穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

物自体に先輩あり

2017-02-15 21:46:11 | カント

 カントがイギリスの哲学者ヒュームに独断のまどろみを破られたと述懐しているのは有名である。そのヒュームさらには其の前のロックにも物自体(Ding

 an Sich)という待避所がある。ただし英語であるからthings 

themselvesという。

ただし、この遊水池の機能は大分違う。

カントでは物自体は不可知である。すなわち、それはごみためであって再利用不可能である。いったん放り込めば再利用不可である。ディスポーザーに投げ込んでまわしてしまうようなものである。

イギリスの先輩二人はとりあえず分からないから一時ファイルに退避させておこうというものである。すなわち仮説を立ててなんとか分かろうとする。分別ゴミのなかから再利用可能なものがないかと一時脇にためておくのである。 

考えてみると、近代、現代科学は物自体に仮説を当てはめては検証して行った連続である。最後には「暗黒物質」なんてひねりだしてね。こうなるともうカント的不可知実体に大分近づいたね。もっとも数学にも虚数なんて切れ味のいい物自体に似た考えもある。

 


カントの三つの「*自体」、カントの土木工学的手法について

2017-02-11 09:33:48 | カント

遊水池を作るのがカントの常套手段である。洪水に備えて「逃し水」のための貯水池、水路を造りますよね、都市土木工学では。

純粋理性批判では遊水池は「物自体」である。実践理性批判では「存在者自体」(叡智者自体とも人間自体とも)である。判断力批判では「超感性的基体」である。最終的な辻褄をそこであわせる。

実践理性批判では「存在者自体」であるが、これは実存哲学などの「実存」に酷似する。

実践理性批判の内容は純粋理性批判の構想よりも前に、あるいはほぼ同じ時期に懐胎したらしい。しかし発表の順序は皆様ご案内のとおり純粋理性批判、実践理性批判であり、純粋理性批判をまとめるのに10年くらいかかったらしい。実践理性批判はなかなかすっきりとはまとまらず純粋理性批判に遅れること更に数年であった。そして出来上がった内容もそれほどクリアアットではない。

純粋理性批判と実践理性批判はパラレル・ワールドである。内容ではない。その形式であり、手法でありアルゴリズムがパラレルである。実際、実践理性批判にはおびただしい箇所で純粋理性批判への言及がある。


カントの道徳哲学 題名は体を表すか、Sittenは近似的にMoralsか?

2017-02-10 08:28:45 | カント

ドイツ語原題は GURNDLEGUNG ZUR METAPHYSIK 

DER SITTENというが、ある英訳ではこの最後のSITTENを

Moralsと訳している。ドイツ語にも英語と同じ意味でMoralという言葉がある。また同じ意味でEthikという言葉もあるのにSitten(Sitteの複数形)を選んだのには理由があるのか、という素朴な疑問を抱いたのである。 

ドイツ語辞書でsitteを見ると第一の語釈は慣習(英語ではcustoms)である。ひいては風習、慣行、慣例、個人の習慣的行為などを意味する。第二語釈に道徳、風紀とある。わたしはsittenを選んだのは意図的で名は体を表すというか、カントの思考からするとモラルよりぴったりと来るように思われる。

カントは該書で何回も民間の常識と哲学者がひねり出した道徳哲学の結論は同じになると繰り返している。そして該書のトーンは哲学では(つまり自分の論考では)世間で通用する常識に優る結果を打ち出したという自信を示すのを躊躇している。

カントの言葉を逆手にとれば道徳の実質というか内容をカテゴリカリーに提示するのは難しい。この書の最後の部分はカントの自信の無さが感じられる。このところを読んで(唐突な比較であるが)ウィトゲンシュタインが論理哲学論考の最後で述べている心境に似ていると思った。たしか、私は何も成し遂げてはいない、分析的手法はなにも新しい知識を生み出さない。命題の意味を整理し明確かするだけだ。読者諸君は「私のかけたはしごを上ったら、はしごを蹴倒して」壁を乗り越えて欲しいというような文章ではなかったかと記憶する(怪しげな記憶だが)。

カントの有名なことば、(個人の格律が普遍的な規則に一致する様に行動せよ)は実質的には何も示さない。カント自身が何回となく注意している様にそれば「形式」なのである。

といって、出来ないというのでもない。この書ならびに「実践理性批判」のあとに続く「人倫の形而上学」の法論とか徳論では内容を示す試みがなされているのだろう。もっとも下拙はこの著書は未読である。なお、この書は現代では広く読まれてはいないようだ。例えば日本ではカント全集でなければ読むことが出来ないようである。

 


カントの「存在者自体」、2

2017-02-09 08:04:59 | カント

前回のマエセツ(前説)の続きである。言い忘れたことが二、三あった。このブログで以前フランスの哲学者ポール・リクールのことを書いた。文庫クセジュでジャン・グロンダン氏の解説を紹介したことが有る。この本の半分くらいはリクールの若書きである「意志的なものと非意志的なもの」の解説に費やしている。 

そこでほとんど絶版同様になっているらしい該書の翻訳を探し出して手に入れた。その感想もこのブログに書いたが、若書きのせいか、翻訳の日本語のせいか興味索然として途中で止めてしまった。その時に気が付いたのだが、彼の思考はカントのそれをふまえているのではないか、と感じたのである。自由、悪、非意志的なもの、などほとんどカントのターミノロジーのように思えた。

グロンダンの解説でも彼の思考の基礎の一つはフランスの反省哲学であるとしている。反省哲学とはこの場合カントの流れを継ぐものである。とくにリクールの若書きの場合はカントの道徳哲学のそれを。そんなわけで途中で読み捨ててしまった該書の記憶が頭の片隅に残っていたらしい。

また、ヤスパースがどこかで、本当に読むべき本は少ない、プラトン、アウグスティヌスとカントを集中して読めと言っていた。たしか「哲学入門」だと思う。

プラトンは何冊か読んだことがあるが、あの会話体というのがかったるい。どうしても思考を移入して行けない。テンポが古代的で思考にずれが出来てしまう。

アウグスティヌスについては「告白」を読んだくらいだから確とした印象はまだないわけである。そんなことが記憶に引っかかっていたからか、書店でカント本に目が届くようになっていたのであろう。

 


カントの「存在者自体」

2017-02-08 20:04:08 | カント

カントを読んでいる。なぜか?読む物が無くなったからである。それだけでは充分な理由にならない。かつ徒然(トゼン)に耐えかねたのである。読書しなくても他に気晴らしがあるあいだは本を読まなくても空腹は感じないのだが、しばらく食わないとやはり活字を食いたくなるらしい。

「カントを読んだことはあるか」と聞かれると熟読したとは言いかねる。「論理実証主義」(これは死語かも知れないが)から入った私としては純粋理性批判がらみでは覗き見ぐらいはしている。つまり認識論がらみの本では大抵カントの純粋理性批判に言及、あるいは同書から引用、もしくは同書を参照している箇所が有る。そんな所を読んで、ああカントとはそういうものかと理解したという程度である。

随分昔だがプロレゴメナは読んだと思うが内容は霞のようになってしまって記憶がはっきりといない。純粋理性批判の拾い読みは、そういえば、したかな。

そうそう、比較的最近「判断力批判」をこのブログで取り上げた。忘れていたよ。これは全部読んだんだが、随分取り留めもない本だな、というのが正直な印象であった。

今読もうとしているのは倫理学というか、道徳、人倫の哲学である。とりあえず「道徳形而上学原論」を取り上げる。これは岩波文庫の訳題であるが、随分いろいろな訳があるようだ。中公クラシックでは「人倫の形而上学の基礎づけ」だし、これは訳本ではないが講談社学術文庫の「カント」では「人倫の形而上学の基礎」である。

ここまでがマクラというか前説である。続く


美の考察で芸術が占める割合は小さい

2016-03-31 19:55:13 | カント

今朝の記事すこし補足した方がよさそうだ。カントが美という時は自然の美をいうことのほうが多いようだ。これは自然の美についての判断を論じているんだよ、と言っていない(念をおしていない)ようだが、芸術について論じている所は30頁しかない。

もっとも、あいかわらず「判断力批判」の5パーセントくらいしか読んでいないから目次や見出しで判断した数字だが。 

崇高についても、此れは自然の景色あるいは現象だとはっきりと言っていないようだが、これは自然が人間に与える印象であることは間違いないようだ。 

それに対して第二部の目的論的判断は例にとられたのがすべて有機体、生命体であるところから自然のなかでも有機物(人間を含む)が考察の対象である。「カントの三分法」でも述べたが、およそまとまりのない、美、崇高、合目的論を反省的判断力で通約するのは乱暴ではある。

 


カントのドクサ

2016-03-31 08:37:23 | カント

幸田文「流れる」、一日5頁か10頁しか読めない。そこでまたカント。前にカントのアクメについて書くと書いたが、それは後回しにしよう。結論だけ言えば、1980年代初め純粋理性批判で終わっていると思うのだが、大事なので多少準備してから書かないといけないので。 

今朝は判断力批判、熊野訳。大きな活字というのはいいね。心安らぐ。

哲学教師の逐条講義ではないが今日は上巻130頁の前後。美が万人つまり人類共通の判定になるはずだ、というくだり。ドクサだね。

適意であって個人的関心から没交渉なのが美の判定である、だから万人共通のはずだ、というのがカントのきもなんだがそうかな。これはカントのドクサだね。

余談になるが「適意」はもうすこしぴりっとした訳語はないなか。日本語で表現すれば「よみしたまう」という感じだろう。また「関心」という訳語むしろ「利害」と訳すべきではないか。英訳ではinterestとするようだが。

美的判断は個人が行っても「むしろ万人に代わって判断している」。そうですか。美の判断には個性もバラエティもないそうだ。これは芸術家の創造性を否定することにつながる。芸術批評の画一化、大本営発表化すなわち自由の否定に直結している。

おもうに、このように無理をしているのは、純粋理性批判で味をしめた方法論をすべてに適用しようとしているのではないか。ヒュームによって独断のまどろみから醒めたカントは経験論に傾くが、デカルトに始まり若い時に影響をうけたライプニッツの大陸合理論とも折り合いをつけたかった。そこで人間の知識は経験を素材にするが、それを加工するのは人間独自の生来備わる性能、仕様による。すなわちカテゴリーに基づき経験を認識や法則に構成する悟性である。コギトエルゴスムの呪縛ですね。

そこで存在の本質を不可知として「物自体」という媒介項を設けた。そしてそれだけじゃ完結しない。人間の悟性能力は古今東西個人に関係なく共通である、としなければならない。これもドクサだが偏差値的にみれば共通項として実用に堪える。あるいはネゴシアブルである。ネゴシアブルというのはおかしいか。学的検討、討議の対象になりうるとでもいうのかな。

このうまい手を美学にも適用したかったのだろう。美的判断はカントによれば概念は一切関係しないわけだが、それでも古今東西個人に関係なく普遍的に適用される共通の美的判断がある。というより普遍的に該当しなければそれは趣味判断であって、正しい美的判断ではない、とこうなる。 

いずれにせよ、概念を媒介しない判定では(純粋理性批判でうまくいった)万人のあいだで折り合いを付けるのは難しいだろう。

 


哲学類似表現j辞典

2016-03-25 08:35:04 | カント

太陽が毎朝東から顔を出すのは:

ヒューム;明日の朝も日が昇るという理論的(学問的、科学的保証)論拠はない。注 帰納法からは絶対的な結論は出てこない。 

カント; 経験から導きだされた人間の反省的判断力による合規則性(判断力批判)

ヘーゲル; それは意識の確信である(精神現象学)

ギリシャ神話;ヘリオス(あるいはアポロン)神が毎朝馬車に乗って天空をドライブするからである。

日本神話; 天照大御神の輝きである。彼女の機嫌を損ねると太陽は昇らない。彼女の怒りを和ませるためには天岩戸のまえでストリップを演じる必要がある。

 


推理小説はまず結末の15頁を読め

2016-03-20 09:07:34 | カント

このブログは小説と哲学書の書評という看板を掲げている。小説ばかり扱っていたのでカントの判断力批判を取り上げたら、これがもう十回以上になるかな、続いた。まだ終わりそうもない。それでは小説ファンには申し訳ないので小説にも哲学書にも共通する話題はないかな、と今回は工夫しました。 

10歳やそこらの子供ではない。推理小説を始めから読んでどんな結末かな、なんてわくわくどきどきするのも馬鹿馬鹿しいはなしだ。結末を読んておいて、そこまで作者がどう持って行くかなとその腕を見るのが私の読み方である。

もっとも、作者が文を遣る流れに乗って心地よくシリアルに読める作家も稀にはいる。レイモンド・チャンドラーなんかね。

さて哲学書の場合であるが、99パーセントの場合最初から読む必要はない。最初から読んでも悪くないが、読書の興が乗ってこなければ、適当に拾い読みすればよろしい。どんな学問でも基本的な概念の定義がはっきりしないといけないが、哲学書の場合、最初に明晰な定義の提示がある場合は少ない。つまり最初から読む必要はないわけである。

ウィトゲンシュタインの一部の書、たとえば論理哲学論考やスピノザのエチカは定義、論証というスタイルだから最初から読んでもよろしい。それでも、論理哲学論考は途中から拾い読みしても結構面白い。

たしかヘーゲルがどこかで書いているが、哲学書はウロボロスの環であると。全部読んで初めて定義や主張が分かるという訳だ。円環なら山手線と同じだからどこから乗っても同じことだ。頭が尻尾を咥えている。

前回判断力批判のポジション・レポートを5パーセントと書いたが、従ってこれもシリアル・リーディングではなく、ランダム・アクセスでその見当ということである。

 


カントの反省的判断力

2016-03-18 09:15:45 | カント

前々回、カントのいう「反省的判断力」についてふれると予告をした。カントの独創的なアイデアと言ったがそうとも言えないかも知れない。ようするに「帰納法」とあまり変わらないようだ。

このブログで小説の書評をするときには、進行形の書評ですることが多い。つまり読んでいる途中で書評を始める。10頁読んだところで始めることもあるし、読んでいる途中でその都度書評する。したがって、理論的には思い違いだったかな、と後で修正することもあり得る。しかし実際にはそのようなことはほとんどなかった。

それで、カントの場合であるが、やはり進行形書評である。現在のポジション・リポートをすると、判断力批判の5ないし10パーセントを読んだ所であろうか。小説でも再読三読で書評はかわる場合もある訳だが、カントの判断力批判は初読である。それで全体の5パーセント強といったポジションである。

さて、「反省的判断力」。カントがヒュームとすこし異なるのは、受け手については決まった処理機構があるということで、仔細に分析をしているところである。

『受け手』とは主観とも言う。そして外界(客観)を処理する方法には個人によって相違はないと「独断」することである。ようするに30億人いる人間はおなじ仕様のカメラであるということである。これが正しいかどうか、あまりに質問が簡単化されているので(カントにしては)、軍配は上げにくい。 

経験が無ければ(被写体がなければ)カメラに写真はうつせない。写したもの(現象)はカメラの性能、機構に制約される。「経験がなければ」というくだりが「反省的」に相当する。カメラの仕組みが超越論的な「判断力」に相当する。

 


カントの命題は明晰なこともある

2016-03-17 09:30:14 | カント

 カントの命題(要するに結論或は逆に分析を許さない第一原理)には明晰な表現があることもある。といっても論証部分が混乱していることが多いので(私の主観的判断である)、その正否はにわかに判断をくだせない。

一例を挙げる。今回は熊野純彦氏訳である。なにしろ8200円も払ったのだからたまには活用しないといけない。

「$11 趣味判断は云々(143、144頁)」

“この快は趣味判断を通じて同時にあらゆるひとに対して妥当するものと宣言される“

いっていることは明晰である。ただし内容については直ちに同意出来ない。しかしカントの基本主張だから当然の主張である。しかし論証はなされていない。或は私の読み方が悪いのか。そもそも、論証不能だから超越論的(アプリオリ)な真理(主張)ということだろう。一種の記述上のパラドックスだ。

いわば純粋理性批判におけるカテゴリーのような「主観側の絶対的真理で万人共通」の前提のようなものだろう。

カントの読み方としては命題部分だけ拾って、うんそうだ、とかいや違う、と言う風に読めば良いのかも知れない。なかなかうがった表現の命題も多いから。つまりモンテーニュのエセーを読む様にだ。

 


カントの三分法

2016-03-16 08:01:24 | カント

 カントを三枚に卸す、いや元へ、カントが三枚に下ろす。魚なら三枚におろすのもいいかも知れませんが、哲学となると場合によるということでしょう。

だれでもそうかも知れない。ヘーゲルなんかも三分法が大好きだといったのは、コジェーヴだったか、ドントだったか、あるいは誰か他の人だったかも知れない。記憶がはっきりしませんが、正反合なんてのはそれだしね。

なによりもキリスト教が極めつけの三分法だ。神、精霊、神の子(キリスト)で、これでばっちりと決まった。キリスト教の成功はこの三分法につきるといってもよろしい。

カントの場合、形而上学(哲学)の予備学が三批判書です。しかしこの三冊の分け方が最適かどうかの説明をカントはしていない(寡聞にして私は知らない)。

また、三分法で漏れがないかも論証がない。読者は受け入れるしかありません。この分類が多すぎるのか少なすぎるのか最適なのか。認識、実践理性、判断力が最善の分類法なのか。

さて、その判断力ですがこれもテーマが三つに分類されている。いわく、美、崇高、目的論です。第一印象は随分ばらばらなものを一緒にしたな、ということです。美と崇高はひとかたまりです。だから大分類では二分法となる。これで判断力の扱う分野はすべて網羅したと言えるのでしょうか。その辺の説明はカントにはありません。

カントによれば判断力は悟性と理念の橋渡しをする機能があることになっている。ということは三枚卸しでは背骨にあたるといえましょうか。

判断力批判で一番興味をひかれるのは反省的判断力という独創的概念でしょう。現代でもかなり有益な議論と言えます。その辺は次回以降で。

 


カント「判断力批判」の書き直しを提案する

2016-03-13 07:49:40 | カント

カントの「判断力批判」をスピノザのエチカのような箇条書きスタイル(幾何学の証明を展開するような)で書き直してみたらどうだろう。あるいはウィットゲンシュタインの論理哲学論考のようなスタイルに。命題と論証、分析、説明の組み合わせに。

 そうすると、おそらく分量は劇的に減少するであろう。判断力批判は繰り返しが多い。また、その繰り返しの相互で齟齬があるような気がしてならない。それがあの悪文スタイルだと、うんざりして整理比較する気にならない。

音楽ではない。主題と変奏ではない。一度いったことは繰り返さなくても良い。繰り返し、あるいはマイナーな変奏が必要な場合はその理由を明示すべきである。

また、長大な記述の割に、抜け、飛び(論理的ギャップ)がかなりあるように感じる。こういうことも叙述のスタイルを整理し、整えることによって明らかになるのではないか。

日本にも判断力批判を研究する奇特な学者が少数いるようである、町の本屋を瞥見すると。だれかシニアな学会の大御所が若手の研究者にそういう指導をする人がいないのかな。


擬態としてのカントの悪文

2016-03-12 09:11:16 | カント

ドイツはフランスには遅れていたとはいえ、啓蒙の時代であり、フランス革命前後の激動期である。当時の思想家、使嗾家は非常に用心深かった。匿名で著書、パンフレットを出版する人が多かった。ヘーゲル(カントより少し時代がくだるが)にも匿名出版がある。カントも匿名出版をしている。

悪文は検閲当局の眼をくらますために、韜晦していた擬態であった可能性がある。カントは若い時からこう言う配慮をしていたのであろう。それがほとんど習慣となり、文体となっていたに相違ない。

扱う題材でそれほど擬態に隠れなくても良いものもある。純粋理性批判のテーマはそれほど用心しなくても良い。それでも物自体は汎神論に繋がりかねずキリスト教会から攻撃のおそれもあった。

若くて、体力知力がみなぎっていて悪文に細工しながらもよく読めば首尾一貫していて、論理的な文章がかける。

また、執筆に十分に準備期間があれば「悪文」の推敲も可能である。

純粋理性批判:出版年は1781年である。カントは1770年代にはほとんど著作を発表していない。世にカント沈黙の十年といわれる。すでに1772年には純粋理性批判の構想は具体的に煮詰まっていたという。出版は1780年であるから優に十年間の執筆の余裕があった。

実践理性批判:出版は1788年

判断力批判:1790年出版 

この二書は倫理道徳(政治思想につながる)、宗教をテーマとしている。キリスト教会や政府との関係が微妙になる。より悪文に韜晦しなければならない。

加うるに、体力(当然に知力も)の衰えがある。カントの体調は判断力批判出版の前年当たりから衰えたといわれる。

そして、純粋理性批判に比べて準備期間が非常に短い。実践理性批判にいつから取りかかった不明だが、判断力批判にいたっては体力の衰えが始まったなかで全部をそれにあてていたとしても二年しかない。

「悪文」をスタイリッシュに仕上げる余裕はまったくなかったであろう。

ところで、判断力批判の日本語訳が何種類かあるが、訳し方がまちまちで、意味不明な所が多いとこのシリーズの始めに書いた。英訳の事情はどうかとしらべたかったが、純粋理性批判の英訳は手に入るが判断力批判はない。そこでこの間図書館に古い新聞のフォトコピーを調べる仕事があったのでついでに探してみた。

ありましたね。英訳の場合は所謂定訳というのがあるようで、純粋理性批判では19世紀後半の訳者の物をベースにしている。すなわち

1855年 J.M.D.Meiklejohn

1881年 Max Muller

である。たとえば、

Translated,edited,and with an Intorduction  by Marcus Weight

Based on the translation by Max Muller

それに比べると日本の事情はてんでんばらばらにその時々に各者が訳しているようである。

判断力批判では

1911年 J.C.Meredith のものである。これでも100年以上前のものだ。

Translated by James Creed Meredith

Revised,edited,and introduced by  Nicholas Walker

これを見ると、カントの日本語訳を読むのが怖くなる。

おっと、もうひとつ。メレディスの判断力批判を読んでみたがやはり分かりにくい。ということは原文が文章として未整理という当ブログの推測が当たっているらしい。

カントが判断力批判以後執筆して公刊しようとした論文数点が当局の発禁処分を食らっている。カントが老齢で韜晦の技術がおとろえたのと、フランス革命の反動でドイツでも王侯貴族の旧体制が反撃を始め締め付けが強化されてきたからだろう。

 


カントの主題による様々な変奏曲

2016-03-11 08:03:27 | カント

1:隣の豪邸の令嬢に横恋慕スタイル

ヘーゲル、フィヒテ、シェリングなど

貧民街から道路一つ、崖一つを隔てて聳える豪邸の深窓の令嬢、「物自体」姫に横恋慕する一群の哲学者達である。男は「物自体」が手の届かない所にあるのが我慢出来ない。様々な手練手管、アクロバティックな理論構成で物自体姫をものにしようとする。ドイツ観念論のアルゴリズムはこれで大体カバーできる。

 2:「物自体」姫が隔離されているから代替物で我慢しようとするハンス・ファイヒンガー(1852−1833)の(かの様に、as if)の哲学。ある意味では老齢のため未完に終わったカントの「自然科学の形而上学」に一つの答えを出した。ちなみにファイヒンガーはE・ハルトマンとならんで森鴎外のお気に入りである。

 3:自分の中に閉じこもる自閉症タイプ、キルケゴール

 4:物自体の上を行く超人タイプを目ざす、ニーチェ

 5:中世回帰、祈りによって絶えず存在(神)を問い続ける、ハイデガー