穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ジイドの著作は禁書を食らった

2022-05-22 09:36:17 | 書評

 ジイドは1947年ノーベル文学賞を受賞し、1951年死去した。死去後ローマ教皇庁(バチカンの正式名称かな)はジイドの全著作を禁書にした。焚書じゃなくてよかったね。
 今時禁書なんてあるのも、いかにもカトリックらしい。この禁書というのは15,6世紀にはじまったらしい。そして何度か規則の変遷があって一度廃止されたというが、復活、存在しているらしい。インターネットであたっても、漠然とした情報しかない。
 近世宗教改革が始まってプロテスタントが出現し、かつ印刷術が発達して「けしからん」書物が雨後のたけのこのように生えてきたのでコリャいかんということで禁書制度が出来たらしい。以上は私の想像です。
 内容はだからプロテスタントの書物、魔術などのオカルト本、そのほか良風秩序を乱すものとバチカンがみなしたものを片っ端から禁書にしたらしい。4000冊あるという。だから啓蒙思想家もダメ。カントやデカルトも禁書をくらっている。
 ジイドはカトリックだと思ったが、プロテスタントだったのかな。ウィキペディアを見たが粗忽にも触れていない。ま、少年愛なんてのはいずれにしても禁書になる。   最近でもカトリック僧侶の少年虐待(実態は一方的な少年愛である)がスキャンダルとしてマスコミをにぎわしているくらいだから、法王庁も放っておけない。
 それでね、暇なものだからインターネットをさらった。yahooの知恵袋を見たんだがない。そしたら「goo教えて」というのがあった。少し古い。2006年ころのだ。「どういう理由で禁書になったのか」という質問に何人かが答えているが、どうも満点の回答が寄せられていない。そこで、ちょいとおっせかい、、
 ジイドには「法王庁の抜け穴」という笑劇っぽい作品がある。フリーメイソンが法王を誘拐幽閉して、偽の法王が座っているというデマを犯罪組織が作り上げて、金持ちの有閑マダムから救出金と言う名目で金を詐取するという筋だが、ま、これも喜劇の対象とされてはバチカンも面白くないだろう。
 同性愛の問題として回答で「背徳者」をあげた回答があった。たしかにそうなんだが、本命の「贋金つかい」に全く触れていない。ジイドも最初はおずおずと、最後は大胆になるのだが、背徳者はおずおずとの段階だ。

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ランドセルを背負ったとっちゃん坊や

2022-05-21 08:18:57 | 書評

 小林秀雄は漱石でも鴎外でも一行でかたずけてしまう。数行ないし複数回の短評があるのは田山花袋や島崎藤村などである。それに比べてジイドに対してかなりのページ数をついやしている。とくに贋金つくり(つかい)には彼なりの解説に費やしている。
 その贋金つくりであるが、小生はまだ半分くらいしか読んでいないが得意の途中書評だ。べつにジイドに限らないがフランスの小説には頭でっかちで、こましゃくれた饒舌の「とっちゃん坊や」が出てくる。イギリスやアメリカの小説ではあまりでてこないようであるが。彼らが出てくると「またかよ」と引けてしまう。年齢を推測すると16-18歳ぐらいの高校生で*ランドセル*を背負っている。それが屁理屈をのべつ幕なしに掃き散らす。贋金つくりではオリヴィエとかベルナールとか。
 小林は私小説の概念が、そもそもどういうものであるかについては一行も書いていないから推測するしかないのだが、私小説論でジイドのただ一冊の小説に膨大な文字を費やしているから日本の私小説と対で考えていることは間違いない。ま、その違いを述べるということだろう。
 基本的には記述者つまり作者の心境を綴るということに落ち着くようだ。日本の私小説では述者は作家だけらしい。ジイドの場合は述者が複数いる。ジイドの言葉を使えば、「なぜタテだけなのか、ヨコもあるじゃないの」ということだろう。小林の言葉でいえば「社会性」ということかもしれない。
 昔からこういう小説はあった。「トリストラム・シャンデイ」だってそうだし、いわゆる「意識の流れ」派だってそうだろう。もっともこれらは単視点かもしれない。

 ジイドの場合はそういうことだけ、あるいはそう言うことを中心としたということか。彼自身は「純粋小説」と言うことばも使ったらしい。この場合作者自身のモノローグと作り上げた第三者登場人物のモノローグが混在する。そうして作者のモノローグ部分はジイドの公表されている性生活をなぞっているようだ。この点では日本の私小説と変わらない。それはなんだっていうのか。ま、同性愛だが、ジイドの側からいえば少年愛だな。
 *ランドセルは何語か。オランダかベルギーの言葉あったような記憶があるが確かではない。ちなみに英和辞典ではSCHOOL DAYPACKとあった。リュックサックだな。日本の高校生もリュックサックを持っているのが多いが、個性的だ。ランドセルと言うと小学生が背負っている特定の型をいうようだ。これを日本の中学生や高校生は背負っていない。
 なにを言いたいかと言うと、原文ではランドセルなのだろうが、フランスでは高校生でも日本の小学生のようなランドセルを背負っているような印象を与える。実態がそうなら訳語に文句を言うこともないのだが、どうなんだろうか。

 

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私小説とは

2022-05-18 09:12:06 | 書評

 小林秀雄の私小説論に関連してだが、まず何と読むか。シショウセツかワタクシショウセツか。私小説を付加価値向上の営業用の手段とする作家、人物は大体ワタクシショウセツと気取るようだ。このように、読みかた一つをとっても混乱している。その定義と言うか範囲と言うかの議論になると大分前に当ブログでも触れたが収拾がつかないほどバラバラである。
 まず私小説は我が国固有のジャンルだという一派がある。そうかと思うと外国特にフランスなどにもあるという主張がある。小林はこの派のようである。十九世紀自然主義小説の生き詰まりからヨーロッパでも日本でも私小説、心境小説が出てきたと小林は言う。この是非はしばらくおく。
 また、だれが私小説作家だったか。過去形で書いたが、日本ではいまでも私小説を売りにする作家が少数残存する。もっとも先日西村賢太氏が死去していなくなったかな。
 誰が私小説作家かという分類は人(評論家)によってばらばらである。ある人によれば日本の小説家のほとんどは私小説作家のリストに載る。所詮この混乱は「私小説とはなにか」という定義なしに議論が進められるから起きてくる。小林の論でも定義や説明は一切ない。また、小林の文章では誰が私小説作家などかが明確でない。なにしろこの論が書かれた昭和十年以前の作家はほとんど私小説作家になるようだ。
 この評論には多数の、ほとんどの日本の作家が出てくるがいずれも一行、二行で記述を済ましているからどういう評価をしているかが曖昧である。彼によると菊池寛や久米正雄も私小説作家として出発したが、限界を感じて「通俗小説作家」に転身したとある。だから偉いということらしい。
 小林の菊池についての記述には尊崇の念がにじみ出ている。意外である。文芸春秋派の総帥として持ち上げているのだろう。嫌味を感じる。小林はあれで文壇ギルドの遊泳術がうまかったのだろう。菊池寛に関する記述は他の作家に比べて詳細である。それだけおべっかを使っているのだろう。ほかの大作家などは一、二行で済ましているのに比べれば。
 フランスの作家例えばジッドも同じ系列に入れているのは説得力がない。以下次号。

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小林秀雄の「私小説論」

2022-05-14 08:38:56 | 書評

 今時あまり読む人もいないであろう本を読んだ。読んだ、と言う語は適切ではない。理解できないのだから眺めたというべきだろう。言い訳をさしてもらえば、「難しくて分からない」のではなくて「バカバカしくて読んでいられない」と言うことなのだが、こんなことを言うと今でも多いらしい小林秀雄教の信者を怒らせると思ったからである。
 なぜ新潮文庫のこの本に手を伸ばしたかといえば、いまジイド(今ではジッドというらしい)の「贋金作り」を読んでいるのだが、これが昭和初期に我が国に紹介されて文壇に「かなりの衝撃」を与えたというので、日本への導入状況と言うか受容状況を知りたいと思い、調べたところ、その一つに小林の私小説論があった。
 それで読んでみた(眺めてみた)がほんの一、二行しか書いていない。それも要領を得ない文章である。590円(税抜き)が惜しくてもう一度眺めなおしている。

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シナ哲学という言葉はないようだ

2022-05-12 09:44:24 | 哲学書評

 ちょっと調べたんだが、インド哲学という分野はあるがシナ哲学という言葉はないようだ。私が自分の無学が暴露されると一番心配したのは、西周が哲学と言うことばをひねり出したのは、シナ古典に典拠があるのではないか、ということだったが、ちょいと当たったところ、それはないようで、一安心。
 さて漢和辞典によると哲には異体字がほかに三つある。つまり全部で四つ。そのうちの全部に共通しているのは「口」という部分がある、一つ口があるのは二つ、二つあるのは一字で三つあるのも一字である。だから「口」が関係ある。つまりしゃべくり、あるいは弁論ということだ。
 つぎに「吉」というパートが二つあるのは一つ、三つあるのが一つである。つまり「いいこと」ということだ。ほかに竹というパートが一回あるのが二字ある。これはなにかな?竹のようにまっすぐな理論と言うことかもしれない。

 また斤と言う部分が一つあるのは一字、二つあるのは二字である。斤とは斧という意味である。断ち切る、すなわち分別する、判断するという意味だろう。
 哲は「あきらか」とも読む。また、名付けでは「あきら」、「さとる」、「さとし」などとも読む。哲学と言う造語にはこの意味も含まれているかもしれない。

 

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哲学とはなにか

2022-05-11 20:08:43 | 哲学書評

 といってもこのブログで取り上げるからには、ちょっと別の切り口で行きたい。
暇になると、妙なことを考えるもので哲学のことを律義に西洋哲学と断る場合がある。例えば、大学などでは、全部かどうかしらないが、西洋哲学科(ああるいは部)と東洋哲学科が並立と言うか独立して設置されている大学がある。さらに東洋哲学科ではなくてさらに印度哲学科なんて断っているところもある。じゃあシナ哲学科があるのか。これは聞いたことが無いが、ある大学もあるかもしれない。
 書店でも、というか出版界でも単に「哲学史」というタイトルも中身はギリシャから始まるいわゆる西洋哲学である。哲学と言うことばは幕末か明治に作られた言葉で、確か西周がフィロソフィーの訳語としてあてた、あるいは創作した言葉であると聞いたが。
 だから東洋には哲学は無いのかもしれない。あれば西周がわざわざ新語を鋳造する必要も無かった。じゃあ、某大学の東洋哲学とは何を指すのか。東洋と言っても広うござんす。印度哲学なら比較的ロケイトしやすい。仏教以前のウパニシャッド哲学から始まり、バラモン教や仏教思想を整備する過程で行った教理体系がほぼこれに該当するのではないか。
 ただ、これは素人にはアクセスが難しい。一般に入手できる出版物はない。お寺さんの、それも教理問答などに特化した人たちの専有物と言っていい。仏教系大学と言うのが日本にも複数あるが、そういう所の知識の貯蔵庫にあるのだろう。
 仏教系の一般向けの書籍と言うのは多数、無数に書店にあるが、いきなり人生相談的なレベルに落ちてきているので参考にならない。
 シナ、いや中国はどうか。無理やりに言えば、道教とか易とか五行説なんてのがそれかもしれない。これも占い本とか風水レベルの大衆書はあふれているが、哲学的な根拠はないらしい。
 儒教も哲学と言えるかどうか、倫理学は西洋では哲学の一分野ではあるが。てなわけで、一般人がアクセスできるのは書店の精神世界コーナー、占いコーナー、精神修養コーナーにある、あまりぞっとしないものばかりである。
 なんだか分からなくなってきたね。

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めんどりとしての作家 

2022-05-08 08:35:42 | 書評

 久しぶりにオースターを読んだ。「ブルックリンフォーリーズ」。この本は現在は文庫になっているが、文庫化の前に単行本で買ったがどうも読む気がしなくて放置してあった。奥付を見ると2012年の第二刷である。十年以上放置してあった。帯を見て興味が失せたせいもある。
 最近徒然に耐え兼ねて、ふと手に取ってぼちぼち読み始めて昨日読了した。オースターの後期の作品ではいいほうかもしれない。彼の本は翻訳市販されていて新刊書店で容易に手に入る本は大体読んだが、良いのはいわゆる紐育三部作と「鍵のかかる部屋」までだね。
 彼の翻訳は他にも大分あるようだが、絶版なのか新刊書店で手に入らないものも結構あるようだ。だから正確な評価は出来ないが、作家として売り出した後は書店との二人三脚で作っているのか、パンチが無くなっている。長くはなっているけどね。
 日本でも事情は同じだと思うが、一応名前が通るようになると、作家は量産体制に入る。大体長くなるが、処女作時代の熱はなくなる。作家も生業となると、つまり小説を書く以外に収入の道がなくなると、一定の規模で量産体制に入るということだろう。一方出版社のほうも、一応名前だけである程度売れるようになると、作家と二人三脚でせっせと作家にタマゴを産ませ続けるようになる。出版社と作家の産学体制だ。出版社は養鶏農家になるわけだ。
 この製造ラインに乗ると作品の質は落ちる。落ちた分はページ数と通俗化で乗り切るわけだ。勿論作家によってそうでない場合もある。たとえば、オースターもかなり関心を持っているカフカの場合は作品に経年劣化は認められない。これは彼が生前職業作家として世に出ていないことが主要な要素と思われる。官吏としての安定した収入もあったし、生家はまずまずの商家であったらしい。少なくともカフカは住宅費の心配はしなくてもよかったわけだ。したがって通俗化したり作品の質を落として商業化路線をとる必要も無かった。

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召喚

2022-05-01 09:00:29 | 小説みたいなもの

 召喚に応じて道幅四メートルの場末の裏道に面した窓から、町工場の騒音とシナソバ屋の安油の匂いを伴って彼はフワフワとマントをひる返して入ってきた。彼が着地するのを待って
「すべてのことを疑うと言ったそうだが本当かい」と若きフリーターはいきなり浴びせかけた。「おかしいじゃないか」
彼は憤然とした様子で答えた。
「なんだと」
「だってすべての物を疑うなら、疑ってかかる自分も疑わしいだろう」
「疑ってかかる自分の存在だけはこの世界で唯一確かなことだ」
「矛盾しているじゃないか。すべてを疑うなら、疑っている自分をまず疑うべきだろう。あんたの言っていることは詐欺だぜ。近代の哲学者たちは一人残らずあんたに誑かされたんだ。罪は軽くないぜ」とかるく右のジャブを出した。
詐欺とは何だ!
「いやさ、言葉が過ぎたかもしれない。許してくれたまえ。矛盾と言えばいいのかな。自家撞着と言えばいいのかな。あるいは単なる修辞上の問題か。ウィトゲンシュタイン流に言えば無意味と言うことか」
侮辱に耐え兼ねて、火鉢のなかの種火みたいに顔を赤黒く変色させたデカルトは窓から飛び出した。窓枠に引っ掛けたマントが裂けてヒステリー女の怒声のような音を発した。
さてと、彼は呟いくと読みさしていた「世界制作の方法」という駄本を取り上げて読みだした。不思議だ、世界制作の方法を説く研究があって、世界消滅の方法論を論じる研究が無いのは何故だろうと彼は訝しんだ。まてよ、ハルマゲドンがあったな。もっとも、ほとんど全部が既成宗教、新興宗教、カルトが勧誘のための脅迫に使っているだけだ、というと彼は首を振った。

 

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