穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドストエフスキーの「ステパンチコヴォ村とその住人達

2024-03-29 19:01:33 | ドストエフスキー書評

表題のドストの長編をだいぶ昔に英文で読んだが途中で投げ出した。最初の二十ページほど叙述がごたごたしていて頭にはいらなかった。今回光文社文庫で読みだしたが、やはり最初の二、三十ページの叙述が錯綜していてやはり頭に入らなかった。四、五回読み返したかな。ようやく検討がついて読み進んだ。あとは平坦な叙述になっている。ドストにしては、書き出しが整理していない。

以降はすらすらと抵抗なく読める。長編としては「死の家の記録」より二年ほど早い。「死の家の」がシベリア抑留後最初の長編と思っていたが、それより二年ほど早い。復帰第一作(長編では)らしい。この作品は最初いくつかの出版社から断られたらしいが最初の数十ページを読んだだけなら出版を断られるだろう。

 


地下室の手記の裏バージョン

2024-03-09 20:33:28 | ドストエフスキー書評

「未成年」新潮文庫上p135まで読んだ。100ページから120ページあたりまでの記述は「地下室の手記」の裏バージョンといえる。一読の価値あり。つまり地下室の手記の独白者の裏バージョンとして読める。

ロスチャイルドになるための腕試しとしてある競売に出かけた後で青年たちの集まりで、思わず主人公が発言する。『自分の理想は言わない主義なのだが、、つまり自分は隅の老人じゃない青年として生きるのを信条としている』ってこれは「地下室の手記の裏バージョンになる。併せて読む価値がある。

これを書きたくて、書き残していたのが「未成年」の執筆動機とも受け取れる。併せて読むと重層的に筆者の主人公の一キャラクターが理解できると思う。

おそらくこのポイントが執筆動機の一つと思われる。

ドストの、筆者のキャラクターが出ているのは「二重人格」、「地下室の手記」とそれから「未成年」らしいね。

 


ドストエフスキーの未成年

2024-03-08 15:31:09 | ドストエフスキー書評

読む本が無くなるというのを寂しいもので、何かないかと段ボールの中を探していた。最近では何か読む本を求めて書店に行くことはない。捨てずにいる本を本棚や段ボールの中を探す。

そこで見つけたのが新潮文庫ドストエフスキー「未成年」である。この本は最初読んだときによく分からなかった。それで、再読の対象にした。当時は新潮文庫だけけだったが、のちに光文社古典文庫で大々的に?発売された。初読で読みにくかったので、別の出版社から売り出されたので、そんなに需要があるのかと、オヤと思った。本日段ボールのなかで見つけて読む気になったのである。まず巻末の解説であるが、佐藤優氏のであるが、読んでもよくわからない。若干の危惧はあるが、まあ時間がかかればそれだけ読みごたえがあると理屈をつけて机の上に開いた。

 

 

 

 


前回アップで思い出したこと

2016-08-31 08:02:55 | ドストエフスキー書評

別のとらえ方をすると「罪と罰」は更正物語である。ソーニャが重要となる。更正物語で思い出したが、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」である。脱獄囚が前身をかくして地方都市の市長となり、発覚して追われ途中で不幸な少女の保護者となりながら逃亡生活を続ける。

そもそもの彼の罪は空腹に堪え兼ねてパンを一切れ盗んだことである。それが脱獄を繰り返して徒刑場送りの重罪人となった。ラスコリニコフとは全然違う。逃亡追跡ものとして屈指の出来映えである。 

もう一つ更正物語ということで思い出した。大分前にこのブログでも取り上げた水上勉の「飢餓海峡」である。終戦直後の混乱期に殺人を犯して逃亡し終えて、たしか会社社長かなにかとして地方の名士に成りおおせている主人公だったと記憶する。大分前の話でほとんど記憶がない。ドストほど印象的でなかったということだが、書評ではドストを下敷きにした小説らしいと言うことで取り上げた。「レ・ミゼラブル」と同様、昔のことが発覚して追われ、終わりがどうなったかは記憶にない。 

たしかこの本の文庫の巻末解説だったと思うが、ソーニャを念頭においた娼婦が登場してくる。罪と罰では最初の老婆殺しの場面の迫力がなければ小説は平板になっていただろう。飢餓海峡ではこの発端の殺人事件の記述はあった記憶はあるのだが、内容は全く覚えていない。筆力が及ばなかったのであろう。

 


ドストエフスキー「罪と罰」

2016-08-30 03:26:49 | ドストエフスキー書評

 ドストエフスキーについては、この書評ブログで取り上げた回数は一、二を争うと思う。何年かぶりで何かのおりに読み返す作家というものはあるもので、十年ぶりだったり、5年ぶりだったりするが、最近新潮文庫の『罪と罰』を半分ほど読んだ。

前にも書いた記憶があるが「罪と罰」はドストエフスキーのアクメ(活動最盛期)の作品だな、と改めて感じた。作品の質も後期の五大長編小説では最高である。

世間では「カラマーゾフの兄弟」や「悪霊」を最もあがめたてまつるようだが、抹香臭く、思想小説っぽく、潤いがない。そこを世間は評価するのだろうが。

ドストエフスキーの特徴は、その技の冴えは、人間の内部の矛盾した葛藤を描くところにある。数学でいえば二項対立だ。ポール・リクールのいうinner disproportionである。そして小説の長所を生かした構成はそれが同一人物内で起こるということである。芝居ではうまく表現出来ない。やろうとすればモノローグの連発になるだろうが、観客にインパクトを与えることは不可能に近い。小説だから出来るのである。もちろん天才が必要だが。

また、同一人物のなかで起こるから深刻で興味津々となる。他人同士の葛藤を描くと活劇に堕しやすい。もっともドストエフスキーの場合はそうでもないが。例えば「カラマーゾフの兄弟」や「悪霊」がそれで、登場人物にそれぞれ特徴が割り振られている。そういう小説が好きだという人がいるだろう。比較の問題だが私の評価は低くなる。

一方「白痴」は「徹底的に善人(いい人)」としてムイシキンを描写する。周りの人でも彼に徹底的に対立する登場人物はいない。ロゴージンが対照的な人物として出てくるがムイシキンと対立するわけではない。また「未成年」はメリハリのすくない小説である。

inner disproportionを描いた作品の系列は、実質的な処女作である「ダブル(岩波文庫の二重人格)」に始まる。この場合、「世間としっくりいって他人を蹴落として出世するタイプ」が新ゴリャートキンである。「どうしても世間と折り合いがつかないタイプ」が原ゴリャートキンである。これを全く他人の二人として小説で書いても大した小説にならないことは明瞭である。

つぎは「地下室の手記」だろうか。「離人癖」と「やたらと他人と交わりたくなる時機」とが間欠的に同一人物のなかにあらわれる。すなわち『俺』のなかに。

「罪と罰」はあまりにも有名だから筋を解説するまでもない。ただ前二作より複雑で「犯罪を正当化、理論化、実行するキャラ」と「他人の苦難を見ると助けに猛進するキャラ」が交互に現れる。前二作の「世間とうまく行かない離人癖」と「他人とうまくやりたい性格」の対立が、「世間とうまくいかない」パートと「積極的に助けに飛び込む博愛精神」パートの対立になってはいるが。

問題はテーマではない。思想ではない。ドストエフスキーの思想はどの作品においても平凡である。彼の「作家の日記」を読むと思想家としてのドストエフスキーのレベルが分かる。天才と言われるのはそのinner disproportionを描く技の高さである。

 


ドストエフスキーのメニッペア

2013-06-13 08:26:15 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーのいいところ

ドストが好きなところは正直自分でもその理由が分からなかった。そこで、文章の艶とかムンムン度と思っていた訳。

1929年に発行されたバフチンの「ドストエフスキーの創作の問題」によると、ドスト批評は二つの流れがある。

*1 主人公達と一緒に夢中になって哲学に耽る、

*2 主人公達を客体化して非参与的に心理学的ないし精神病理学的に分析するもの

2013年のいま、百年前と事情は変わらないようだ。とくに、今でも(*1)が圧倒的に多いような感じだ。そうして私はそのどちらにも意義を認めない。

前回書いたようにバフチンのジャンル論でメニッペアをドストの特徴と分析しているのを読んで、ははあ、これもドストを好む理由の一つだったな、と気が付いた次第。





ポリフォニーとは

2013-05-28 09:39:45 | ドストエフスキー書評
今バフチンの「ドステエフスキーの創作の問題」平凡社をすこし読んでいる。例によって書店で手当り次第に買って、長いこと放っておいたものを書棚の整理のおりに開いてみたものだが。

これはジャーゴンの堆積だな。違うかな。有り難がる専門家がいると、オイラは形無しになるのだが。

全部読んだ訳ではない。とても読み続けられそうもない。最初の方にこれまでのドスト論について概観したところがある。といってもこの本が出版されたのが、1929年だからそれ以前というから随分古いものばかりだ。

23ページに書いてあることは分かる気がする。ドスト論を分類している。

# 主人公と一緒に夢中になって哲学に耽る類いのもの

# 主人公を客体化して非参与的に心理学的ないし精神病理学的に分析するもの

というんだが、私の印象もそんなところである。今でもこの二つのタイプが多い。この種の評論にわたしもあまり感心しない。バフチンの意見はまだよく分からないが、ドストの哲学的見識など、ま、今の言葉で言えば新書の知識レベルだし、心理学的云々はまったくナンセンスだとおもう。

当時はまだ精神分析学(商標特許、フロイト流)がこれからのしていこうという時代だろうが、いまでもさかんだ。カラマーゾフのテーマが父殺しなどという、的外れな議論が多い。

そこで、新案特許(ポリフォニー)が出てくる。これがよくわからない。まともに定義されたり、提起された箇所はまだみつからない(30ページあたりまで)。

読んでいるとドストの独創だというのだが、本当だろうか。こんな技法は古くから存在していたように思われる。
なかでも異様に感じたのはトルストイの作品は欧米型のモノローグだと言うのだが、バフチンがいっているポリフォニーという概念からすると、トルストイもポリフォニー作家だし、第一そうでなければ小説なんか成り立たないのではないか。

ごく一部の私小説みたいなものをのぞいて、新案特許(ポリフォニー)なしに小説なんて成り立つのか。




ドストエフスキーのアクメ(承前)

2012-05-09 08:38:49 | ドストエフスキー書評

メロドラマというと語弊があるが、とりあえずそれで流すとして、ドストエフスキーのメロドラマ作家としてもっとも腕の冴えをみせたのが「虐げられた人たち」である。ドストという名弦は最高に鳴り響いている。

これはロシア版「婦系図」だとむかし書いた。ロシアにもこんな小説があるんだ、と驚いた。江戸っ子のように意地っ張りで零落したお爺さんと、その娘で駆け落ちした娘と、孫娘がブラックホールに飲み込まれていく様に破滅に落ち込んでいくさまを詳細に描いた悲惨な貧窮物語である。

「地下室の手記」はドストエフスキーの運筆に重大な転機をもたらした中編である。運筆はスタイルとも言うが。

「罪と罰」がその後の長編と違うところは、密度の濃さである。壮年の充実した気力体力がそれを可能にしたのだろう。全体としての凝縮度、有機的一体感である。勿論長編であるから幾度かダレるところはあるが、場面場面の迫力は後期の作品にはるかにまさる。

登場人物のキャラクターの肉厚の感じも優れている。退職官吏マルメラードフに始まり、予審判事ポルフィリーや高等遊民スヴィドリガイロフなど、主役脇役という位置づけでは捉えられないほど描きこまれている。それでいて作品の一体感は損なわれていない。女性の描き方も後期作品のようにステレオタイプ化している印象がしない。

後期の作品の特色は思想性が優っているところだが、これは別の言い方をすれば抹香くさいということで、加齢現象の一つである。それと年齢とともに筆の潤い、艶が減少していく。ま、これがいいと言う人もいるわけである。


ドストエフスキー(自身)の心理

2012-05-08 09:04:54 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーのアクメ(活動盛勢期)はつらつら考えるに、四十代前半であろうか。つまり、39歳の「死の家の記録」から「虐げられた人たち(辱められた人たち、のほうが適切)」、「地下室の手記」から45歳の「罪と罰」までの期間である。

思想劇めいた「白痴」、「未成年」、「悪霊」それに「カラマーゾフの兄弟」は小説としては下だろう。年齢相応に枯れてきている。加齢による「枯れ」は芭蕉ならいざ知らず、ドストエフスキーの場合は感心しない。思想が深化しているわけでもない。

ドストの場合、思想とかテーマと言うのは長編小説という大テントを支える支柱にすぎない。大事な支柱であるという言い方もあるが。

その思想はわりと陳腐である。彼の思想家的な面を強調するのが古今東西の「評論家」諸君の大勢ではあるが、それは間違いであろう。「作家の日記」の文明評論、時事評論からみても、ドストエフスキーの言っていることは平凡である。

罪と罰にも勿論長編小説と言うテントを支える支柱はある。主人公ラスコリニコフのナポレオン狂的なところや超人思想(ニーチェばりの??)である。しかし、これは物語を動かすきっかけみたいなもので鬼面人を驚かすが、小説家たるもの、この位の仕掛けは誰でも考える。

「超人思想」は悪霊のキリーロフや主役のスタブロ銀次にも受け継がれているが、彼の手持ち人形のキャラと考えるほうがいい。

加齢による枯れを自覚しながらこれらの長編を書き続けたドストエフスキー自身の心理を考えるのである。

つづく


出ましたよ、悪霊3

2011-12-09 09:00:52 | ドストエフスキー書評

出ましたね。昨日書店で見て買いました。まだ読んでいませんが。光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳。

三では何と言ってもステパンじいさんの家出でしょう。悪霊のキャラクターで唯一肉化されているステパン一代記が読みどころです。それが三に出ているんですね。新潮文庫の誰の訳だったか、これもよかったが。もっともオイラはロシア語が分からないから翻訳として云々という議論は出来んのだが。

「旅に病んで夢は荒野をかけめぐる」わけですな。オイラはミーハーですからここのところが泣けた。

スタブロ銀次なんて、ドストによくある形而上学的操作子でペケです。この辺がオイラの見解に賛成者が一人もいない理由でしょうな。あの「告白」なんてどこがいいんでしょうな。

大体私はいわゆる三大長編カラマン棒の兄弟、白痴、悪霊をそれほど評価しない。ドストの作品中の相対比較ですよ。罪と罰はまあよし。未成年もどうもね。あの絡みつくようなむんむんしたものが枯れていっている。年齢だと思いますが。

大体ドストには最初の二作の連なる系譜がある。貧しい人々の系列では「虐げられた人々」が頂点でしょう。

第二作ダブルに連なる系譜は割と粒がそろっている。地下室の手記や罪と罰など。悪霊とカラマン棒の兄弟の一部キャラに、たとえば長兄ドミトリー?や悪霊の一部(一部キャラではない)に余韻が聞こえます。


一人二役ではなく二人一役、承前

2011-11-19 22:20:24 | ドストエフスキー書評

 

岩波文庫の奥付をみると1954年初版になっている。そうすると私が読んだのは岩波文庫ではなかったのかもしれない。

 

とにかく、この小説が多重人格を扱った統合失調症ものの心理小説であるとするのは間違いである。シェークスピアの喜劇によく出てくる一人二役ものではない。二人一役ものである。ホフマン?などのドッペルゲンガーものの系統であり、さらに言えばアメリカ現代のホラーものでは、シャーリー・ジャクスンの一部の短編、アイラ・レヴィンの「ステップフォードの妻たち」へと連なる。

 

統合失調症と言うのは一つの乗り物〈肉体〉の上に複数の人格が相乗りし、スイッチの切り替えで人格が(テレビのチャンネルを変えるように)切り替わると言うものである。この小説は自分に酷似した人間が別の場所、空間に同時に現れて、人々が彼を本当の自分と思うようになり、自分の社会的地位が無化するということに対する義憤と恐怖を描いたものである。そしてその恐怖から発狂してしまう。このことから余計統合失調症と言う精神の病気と安直に連想されてしまうのだろう。

 

この小説は1846年に発表されたものである。主人公はペテルブルグの政府機関の小吏である。ロシアではまだ農奴解放(我が国の明治維新にあたる)の前であるが、官僚制度がようやく出来つつあるころで、役所と言う没個性的な所では氏や素性は小吏の階級では無いようなものだから、どこの馬の骨か分からないずるがしこい人間が現れて上役におべっかを使いまくり、仲間と徒党を組んでうまく立ちまわれば、上品でプライドの高い孤高の先任者などたちまち蹴り落とされるという社会である。これは現代の組織社会そのものである。日本の官僚でも会社員でも同じ状況ではないか。したがって、こういう観点からすると、ドストエフスキーはこの時代にすでに現代社会のホラーを把握していたという見方も出来る。

 

<o:p>

 

</o:p>

 

<o:p>

 

</o:p>

 

<o:p>

 

</o:p>

 

<o:p>

 

</o:p>

 

<o:p>

 

</o:p>

 

<o:p>

 

</o:p>

 


ドストエフスキーのダブル

2011-11-19 17:03:13 | ドストエフスキー書評

 

久しくご無沙汰ですが再読物の感想です。今は岩波文庫の小沼文彦訳の「二重人格」だけのようですが、昔もこの人の訳で読んだかどうか。米川正夫だったような気もする。初読ではややこしい小説で読みにくいな、というくらいの印象しか残っていません。

 

改めて読んだきっかけは英訳のダブルを読んで大分印象が違うし、面白い小説だと思ったので、改めて日本語訳をパラパラと見た。この訳は結構平易です。平易と言うのは翻訳の十分条件でもなし、必要条件でもありません。いや、必要条件かな。出版社あたりからマーケティングの関係でとにかく、筋が通るように訳す様に現在では圧力がかかるのかもしれない。原文では意図的に筋が通らないように書いているのに、なんだがパック化粧みたいにつるつるにして出す恐れ無きにしもあらず。

 

それで翻訳が駄目になってしまうことがある。筋が通らない、ジャンプする、跳ねるということで意味が違ってくる。そこを部屋のリフォームではないがコーティングしてしまってシームレスにしては御仕舞になる。もっとも極端な例が詩でしょうが、小説でもある。

 

ちょっと、タイトルについて、二重人格と言うのは不適切でしょう。日本の翻訳小説の歴史で分身と訳されたこともあるようだが、このほうがベターです。しかし、今回読んだ英訳のダブルのほうがさらに適切でしょう。生き写しというニュアンスで。

 

「二重人格」というのは近年の解釈でこの主人公が流行の「統合失調症」だとしたり顔に批評する人が増えた影響かもしれません。つづく

 

<o:p>

 

</o:p>

 

<o:p>

 

</o:p>

 


十二:ドストエフスキーにおける「少無適俗韻」の系譜

2011-07-12 07:59:26 | ドストエフスキー書評

陶淵明流に言えば「若きより俗に適うの調べなく」(少無適俗韻)という性格の人物がドストエフスキーの多くの小説の主人公である。その形態は頭の使いすぎ、本の読み過ぎだったり(女あるじ、罪と罰)、引きこもり(女あるじ、地下室の手記、罪と罰、二重人格)である。『白痴』の場合は精神疾患ということになっている。

そういう人物が「世間」という百燭電灯のもとでストレスにさらされ、多くの場合に恋愛というイベントで精神に変調をきたすというパターンがほとんどといっていい。その場合女は幻と言うか幻想というか、現実というか曖昧模糊としている。しかし、白痴の場合は他の作品に比べて非常に現実感を伴っている。

ようやく最後まで読了した。最後は見事にまとめているが、これは相当注意して読まないと「何が何やら分からない」小説である。ラストのまとめを別にすれば、この欠点は次の要因によるものであろう。

タイトルの白痴は非常に間違った先入観を与える。物語はムイシュキンが精神疾患と精神疾患再発の間の正常な状態の時のことである。ただ、「俗に適う調べ」が極端にないことが特徴である。白痴ではない。これが非常に読んでいてちぐはぐな感じを与える。

タイトルは変更すべきだったろうが、連載小説と言う性格からあとで変更できなかったのだろう。この連載小説であったこと、そしてドストの場合でも極めて精神的に不安定な時期にしかも色々と不如意な外国で執筆を継続したということが様々な読みにくさの原因であろう。

ナスターシャが主役であり、アグラーヤが準主役であり、ムイシュキンとロゴージンは形而上学的操作子であるという布石で再構成すれば非常に迫力のある、息もつかせぬ作品になったように思われる。


十一:ドストエフスキーにおけるテーマ

2011-07-09 09:39:34 | ドストエフスキー書評

ドストを思想家として評価するのは割と一般的らしい。平凡社だったかな、思想家叢書みたいなシリーズでドストが入っている。もっともこの双書、妙な人物がほかにも思想家、哲学者として入っているから何でも入れちゃうんだろうが。

思想家、哲学者としてのドストは評価できない。それは、長編を書くときにはテーマが必要だから思想らしきものがある。粘土などで大彫刻を制作するときに最初に骨組みと張りぼてを作る。素材は廃材でも、ぼろきれでも、古新聞でもいいわけである。ドストの思想と言うのはそんなものだろう。

私はドストは何回も読むが、思想を読むわけではない。シェークスピアを読むときに、あるいは観るときに思想なんて貪るように吸収するかね。「生くべきか、死すべきか」なんて思想でも何でもない。それだけ。だけどシャークスピアは偉大だ。

ニーチェがドストを読んでいたそうだ。原典が不明だが、どうも鋭敏、詳細、異常な心理描写に引かれるものがあったようで、思想的にどうのこうのというのではなさそうだ。

もっとも私の定義ではニーチェも哲学者ではない。思弁的心理学者とでもいうべきだろう。じゃジムクンド・フロイトは何だって、そうねえ、通俗的思弁心理学者とでも言うのかな。

前回、イポリートの長々とした告白のことに触れたので、前から一言補足しておきたかった「思想家としてのドスト」について述べた。極言すればドストはテーマ作家として偉大なのではない。これは膨大な「作家の日記」を通読すれば分かることだ。思想家の側面があることは間違いないが、偉大ではない。