穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

6-4あれが大島だ」

2018-08-31 07:41:09 | 妊娠五か月

「そういえば」と老人が思い出すように話し出した。「大分前のことですが大阪に出張したときに隣に座っていた初老の外国人夫婦がいたが、離陸後しばらくすると夫のほうが眼下の海面を示しながら(あれが大島だ)と妻に教えていた。なんでもない会話だが、その声の調子にとても感情が籠っているような、感傷的なトーンだったので、おもわず彼らのほうを見た。いまや外国人の観光客が溢れているが、そのころは日本に来る外国人はほとんどがビジネスマンだった。夫の口調がばかにセンチメンタルに響いたので、おやこの外国人、たぶんアメリカ人だろう、は大島の三原山にその昔新婚旅行にでもいったのか、そんなことはありそうもないので奇異に感じ余計私の注意を引いたのだと思う。大島なんて外国人には有名とも思えなかった。これが、あれが有名な富士山だよ、と妻に教えるならなんとなく分かるが、どうして大島なんだろう。それにしても彼はよく大島なんて知ってるなとおもいました。

 妻のほうも窓に顔をくっつけて食い入るように眼下の景色を見つめていたが、私のいぶかしげな視線に気が付いて二人は黙ってしまった。それだけの話なんですけどね。今のB-29の話を聞いて思い出したんですよ。ひょっとしたら夫のほうはかってB-29の搭乗員ではなかったかな、とね」

 「なるほどね。なにか訳ありな話ですね。彼が若いころに爆撃機の乗員だったとすると日本本土爆撃に何回も出撃していた可能性はありますね。そうだとすれば大島のことは熟知していたはずだ。ここを通過すればまもなく日本本土に達する。富士山も見えてくる。そこで右に旋回すれば横浜、東京の上空はすぐだ。日本軍の迎撃戦闘機も舞い上がってくる。高射砲の砲火も激しくなる。緊張の一瞬でしょうね。そして爆弾を投下して無事日本上空を脱出すれば真っ先の標識は大島だ。今回も助かった、という安堵があったでしょう。彼の青春そのものでしょうから、妻にも繰り返す話していたに違いない」

 「そんなに危険な作戦だったんですか。一方的にやられまくった印象だが」

「結構アメリカの爆撃機の損傷も激しかったらしいですよ。物量戦で日本はじりじりとやられていったけど。

 空襲も初めは高高度からの爆弾投下だったらしい。日本軍の戦闘機は6000メートル以上の上空では格闘能力が落ちるらしいんですよ。しかし高度1万メートルからの爆撃は安全だけど命中精度が低かった。そこでアメリカ軍は低空からの目視爆撃に切り替えた。そして命中精度を上げるために昼間の爆撃を始めた。ということは日本軍の戦闘機の反撃が有効になることでもある。また高射砲の的中率もぐんと上がることを意味している。B-29の搭乗員も命がけだったでしょう」

 「そうですか、ところでさっきのムスタングの話だが、どうして硫黄島の陥落後なんですか」

 「そうそう、その話でしたね。いま言ったようにアメリカ軍の機体の損傷も激しい。テニアンまで帰還できない機体も多数あったという。そうすると、日本上空で撃墜された機体は別として、そのほかの機は途中で海上に不時着するか墜落する。そうすると、アメリカ軍は救助に潜水艦を配備するほかなかった。そこで不時着用の飛行場が絶対必要なんですよ」

「そこで硫黄島か」

「そう硫黄島には日本軍が作った飛行場がすでにある。それをB-29用に延長すればいい。平敷の話だと硫黄島に米軍によって飛行場が拡張された後、そこに不時着したB-29は二千機を超えたという。それにここでムスタングが出てくる。これはアメリカ軍の最新鋭の戦闘機でね。航続距離が大幅に延長された。アメリカのそれまでの戦闘機は作戦範囲が狭い。航続距離が長い戦闘機としては日本のゼロ戦の作戦半径千キロというのがとびぬけていたがムスタングはそれに匹敵した。そこで硫黄島ということですよ。硫黄島から本土までたしか千二百キロぐらいかな。そのくらいまでムスタングはこなせたんですね。そこで硫黄島にムスタングが配備された。硫黄島の陥落が4月だから綾小路さんの記憶の、(温かくなるころから飛来襲撃の頻度が高くなった)という記憶と一致する。」

 「そうすると、さっき話したアメリカ人の夫はムスタングの搭乗員だった可能性もある。日本人の小学生に機銃掃射を加えていたかもしれませんね」

 作者注:インターネットで調べたところ、アメリカ軍上層部はムスタング操縦士に地上の非軍事施設や目標を攻撃することを命令していたという(ウィキペディアなど)。

 


6-3、一直線

2018-08-30 08:31:06 | 妊娠五か月

 Tは平敷から聞いた説明を思い出しながら話した。

「地図を見ると分かるが、テニアン、グアム、サイパンのあるマリアナ諸島と硫黄島のある小笠原諸島さらに伊豆諸島、駿河湾そして富士山を結ぶとほぼ直線が引ける。大体東経140度から145度の範囲に収まっている。つまりテニアンなどを出撃したB-29の大編隊は簡単な目視飛行でまっしぐらに日本列島に直進できる」

「航空士も搭乗していたが、ほとんど何もすることがないわけだ。機長は磁石と海面だけを見ていればいいわけだね」と老人が言葉をはさんだ。

「航空士というのはなんです」

「ナビゲイターですよ。天測によって航路を計算する役目です」

「人間GPSということですか」Tは物珍しそうに聞いた。

「そうね、戦後もジェット旅客機が出現してもしばらくは民間の国際線には必ず航空士がのっていた。そのころは民間航空のコックピットは四人制でね、操縦士(機長)、副操縦士、航空機関士それに航空士が乗り組んでいた。コンピューター機器が発達して、その後衛星を使ったGPSなんかが出来たから航空士はいなくなった」

「航空機関士というのも聞きませんね」

「これも機器のモニターがコンピュターで出来るようになったからいらなくなった」

「いまはたしか機長と副操縦士しか乗務いませんよね」とTは言った。

  そうすると、新月でかつ星明りも雲海にさえぎられる闇夜でない限り機長は海面を見ていればまず経路を間違うこともないわけだ、とTは考えた。

「アメリカは主として日本空襲を目的として新型爆撃機B-29の開発を進めてきたが1944年に実戦に投入した。最初は中国奥地の四川省成都から日本の北九州工業地帯を爆撃する予定だったが、これが困難を極めた」と平敷の話を思い出しながらTは説明した。

「爆撃機は欧州、中東を経由してインドからヒマラヤ越えで空輸しなければならない。その途中で何機も墜落したらしい。また、部品や燃料の石油までヒマラヤ越えで運び込まなければならない。膨大な量ですよ。ビルマ(ミャンマー)、当時のインドシナ(カンボジア、ベトナムなど)、タイその他の東南アジアをすべて日本軍が占領していたからヒマラヤ越えしかなかったわけです。また、成都から2,300キロのあたりには日本軍の飛行場があって、成都が爆撃される可能性もある。中国本土の大部分は日本軍が占領していたから出撃したB-29は中国土上空ではやくも日本の戦闘機の迎撃を受けた。また、日本軍は米軍の編隊通過を逐一日本本土に無線で連絡していたから奇襲攻撃は出来ない。そこで目を付けたのがマリアナ諸島ですよ。まったくうまいところに位置していたものです。これらの島を出撃基地として使えなければ戦争はさらに数年続いた可能性がある。だから東条内閣はマリアナ諸島を絶対国防圏と定めたが、1944年6月ー7月の米国とのマリアナ沖海戦では日本軍は壊滅的な敗北を喫した。日本国内では東条内閣への反発がたかまり、東条内閣は崩壊した。東条は衆議院の解散総選挙で乗り切ろうとしたが失敗し、天皇に直訴までしたが指示を得られなかった。天皇は訴えに冷たく(そうか)と答えたという。これで天皇の指示が得られないことを悟った東条は退陣したのであった」

 


6-2:ムスタングかもしれない

2018-08-29 13:34:40 | 妊娠五か月

「なぜ大都市や工業地帯を空襲するB-29の護衛戦闘機が房総半島の真ん中にあらわれるのかな」、と言われると確かに変だなと思いますね。あまり考えたこともなかったが」と老人は思案顔でいうと首をかしげながら茶を飲んだ。

 「そうだ、あの頃しきりに言われていたのを思い出したが、房総沖や九十九里浜沖にアメリカの空母や戦艦が出没していると大人たちが話していた。米軍の関東上陸作戦が間もなく始まるともっぱらの噂でね。その場合九十九里から上陸するとか駿河湾から上陸するのではないかと戦々恐々としていた。だから房総沖に本当に敵の海上部隊が展開していてもおかしくない」

「とすると、それら空母の艦載機が房総半島を横切ってテニアンやサイパンから飛来する爆撃機と関東上空で合流する可能性もあるかもしれませんね。もっとも昭和二十年に入ると日本軍の迎撃能力も弱まって護衛戦闘機なしで、しかも昼間低空で爆撃をしたというから護衛戦闘機の活躍する機会も少なくなったとか聞いたことがある」

老人は感心して「お若いのに感心ですね。戦史に詳しいね」とお世辞を言った。

「私の知人にノンフィクション作家がいてね、本土空襲について調べて本に書いたことがあるのですよ。その友人から聞いたんです」

「なるほどそうですか」

「思い出した。その時友人が言っていましたが、昭和二十年に入ると護衛戦闘機が空中戦をする機会も減って、したがって弾薬もほとんど使わなくなった。そういう弾薬を満載して着陸あるいは着艦すると事故を起こした場合に長期間後続の帰還機が着陸できなくなる。海上に不時着せざるを得なくなるというんですよ。だから弾薬を使わなかったり大量に残っている場合は海上とか人家のないところに連続射撃して弾倉を軽くするのが必要らしい」

「なるほど、それでどうせ捨てるなら射的のゲーム感覚で田んぼに舞い降りて小学生を標的にするわけだ」

「そうそう、その本の中で友人が書いていましたが、アメリカ人のパイロットの談話として地上で動くものがあればなんでも撃った、と引用してましたね」

Tは確認した。「機銃掃射を受けたのはいつ頃ですか」

「何時頃って、そうね」と老人は戸惑ったようだ。「昭和19年の暮れに疎開してね、そう毎日のように戦闘機の機銃掃射があったのはかなり温かくなった季節だったような記憶がある」と思い出しながら答えた。

「そうすると、房総沖の艦載機ではなくて硫黄島からのムスタングかもしれない」とTは友人の著書を思い出しながらつぶやいた。

「ムスタングって」と老人が頓狂な声をあげた。

「P-51というのが正式名称ですがね」

老人は膝を叩いた。「それですよ、P-51だ、P-51だって大人たちが騒いでいたのを覚えている」

「それなら硫黄島が陥落した4月以降のことでしょう」

「ふむ、そうだね、連日夏のような日差しが続いていたのを思い出したよ。P-51だとどうして硫黄島になるのですか」と老人はたづねた。

 


6-1:無意識と死

2018-08-28 08:34:02 | 妊娠五か月

 前方を飛ぶように歩く老人に気が付いた。大柄な背の高い老人で走っているわけでもなく、といってジョッギングしているわけでもなく普通の歩様なのだがそのスピードがものすごく速い。Tをどんどんと離していく。頭髪は真っ白い老人である。交差点の赤信号で待っているときにTとの距離は縮まるが信号が青に変わると見る見るうちに両者の距離は離れていく。後方頭上からすさまじい爆音が迫ってきた。その時老人が妙な行動をとった。ビルとビルの隙間にある空間に飛び込んだのである。Tがその脇を通るときにその隙間を除くと老人は間隔が3,40センチしかなさそうな隙間に窮屈そうに大柄な体を押し込んでいた。その隙間には雑多なごみが投げ込まれていた。彼はそこから無理矢理身をひねるようにして上を向いて空を見上げていた。

  Tは通り過ぎてから、いま一瞬見た老人が誰であったか思い出した。先日碁会所で会った老人に違いない。後ろを振り返ると老人はまだビルの隙間から出てこない。頭上では爆音が続いている。通行人も何事ならんと上空を見上げている。ヘリコプターが編隊を組んで一列縦隊でかなりの低空を飛行している。ヘリコプターはかなり大型で新聞社が取材に使うようなおもちゃのような機体ではない。樺色に塗装をされていて、おそらく自衛隊のものだろう。編隊の最後尾の機体が通り過ぎるとドップラー効果で爆音はみるみる小さくなっていった。TはJRのA駅の反対側にある東西線の入口があるビルに入り、階段を途中まで下りてから、そうだまだ時間があるから例の碁会所によって行くかと考えて、降りかけた階段を上った。

  時間が時間だからだろう、まだ誰も来ていない。学生風の受付が時計を見て「もうまもなく綾小路さんが来ると思います」と言うので料金を払った。待つほどもなく老人が入ってきた。受付と話していたがTのそばに来ると「一局お願いしましょうか」と聞いた。Tはお願いしますというと碁盤の前に座った。「この前打ちましたね。えーと四子だったかな」とTの顔を見た。Tは確認するようにうなずくと碁盤に四つ石を並べた。十手ほどうち進んだ時に、Tは「さっき早稲田通りで後姿を拝見しましたよ」と話しかけた。

「ははあ、そうですか。気が付きませんでした」

「あのヘリコプターが通過した時ですよ。あなたがビルの間に飛び込まれた時です」と言うと「ああ、あのときですか。妙なところを見られましたな」と老人は頭をかいて笑っている。

「どうも自衛隊のヘリコプターみたいでしたね。かなりの数でした。都内であんな編隊を見るのは初めてですよ」

「そうですねえ、世の中が落ち着いて最近ではまずありませんね」

「昔はよくあったんですか。都内の上空を移動することが」

「けっこうありましたね。世の中が落ち着いていなかったからね。都内の道路をアメリカ軍の戦車が通ったものですよ」

「何時頃の話ですか」とTは驚いて聞いた。「そうさね、昭和25,6年まではそんなことがあったな。私は小学生でね。戦車が通ると地面が波打つように揺れるんですよ」

 二人は布石を終わって戦闘モードに入った。Tは例によって無茶苦茶に切りまくった。上級者を相手に切りまくるなど乱暴な話だが、老人は「だいぶ威勢の良い碁を打つようになりましたね。この間はおとなしすぎたからね」と言った。

 老人は思い出したように話し出した。「一度ね、戦車が移動していた時に床屋の椅子に座っていたことがあった。床屋というのはまだひげも生えていない子供でも剃刀をあてるんですな。産毛ぐらいしか生えていないのをそるんです。それも丁寧に何度も何度も同じところに刃をあてる。そういう時に店の前を戦車が通って建物が大揺れに揺れたんですな。ちょうどあごの下をそっていたんだが振動で少しのどを切られてしまった」

「大丈夫だったんですか」

「少し切ったね。血が出た。もう少し場所が逸れたら頸動脈をやられるところだった」

 「しかし大通りでしょう。戦車なんかが通行するのは」

「いやいや片側一車線しかない道路でね。だから戦車が通ると対向車は通れない。もっともそのころは自動車の数も少なかったからね。くねくねと曲がっている道でも強引に押し通るんですよ。とにかく、あの頃のアメリカ軍は傍若無人でしたからね」

  切りまくって中央に躍り出た黒石はがむしゃらに戦ったがとうとう全石玉砕してしまった。「いや、まいりました」とTは握っていた石を盤面に投げた。

 受付の青年が二人にお茶を運んできた。老人は一口飲むと、思い出したように「さっきはびっくりしたでしょうな」と話しかけた。Tはいぶかしげに老人を見た。

「いや、泥棒猫のようにビルの間の隙間に飛び込んだことですよ」というと老人は思い出を語り始めた。「起きているときは別にヘリコプターが飛んできても驚かないが、寝ているときとかぼんやりしているときに不意打ちのようにあの音を聞くと死に直結する恐怖を感じるんです。ここ何十年はそういうこともなかったが、さっきはほかのことを考えていて、すこしぼんやりしていたんでしょうね。戦後相当の年月が経っても、日曜日の昼などに畳の上でゴロンと寝転んでうたた寝しているときに頭上をヘリコプターの編隊が飛んでくると暗闇に飛び込んで身を隠したくなる。条件反射のようなものがおこります」

「ヘリコプターの音だけですか」

「そう、不思議なことにジェット機とか大型のプロペラ旅客機の場合には別になんともない。もっとも都心の上空はジェット機が低空で飛ぶことはありませんがね。プロペラの旅客機にいたっては空港に行っても現在はまずお目にかかれない」

「どうしてヘリコプターだけなんですかね」とTは質問した。

「そういうことが何回もあったので私も自分でも不思議に思って考えたんだが、どうも内燃エンジンの爆音らしいね。それと回転翼が風を切る音が関係しているらしい」

Tが不思議そうな顔をしているのを見て「説明しないと分からないだろうな」と老人は呟いた。

「戦争末期に房総半島の真ん中の田園地帯に疎開しましてね。なんの軍事施設もないから空襲を受けることもなかったが護衛のアメリカ軍の戦闘機が舞い降りてきた。そして機銃掃射を頻繁に受けたんですよ。小学校の登下校に田んぼの真ん中の畦道を歩いているときにね。その時の背後から急降下して迫ってくる戦闘機の音にヘリコプターの音は酷似しています」

「小学生の一人や二人殺しても戦術的な意味はアメリカ軍にはないでしょう。第一本土に空襲してくるアメリカ軍の編隊はグアムやサイパンから飛来していたのではないですか。房総半島を通過していたんですか」

 老人は茶を口に含むと大きな喉ぼとけを上下させて飲み込んだ。喉を潤すと老人は説明を始めた。

 


5-6:外国の例

2018-08-24 08:38:53 | 妊娠五か月

 麻耶はドッコイショとおばあさんのような掛け声をかけてソファから立ち上がった。

「仕事をしなくちゃ」というと部屋中に散らばった本や雑誌の整理を始めた。

 平敷はパックから煙草を一本抜き出すと大きなマッチ箱から取り出したマッチ棒で箱の横腹を擦って火をつけた。手を振って火を消すとコーヒーカップにマッチを放り込んだ。どうも今考えているテーマはうまくまとまりそうもない。最初はひねりの利いたテーマでまとめられそうな気がしたが、どうもうまくまとまらない。放棄してほかのネタを探したほうがいいのかもしれない。

  精神鑑定で異常がなくて責任能力があると診断された人間がいきなり利害関係も怨恨もない相手を殺傷するという現象を気の利いた通奏低音でまとめてみようという試みはうまくでっち上げられそうもない。今までは国内の例ばかり見てきたが外国の例も調べたほうがいいかもしれない。半分しか吸っていない煙草をコーヒーカップに放り込んだ。まだコーヒーが残っていたらしくジューという音がした。

  ただし信念による犯罪は別だ。テロなんて言うのは別に考えないといけないかもしれない。しかし、外国での例でテロにしても相手側の権力機関を狙うのではなくて民間の建物とか、一般の通行人を襲うというのが最近は多い。犯行声明ではテロを宣言するがそれなら対象も選ばないと首尾一貫しないな、と彼は考えた。

  しかし、一応外国の例も調べたほうがいいだろう。彼は財布から一万円札を引き出すと麻耶をそばに読んだ。一万円を渡すと、書店で外国の通り魔事件や大量殺人事件のノンフィクションを探してくれ、と頼んだ。小さな書店だとあまりこういう本は置いていないだろうから大きな書店だ探すように言った。「大書店では大抵ノンフィクションというコーナーがあるからね。大抵はその中で事件とか犯罪とかいうのがまとめてあるから。書店によってはノンフィクションのコーナーは著者別になっている。こういうところはわかりにくいからパスしたほうがいい」

「急ぐの、今日中に要るの」

「いや急がない。今度来るまでに買ってきてほしい。あんまりこういう本はないだろうから見つからなければかまわないから」と彼は言った。窓の外は日が陰ってきた。「通り魔事件にも二種類あるな」と彼はまた考えた。一つは辻斬り型だ。これは捕まらないことを前提にしている。ほかには犯行後自殺するか自首する、あるいは逮捕されることを前提としている。辻斬り型は今回は対象外だ。ところで通り魔事件は道連れ殺人ととらえることもできる。そうすると心中なんてのもこの中に入ってくる。太宰治なんてのは心中未遂二件、既遂一件だ。しかも心中の相手が三件とも違う。これも調べてみるか、と彼は考えた。麻耶は太宰治が好きかなと考えた。若い女はだいたい太宰にあこがれる。いやいや止めておこう。そこまで手を広げることもなかろうと彼は結論した。

「もう帰ってもいい」と麻耶が聞いた。「ああいいよ。ご苦労さん」

 ハンドバッグをソファから掬いあげると彼女はドアをあけた。どういう靴を履いているのか、下駄のような音を響かせて廊下を去っていく音がエレベータホールの前で止まった。

 


5-5:ウーマンリブの行きつく先は膣道出産の禁止

2018-08-20 07:36:48 | 妊娠五か月

「この本に犯人の母親が妊娠中にしきりにおろしたがったというところがあるわね、それでさっきあんなことを聞いたの」

「まあ、そうだ。妊娠初期からそういう何というかな微かな不安を感じさせる兆候があったのか。ある程度胎児が成長して人格というかな、胎格というべきかな、自己主張というか、そういうものが出てくる時期があるのかな、なんてね」

麻耶は考え深そうな顔をして「そういえば妊婦はよく妊娠五が月なんていうことを話題にするわね。一か月が四週間とちょっとでしょう。22か月と5か月はだいたい同じじゃないかな」

「五か月というのは節目なのかな。胎児の聴覚も5か月ぐらいには完成しているとか聞いたことがある。よく知らないが胎教というのはいつごろから始めるのかな」

しらないわ、と麻耶は言った。

「これも後でインターネットで調べてみよう」と彼はメモに書いた。「だけどその本ではいつごろから母親がそんなことを言い出したか書いていないだろう」

「そうみたい」

「うかつな話だぜ」

「それで結局は父親が反対しておろさなかったって書いてある」

その話はともかくとしてさ、と彼は話題を転じた。「ウーマンリブの行きつく先を書いたような小説がある。『素晴らしき新世界』という本を読んだことがあるかい」

「誰が書いたの」

「オルダス・ハクスレイだ。医学の進歩は素晴らしい。将来は出産は母体の外で行われる。つまり受精から胎児の成長、出産がすべて実験室というか牧場というか、そういう施設で実施される。国の管理のもとでね」

麻耶は熱心に聞いていた。

「だから産休ちょうだい、とおねだいりするとか、出産を機会に会社を辞めなければならないのはけしからん、なんて難癖もつけなくなる」

「それは言いすぎだよ、おじさんは差別主義者だからね」

「そこでだ」というと平敷は煙草に火をつけた。

「残るは育休問題の解消だ。科学工場で出産したというか生産された幼児は国の運営する牧場で成人まで集団で育てられる。育休問題は解決だ」

「それが素晴らしき新世界というわけなの」

「そうじゃないか」

「ふーん」と言った麻耶は得心がいかないようであった。

「いまの生命科学の進歩からするとそう遠い将来のことではないな。しかしね、こんな世界は本能に反する。あるいは神の摂理に反する。かならず従来通り自分の膣から子供をひりだしたい女がいる。そういう女性が隠れて自分で出産すると犯罪として摘発される。最大の破廉恥罪として逮捕されて強制収容所に送られる。彼女は高圧電流が流れる鉄条網で囲われた収容所で一生を過ごさなければならない」

「本当にそんなことが書いてあるの、その小説に」

「ああ、そうだよ」

 

 

 


5-4:22週以降

2018-08-19 10:21:32 | 妊娠五か月

 ばかに静かだと思ってパソコンから目を離して後ろを振り返ると麻耶は一心に本を読んでいた。何を読んでいるんだ、と聞くと彼女はほんの表紙を彼に見せた。石原慎太郎の「凶獣」だった。

「面白いかい」

「こんな男がいるんだな、と思って感心した。感心したというのはおかしいかな。多彩な経験、これもおかしいか。紀州のドンファンも顔負けね」

 「ある意味では言えてるね。しかし紀州の男はドンファンじゃあない。単に金で女を買い散らかしている田舎おやじだよ。ドンファン伝説のドンファンは女をだまし泣かせ捨てるんだ」

彼の言ったことが彼女はよくわからないらしく返事をしなかった。

「さっきのことだが、妊娠して22週目以降は妊娠中絶は危ないらしい。もっとも法律的なことではなくて医学的な説らしいが」

「どうしてわかったの」

「パソコンで検索していたら産婦人科病院のホームページに出ていた」とパソコンの画面を見ながら彼は言った。「ほんとかどうかわからないな。民間病院の宣伝だからな」

「放送後30分以内にご電話いただければお安くします、みたい」と彼女はピント外れの警句を飛ばした。

「そうかも、しかしインターネットで公開しているから産婦人科の常識かもしれない」

「ふーん」と彼女は有益な情報を記憶に留めようとするようにつぶやいた。

 「だけど不公平だよね。苦しむのは女性なんだから。生むにしても大変な苦痛だし、命の危険もあるわけだし。男も負担を分担すべきよ」

よくわからなかった彼は「どういうふうにして」と聞いた。

「男も胎児を育てるべきよ。大腸に移植してさ。医学が進歩すれば出来るようになるんじゃないかな」

「それは人間が下等動物に退化することじゃないのかな。下等動物にはそういうのがいるみたいだ。それより現実的なのはインキュベーターで妊娠初期から育てるなんてことが将来は可能になるかもしれない」

「インキュベーターって」

「人工孵化機とか人口保育器というのかな。いまでも未熟児で早産したのを中に入れて育てるのさ。ただ限界があってある程度胎児が成長していないとだめらしい」

「どのくらい」

「さあ、八か月とか」と彼はあてずっぽうで答えた。

「そういうのは技術の進歩で出来るようになるのかしら。試験管ベイビーというのがあるわね。あれは受精そのものを試験管のなかでさせるのよね」

「そうかい」さすがに女性のほうがこういう話題は詳しい。

「だけどその受精卵を母体に戻して出産するんじゃないか。受精から十か月間試験管でそだてるのかな」

「多分子宮に戻すのね」

「そうだよな、完全に試験管から出産状態に育てるとなると、オリヴァー・ハドウみたいだからな。まだ小説の世界の話だろうな」

「何の話よ」

「サマセット・モームの小説のなかに出てくる魔術師さ、人造人間を作る実験をする話だよ」

 


5-3:殺人罪の適用について

2018-08-17 07:36:46 | 妊娠五か月

 摩耶はさっき平敷が読み捨てて床の上に投げ捨てた今朝の新聞を取り上げた。ハンドバッグをソファの上にアンダーハンドで放り投げると新聞を持ってソファの上に座り足を組んだ。まず新聞を読む。これもここでの仕事と思っているのだ。今日はばかに読むのが遅い。時々彼が見落とした記事で使えそうな記事を見つけてくれることもあるので好きにやらしてある。それに彼が赤いボールペンで囲った記事を切り抜かせてスクラップブックに貼らせている。関係のない記事まで隅から隅まで読んでいるらしい。

 「今日東西線で人身事故があったのを知っていた」と彼女が言った。

「いや、人身事故って」

「何だか知らないけど不通になっていたわよ。それで遠回りして来たから遅くなっちゃった。おじさんは事故に遭わなかったの」

「いや知らないな」きっとあの頭のおかしい青年の起こした事故のことだろうが彼は空とぼけた。ここで彼女に話そうものならおしゃべりな彼女はところかまわずしゃべりまくるだろう。

「じゃあ叔父さんが通った後なんだね」というと彼女は石原慎太郎の「凶獣」という薄い本を取り上げて「これはなんなの。なんかおどろおどろしいタイトルだね」と手にとって思案顔に聞いた。

「大阪の池田小学校の大量児童殺傷事件って知っているか」

「なにそれ、知らない」

「2001年の事件だ。その犯人のことを裁判記録とか精神鑑定の資料を使って石原慎太郎がノンフィクション風に書いたものだ。摩耶は何年生まれだったけ」

「平成11年」

「だからさ、西暦で言うと」

「1999年かな」

「じゃあ知っているわけがないな」

急に思いついて彼は訪ねた。

「堕胎は妊娠何か月まで出来るんだったけ」

「堕胎ってなによ」

「ああ、そうか。妊娠中絶と言うべきかな」

摩耶は目を尖らせると急に黙り込んだ。若い娘は被害妄想しやすい。

「なんで私にそんなことを聞くのよ」

彼が彼女を経験者と思っていると勘違いしているらしい。

それとすぐに気が付いた彼は「いや、なにか法律で規定があると思ってね。法学部の学生の君なら知っていると思ったんだ」

 彼女の機嫌は直りそうもなかった。「もっともこれは医者の問題かもしれないな。医学上何週間以降は危険だとか言うことはあるんじゃないかな」

 彼女は黙ってハンドバッグから煙草を取り出すと吸い始めた。思い切り吸い込んで太い煙を鼻の穴から噴き出した。こうなると、始末に負えない。

 


5-2:麻耶

2018-08-15 08:11:55 | 妊娠五か月

 平敷は駅のコンビニで弁当と朝刊三紙を買うとタクシーに乗り仕事場のマンションに着いた。三、四日来なかった部屋は饐えたにおいがした。彼は窓を開けると淀んだ空気を入れ替えた。弁当を食い朝刊に目を通した。仕事柄にも関わらず彼は新聞を購読していない。毎日ここに来るわけでもないし、数日東京にいないこともある。すると新聞の配達人はメールボックスに広告だらけのかさばる新聞を押し込んでいくが小さなメールボックスは一日で満杯となる。そうすると床の上に新聞を投げ出していくのである。周りの住人に対してもみっともないし迷惑をかけることになる。それで新聞は駅で買うのである。ただでさえ、この辺は山の手と違い毎日膨大な量の広告チラシを断りもなくメールボックスに押し込んでいくからチラシだけでメールボックスはすぐ一杯になる。

  彼は朝起きるのが遅いし、起きたころにはテレビのモーニングショーも終わっている。がせねたの情報源としてはモーニングショーも重宝なのであるが、そういうわけでめったに観ることもない。どうしても新聞は商売道具なのである。インターネットでニュースを見ることもあるが、ほとんど役に立たない。大手媒体のニュースは新聞本体をみればより詳しく正確な内容がわかる。インターネットのニュースはある意味で弱小、新興ジャーナリズムの活躍の世界であるが、大手マスコミに比べるとジャーナリストとしての訓練の質に大きな違いがあり、ほとんどが読むに堪えない。

  そんなこんなで今日は大した事件もないし、記事もなかった。かれは一応目を通した新聞を床の上に放り出した。ガラケーの初期設定の呼び出し音がなった。姪の麻耶からだ。「いま駅に着いたから」というと彼女は返事も聞かずに電話を切った。十分後チャイムが鳴った。開けると麻耶が入ってきた。彼女はなんとか大学の法学部の二年生である。大学の名前はどうしても覚えられない。最近できた大学にもキラキラ名前というのがはやりらしい。漢字二文字の名前は彼には読めなかった。何度姪から聞いても覚えられないのである。ものすごく画数が多く彼には見たこともない漢字である。新興の大学は客寄せ、失礼学生募集には若者受けするキラキラネームとモーニングショーのゲストなどをしていたトウが立ったコメンテーターのお古でも教授に召集すれば効果があるらしい。

  彼の姉である母親に頼まれて彼女の監視かたがた助手という名目でアルバイトに雇っているのである。主な仕事は資料の整理である。仕事柄読む読まないにかかわらず資料を集めるからすぐに溜まってくる。彼は使った資料をそのたびに元の場所に戻さないものだからすぐに机の上は勿論床の上にまで本やら新聞雑誌が散乱して足の踏み場もなくなるので彼女に散らかした資料をもとの場所に戻してもらう仕事を与えているのである。これを自分でやらないのはずぼらであるということもあるが、そういう整理仕事で中断するとどうしても思考が途切れて執筆に興が乗らなくなるなる。彼女にやらしてみて集中力をとぎらせないという意外な効果があることが分かった。

  麻耶は大変な美人である。学園のなんとかいうクイーンに選ばれた。ミス何とか大学というらしい。週刊誌のグラビアで紹介された。彼女はもともと美人というのではなかった。それが高校を卒業するころから急に美人になった。親族はみな不思議がった。親戚には誰一人として美人美男子はいなかったのである。もっとも三代、四代とさかのぼれば大変な美人がいたのかもしれない。突然変異のように美人になった印象だが、本当はマスクされていた祖先の遺伝子が活性化したのかもしれない。容貌の変化につれて性格も変わってきた。奔放というか型破りというか、とにかく向こう見ずになった。それで母親は急に心配になりだしておなじバイトをするなら叔父のところで監視してもらったいいかもしれないとお思いついたらしい。

 「逆のことならあるからな」と彼は姉に言った。具体的な名前を挙げて二枚目俳優とアイドル女優のあいだに生まれたごつい感じの女性をテレビの討論番組で見た彼は話したのである。もっともあれは養女かもしれないが。

 

 

 


5-1:落合の通り魔

2018-08-13 09:50:46 | 妊娠五か月

 平敷はラッシュアワーの時間帯を避けて10時ころ東西線の落合の駅に着いた。長いホームにはちょうど電車が出た後らしく乗客の姿はなかった。彼はベンチに腰を下ろして大手町に向かう電車を待っていた。そこへ青白い端整な顔をした若者が近づいてきて彼の座席一つを隔てた横に腰を下ろした。Tはいつも持ち歩いているナップザックを横の座席に置いていたが、若い男はナップザックを押しのけるようにして持っていたレジ袋を置いた。ホームのベンチには他に誰もいない。Tが座っているベンチも一列に六人掛けの椅子がある。なにもすり寄るように横に荷物をおくことはない。変な野郎だな、と彼はその時初めて横の若者を見た。驚くほど端整な顔をした美男子だ。年齢はまだ未成年かと思えるほど若い。ただ顔色が白人のように青白いのが妙な印象を与えた。

  Tはバッグを取り上げると立ち上がりぶらぶらと歩いて少し離れた誰も座っていないベンチに腰を下ろした。いきなり大きなオイという声がした。まさか自分に向けられたとは思わないからTは無視したら、もう一度オイと怒声がした。驚いて声のする方向を見るとさっき彼の横にすり寄るように座った青年がこちらを向いて怒鳴っている。『どうやら俺に向かって怒鳴っているらしい』とTは思ったが呼びかけられる理由もないので返事もしなかったが、なんだか薄気味が悪くなって立ち上がり、ホームを歩きさらに離れた。間に階段があって、若者の姿が見えなくなった。

 気が付くと青年がいつの間にか彼の目の前に現れた。「あやまれ」と怒鳴った。Tはびっくりして男の顔を凝視した。それが相手をさらに興奮させたらしい。

訳が分からないので穏やかに相手を興奮させないように「なんですか」と一応聞いてみた。

「なんですか、とはなんだ。ふざけやがって。土下座しろ」とやくざみたいにらみつけた。彼が来てすぐに席をたったのを、彼を避けたとひがんでいるのかもしれない。どうも扱いにくい奴だとTは腹の中で舌打ちした。

 『ひょっとすると、この男は見かけによらず愚連隊かなにかな』とTは考えた。注意してみると相手の目は狂人のそれである。『やくざ予備軍で精神にも異常をきたしているのかな』と彼は慎重に考えた。やくざだけなら、対処の仕方はある。しかし、やくざのうえに頭がおかしくなったとすると、これは下手な動きはできない。

  黙って油断なく相手の様子を見ていると、これがさらに相手を興奮させたらしい。いきなり足をあげてキックボクシングの回し蹴りのように脇腹を狙ってきた。かろうじて身をかわした。こいつは攻撃力を阻止するために対応しなくてはならなくなったか、と考えた。面倒なことになった。相手の攻撃力を阻止するために反撃すれば相手を負傷させる可能性がある。勿論こちらがやられる可能性もある。そうなるといずれにしても警察沙汰になる。正当防衛を認めさせるまでには警察で長い取り調べを受けることになる。『やっかいなことになりやがった』とTは舌打ちした。

  相手の動きを凝視していたのでTは気が付かなかったが、いつの間にかもう一人青年が現れてその男の背後に駆け寄ると男を後ろから羽交い絞めにした。そして凶漢の耳に何かささやくと相手の体から急に殺気が抜けていった。羽交い絞めにした男は相手よりずっと小男で知的な顔をしている。

  Tは急にさとった。この異常者はどこかの精神障碍者施設の収容者で付き添い付きで家に帰るか外出を許可されているのだろう。羽交い絞めにした男は施設の職員に違いない。だから羽交い絞めにされた途端、猛獣使いに命令された猛獣のように大人しくなったに違いない。

  平敷は急いで階段まで走り駆け足で登り始めた。途中で彼らのほうを振り返って見ると、男は羽交い絞めを解かれてこちらを見ていたが、視線が合うといきなり猛獣のように獰猛な声を発して階段のほうに走ってくる。保護者らしき男が慌てて止めようとして二人はもみ合った。引き戻された男は介護職員と思われる男を突き飛ばした。何とかのバカ力というが職員は後ろにたたらを踏んで線路に転落した。そこへ電車が侵入してきた。運転手がかけた急ブレーキの音がホームの空間を歪めるようにとどろいた。

  平敷は階段をのぼり改札を出た。その時に、事故を証言すべきかどうか一瞬迷った。しかし異常事態は駅事務所にすでに伝わっているだろうし防犯カメラもあるだろうから何も証言することもあるまいとそのまま地上に出た。あの男は階段を追いかけてくる様子もない。間違いなくまだホームにいるだろう。必ず捕まる。そうすると被害者との関係も判明して事故は解明されるだろう。

  そう勝手な理屈をつけて歩きながら平敷はまた考えた。『防犯カメラには俺の姿も映っているだろうか。男と乱闘になりそうな場面も残っているかな』と心配になった。『だが俺のことが特定できるだろうか。ありそうもない。まあ、なにか連絡があった時はその時でしょうがない』と考えながら仕事場に向かった。

 


4-5:妊娠中絶

2018-08-12 07:57:50 | 妊娠五か月

 うな重を平らげた平敷はベルトを緩めると消化を助けるかのように腹をさすり始めた。

「だいぶ腹が出てきたね」

「毎年ふとくなるんだ。ズボンがきつくなるので新しく作るときにはウェストを緩めに作るんだけど、今度は腹がフィットするまではズボンがずり落ちてしょうがない。そのためにベルトをきつく締めると気持ちが悪くなる。それにいくらベルトを締めてもズボンが落ちて来るんだよ」

「どうしてだろう」

「おおかた脂肪だから弾力があるのだろう。きつく締めれば腹に食い込んできて内臓を圧迫するせいか、むかむかしてくるんだ。君はどうなんだ、あいかわらずスリムだね」

Tはテーブルの上にある楊枝入れを引き寄せながら「その代わり歯が悪くなったね」

中年盛期に入った二人は悩みを託ち合うのであった。

 「ところで動機には共通点があるのか。それが俺には分からないところだが」

「それがないのだ。大体人を殺すというのは、怨恨だろう。それがない。ないというと語弊があるが、殺戮の対象との間には個人的な怨恨はないのだ」

「ようするに復讐ではないのか」

「そう、殺人の原因には利害関係というのがある。金銭目的だな。強盗殺人とか保険金、遺産狙いとかね。それに関係したケースは一件もない」

「しかし、それぞれ事前に場所を選んでいるだろう。その地域に恨みがあったということはないのか」

「さあ」と言ってTはしばらく考えてから、「選んだ場所はたまたま土地勘があったということだろう。アメリカのように高性能で殺傷力の高い銃器がだれでも簡単に入手できるようなら大量殺人も比較的容易だろうが、日本の場合はほとんどが刃物だからな、出刃包丁で複数の人間を殺傷するのは大変な仕事だ。仕事というと語弊があるかな」

「そうだろうな、土地勘があるからどこそこで左に回ると人っ子一人いない畑に出るとか知っているわけだ」

 動機については分かったが誘因というかきっかけというのはあるのか、と平敷は聞いた。

「きっかけというのはこじつければあるようだ。宅間守の場合は三番目の妻に復縁を迫ってストーカー行為をしていたが、警察や弁護士が介入してきてうまくいかなくなったというのがきっかけらしい。もっともこれは石原慎太郎が『凶獣』で自分の創作だと断っているが、なにかしら類似の経緯が公判で議論されたからだろうと思うね。

  秋葉原事件の場合は、派遣会社の職場でのトラブルで勤務をやめたというのと、インターネットの掲示板が炎上したとか、無視されるようになった、つまり誰も反応しなくなったということを本人が言っている。しかし、秋葉原という土地の無関係の人間を襲う理由というか動機にはつながらない。

  土浦事件の金川の場合はきっかけもよくわからないらしいな。前からやろうと思っていたのをたまたま当日実行したということしかわからない」

「そこで動機無き殺人というわけだ」と平敷は呟いた。

「しかも本人の責任能力は完全にあるというのだから。精神鑑定では善悪の判断はできたというのだからね」

「それにしても動機がないというのは変だな」

「充足理由率にも反する。精神錯乱や狂気なら理由がない発作のようなものといっても通用するが、ショーペンハウアーの『充足理由率の四つの根』の第四根によれば、すべての行為には動機がある、ということだ。そうだ、動機はあるかもしれないぜ。形而上学的なね。あるいは無意識の。形而上学というのは個人によって、いくらでも歪んでくるものだから。犯人たちにもそれなりの動機があったのかもしれない」

「問題はそこだね」となにか思いついたように平敷は頷いた。

  そうそう、メモには書き落としたが一つ気になるポイントがあった、とTが付け加えた。

「なんだい」

「宅間守の件だが、母親が妊娠した時にこの子を、おろしたいとしきりに言ったそうだ。夫が反対をして妊娠中絶をしなかったが。なにかオカルト的な話だ。もっとも、これは石原慎太郎の本に出てくるはなしだが」

「石原慎太郎の創作なのか」

「いや公判記録か精神鑑定のなかに出ていることだろう」

「胎児の異常な人格が母親を脅かしたのかな。いったい妊娠何か月目になると胎児は人格というか疑似人格というものが出来るのだろうか」

 

 


4-4:メモから

2018-08-11 10:21:28 | 妊娠五か月

「宅間守は自衛隊にもいたんじゃなかたっけ」と平敷が思い出したようにつぶやいた。

「そうそう一時航空自衛隊にもいたという。えーと」とメモに目を戻した。

「土浦事件の金川は引きこもりで女性経験はなかったらしい。秋葉原事件の加藤は職歴が多彩だから女性との交友はあったらしいが宅間のような経歴はないようだね。むしろ乏しいほうだったらしい。その文庫本によると」

  家族関係だが、宅間の父親はドメスティックバイオレンスの塊だったらしい。母親に対しても常時暴力をふるっていたという。彼の裁判での鑑定書でもこれがかれの性格形成に悪い影響を与えていると指摘している。金川の家庭ではDVはなかったようだが、親や兄弟との会話がなかったらしい。だから高校卒業後引きこもりになったのかもしれない。宅間のほうに目の前に息子がいると始終暴力を振るわれるから子供は家にいられないからね」

で、加藤の場合は、と平敷が聞いた。

「さっき言ったように母親が特殊だろう、息子に対して要求が多いというか。それで彼は大学には行かないと宣言したらしい。これが彼の母親に対する最初の反逆だったのだろう」というと「まあこれを見てくれ」とメモを渡した。

 「犯歴か、宅間は多いな」

「彼はトラブルを起こすと精神病だとか言って母親が精神病院に閉じ込めた。やくざや警察の捜査を逃れるためにね。そこでいろいろ薬も投与されたから余計おかしくなったんじゃないのかな」

「金川と加藤は犯歴なしか」

「世代も離れているが、宅間と後の二人との違いはIT時代の影響というかな、たとえば引きこもりの金川はゲームばかり家でしていたらしい。それから加藤はインターネットの掲示板の世界にはまり込んでいった。宅間にはゲームもインターネットの影もない。世代が違うからだろう」

 「よくこういう問題を題材に取り上げる連中が、口をそろえたようにいうのがインターネット時代とかゲームの影響というが宅間の場合は全く違うわけだね」

「そう」

「しかし、犯行のパターンというか、姿勢とかはむしろ金川や加藤は参考にするというか共鳴するというか、、」

「そう言えるだろうね。メモにも書いておいたが犯行の計画性というのはある。もっとも計画性というのをどうとらえるかだが、一年も前から計画書を練るとかいうことになると計画性は勿論ないが、犯行のために包丁や凶器を事前に用意するという意味では突発的な犯行、衝動的な犯行ではない。これは共通している。犯行の場所も事前に選んでいるしね」

 「最大の関心事は君にも話したけど動機は何なんだ、三人の犯行に共通点があるのかということなんだが、君の意見はどうなんだ」と平敷は確認するように聞いた。

「表面的には共通点はない。各犯行別に調べてもはっきりとした動機があるとは思えない。

こういうものを動機というか目的と言えればだが、スペクタクル狙いの自己顕示欲ではないか、とみれば共通点はあるかもしれない」

「そんなものが動機と言えるかね」

「いえないね、普通は」


4-3:刃と銃

2018-08-09 08:22:48 | 妊娠五か月

 外国でも無差別大量殺人事件というのはよく聞くが日本の場合と比較できるかな、と平敷は問いかけるように言った。

「どうかな、外国は銃による事件が多いな。とくにアメリカでは。場所も高校とか大学構内というのが多い」

「日本の場合はほとんどが刃物による殺傷だな。銃を使うのも例外的にまれにあるようだが」

「最近富山で警官の銃を奪った事件があったくらいだ。昭和の初めに発生した津山三十人殺しも猟銃かなんか使っていたようだが例外的だ」

「本質的な部分ではどうだろう、通約できる点がありそうか」

「どうかな、僕は疑問だと思うね。君が詳しく調べたらいい。ただテロっぽい事件は別の考察が必要だろう。外国、欧州やアメリカでの事件にはそういうのがあるからな。テロなら自爆にしろ無差別殺傷にせよ、信念に基づく犯罪だから動機や理由が不明ということではない」

  母子が食事を終えて席を立った。男の子は従順な子犬のようだ。調教で馴致されたサラブレッドの仔馬のように母親の後についていく。そこでTは思い出した。今日持ってきた秋葉原事件のノンフィクションで犯人の生い立ちの記述があるが、非常に特異なものだった。青森の家庭だが母親というのが異様な形での教育ママだったらしい。宿題の作文は息子の書いたものを執拗に添削して書き直させたという。また絵画なども母親が気に入るように何回も描きなおさせたという。もっとすさまじいのは、息子は食事を食べるのが遅かったらしいが、母親は食べかけの食事を床の上にばらまいて、それを息子に拾いながら食べさせたという。理由が振るっている。食べるのが遅いと食器を洗うのが遅くなるというのである。せいぜい20分かそこらだろうが、それが我慢できなかったというのである。息子は抵抗できずに言うとおりにして育ったらしい。先ほどの息子のがなんとなくその時に読んでいた加藤の家庭を想像させたらしくて記憶に引っかかっていたのだろう。

  親子から平敷のほうに向きなおったTに対して彼は聞いた。「この三件に共通点はあるかな」

「さあね、あるような、ないような」というと彼はメモを取り出した。読みながらメモをつけたんだが、これも参考になるかどうか渡しておこう」といいながTはざっと内容を説明した。

 「犯行時の年齢は大阪池田小学校事件の犯人宅間守は38歳、土浦事件の金川真大は24歳で秋葉原事件の加藤智大は25歳だ。人生経験は宅間が抜群に長いし、それだけ経歴も多彩だな。

学歴は宅間が高校中退、金川が高卒、加藤が短期大学卒業だ。職歴は年齢のせいもあるだろうが宅間は多彩だ。もっともいずれも長くない。大阪の府役所だか市役所でバスの運転手、小学校の用務員なんていうのもやっている。金川は高卒後ほとんど引きこもりで家でゲームばかりしている。加藤はかなり職歴がある。いずれも短期で最後は自動車産業への派遣職員だ。

 次に女性関係をみると、これも宅間が群を抜いている。結婚四回、婦女暴行無数というわけだ。

 


4-2:様々な通り魔

2018-08-08 09:56:39 | 妊娠五か月

 平敷はTがテーブルの上に積み上げられた本を取り上げた。「次は『死刑のための殺人』か、なんだい、これは。読売新聞の記者が書いた本か」

「2008年3月の事件で、常磐線の駅で無差別に通行人に切りかかった事件だ。土浦通り魔事件というやつさ」

「ふーん、そんな事件があったのは記憶しているな。しかしこのタイトルはどういう意味だ。死刑のための殺人というのは」とTの顔を見た。

「引きこもりで家でゲームばかりしていた24歳の青年が死にたくなったという話さ。しかし自殺が出来ないのさ。だから人を二人以上殺せば国が死刑にしてくれるだろうと思った」

「この犯人の精神はまともなのか」

「裁判所はそう判断して死刑にした」

「よく分からんな」

「まったくわからない。君の今度の本が訳の分からない殺人事件を取り上げるというから格好の素材じゃないか」

「どうして自殺が出来ないというのかな」

「自分ですると痛そうだというのだ」

「本当かい。死のうとする人間がそんなことを考えるのかな」

「失敗する可能性も恐れたらしい」

「やれやれ」というと平敷は次の本を取り上げた。「今度は文庫本か。『秋葉原事件、加藤智大』か。秋葉原事件というのはトラックで日曜日の歩行者天国に突っ込んだという事件かな」

「そうなんだ」

「これは覚えている。なんか犯人が本を書いたとかいうんだろう。それはないのか」と平敷は残っている本をひっくり返してタイトルを見た。

「見つからなかったな。必要なら自分で探してくれ。まだ入手できると思うよ」

「これはいつの事件かな」

「土浦通り魔事件の三か月後だ。連鎖反応だと言われているようだ」

「そういえばスティーブン・キングのメルセデスという小説は秋葉原事件を下敷きにしていたな」

「そうかい、それは知らない。2008年の6月8日の事件だ。6月8日というのは2001年に起きた大阪池田小学校の事件発生の日だ。たぶん犯人は記念日としてこの日を選んだんじゃないかな」

「そんなことが書いてあるのか」

「いや、俺の想像さ。俺の考えでは池田小学校事件から始めるのがよさそうだ。通り魔とか大量殺人というのは前世紀の初めから沢山あるが、あまり資料がない。津山30人殺しなんてのは文庫本があるようだが、書店では見かけなかった。横溝正史が八墓村とかいうモデル小説を書いているらしいがね。20世紀の後半にも通り魔事件は結構あるが資料がない。インターネットで調べると各事件2,3行要約したようなリストがあるくらいだ。それに生活苦で借金取りに追われて切羽詰まったとか、覚醒剤を飲んでいて精神錯乱の末に通行人を襲うとかそのたぐいの事件で、深く切り込むような内容は無さそうだ」

「それで君は21世紀しょっぱなの池田小学校事件から始めたらという意見か」

「まあね、座標軸としてはその辺から始めればまとまるんじゃないかというのが俺の予感だ」

まてよ、と平敷は残っていた2冊の本を手に取った。「2つとも相模原障碍者施設の大量殺傷事件の本だな」

「その2冊は買っては見たが目次だけしか見ていない。犯人を分析するというよりも社会問題として障碍者に対する差別意識を糾弾するという視点が中心のようだから、君の問題意識とは関係ないようだ。犯人の目的や動機ははっきりとしている。重度の障碍者に対する優生学的ともいえる信念による事件だから、動機が分からないという通り魔の範疇にははいらない」

「わかった。一応持って行っていいかい」

「もちろんいいよ。おれが持っていても読まないだろうから。何かの参考になるかもしれないよ」

 

 


4-1:デフォールト・モード・ネットワーク

2018-08-07 08:45:05 | 妊娠五か月

 平敷のところへ生ビールのジョッキを運んできた黒ずくめのボーイが帰っていくほうにふと目を向けたTは左側一つ向こうのテーブルに座っている親子に目を止めた。小学生高学年くらいの年頃の男の子とその母親らしい痩せた中年の女である。おやと彼が思ったのは同じマンションで時々見かける男の子に似ていたからである。彼が外出から帰ってくるときに何度かマンションの近くやバスの停留所で見かけた子供に似ている。母親が送ってきてバスに乗り込んだ子供に手を振っていることを見たことがあるのだ。

 おおかた塾にでも行くところなのだろう。結構大きな子供なのにバス停までついてきて乗り込んだ子供に子供同士の様に手を振っている姿が奇異に感じられて記憶に残っていたのである。しかし女がその時の母親らしき女かどうかはわからない。彼はマンションの住人、なかんずく中年の女とかには目を合わさないように用心しているのであった。マンションの女たちはTを正体不明の危険人物とみているようであった。中年女というのはおそろしい。彼はマンションの近くでこのような女たちに行き会ってもなるだけ地面に落ちているごみを探すように下を向いて通り過ぎる。顔を合わせないようにしていたのである。

 だからその女の顔は覚えていない。ただ背がわりと高くて、スープを取ったあとの鶏の骨の出し殻のような印象は似ている。男の子は外見は痩せてはいるが健康そうな肌をして利口そうな顔をしている。しかし、なにか教育ママに操られているようで生気のない顔に見えたので印象に残っていたのだろう。Tの前頭葉のデフォールト・モード・ネットワークに一瞬何かが描像を結んだがすぐに消えてしまった。

  平敷がTの顔を見ながらいぶかしそうに聞いた。「何を見ているんだい」

「いや、ああ、同じマンションの住人に似ているものだから」

平敷が後ろを振り向いた。「あんまり見るなよ」とTは注意した。

「それでそうなのかい」

「いやどうも違うようだ」と言うとTは横の椅子の上に置いてある緑色のナップザックのジッパーを下ろして中から単行本を数冊取り出した。

「君に頼まれた件だけどさ、さっき言ったように通り魔の本というのは意外に少なくてね。まだあるんだろうけど後は図書館なり古本屋で探すんだな」

平敷はTがテーブルに置いた本を取り上げた。

「『凶獣』か、なんだい石原慎太郎か。これが通り魔と関係があるの」

妙な本でね、とTは説明した。「小説のような、裁判記録というか、精神鑑定のコピーのようなというか」

「しかし200ページか。すぐ読めそうだな。通り魔事件を扱った小説かな」

「ノンフィクション風のね。短いといっても内容はいいよ、概観するには。これは2001年に大阪の小学校で起こった小学生襲撃事件だ。この事件の単行本は結構多いほうだね。精神鑑定をした医師の記録とかね。ほかは読んでいないが、この本であたりをつけるのがいいだろう」

「なるほど、凶獣か、狂獣じゃないわけだ。そこが味噌なのかな」

「そうかもしれない。精神鑑定で責任能力はありとしてすでに処刑されているからね。その本にもほのめかしてあるけど、精神鑑定で責任能力なし、とでも判定されると遺族を黙らせることは難しい。すこし問題はあるが、当局ははやく結論を出してケース・クローズにしたかったらしいぜ」

「ふーん」

「それに犯人の宅間守にも処刑されたいという願望があったということだ」