気味だ。

 

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司馬遼太郎の幼稚さ

2021-11-20 08:02:01 | 書評

 隙間時間の埋め草に幼年時代に読んだ司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読み始めた。幼年時代の記憶だからあてにもならないが、面白かったというかすかな印象が残っていた。
 しかし、今回多少は退屈しのぎになるかと読み始めてその幼稚さに目をみはったのであった。読み進むこと能わずとなった。
 ま、紙芝居作家としてのテクニックは認める。しかし彼は一時、いまでもそうかもしれないが、霞が関のヘナチョコ官僚(別名エリート官僚)の愛読書第一位であったのである。いまでもそうかもしれない。もっとも、これは「燃えよ、新選組もの」ではなくて幕末明治の志士もの「竜馬が行く」とかね、のほうだろうが。ま、とんだ食わせものだね。
 どうも読書範囲が広いので驚かせたかもしれない。アインシュタインから司馬遼太郎までね。自分でも驚いている。
 燃えよ剣はいまでも若い読者が多いらしい。沖田総司なんていうのが人気らしいね。司馬遼太郎は彼をトリックスターに仕立てたのだが、紋切型なところがいい。トリックスターというのは紋切型でなくてはいけない。土方歳三と沖田総司ね、工夫ではある。

 

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アインシュタインの指導原理としての創世記 

2021-11-18 19:49:08 | 哲学書評

 アインシュタインはユダヤ人である。どれだけ敬虔なユダヤ教徒であったかは報告がないようだ。ユダヤの聖典(であると同時にキリスト教や回教の聖典でもある)創世記によると神はまず「光あれ」といった。そうして光があった(出来た?)。

 終生の論敵であった量子力学について「神はサイコロをふらない」と繰り返した。この神はユダヤの神なのか。単なる(単なるというのは軽んじた言い方ではなく)絶対者、超越者と言った意味なのか、あるいは宇宙の創作者という意味か。

 ところで彼の相対性理論などには多くの哲学的な前提があることが指摘されている。光速は同じ慣性系なら一定であるなど。これはいい。しごく常識的な前提であるし、彼の独創的な主張でもない。

 分からないのは宇宙には(こういう修飾句でいいと思うが)光より早いものはないという断定である。なにを根拠に言っているのか。たしかに光速より早いものは観測されていない。しかし、それは根拠にならない。仮定である。仮定でもいい。あらゆる自然法則(人間の発見した)は仮説である。あきらか反証が出て来るまでは、それは自然法則と呼ばれる。ホパーだったかが言っているとおりだ。

 もっとも、これは観測から実証されているらしい。木星と太陽の蝕の予測と観測が一致したとか。光速c(こちらはcの自乗)は物質とエネルギーの等価方程式にも表れる。これは実証されたのかね。原子爆弾は成功したがあれだけの規模では定量的な観測は不可能であろう。もっとも、放射性原子のごく少量が崩壊する過程で観測あるいは推測出来ているのかもしれない。

 そうでなければ高速cを持ってこないで「とてつもない莫大な量の」という定性的な言葉で十分である。素人なのですこしインターネットを調べてみたが、「光速が宇宙で一番早い」という根拠をしめした解説は皆無のようだ。物理学者と言うのはこれでよく落ち着いていられるものだと感心する。

 だいたい、天文学者や物理学者までもが真顔で夢中になって論じている多元宇宙論では光速などの物理定数はどの宇宙でも同じ値を示すのか。

 なお、ご愛読?をいただいたシュレディンガーの猫についてのアップは前の号で終わりました。

 

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宇宙消失(5) 自虐の唄か 

2021-11-16 07:18:06 | 書評

 シュレディンガーの猫(以下S猫と略す)をどういうつもりで書いたのか、流布している文書では分からない。まさか、解説本に記載されているようなものだけがポンと出されたわけではあるまい。「残念ながらこんなようなものですよ」とかなんとかあるはずだ、付随する文章には。あるいはこのS猫についてはアインシュタインとの文書のやり取りがあるようだから、それも解説者がつけたして解説してくれれば多少S猫をSがどのように位置づけていたか多少はうかがえるかもしれない。

 さて歴史的に観察対象のとらえ方については以下のようなものがある。

1:古代ギリシャ哲学ではこの種の自己と観察対象との神経症的な疑問はアリストテレスにもない。
2:デカルトは考える自分しか確かなものはない、としたが実在(外界)が無いとまではいわない。
3:バークリーになるとあるのは自分の意識と言うか表象しかない、と極論する。
4.カントはまあまあ、という。外界は実在するが人間の持っている撮影機能でしかとらえられないと至極もっともなことをいう。撮影機能の一つは因果関係である。決定論である。
5;それ以外にもいろいろなバージョンはある、折衷案もあるが、以下略

量子力学にいきなり飛ぶが、いわゆるボーアなどのコペンハーゲン解釈は上記のバークリー型とカント型の折衷案のようだ。その要点は外界は(つまり量子的ナノミクロの世界では)人間の認識カテゴリーである「因果関係」「決定論」ではとらえられない。あるいは実在は決定論的世界ではない。これもはっきりしないところだが。

ま、S猫はそういうことを言っている。しかし?悲劇的?なことに、Sはもともと性情的には決定論者だったので、「残念ながら」という自虐調であるらしい。

 

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「宇宙消失」(4) 

2021-11-14 08:28:50 | 書評

 メタフィジックスという言葉がある。一般的には思弁的哲学と理解されているようだ。日本語では形而上学と訳される。形而上と言うことばは、いずれシナの古典にある言葉だろう。幕末か明治に漢文の素養のある日本人が訳したようだ。この訳語はあまり適切ではない。メタ・と言う接頭辞は何々の後ろにあるいは奥にという意味である。底にといってもいい。逆に上にと言ってもいい。形而上はこちらのほうをとっている。つまりメタフィジックスは基礎物理学ということである。
 
 いずれにしても「奥」にあって見えない。つまりオカルトの世界である。オカルトと言うのは隠れたという意味だ。物理学は、とくに理論物理学は表に現れた現象を観察して数式化したものだが、かならず表現されない奥、言い換えれば基底に支えられている。もっと適切に表現すれば支配されている。 この奥まで疑うというのがメタ・フィジックスである。オクへの認識が改まるのをトーマス・クーンはパラダイム・チェンジといった。科学革命と言う。
 
 アインシュタインの相対性理論が革命的なのは、このオクまで思弁のメスを入れたからである。そのきっかけが彼の「思考実験」である。これに比べてシュレディンガーのオニャンコは思考実験ではない。
 量子力学も最初はこの奥に向かったが、どうもその後は不徹底だったようだ。
 
 メタ・フィジックスのさらにメタ(奥)に、つまり禁断の江戸城大奥に踏み込むのがメタ・メタ・フィジックスである。かっては自然哲学といった。もっとも現在自然哲学と言うのは死語である。

 

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「宇宙消失」(3) 

2021-11-14 08:28:50 | 書評

多元宇宙物は収穫なし

インターネットを漁って出てきた「多元宇宙物」のリストで市場(新刊本)で見つけたのは「宇宙消失」のみ。市場性がないのだろう。あるいは、こういう言い方をしてもいいのか、まともなものは書けないと。
もっとも、ある人によるとベスターの「虎よ虎よ」も多元宇宙物だという。この本はどこの本屋にも大体ある。へえ、そうだったの、と大分前に読んだ内容を思い返そうとしたが出来ない。ただつまらない小説だという印象は残っている。

ということで、多元宇宙物を書くなら量子力学ブルのはうまくいかないと思った。そうすると、どこにタネをもとめるか。今のところ考えているのは、幕末の国学者である平田篤胤の「霊の真柱」くらいだ。それと戦前の国粋主義者である川面凡児くらいかな。

量子力学は立派な実績のある分野らしいが、SFをひねり出すのは無理があるようだ。すぐにいかがわしい「シュレディンガーの猫」という『思考実験』を援用するようじゃ駄目だ。

次回はメタ・メタに見た量子力学、ちょっとSFからは離れます。

おことわり;平田篤胤や川面凡児が出てきてびっくりさせたかもしれません。

それがSFなのかよ、といわれそうです。ま、似非科学的な意味ではSFではありません。しかし、未来ものなんですね、そうするとSFなのかな。ま、ジャンルはなんでもいいんですがね。

 

 

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創元SF文庫「宇宙消失」グレッグ・イーガン(2)

2021-11-12 13:08:16 | 書評

 「宇宙消失」(2) 

文章(表現力)、構成はよくない。もっとも翻訳で読んでいるから原文がどうなのかは意見を差し控える。
まえにも書いたが創元文庫で見つける前に原文(英文)を入手して最初のほうをちらっと見たが、やけに気取った(凝った)書き方だなと思った。それもしっくりと落ち着かない、似合わない浮き上がった気取りかただ。ディレッタントを装ったふうでもある。

創元文庫は徹底してハードボイルド風だ。例えば主人公記述者は「おれ」だがどうも違和感がある。もっとも日本語は俺、僕、私、アタイ,小生といろいろあるから訳語を何にするかによって全体の印象がガラッと変わる。英語なら「 I 」だけだけどね。日本語だと「俺」と「おれ」ではまた印象が変わってくる。

一つのやり方としては主人公の記述には主語を書かない手がある。読むほうは主語がないことで主役の言葉だとか、主役のモノローグだとか自然に分かる。この小説の場合は「おれ」で押し通すよりもこのほうがいいと思う。

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創元SF文庫「宇宙消失」グレッグ・イーガン(1)

2021-11-12 13:08:16 | 書評

 まず、最初に判断しなければいけないのは、著者が芸のない並みのSF作家か、能力のあるSF作家であるかであるが、それはしばらくおく。まだ少ししか読んでいないし、大部分は理解していないからである。

  それなら放り投げてしまえば一番穏やかなのだが、大枚千円が惜しくてそうも出来ない。前にも書いたがやたらにSFお決まりのおもちゃが次から次へと出てくる。二回目に出てくると何だったか分からない。最初に出てきた時にもはっきりしなかったのだから余計だ。索引を作ってもらいたい。

 ま、最初のご挨拶はこのくらいにしておこう。請うご期待。

 

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アカ狩り小説として「宇宙の眼」を読む 

2021-11-05 07:21:28 | 書評

 赤狩りとは第二次大戦後1950年代半ばまでアメリカで吹き荒れた魔女狩りである。17世紀のニューイングランドや、かって欧州で吹き荒れたような魔女狩りの狂乱である。

 まず言っておくが、この小説は多元宇宙SFとしては私は認めない。あまりに幼稚な子供向けファンタジーである。赤狩りはテーマと言うよりかこの小説の副旋律である。あるいはフレームである。第一章と最終章が対になっている。

 名々瞭々に堂々と自分は共産主義者であると名乗らない人物で、実はソ連のスパイだ疑われた人たちが赤狩りの対象である。政府調査機関、議会、マスコミが主導した。アメリカの原爆開発の父と言われたオッペンハイマー博士もそう疑われた一人である。つまりソ連の恐怖におびえて誰かれなく共産主義者つまり魔女として疑って狩り出す。

 

 第一章の主人公ハミルトンは軍需工業で働く優秀な技術者である。その妻マーシャが会社の治安責任者マクフィーフに疑われる。赤がかった集会にたびたび参加したり、その種の署名活動や募金活動に応じたりしている。会社の査問委員会に呼び出されたハミルトンは否定するが会社を解雇された。その日に陽子加速器の見学に行き事故に巻き込まれた。

 それから三回か四回事故に遭った八人の人間が順番に「主意識」の異次元に飛ぶ。そして終章直前の章で、同じく事故にあって異次元ゲームのメンバーだった、彼を査問委員会で告発した治安責任者マクフィーフがじつは地下共産党組織の指導者だったことが分かる。

 最終章は現実の事故前の次元に戻って再び会社の査問委員会である。出席したハミルトンは、赤の大物としてマクフィーフを告発するが、会社は異次元の意識の中での証言は認めない。ということで幕になる。ハミルトンは会社を辞めてベンチャー企業をたちあげるというのがおちである。

 作者のディックは赤狩りの狂乱の直後あるいはその最終段階で執筆を始めたのだろうから、赤狩りの記憶は生々しい。おそらくこれを読んだアメリカの読者は赤狩り小説だな、とわかっただろうが、日本の書評家は例によってピント外れな書評をしている。

 それはそれとして、つまりあまり書評家を馬鹿にすると反発が怖いから、わたしもディックの他の小説をボチボチ読んでみようと思う。

 

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「意志と表象の世界」として「宇宙の眼」を読む

2021-11-04 20:36:35 | 書評

 前回のアップでホラー描写も達者だと書いたが、その前に書こうと思ったことがあったのを忘れていた。言うまでもなく「意志と表象としての世界」は十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて欧州を席巻したショウペンハウアーの主著である。いまは知っている人も少ない。漫才哲学師を標榜する当ブログとしては是非一筆しなければならない。

 かって旧制第一高等学校の哲学かぶれの学生が愛唱したデカンショ節なるものがあった。『デカンショ、デカンショで半年暮らす、後の半年ゃ寝て暮らす』だったかな。デカはデカルトである。カンはカントである。そうしてショはショウペンハウアーなのだ。今の学生ならデカンヘーとヘーゲルあたりを持ってくるところだろうが、日本でもショウペンハウアーはそのくらい人気があった。

 簡単に要約すると誤解を招くが、ようするにペシミズムで人間は盲目的意志に操られている。自殺して煩悩を絶つのが利口だという、ある意味仏教に通じるところがある。しかし、抹香臭いところがなく、非常にロマンチックな名文で書かれていたもので、とくに若者はみんな参ってしまった。もっともショーペンハウアー自身は長命を保ち、毎朝イギリスのタイムズの商品取引欄を読み投資に巧みであったと言われる。おそらく退屈しのぎだったのだろうが。

 かの分析哲学の祖であるウィットゲンシュタインも青年時代にショーペンハウアーを耽読したことを語っている。また、ニーチェの最初の師というか、影響を受けた哲学者としてみずから彼の名を挙げている。もっとも彼のその後の哲学にはまったく反映していないが若い時代にワグナーと同じくらい影響を与えた哲学者である。いささか、長くなったが、今はだれも知らないと思うので長くなった。もっとも、豊かな内容を要約しすぎた恨みは当然ある。

 さて、宇宙の眼に戻る。陽子加速器の事故に遭った八人は別次元に何回も蘇生?するのだが、そのたびに一人が主役になる。つまり彼あるいは彼女の意志する表象(意識、つまり世界である)が全員の意識を支配する。だから彼、彼女の意志のままにされる。その三人とは最初は退役軍人、二番目はデブチンのおばさん、三人目が中性的なオールドミスである。そこまで読んだのだ。三人目のオールドミスのところで建物が彼女の意のままになって生き物となって皆をおそう。その先どういう展開があるのかは読んでから報告することにします。

 

 

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ディックの宇宙の眼(2)

2021-11-04 19:40:36 | 書評

 前回はちょうど良いところでアップしたようだ。12章あたりまでなんだけどね。

13,14章はぐっと変わって結構読ませる。といってもホラー調になる。なかなか達者だ。アランポー並みだ。あるいはキングばりなんだ。つまり建物が生き物になるという伝統的、かつ正調ホラー風なのだ。シャイニングだったかな。しかし全然SFではない。15章になると元の調子になるが、わかりにくくなる。悪く言えば支離滅裂、よく言えば筒井康隆氏なんかがいうようにシュールな味と言うのだろう。あとすこし残っている。あまり理路整然と理解しようと無理をしないで読んでみよう。

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