穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「燃えよ剣」は司馬遼太郎の全学連物語だ

2021-11-20 11:46:33 | 書評

 司馬遼太郎の、と修飾句をつけたのは、どこまで資料に基づいているか怪しいからである。新選組のような徒党の資料はまず残っていなかっただろう。
 その当時、どの当時だかは調べてね、過激な左翼学生運動が盛んでいろいろな徒党(派閥)があった。そして互いに殺しあった。文字通りの意味で殺しあった。内ゲバという。内は内部、ゲバはドイツ語のゲバルトのことだ。内部抗争といことね。つまり同じ派閥であっても主導権を奪うためには仲間を殺したのである。土方歳三が同じ新選組の有力者である新見や芹沢鴨の不意を襲ったようにね。やくざのことを考えるとよくわかる。いや仁義のなさを考えるとヤクザにも劣るかな。
 些細な違いで、言葉尻をとらえて、気にくわないやつらだということで、他のグループは勿論のこと、自派内の勢力争いにも鉄パイプなどの凶器をもって殺戮しあった。待ち伏せ、殴り込みなど土方歳三のようにうまい奴らが生き残った。
 今では考えられない情勢だが、未熟な学生には、いまにも日本国全体をひっくり返してソ連(当時)や中共にそっくり献上できると錯覚させるような不安定さが残っていたのである。
 このようなことを美化している「燃えよ剣」に吐き気がしてきた理由である。
新選組は幕府体制と言う旧体制の用心棒であって薩長などの「志士」の革命思想の正反対であったが、やり方はかっての学生運動と同じだ。それを考えると燃えよ剣がよく売れるのは不気味だ。

 

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司馬遼太郎の幼稚さ

2021-11-20 08:02:01 | 書評

 隙間時間の埋め草に幼年時代に読んだ司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読み始めた。幼年時代の記憶だからあてにもならないが、面白かったというかすかな印象が残っていた。
 しかし、今回多少は退屈しのぎになるかと読み始めてその幼稚さに目をみはったのであった。読み進むこと能わずとなった。
 ま、紙芝居作家としてのテクニックは認める。しかし彼は一時、いまでもそうかもしれないが、霞が関のヘナチョコ官僚(別名エリート官僚)の愛読書第一位であったのである。いまでもそうかもしれない。もっとも、これは「燃えよ、新選組もの」ではなくて幕末明治の志士もの「竜馬が行く」とかね、のほうだろうが。ま、とんだ食わせものだね。
 どうも読書範囲が広いので驚かせたかもしれない。アインシュタインから司馬遼太郎までね。自分でも驚いている。
 燃えよ剣はいまでも若い読者が多いらしい。沖田総司なんていうのが人気らしいね。司馬遼太郎は彼をトリックスターに仕立てたのだが、紋切型なところがいい。トリックスターというのは紋切型でなくてはいけない。土方歳三と沖田総司ね、工夫ではある。

 

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