穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

芥川賞候補作品を読む時間はどれくらいあるのだろう

2011-02-26 20:57:44 | 芥川賞および直木賞

芥川賞選評に対する印象をwebで見ていて感じるのだが、この選者がこの作品にこんな評価をするのは意外だ、というものがある。

私はどの選者の小説もほとんど読んでいないから文芸春秋の選評を見ても、そのとおりに受け取るのだが、選者たちの小説をよく読んでいる人のコメントらしいので、おやと思うた(すこし訛ったね)。

それで、一体選者たちは本当に候補作品を読んでいるのかなという疑問。四つか五つか、候補作を絞るのは編集者や下積みの作家や評論家らしいから、それまでの段階では選者はまったくタッチしていないようだが。

最終候補作を読む時間(日にち)はどのくらいあるのか。選考会は二時間くらいというが、その場で初めて見るのかしら。そうすると、事務取扱(即ち編集者など)が用意した要約やブリーフィング資料しか見ないのかな。

皆さん忙しいから、事前に読む時間などないのかもしれない。国会答弁みたいに担当編集者の原稿を参考に適当に流しているのかな。

もっとも、選者の個人差もあろう。全然読まずに選考会でも執筆疲れで居眠りをしている人もいる、というのは筒井康隆氏の小説だが、大岡昇平氏によると実話というし。

まじめに予習をしてくる人もいるが、選考会前にまったく目を通さない人もいるに違いない。


車谷長吉「贋世捨人」

2011-02-24 20:46:19 | 芥川賞および直木賞

自称「私小説家」、公認「私小説作家」車谷氏の表記の本を読んだ。

前にも書いたが、これが体験を書いたものとすれば(程度問題だが)、氏の生活は普通考えられないように都合よくドラマチックな偶然(小説的必然)が連続して生起する生活だと感心する。

神社でおみくじを引けば大凶が9回も連続する。普通おみくじには神社の営業的配慮から「大凶」なる出現率はニルに近く調節されているのではないか。かりにランダムに混ぜてあっても9回も続くなんてマンガでも説得力がない。

そうかと思うと、都合の良い時に都合のよい人と電車でばったりあうとか。普通の小説でも気になるところだが、私小説と銘打ってあると余計引っかかる。

ま、こんなことは些事だが、一番はぐらかされた気がするのは、何故小説を書くかという作者の衝動というか、性向というか、必然性が全くかんじられないことである。

小説を書くべきかどうかと、悩みに悩むということは分かる。何故小説なのかというのがまったく分からない。大体、どうしても書きたいこと、書きたいテーマ、読者に訴えたいテーマがあって抑えきれないなら、小説を書くべきか、やめるかなんて悩みがどこから出てくるのか。

ぼくなんかから見るとその辺の欠落が非常に奇妙なんだな。

$ ちょいと補足、小説には何故私は小説を書くか、述べよなんていっているのではない。そんなことは一言も触れる必要はない。しかし、執拗に小説を書く生活に入るかどうか、悩んでいると書いてあるから、それより、自分は書きたいことが有るのかどうかを読者に示すことが先ではないか、といっている。

大切なことをおいておいて、妙なことにこだわるなという印象を持ったということ。


あのヒト美人ねぇ

2011-02-24 07:29:26 | 芥川賞および直木賞

おんながそばにいる男に「あのヒト美人ねぇ」とつぶやくときがある。みると美人でもなんでもない。同性の見る目が違うのか。それもあろう。

「あの女のひとは美人だわ、だから私はすごい美人なのよ。わかった」と言いたい場合が多いのだ。

直木賞選者の評に「文章がすばらしい」という趣旨のコメントがかなりある。とくに今回の木内氏の作品に。チラ読みするとま、下手じゃないが、うまいというほどじゃない。

どうも、女の美人コメントと同じに考えたほうがよさそうだ。


直木賞って辛気臭い賞だね

2011-02-23 20:15:08 | 芥川賞および直木賞

35度の角度で選評を飛ばし流した感想は「直木賞って随分辛気臭そうだな」。

まだ今回の二作は読んでないが、選評の各氏、各嬢は難しいことを書いている。直木賞ってエンターテインメントの賞だと思っていた。皆さん理屈をこねているので感心した。

各氏の講評を見ていて読もうかな、と食指が動いたのは「漂砂のうたう」かな。根津八重垣町なんて懐かしい。今はなんていうのかな、不忍九丁目かな。昔あの辺に住んでいた生国不明のヨーロッパの老嬢に英会話を習いにいっていたんだ。

最近はないが、台風が来ると水があふれるところでね、ゼロメートル地帯だったんだが。

とにかく、芥川賞の選評に比べると詳細だし、候補作全部に律儀にコメントしている。この傾向は大分前からなのかな。選者は芥川賞に対抗心でも燃やしているのだろうか。

今度の候補作には「悪の教典」があったんだね。これは実は読んだんだ。例のハヤカワのベスト・ミステリー・ガイドに出ていたんでね。

なんとか最後まで読めた。しかしコメントしようもないへんてこなものだと思った。ところが直木賞の候補なんだね。みんな律儀に講評している。それを読んで、へえ、そんなに積極的にとらえる見方もあるんだ、と勉強になりました。

つづく


直木賞選評批評

2011-02-23 18:58:26 | 芥川賞および直木賞

最初に市場調査、グーグルで検索すると、各ヒット数は

芥川賞、西村で654,000

芥川賞、朝吹で167,000

直木賞、道尾で116,000

直木賞、木内で35,400

西村氏の完勝だね。

之によって此れを見ると次は道尾君なんだガ。書店で目についてオール読み物、直木賞選評と作品が出ている。見ると作品といっても一部なんだね。道尾君の作品は第一章だけ掲載。そこで選評から先に見る。つづく


ショートショート「雨上がり」

2011-02-22 08:57:33 | インポート

狭い歩道の上である。石附のついた先端部分が折れ飛んだ傘を振り上げながら彼は自転車に乗った若い女に言った。

「こんな場末で女と喧嘩しても損をするのはこちらだからな」

女は傘が届かない距離に自転車を止めて「そんな」と少しひるんだ。

一方通行の道路の横に歩道まがいのところがある。只でさえ狭い道幅なのに、場末の常で家の前に私物の植木鉢が置いてある。車道側には街路樹が植えてある。歩行できる幅は歩行者一人分くらいしかない。そこを後ろから自転車に乗った女が追い越そうとしたのである。自動車の運転でもそうだが、女は幅寄せというか前を行く歩行者との間合いの取り方が出来ない。いつも自転車で追い越される時にひやっとさせられるのは女の自転車に決まっている。

今日は朝から雨が降っていた。彼が外出した時には小止みになっていたので、傘は開かずに持っていたのである。そこへ後ろから彼にぶつかるように自転車がきた。こういう時に男なら大体ブレーキを握るものだが、自分のことしか考えない女の場合呼び鈴を鳴らして歩行者を追い散らそうとする。今度は呼び鈴を鳴らす暇もなかったのか、後ろから「アレエ」という悲鳴を彼の背中に浴びせた。

びっくりした彼が体をひねって後ろを見たところ、持っていた傘も体と一緒に回転して横に動いた。その先端が自転車の車輪の間に挟まった。それでも女がブレーキをかけないものだから傘の先端が15センチほどすっぽりと折れてしまった。折れた先は道路の上に転がった。

女は謝るどころか、「あんたが傘を横に突き出したでしょう」と先手を打って非難した。彼は呆れてしまって「後ろには目が付いていないんだよ。後ろから来る人が注意していなければ駄目じゃないか。それに歩道で自転車に乗ったら法律違反だ。警察に言えば罰金だよ」と言うと女は逆上して「ああ、いいよ。警察に行こうよ」と取り乱した。

彼は傘の壊れ具合を確認しようと傘を高く目の前に持ち上げたら、それが傘で殴りかかって来ると思ったのか、女は当たりかまわず大声でわめきだした。道の周りにある町工場もそろそろ扉を開けるころで、荷物を搬入するトラックも集まって来ている。あたりの人たちはこの騒動を見ている。厄介なことになったな、と彼は途方にくれた。

こっちが被害者なのに迷惑な話だ。よく女の勘違いで痴漢と間違えられたという話を聞くが、似たような話になってきた。傘を振り上げた形になっている男のほうが悪者に見えるにちがいない。そこで冒頭言ったような言葉になったのである。

女はいきなり携帯電話を取りだした。この取り込み中に呼び出し音もならないのにどこかの仲間に連絡してここに呼び集めるつもりなのだろうか。30歳くらいの女は化粧っけはないがまあまあの器量で、啖呵の切り方などを聞いていると居酒屋の洗い場あたりに勤めている雰囲気がある。そんなところの男たちを助太刀に呼ばれたら厄介だ。とんだ大事になりそうだ。ひどい目にあったものだと、男は女を咎めることを諦めて「こんな所で喧嘩をしたらこっちが馬鹿を見るだけだからな」と捨て台詞を残してその場を立ち去った。


私小説作家の片言隻句

2011-02-21 08:53:36 | 芥川賞および直木賞

承前;私も片言隻句などとあまり聞かない言葉を気取って使ってみたが、勿論最近の私小説書きの言葉ほど偏差値外れではない。

車谷長吉氏のヒョウ風(つむじかぜのことらしい)を拾い読む。赤目四十八瀧を読んだ時にも感じたが、個人がこんなに突飛凝縮した体験を連続してするかな、と疑問に思った。創作ならいいが、私小説と看板をはると???となる。

このヒョウフウにはオームに狙撃された国松長官が運び込まれた病室の近くに入院していたそうだ。廊下で私服の警官が抜き身で拳銃を構えていたというが、ほんとかいな。

もっとも、かって家に強盗が入った時には警官がブローニングの小型拳銃を構えて家に入ってきたが。

その警官が便所で誤って拳銃を暴発させて負傷したという。まさに、私小説書きの素質十分だ。ネタは向こうから転がりこんでくる。

葬式のことをソウレンといったり、類語辞典を愛用しているらしい。非常にキザ、不自然に感じる。こういう風にあからさまに書くところを見ると私も私小説書きになったらしい。(ヒョウフウ内、指参照)

& おっと最初に書こうと思っていたことを忘れた。ヒョウ風の「低迷運」に「根津権現の樹木の鬱蒼と繁った森」とあるが、あれが鬱蒼と繁った森なのかね。この辺の感覚はいただけない。芥川賞はいただけない。直木賞はいいらしいが。

この辺の奇矯さは西村氏にも共通するところはあるが、西村氏のほうがシグマは小さいと言える。まさに車谷氏は「随伴を拒絶する」


犬のションベンと私小説の文章

2011-02-20 19:32:29 | 芥川賞および直木賞

承前;西村氏の小説で随分妙なことばを使うなと思った。ところが車谷長吉氏の小説を読むと西村氏どころではない。いたるところで訛りまくっている。これは一種の自己主張なんだろうね。

しかし、ほとんど、あるいはまったく、意味が無いように思える。無理して差異化しているとしか見えない。あるいは自分の文章にハンコを押して著作権を主張しているのか(文体一目瞭然化ネ)。犬が往来のいたるところで電信柱などに小便をかけている。自分の匂いをつけて縄張りを主張しているのだが、あれと同じじゃないか。稚戯を感じる。

ことさらに選ぶ言葉の選択に必然性や意味はほとんどの場合に感じられない。

車谷氏の作品を読んでみるとまだ、西村氏の文章のほうがその点では抑制されている。

この間読んだ大正時代の葛西善蔵の小説には、そういった違和感は全く感じなかった。そうすると、この言葉の選択についての違和感は現代の「私小説」に特有なものなのか。

私は葛西氏の同時代の私小説作家から昭和前期、戦後から現代にいたるまでの私小説作家の文章にほかに接したことがないから、現在のような異様な状況がいつから発生したかつまびらかにすることは出来ない。

もっとも、程度の差はあれ、最近はエンターテインメントでも、はたまた、きとこわ作者にもそのような意味のない衒いを感じてはいるが。それを極端に体現したのが車谷氏なのか。

つづく


生産者の顔が見える私小説

2011-02-20 17:51:39 | 芥川賞および直木賞

スーパーなんかの野菜とか生肉なんか、産地直送とか生産者の顔が見える商品なんていうと、高い値段をつけても消費者は文句も言わずに買っていく。

「私小説」なんていうレッテルも同じだね。どうもペテンくさい。私が西村賢太氏の小説を褒めたのは別に私小説だからではない。どうも妙な風潮なのでここいらでチェックを入れておこう。ランターン・ベンダーおっと提灯屋と間違えられてもこまるからね。

ところで現在私小説作家は希少品種らしい。だからこそ惹句として値打ちがあるのだろう。

現在では西村氏と車谷長吉氏が貴重な個体らしい。そこで、直木賞を取った「赤目四十八瀧心中未遂」を読んだ。たしかにうまい作品だが、これを私小説とラベルを貼って売りだす必要があったのだろうか。

文春文庫だが、川本三郎氏の解説がすごい。私小説という言葉が何回出てくるか。川本氏というのは文芸評論を鬻いでいるいるのだろうが、妙な文章だ。ま、どうでもいいが、永井荷風と比較するのはやめてほしいね。全然関係ない。つづく


Seven私小説?

2011-02-18 20:20:24 | 芥川賞および直木賞

芥川賞選評への講評を続ける。

苦役列車に何かが足りないという選評をつけているのは次の各人;

島田雅彦;高樹のぶ子;村上龍;

小説はクイズではない。ミステリーはクイズかな。純文学はクイズではないと思った。

もちろん、何らかの主張を打ち出したり、社会へのコミットメントを含んでいたり、試練を通して主人公が成長していく過程を描いてもいい。だけどそれがないから駄目なんてどこを叩いたらでてくるのか。

これは何もカッコ私小説カッコトジに限らないが、それよりも大切なのは登場人物の典型像を造形出来るかどうかだろう。

あるいは登場人物の布置に永遠の、あるいは同時代的な問題意識を浮き上がらせることだろう。

西村賢太氏の作品はばらつきはあるが、それに成功している。もっとも本人はそれを意識していないだろう。あの年で自覚しながらやっていたとしたら一寸いやらしい。

典型と言うのは平均値ではない。シグマをプロットした広大な人間世界の荒れ地のなかにある。それを提示できるのが作者の質である。それを読んで摘出出来るのが評論家や読者の質の高さである。


Six私小説?

2011-02-17 19:46:08 | 芥川賞および直木賞

小説はバイアグラたらねばならないか。前回紹介した村上龍氏はそういうが、他にもいるね、高樹のぶ子選考委員。内的でも何か変化が起きなければいけないそうだ。小説は催淫剤たれ、というわけだ。

仮にそうだとしても、私小説と言うのはもっともそういう機能を期待しにくい極北にあるジャンルじゃないの。

きとこわにはそんなことを期待していないみたいだけど。私小説だから読者を行動に駆り立てなければならないというテイの理屈はよく分からない。

私が前に西村氏の作品は落語の枕みたいだと言った。枕だから落ちはないわけね。落ちがなければいけないというご教導のようである。


Five私小説?

2011-02-17 11:26:45 | 芥川賞および直木賞

六十度読みでは選者の皆さんに申し訳ないので三十度読みで再読。

黒井千次氏の評も一面をつく。川上弘美さんも短いが西村氏の今後に興味を向けているのは面白い。

村上龍の評。「モチーフは古く、文学的手あかにまみれている。現実へのコミットメントが希薄だ」

この評こそ、アナクロニズムで骨董的ではありませんか。全共闘時代のえせモラリスト気取りで年を取っていった文士という感じだ。

村上龍氏はまれにみる悪文書きで読めたものではないが、嫉視もあるのかな。そういえば、村上の「きとこわ」の要約もひどいね。こんなにピントはずれな選者がいるとはね。


Four私小説?

2011-02-17 10:19:51 | 芥川賞および直木賞

ようやく本題にたどりつけそうだ。

その前に一つ、西村賢太「随筆集 一私小説書きの弁」というのがある。(講談社)

私小説論と言うよりか文字通り随筆、短文集だが最後に四頁ほどの本のタイトルになった短文がある。短い中に巷間「私小説」と呼ばれるものについてのなかなか鋭い観察がある。

当ブログでこれまでに述べてきたところと若干内容というよりかニュアンスが違うところもあるようだが、このままにしておこう。

さて、芥川賞選評(文芸春秋三月号)講評である。六十度読み(注)をしたところ、多くの選者は苦役列車を従来型の私小説と片付けている。

注)斜め読みが四十五度読みとすると、それよりもすっ飛ばして読むことを言う。

代表的なのは島田雅彦氏だろう。この人の選評のタイトルが「初めてのおつかい」と言うんだがこれは何のことかな。

苦役列車を従来型の私小説としているようだ。全体に珍妙で的外れ、選評を選評しにくい。

やや見るべきなのは山田詠美さん「私小説が、実は最高に巧妙に仕組まれたただならぬフィクションであると証明したような作品」

宮本輝氏が指摘するように「基礎的に強い文章力があればこその副産物であって、出会いがしらに偶然に生まれた面白さではない」

石原慎太郎氏の評についてはすでに述べた。


Three私小説?

2011-02-16 23:29:26 | 芥川賞および直木賞

ところで、私小説は何て読む?普通はシショウセツだと思うんだが、西村氏はワタクシ・ショウセツとルビってるみたいなんだ。これはひとつのたくらみであり、アリバイであり、逃げ口上であるかもしれない。

お前たちの言っている私小説ではなくて、私小説なんだと。ネ。訂正;広辞苑をみたら同じ意味らしい。そしてワタクシ・ショウセツが正調らしい。テレビのアナウンサーはシショウセツと言うみたいだけどね。

西村氏の読書系図では田中英光とか藤沢修造に連なるらしいが、これが読めないので何とも言えないが(私が古本や図書館本を読まないことは再三述べたとおり)、この間書店で岩波文庫葛西善蔵をみた。

そこで、あまり無責任なこともブログで言えないから参考にするために買った。予想通り、西村氏とは無関係だ、読んだ側の感想だよ。西村氏はどう受け取っているかは知らない。

知られている「子を連れて」などまだ読めるがトーンというかムードはなんら西村氏との間に共通点はない。率直にいって文章も相当に稚拙だ。題材では家賃を払えなくて追い立てを食うというところは共通だ。貧乏物語だから、この辺は一緒ね。

ほかにはちょっと新刊本書店では私小説はないようだ。文学全集を置いているところではどうなんだろう。このごろはよほど大きな書店にいっても文学全集はあまり置いてないからな。


Two私小説?

2011-02-16 20:03:44 | 芥川賞および直木賞

もっとも、馬子にも衣装、じゃない、地下の成り上がりも成功して没落した名家の娘を箔付けに嫁にもらって二、三世代もすれば立派な紳士だ。いまや私小説は立派な市民権を獲得した。

まして、西村賢太氏は自分自身で私小説のラベルを貼って差別化をはかり、付加価値をつけている。このことにケチをつけるつもりはありません。

見事に成功している。拍手したい。文芸春秋三月号の芥川選評ではほとんどの選者が、そのまま私小説として言及している。大成功というべきであろう。

もっとも、その言及の仕方には島田雅彦氏を筆頭としてみょうちきりんなのが多いのも事実。次回以降はその辺を肴に。つづく(迷惑な話だろうね)