狭い歩道の上である。石附のついた先端部分が折れ飛んだ傘を振り上げながら彼は自転車に乗った若い女に言った。
「こんな場末で女と喧嘩しても損をするのはこちらだからな」
女は傘が届かない距離に自転車を止めて「そんな」と少しひるんだ。
一方通行の道路の横に歩道まがいのところがある。只でさえ狭い道幅なのに、場末の常で家の前に私物の植木鉢が置いてある。車道側には街路樹が植えてある。歩行できる幅は歩行者一人分くらいしかない。そこを後ろから自転車に乗った女が追い越そうとしたのである。自動車の運転でもそうだが、女は幅寄せというか前を行く歩行者との間合いの取り方が出来ない。いつも自転車で追い越される時にひやっとさせられるのは女の自転車に決まっている。
今日は朝から雨が降っていた。彼が外出した時には小止みになっていたので、傘は開かずに持っていたのである。そこへ後ろから彼にぶつかるように自転車がきた。こういう時に男なら大体ブレーキを握るものだが、自分のことしか考えない女の場合呼び鈴を鳴らして歩行者を追い散らそうとする。今度は呼び鈴を鳴らす暇もなかったのか、後ろから「アレエ」という悲鳴を彼の背中に浴びせた。
びっくりした彼が体をひねって後ろを見たところ、持っていた傘も体と一緒に回転して横に動いた。その先端が自転車の車輪の間に挟まった。それでも女がブレーキをかけないものだから傘の先端が15センチほどすっぽりと折れてしまった。折れた先は道路の上に転がった。
女は謝るどころか、「あんたが傘を横に突き出したでしょう」と先手を打って非難した。彼は呆れてしまって「後ろには目が付いていないんだよ。後ろから来る人が注意していなければ駄目じゃないか。それに歩道で自転車に乗ったら法律違反だ。警察に言えば罰金だよ」と言うと女は逆上して「ああ、いいよ。警察に行こうよ」と取り乱した。
彼は傘の壊れ具合を確認しようと傘を高く目の前に持ち上げたら、それが傘で殴りかかって来ると思ったのか、女は当たりかまわず大声でわめきだした。道の周りにある町工場もそろそろ扉を開けるころで、荷物を搬入するトラックも集まって来ている。あたりの人たちはこの騒動を見ている。厄介なことになったな、と彼は途方にくれた。
こっちが被害者なのに迷惑な話だ。よく女の勘違いで痴漢と間違えられたという話を聞くが、似たような話になってきた。傘を振り上げた形になっている男のほうが悪者に見えるにちがいない。そこで冒頭言ったような言葉になったのである。
女はいきなり携帯電話を取りだした。この取り込み中に呼び出し音もならないのにどこかの仲間に連絡してここに呼び集めるつもりなのだろうか。30歳くらいの女は化粧っけはないがまあまあの器量で、啖呵の切り方などを聞いていると居酒屋の洗い場あたりに勤めている雰囲気がある。そんなところの男たちを助太刀に呼ばれたら厄介だ。とんだ大事になりそうだ。ひどい目にあったものだと、男は女を咎めることを諦めて「こんな所で喧嘩をしたらこっちが馬鹿を見るだけだからな」と捨て台詞を残してその場を立ち去った。