Xが現れるのは夜遅くなってから、ほとんどは十二時過ぎである。どうも知覚と言うものは自我と言う殻を漏れ出してくるらしいな、とあれこれ考えた末に秀夫は仮説をたてた。自我と言う壁がもろくなると漏れ出してくる。人間は動物と違って自意識の塊みたいなものである。自我と言うのは、エゴと言ってもいいが各自の知覚、感情、表象、意思を守っているのかもしれない。動物なんかも進化の度合いに応じて自我が発達してくるものの、人間に比べるとはるかにやわである。特に集団生活をしている種はそうである。例えば鳥などはそうだ。勿論鳴きかわす声によってコミュニケーションを取っていると言われているが、瞬時に危険を察して、ナノ秒単位で一斉に逃避行動をとるが、あれなどは鳴きかわすだけでの伝達では説明できないのではないか。海中で泳ぐ小魚の大群が見事な集団行動を見せてマグロなどの大魚から集団を守るが、あれは水中の音速では説明できない。
そうするってえと、彼は考えを一歩進めた。人間の場合、社会で働いている時間には自我がしっかり機能していないと危ない。自我の殻が緩むのは緊張がほどけた時である。よく世間では言うじゃないか。酒で酔っ払うと口が軽くなるとか。口も軽くなるが自我の殻ももろくなるのだ。会社での昼間の緊張が解けて帰るときにも緊張がゆるむ。一杯途中でやればもっと緩くなる、そして家に帰って風呂にでも入って寝れば意識のレベルは最低になる。そんな時に立花の自我が漏れてくる。これは受け手の自我の殻にも言えることだ。秀夫の自我の防衛機能も夜には低下する。だから相手の漏れ出た知覚も自我の防御陣地をやすやすと突破してくる。そんなところでどうだろう、と彼は結論づけた。
そうすると、プラトンに習って数式で表すとどうなるか。発信側の出力と受信側の能力*、それに週波数能力の三能力の因数がいる。万有能力のように万有能力の方程式は使えないだろう。
*万有能力の場合の重量に相当、周波数は万有引力には概念なし。
#万有引力では表現できない。
&幽霊語である人格
類縁語というか、別名というか人格と言うことばほど、親戚が多い言葉は無い。そして語釈というか定義のない言葉群はない。
たとえば、テレビという商品がある。エアコンと言う商品がある。これには別称と言うものがない。ま、エアコンは(電気)冷房、暖房と言うことばもあるがほとんど使われない。スマホもほかに呼びようがない。ガラケーなら携帯電話と言う別称があるが、ほかに言い方は無い。そして定義しようと思えば、べつに定義する必要も無いのであるが、ずばり定義できる。定義するのもバカバカしいほど言葉にまぎれがない。パソコンも歴史的には、Radio・shackやTandyの8bit、16bitワンボードマイコン、マイコン、ラップトップコンピュータと変遷してきたが今はパソコン以外は通用しないだろう。
人格の類縁語、あるいは同義語と思われるものは多数ある。個性、自己、個人、自我、英語で言えばペルソナ(パーソン)、エゴ、セルフなど。もっとも辞書には定義がある。広辞苑によれば人格とは「道徳的行為の主体としての個人」であるとし、「自己決定的な自律的意思を有し、それ自身が目的自体であるところの個人」とある。前半はともかく後段はなにを言っているのかわからない。
哲学者の言及はもっとばらばらで統一的な見解は無い。現代の心理学でまともな定義があるとも思えない。ヒュームの言葉はちと面白いから引用してみる。「人間とはおもいも及ばない速さで次々に継起する、様々な知覚の束ないし集合にすぎない」
フロイトなんかによるとエゴと言うのは(性的)欲望の屈折した表現となるらしい。
前に、ヘーゲルでまあ、興味を失われずに読めるのは「精神現象学」と「小論理学」くらいなものだと書いた。各論というか具体論に入るとばかばかしくなり興味が持てなくなる。具体論はヘーゲルの奇想を具体的に展開するものだが、ますます現実との齟齬が明瞭となる。これを書いたときには、具体論といっても「法哲学」「歴史哲学」くらいしか読んでいなくて大ぶろしきを広げたわけであった。
最近ヘーゲルの「宗教哲学」を読み始めた。これはどうにか読める。(講談社学術文庫)
勿論翻訳の評価も必要だが、そこまでは手が回らない。
各論と言うものは勿論総論を展開するものだが、総論で開陳した「論理学」の一大奇想が元になっている。その奇想のトリックになじんでいれば、つまり奇想との続きが滑らかならば、と言うことだが、読んでいて納得がいく。もちろん同意はしない。『なるほど、こう持っていくのか』とその手品の手並みを嘆賞出来るということではあるが。
お断りしておくが、現在でも、とくに日本の法曹界ではヘーゲルの「法哲学」は強固な地盤をもっているようだが、それとこれとは別である。
おもうに宗教と哲学とはほぼ同じ内容が対象であるためなのだろう。
秀夫がパソコンを開いて『パンセ』風に気取った随想録を兼ねた日記をつけていると電話がなった。裕子からだった。しばらくしてチャイムがなった。このごろ、彼女は不定期的に来るようになった。そうして部屋をいじくりまわしていく。なんだか部屋の共同所有者になったような有様なのである。
インテリアデザイナー志望で、今はしがないOLの彼女は彼の部屋をいじくりまわしてインテリアデザインの実験台にしている。彼も部屋が片付いていいのでやらせているのだが、困るのはやたらと本の整理をすることである。机の上、床の上に放り出してある本を彼女流の分類方法で整理してくれるのだが、その分類法がまったくわからない。本と言うものは散らかっていても当人は何処にどういう本があって、どこにこれはどうしようもない本で処分しようとしている駄本があるかは、頭の中に入っている、というか、体感的には整理されている。だから必要な本を探すのに手間はかからない。それが彼女の分類法でやられると、あの本は何処かな、と半日探し回ることになる。半日探しても出てこないこともある。そして翌日ひょっこり見つける。しかし彼の部屋の汚れの一番の原因は書籍なのだから、彼女も彼が苦情を言ってもとりあわない。
汚れた食器や流しはピカピカにしてくれるし、隅々まで電気掃除機をかけてくれるし、溜まった郵便物はきちんと整理してくれるので、うっかりして処理しなければならない通知などを見落とすこともなくなった。そういうわけでトータルに判断して彼女の整理に任せてあるのだ。
整理が一段落すると彼女は冷蔵庫から缶ビールを取り出して呷った。唇の周りの泡を手の甲で拭うと彼のそばに来て何をしているの、とパソコンをのぞき込んだ。日記は秘密ではない。もともと、例の暑気あたり後の発作で精神に変調を覚えた後、大学病院でチンピラの医局員にいじくりまわされるのが嫌で、日記を書いて、読み返し、まともかどうか自己診断をしている。だから第三者に見せるのはむしろ求めているのだ。まして彼女は広告の仕事でコピーライターみたなことや、プレスリリースを書いたりもしているから感想を聞くのには適しているだろう。
「フーン、アブサンか」
「飲んだことあるのか」
「無いけど、ある意味で有名な酒だよ。麻薬みたいな効果があるらしい。ボードレールとかピカソなんかが愛飲していたんだよ。いまではフランスでは禁止されているんじゃないかな」
「だけど日本では作っていないだろう。どうせ輸入しかないんだろう。密輸かな」
「いや、そうじゃないでしょう。アブサンと言っても昔のとは成分や製法、原料が違うんじゃないかな。それで飲んでみてどうだった」
「小さなグラスで一杯だけだから別に素敵な効果もなかったな」
あとはお決まりの夜の定食コースとなった。
これまで知覚共有者、(いや知覚侵入者というべきかな。一方的だから)を彼と言及してきたが、今後はX氏としよう。まだ性別は不明である。一応成人と思われる。連日Xの帰宅経路をたどってカレの家を探し回ったせいだろうかか。何というか紐帯と言うまではいかないが、知覚の連絡経路が安定してきたようだ。安定した、と言うのは語弊がありあまり適切とは言えないかもしれない。ある夜遅くXが帰宅時(たぶん勤務先からの)に立ち寄るらしいバーが大友秀夫の知覚に飛び込んできた。
今度はそのバーを当たってみようと日中の市内放浪の日課を終えて暮れなずむころに探索に出かけた。鉄道のどこかの駅のガード下にある店でアウトサイダーと言う店だ。どうも周囲の情景からT駅の南側らしいと見当をつけて探した。すぐにその店を見つけた。俺は私立探偵の資格があるな、と思った。日が短くなり、午後六時には早くもあたりは薄暗くなってきたが、店は開いていた。中を覗くとまだ客は一人も入っていない。彼はいかにも通りすがりに店を見つけたという体(テイ)でのれんの下から顔を突っ込んだ。
「もうやってるの」
「はい、どうぞどうぞ」とカウンターの前に手持無沙汰な様子で立っていた女が急いで愛想笑いをした。35歳くらいの丸顔のホステスだ。直系40センチくらいのお月さまみたいにまん丸い顔が短い首で肩の上に乗っかっている。ほかにはまだ従業員は見当たらない。
「すこし早すぎたかな、新幹線の時間まで時間があるんでブラブラ歩いていたんだ」
「そうですか」と女は顔の面積の割には不釣り合いに小さな一筆書きのような赤い口をすぼめて言った。
「ビールを貰おうかな」
「銘柄は」
「なんでもいい。小瓶で」
女が彼の前にグラスと小瓶を持ってきた。
「どちらに行かれるんですか」
「盛岡までだよ」
「お国はあちらなんですか」
「いやちょっと用事があってね。お店のお客さんはサラーリーマンが多いんだろうね」
ビールを二、三本飲んだところで、勤め帰りらしい三人ずれが入ってきて店内は俄かに騒々しくなった。このなかにXがいるかもしれない。いや、彼は一人で来るのかな。そういえば、Xは連れがいなかったようだ。いつも一人できて一人で飲んでいるようだった。そうだ、彼は妙な酒を注文していたな。なんだっけ。妙な名前だったのですぐに思い出せない。そうだ、アブアブだったかな。リキュールらしくショットグラスで飲んでいた。大分強そうな酒だった。
「おねえさん、アブ何とか云いうリキュールを飲んでみようかな」
先刻から出勤してきてカウンターを拭いていたバーテンダーがこちらを向いて「お客さん、アブサンですか」と反問した。
「そうそう、それだ」と慌てて肯定した。「砂糖を齧りながら飲むんだろう」
「お客さん、よく知ってますね。好きなんですか」とバーテンは怪訝そうに聞いてきた。
「いや、恥ずかしながら飲んだことは無いんだ。このあいだ人が飲んでいるのを見てね、かわっているな、飲んでみたいなと思っていたんだ」
「なるほど、ちょうど仕入れたばかりでね。あまり注文する人もいないんですが、ここのお客さんでやはり飲む人がいいるんですよ。それで仕入れたばかりでね」
「へえ、そうなの。あんまりポピュラーじゃないんだ。どんな人なの。そのお客さんは。よほどの通なんだろうな」
彼は内心この人だ、と確信した。カクテルではなくてストレートでアブサンを酒場で注文する人は滅多にいない。彼に違いない。
「どんな人なの、年配の人かな」と彼は鎌をかけた。
「いえいえ、若い人ですよ。34,5というところかな」と彼はホステスに問いかけた。
「そんなところね」
「じゃあ、会社員なんだね」
「そう、酒井さんはなんとかいう商社に勤めているとか言っていたわね」と彼女は何の疑念も抱かずさらりと言った。なるほど、と彼は思った。これで知覚だけではなく、彼の名前と人格の概要も分かった。いままではお化けか幽霊のような存在だった。
そういえばXが彼の知覚に現れるのは彼がそろそろ寝ようかと思う頃が多い。今度はもっと遅く来てみよう。その後、客が来たり、帰ったりしたがその中にXがいるかどうかは判断が出来なかった。いずれにせよ、アブサンを飲む客は現れなかった。
徒労に終わった連日のロケハンでいささか疲労が蓄積していたらしい。昨日は急に冷え込んで雨の降る中、街を長時間うろついた影響がでたらしい。床を離れて十五分後にさむけを体の奥に感じた。一時的なものかと様子を見ているとだんだんひどくなってくる。顔も洗わず朝食の用意もせずに長椅子にうずくまっていると、熱が出てきた。といっても体温計などというものはない。額に手を当てると明らかに熱い。やばいな、と用心して葛根湯を呑んだ。体温計はないが葛根湯はあるのである。
只見大介から、その後連絡があって新宿の喫茶店であった。なにか依頼したことで伝えることがあるということだった。そういうことならそちらの事務所に行くよ、というといやちょっと出る用事もあるのでついでに会いたいというのだ。
新宿の喫茶店で会った。コーヒー一杯千円と言う店で彼の指定だったが、さすがに高い料金だけあってファストフード店とことなり客はすくない。そして客席の間にかなりの間隔がある。只見は時々利用しているらしい。事務所で会う都合がつかない場合とか、あまり人に聞かれたくない交渉などをするときに利用しているらしい。
「先日の依頼の件だけどね、とうもうちにはないようだ。あるかもしれないが俺にはアクセスできなかった」と言いながらビジネスバッグから膨らんだ大型の封筒を取り出した。
「あまり参考にならないだろうが、テレビ局が取材のときにヘリコプターからとった俯瞰写真なんだ。火災とか災害の時に撮影するだろう。知り合いがいてね、雑談の時にその時のビデオがあるというので、別に秘密でもないからとコピーしてくれたんだ。もちろん網羅的ではないよ。君の目的に役に立つとも思えないが、俺が持っていてもしょうがないからな」
「すまないな。それならおたくの事務所に取りに行ったのに」
彼は笑って「うちの会社はうるさくてね。部屋には盗聴器やカメラが設置してあるんだよ。会社の機密漏洩対策だな」
「へえ、監視が厳しいんだな」
「上には警察庁からの天下りが多くてさ。これなんか会社のデータじゃないから問題はないんだけど、こんなデータをやり取りしているとなんだって聞かれるからな。少なくとも会社の業務以外のことをしていたと分かるとまずいのさ」
「それで新宿まで持ってきてくれたのか。すまないな」
彼は笑って顔の前で手を振った。「ところで、君がこんなデータを欲しがる理由はなんなんだ。まだ言えないのか」
大友が困った顔をすると「ま、無理には聞かないよ。どうせ君の個人的な事情なんだろうからな」
「すまんな」
「いや、気にすることはないさ。だた、事情が分かればなにかアドバイスが出来るかもしれない。こっちはそういう問題の専門家だからさ。知恵が出せるかもしれない」
只見に誰か分からない人間に知覚を乗っ取られることがある、その相手を突き止めたいなんて説明できない。頭がおかしくなったと思われる。
「ところで料金はいくらだ」
「何を言っているのだ。そんなものは請求しないよ」
「それは困るな」と彼は呟いた。
「だって、会社のリソースは全然使っていないんだぜ。僕が個人的にちょこっと友人からもらった資料だし、おそらく大して君の役には立たないよ」
「すまないな。わざわざ手間をとらせて」
「何の、何の。久しぶりに会えてうれしかったよ。朋あり、遠方より来る、亦楽しからずや、だよ」と彼は論語の一節を引用してみせた。
そうか、ありがとうと礼を言うと二人は千円コーヒー店を出て別れた。
たしかにそのデータはあまり役に立つものではなかった。相変わらず日課の一万歩散歩をロケハンに充てていたのだが、疲労が蓄積したのと、昨日の悪天候に晒されて風邪をひいたのかもしれない。
一つ確認できたのはその写真に写っているのは都内のごく一部だが、この小数の例から推測するとビルに囲まれた木造のしもた屋は都内に多数まだ存在するようだ。これは歩いていちいち確認していたら膨大な時間がかかるようだと言うことを思い知らされただけであった。
彼は今年の年賀状を探して只見大輔の年賀状を手に取った。大学時代の友人で卒業以来会ったことはないのだが、まめに毎年必ず年賀状をくれる相手だ。最初は年賀状を受け取ったあとで年が明けてからお礼の賀状を送っていたのだが、毎年必ず送ってくるので最近は暮れのうちに出す年賀状と一緒に賀状を交換している。
彼の賀状には自宅の住所のほかに勤め先の名前と電話番号が印刷されている。彼の記憶では卒業後何回か勤め先が変わっていた。今年の年賀状には勤務先として東陽経済研究所が印刷してある。賀状の中の近況報告では経済関係のデータバンクでコンサルティングもしている会社らしい。どんな調査会社か詳しいことは分からないのだが。ひょっとしたら不動産取引のデータも扱っているのではないかと思ったので、電話をしてみた。
只見は電話を受けてびっくりしたような声をだした。卒業以来会ったことは勿論、電話で話したことも今日が初めてなのでびっくりしたのだろう。驚いたような声で「珍しいな、どうしている?元気かい」と尋ね返してきた。
「うん、それがね、しばらく病気でぶらぶらしているんだ」というと心配そうに「どうしたんだい。大病なのか」
「いや、暑気あたりのひどい奴らしい。二、三日ひっくり返っていた」
「病名はなんだい」
「いや、医者には行っていない」
「どういうことだ」
「なんとなく治ってしまったんだ。その代わり心境の変化をきたしてね。会社をやめてぶらぶらしている」
へえ、と彼は驚いたように絶句した。
「実はね、ちょっと聞きたいことがあってね。今年の年賀状で経済関係の興信所みたいな仕事をしていると書いていただろう。それで聞いてみたいことがあってね」
「ふーん」と言って彼は沈黙した。意外におもったのだろう。しばらく沈黙した。
不動産関係のデータでね、と彼は切り出した。「都内でいいのだが、木造の古い一軒家で周りをマンションに囲まれているようなところを探している」
そんなところに住もうというのか、と怪訝そうに聞いた。
「いや、そうじゃないんだけど、ちょっと事情があってね」
「フーン」と彼は腑に落ちないような声をだした。
「なぜだい」
「それは言えない」
「おいおい、それでは雲をつかむような話じゃないか」と只見は呆れた様な声をだした。
「雲をつかむような話で申し訳ないが、おたくの会社の関連で資料があるかな、と思ったんだ。勿論料金は払うよ、べらぼうに高くなければだけど」
「うちの料金は高いぜ」と彼は脅かした。「こういうコンサルタント業界は値段が有ってないようなものだからな。寿司屋と同じだよ。訳の分からない値段をつければ客が寄ってくる世界だからな」と本気ともつかず冗談ともつかず言った。
「そうか、そりゃ残念だな」と電話を切ろうとすると彼は「とにかく調べてみよう。俺はそういう資料があるかどうか今は知らないが当たってみるよ。さっきの話は料金が高いほうが喜ぶ大企業向けの話でね。つまり表玄関から入ってきて式台の前で『頼もう』と大声で呼ばわる客用の話だ。この業界は馬鹿高いかロハかの両極しかないんだ」
「そういうものなのか」と大友は呆れた。「それじゃ頼むよ、あまり無理をしないでくれよ」
「うん、分かったら連絡しよう」と電話を切った。
テレビで月島の民家が派手に燃えてあがる映像を流している。二階建ての民家だという。周りにはすぐ近くにタワーマンションが林立している。すると東京のど真ん中にもこういう木造のしもた屋がタワーマンションと軒を接しているところが残っているのだ。月島が都心と言えるかどうかだが、銀座からだとタクシーで十分ぐらいで行けるところではないか。
彼は昨日探索した江東区のような都心から離れた場所だけではなくて、都心のロケハンをしなければいけないと思った。都心というかお城から一里以内のところにもロケハンを広げる必要を痛感した。そういえば、侵入者は男性とも限らない、と彼は先入観も考え直したほうがいいかもしれないと気が付いた。ひょっとすると、女性かもしれない。俺には女難の相があるそうだからな、と独り言ちた。女性と言うと恨まれそうな相手は結構いるからな、と彼はうんざりしたようにため息をついた。
まず、手近というと妙だが、昨年まで在籍していた会社の女性を当たってみようと書棚から再び職員名簿を取り出した。二、三年分を遡ったが「それらしい名前」にぶつからない。それに最近のことは名簿を見なくても、何か経緯とかもめごとがあった職員は覚えている。そこで彼は方針を変えて古いほうから見ることにした。入社一年目の名簿を開くとさすがに懐かしい名前が並んでいる。最初は女性の名前にはあまり注意しなかったが、今回は女子職員も見て行かなければならないと気が付いた。とにかく入社したばかりの頃は女性職員ばかりに目が行った。
彼には女難の相がある、と喝破した女占い師がいた。海外出張の際、ニースのがけ下の洞窟のような小屋の中でその魔法使いのようにブクブク太ったジプシー女がタロットカードをめくりながら、貴方には女難の相があると言われたことを思い出した。彼にはそんな自覚も体験の記憶も無いのだが、あるいは無意識に女性に恨まれるようなことがあったのかもしれない。
望月清美という名前が彼の視線をとらえた。しばらく眺めているうちに彼女からN響のチケットを貰ったことがあったことを思い出した。自分が行けなくなったからと二枚のチケットを渡されたのである。何気なく受け取ったが、結局そのコンサートにはいかなかった。彼は十年以上前のことを思い出して、あれはひょっとして彼女の誘いではなかったのか、と思い当たったのである。それなら僕と一緒に行こうよ、と言ってほしかったのではないか、と気が付いた。その時は碌にお礼も云わずに受け取り結局チケットを使わなかった。そんなことで恨まれることがあるのだろうか。まさか、と彼は昨年の最新の名簿を調べたが彼女の名前は無かった。と言うことはめでたく結婚して退社したのだろう。あるいは社内結婚して名前が変わったのか分からない。古い名簿を見ているうちにすっかり忘れていたそんなことまで思い出したが、ほかにはなにも気になる名前は無かった。これは会社関係は調べても無駄だと、今度は家族のことを考えた。しかし、マンションに周囲を囲まれた木造住宅に住んでいる者はいない。友人はと対象を広げてみたが思い当たらない。これはどうしようもないな、と思ったが不図大学時代の友人で、現在興信所に勤めているか私立探偵みたいなことをしている者がいたことを思い出した。
例によってバーボンのお湯割りで深夜のスイッチオフ作業をしていた。直径10センチほどの500ミリリットル入りのマグカップに2センチほどジャックダニエルを注ぎ60度のお湯で割る。三杯目を飲み終わったころに彼の視界がフラッシュした。「なんだなんだ」と我に返る。視界を共有するのは久しぶりだ。Q駅から徒歩十二分だったかな、と彼は広告の表示を思い出して酔眼をこすった。ナノ秒のフラッシュだったので定かではない。Q駅と言うと江東区にある地下鉄の駅だったはずだ。
彼は反故紙の裏で作ったメモ用紙を引き寄せると、のたくった字でQととりあえずメモした。それ以上の精神作業は今夜は無理だ。はっと気が付くと椅子に座ったまま寝込んでいた。時計を見ると午前二時だ。
翌朝、寝床から這い出ると彼はメモ用紙にあるかろうじて判読できるQと言う字を眺めた。そうだ、今日の一万歩の目的地はきまりだ。例によって場末の定食屋で昼飯を済ませるとQ駅に向かった。この駅にはバリアフリーがない。もっとも初めて来た駅なのであるのかもしれないが、見つからなかった。気の遠くなるほど地下深いところにある駅だ。ようやっとの思いで長い階段を登りきると地表に這い出た。
小一時間ほど、あたりを徘徊した。この辺もすでに高層マンションや大きな工場に囲繞されている。しかし、表から裏通りに入るとまだ古いアパートや木造家屋が点在している。ここかな、と彼はきょろきょろとあたりを見回した。アパートはさびれた外観ですでに無人に打ち捨てられた印象を持っていた。あるいは地上げ屋にすでに買い取られて解体を待っているのかもしれない。前を通ると古い食物の腐ったような饐えた匂いが微かにする。人はおろか鳩一羽はおろか猫一匹も見えない。少し離れたところには木造のしもた屋があった。ここはまだ住人がいる気配だ。これかな、と彼は家の周りを二、三周した。しかし確信がもてない。そのうちに家の二階でカーテンが動いた。どうも上から監視されているらしい。あやしい人間がうろついていると警戒されたのだろう。あるいは執拗な不動産屋や地上げ屋の手先と思われたのかもしれない。うろうろしていると警察に通報されそうだ。
根が不審者面をしている彼は普段でもよく警官に不審尋問をされる。彼は慌ててその街を離れて表通りのファストフード店に入った。注文したブレンドコーヒーは信じられないくらい生ぬるくて、まずかった。彼の席の両隣には若い女性がいて、いずれもパソコンを開いて、薄暗くて新聞も読めない店内でキーボードを叩いていた。ちかごろ流行りの在宅勤務らしい。職業婦人も当節は楽じゃない。
途中で買ったタブロイド判夕刊の毒々しい色インクの太字で印刷された虚仮脅しの見出しだけに目を通すと、彼は相変らずパソコンの画面を仔細らしく睨みつけている女性客を後にして、コーヒーを飲み残して店を出た。再び彼は駅にもどり周辺の看板を丹念に見て回った。フラッシュに出てきた『駅から徒歩十二分云々』という看板は見つからなかった。見落としているのかもしれないが。9800歩達成!
いったい誰なんだ?と彼はイライラして考えた。彼の知覚がスイッチする頻度が増えてきた。彼の脳内で独自にこのような視覚が創出されることはありえないように思えるのである。
最初これは憑依の一種だろうかと疑った。とすると彼の知っている人物になるが、相手の姿かたちが分からない。相手の視覚、つまり何を見ているかはわかるのだが、カレ自身を見ることは出来ないわけである。この辺がまどろっこしい。相手の見ている人物、景色からカレを判断するしかない。昼間の活動が分かれば、少しはヒントがある。例えば同じ会社の人間であれば事務所の有様で確認できる。また別の会社であっても大体周囲の状況でどこの人間だか見当がつく。しかし、秀夫の視界が乗っ取られるのは大体が深夜であるので、そのようなことは分からない。相手の性別も不明なのである。小さな婦人用のハンドバックでも下げていれば判断がつくのだが、いつも大きなショルダーバッグを持っている。今時は女もこういうのを持っている人が多い。電車の中でスマホを見ながら化粧をしている不心得な女がいるが、相手がスマホに自分の顔を映していれば一発で性別はおろか人物も、それが知っている人物であるかどうか、一発でわかるのだが。
そこで彼に特別に関心を持っている人間、なかんずく恨まれるような人物ではないか、とそういう人間をリストアップした。大体がそういう人間は彼にはあまりいないのである。彼はあまり熱心に友達付き合いをしない。したがって他人とトラブルになるような場合はほとんどないのである。ただし、長い人生ではむかし何かのトラブルがあったのかもしれない。大体、こちらはたいして意識していないのに向こうで一方的に被害者意識とか敵愾心を持たれるということはままあるが、そうなるとまったくお手上げである。
手がかりと言えば、帰宅時の様子とか寝る前の寝室の様子が断片的に送られてくるだけである。よし、こうなったらカレの家を突き止めるのほうが可能性があるかもしれない。
彼に分かっているのは鉄道の地下駅から地上に出て十五分ほど歩いた距離に彼の家があるということである。駅の名前は分からない。必ずしも地下鉄の駅とは限らない。現在ではJRでも私鉄でも地下に駅がある。それも都内だけではなくて郊外の駅が地下にあることも多い。彼は途方にくれた。第一首都圏だとも断定できない。
カレの帰宅する家までの様子もぼんやりと分かる。彼の家までは中層の六、七階のマンションや、二階建ての洋館が隙間なくびっしりと並んでいる町であり、彼の入っていく家だけが古い木造の二階建てである。敷地はかなり広く百坪近くありそうだ。町並みはほとんどが洋館であるが、二軒ほど相当に古そうな木造の二階建ての長屋のような木賃アパートが残っている。
周りはすべて洋館に囲繞されている。都内では木造の家が残っているところは少ないのではないか、とあまり都内の住宅事情に詳しくない彼は考えた。そうすると、これは近郊の家かもしれない。
このところの狂ったような残暑も今日は落ち着いてどんよりと曇った肌寒いような日だった。彼は大江戸線の若松河田の駅から地上に出た。
この間やめた会社は毎年職員名簿を作成して全職員に配布している。彼女が整理した本棚には一番左側の目立つところに職員名簿があった。
赤の他人の表象が彼の知覚に侵入してくることに悩まされている。その表象も動画なのである。夢の中だけではなくて街中を歩いているときにも入ってくる。階段を下りているときなどに彼の視覚を占領されると、踏み外して転落してしまいそうになる。
憑依するというか、受信するというかはやはり何らかの関係がある人間の可能性が高いのではないか。不図思いついて彼は職員名簿の一番新しい版を本棚から引っこ抜いて机の上にで開いた。
まず退職時に所属していた部署所属の名前を見た。続いてこれまで所属していた課を順に新しいところから見て言った。取り立てて記憶に引っかかるような人間はいない。そのうちに一人の人間の名前のところで視線が停止した。トラブルと言うのではないが、代理店との問題で苦情を持ち込んできた男がいる。その男が担当している代理店から苦情を持ち込まれて、ちょうどその職員が出張していたので彼が応対した。そして便宜を図ってやったことがあった。ところがその職員が出張から帰ってきて、その代理店から何か言われたらしい。血相を変えて怒鳴り込んできて部長にクレイムしたことがあった。メンツをつぶされたというのである。ま、サラリーマン社会ではよくあることだが、非常に不愉快な記憶ではあったが、彼はすっかり忘れていたのである。
ほかに今のところ思い当たる人間もいないし、一日一万歩の日課の目標も毎日同じになってしまっている最近ではあるし、目先を変えて散歩がてら行ってみることにしたのである。彼は新宿区のZ町に住んでいた。もっとも昨年の名簿だから今もそこにいるかどうかは分からない。番地から見るとマンションではなくて一軒家のようだ。白日夢つまり彼の知覚に突然飛び込んでくる映像では周りを低層階のマンション風の洋館に取り囲まれた日本家屋の一軒家なのである。はたしてそこが白日夢に現れるロケイションかどうかお楽しみというわけである。
方向感覚の取りにくい街であった。道幅がやけに広く交通量が多い大通りが不規則にぶっちがいに五差路、六差路に交差している。あらかじめ地図で新宿よりを右に入ると確認しておいたのだが、方向が分からない。結局三つ四つ違う街に入り込みようやく目的の街にたどり着いた。
地上に出ると東新宿のほうへすこし歩いてから左に曲がる。ここ何回かの夢の中に現れた「夢の中の相棒」が家に帰る道筋を辿ったのである。非常に鮮明な「天然色で立体的な」夢で道筋をはっきりと把握していた。夢を思い出しながら道をたどる。とうとう日本家屋が残っているところは見つからなかった。もっとも路地裏すべてをうろついたわけではないから見落としているのかもしれないが。
大通りから車一台がようやく通れるような曲がりくねった道を入り込む。道の両側には三階建てくらいのあまり広くない地所一杯に損をしては大変だというように、むりやり建てたような低層マンションが立ち並んでいる。一昔前までは日本家屋だったのだろうが、親の代替わりでコンクリートの洋館に建て替えられたらしい家屋がある。家屋やマンションの間にはすきまがない。なにか気の滅入るような街だ。昼下がりの街には人通りがない。猫や犬も一匹もいない。
もっともよく考えてみると相手は男性か女性か分からない。彼の知覚に飛び込んでくるのは相手の視界の中のものであって相手の顔ではないから確認できない。当たり前である。相手が鏡でも見ていない限り自分の顔が自分に見えるわけではない。ウィットゲンシュタインの言う通り、いや彼が言うまでもなく常識である。ただあたりが暗くなってから帰ってくるところをみると勤め人、いやさ、サラリーマンであることは間違いないようである。
彼は徒労に終わった探索から足を引きずりながら帰った。携帯の歩数計をみると7631歩である。歩きなれない道を歩くとかなり疲れをおぼえるものらしい。
彼はあまり古本屋に寄らないのだが、三省堂も長期工事に入ったし、神保町の書店めぐりもすぐ終わってしまう。そこで毎日一万歩の目標を達成するために、最近は古本屋をのぞくこともある。そこで買った本に次のようなことが書いてある。
透視と言うのは一方から他方を見るということである。障害物があるとか、非常に遠方にあって普通は見ることが出来ないものを見るということだ。他人の内心の考えを言い当てるような場合も場合によっては透視というかもしれない。一般に超能力のひとつとされる。
では非常に遠方にある人間の知覚や表象を共有するのをなんというか。憑依と言うのとはちょっと違う。憑依と言うのは一方の人間の意思や命令が相手方に向けられる。つまりとりつくことだ。二人の力関係である。一方が他方を支配する。場合によっては相手はお狐さんだったりマルクスだったりするが。ただ単に相手の見るものを見、聞くものを聞くという現象は、そういう現象があるとして、何というのか。千里眼というのかな。
その場合、Aという個人の見ていること、聞いていることが空中を伝わってBというまったく関係のない相手に伝わらなければならない。しかも瞬時にというか同時に。こんなことがあるのかどうか。検証が十分に行われているとは言えないが、古来そういう例が報告されている。哲学者のカントなども「視霊者の夢」なる論文をものしている。カントは事実は認めるが検証や説明は不可能であると書いている。この事例がカントが純粋理性判断を執筆した動機といわれている。
この場合、オカルト現象の体験者がスウェーデンの著名な科学者であって、報告が疑えなかったからであろう。彼の名をスウェーデンボルグという。
彼は旅行中数百キロ離れたストックホルムの大火を同時刻に「見た」というのである。この場合「見た」と言うのが直接見たのか、ストックホルムの住民例えば彼の知人が見たことが400キロの空中を瞬時に奔ったのかはカントの論文やスウェーデンボルグの伝記では不明である。カントもそこまで分析していない。うかつと言えば迂闊な話である。
いずれにせよ、この事件がスウェーデンボルグが本格的に霊的問題に取り組む一つの機縁にはなっているらしい。
そこでだ、そういうことがあるとして、その場合キャリアは何だということである。二地点間で影響しあう場合には必ず仲介者がいなければならない。離れた空間で影響しあうのは代表的なところでは引力や磁力がある。また光は物象を運ぶ媒体となる。じゃあスウェーデンボルグのような場合は何なのだ。一番可能性があるのはやはり「ひかり」か同様の伝播力を持つ電波かニュートリノのような素粒子の仲間だろう。光や電波は一秒で地球を七周半だかする。400キロなんてメじゃない。
フムフムと唸って彼は一昨日見た夢を思い出しながら、しばし本を置いたのである。
父親の残した写真は整理の手の付けようがなかった。これは残飯整理のようなものだな、と彼は気が付いた。父の遺品をきょうだいで分けるときに、てんでに勝手に我先にめいめいがいいところを持って行ってしまったときの様子を思い出した。
アルバムに貼って整理された写真は兄弟が分け合ってしまっていた。よく撮れたはっきりと写っている写真はめいめいが我先に取っていったのである。だから残っているのは父が撮ったと思われる素人写真が主であると推測された。ピントが合っていなかったり、どういう目的でとったか、被写体が分からないもの、現像に失敗したものがほとんどなのである。ようするに残った残飯を整理しているのと同じなのである。
とにかく系統的に分けなければ何が何だか分からない。かれは文房具屋に行って封筒を沢山買ってきた。A4では大きすぎるのではないかと考えてA5くらいの茶封筒を二十枚ほど買ってきた。
被写体の人物が一人でも分かっている写真は父方と母方に分けた。もちろん兄弟と一緒に映っていたりするのは別にした。つまり写真のなかで彼の知っている人物が入っている写真は、その人物に応じて父方と母方の写真に分ける。しかし父方とはっきりとわかる写真はほとんどない。何しろ父方の親戚で顔の分かっているのは父しかいないのだ。母方は祖父母、叔母たちやいとこなどの親戚はみな顔が分かっているから簡単である。父方はあきらかに会社や役所関係の人物と思われる写真は別にひとまとめにした。
遺品わけのときにきょうだいが争っていいところを持っていいってしまって、残っているものはピンぼけや素人の失敗写真などである。したがってピンぼけ、周囲が光線が入って白く感光しているもの、注釈の書いていないもので誰が写っているかわからないバラ写真ばかりだ。
そのほかに男で単独に映っている写真はおそらく父の田舎の親類だろうとおもわれる。
その他で多いのは若い、といっても30前後の女性の写真である。これが非常に多い。そのほか大体三人ほどに絞られる。中でもひとり何十枚も写真がある女性がいる。いかなる関係のあった人物か見当がつかない。この女性の写真は同一の写真の焼き増しが手札型のでも30枚以上ある。美人とは言えないが、肉感的で我の強そうな女である。その他にもこの女性単独の写真が十枚以上ある。まさか芸者のお披露目用の写真でもあるまい。着ている者からはそう判断しにくい。
ほかにかなりの数の二、三人で写っている写真がある。すこし年配、30過ぎくらいか、どうも素人とは思えないあまり品のない女が二人ほど父の被写体になっている。知っている顔ではなく、どういうかかわりのあった人物かまったく不明であるが、父の異母姉かもしれない。この種の写真が一番判断にまよう。これらはいずれも素人っぽい腕前で父が若いころの被写体と思われる。
(本日の原稿は昨年9月30日にアップしたものを修正加筆し再掲するものです。)
ここ数日プリントをしようとすると、インクが切れていますと表示される。大体においてこういう場合面倒くさいからなかなか新しいインクを買いに行かない。それでも脅迫的な「インクがない」と言う表示が出ても二週間ぐらいは正常にプリントできる。かすれもしない。もっともそう大量に毎日印刷しているわけでもない。
しかし、新宿で昼飯を食った後で、たしか西口にパソコン関係の量販店があることを思い出して、インクを買うかと駅前の大通りを渡り、ごみごみとした通りを大型量販店に向かったのである。
相変わらず人出が多い。スマホを見ながら前をよく見ずに歩いている若い男女が多い。こういう連中には突然雑沓した往来の真ん中で立ち止まる。つまらないニュースで突然びっくりして立ち止まるやつ(あるいは雌)がいる。まるで親とか連れ合いの死亡を通告されたとかと思うほど我を忘れて立ちどまる。こんなことをされると後ろを歩いている人間は急には止まれない。だから彼は雑踏では常に前の歩行者の異常行動に注意を払っていたのである。
前の人間にぶつからないようにと前の歩行者の背中を見ながら注意して歩いていると、ちょうど前を歩いていた背の低い男がいきなり振り返り、すごい形相で因縁をつけてきた。怒鳴り声は大きかったが何を言っているのかは把握できなかった。なにか気に障るようなことがあったらしい。しかし、こちらはスマホを見ていて前方を注意していなかったわけではなく、逆に距離を開けて歩いていた。わけが分からない。ぶつからないようにその男のボサボサの白髪交じりの後頭部に注意していただけである。
新宿の雑踏にはおかしな人間が多い。こういう時に、たんに「何ですか」と反問しただけで更に逆上する連中がいる。立ち止まって黙って相手を観察した。その男は年齢は3,40歳ぐらいで崩れた感じの自称アルチザン風とも取れた。自由業と言うか、芸能界の縁辺に巣食ういわゆる自由業のルンペン芸能人ともとれないこともない。
髪を長くのばし、櫛も入れていない。顔の皮膚は睡眠不足を思わせてどす黒く、病的に疲弊した感じである。後ろから歩いてくる私がなにか触ったか何かしたと勘違いしているらしい。場所柄、ドラッグに酩酊した芸術家風の男が多いのかもしれない。 勝手に妄想にとらわれているのだろう。
私は用心深く距離を保ったまま状況を見極めようとした。相手の男はそのうちに自分の錯覚と悟ったのか、再び前に歩き出した。ヤレヤレ、今日は厄日になりそうだと嘆息した。こういう特異な日は妙なことに続けて変なことに遭うことが多い。注意しようと思った。
裕子の立ち去った部屋はシーンと静まり返った。
彼は電話機を引き寄せると叔母に電話した。彼女の協力でルーツ探しの母方の分は詳しすぎるほど調査が終わっていた。母の実家はいわゆる旧氏族の家系だったので郷土史家に頼んで調べてもらい相当詳しく分かったのである。
電話に出た叔母に協力のお礼を言うと叔母は「それでお父さんのほうは分かったの」と聞き返してきた。
「いいえ、それがまるっきり手掛かりがないんですよ。山間の農家らしいが、全く分からない。親類とも父は行き来が無かったようだし、父が子供たちに郷里のことを話すことも全くなかったですからね」
「ふーん、何でも地方では大変な名家だったって聞いていたわよ」
「いわゆる仲人口というやつでしょう」
「そうかしら」
「父は再婚で相当の年齢だったし、随分成功して出世していましたからね。そういっても通用したんでしょう」
「それでは仲人口に騙されたわけ」
「そこまで言うのもどうかと思うけど、ま、よくある話じゃないですか」
「そうかしら、ところでこれからどうするの。調査中止?」
「そうですねえ、一度訪ねてみようとも思ったんですけどね。父がまったく交際を絶っていたのには訳があるんでしょうから、いきなり僕が現れたら田舎の人がどう反応するか、いまいち判断がつかない」
「そうだわねぇ、慎重にしたほうがいいわ。それにさ」と彼女はふと思いついたように言った。
「あんまり昔のことをほじくりだすのもよくないというわね」
「どういうことですか」
「そういうことを言わない?。なんか変なことが起こるとか。昔の霊が呼び起されるとか」
そういえば、大病以来妙なことが増えたようだ。急に橋が渡れなくなったとか、妙な夢をよく見るようになったとか。
「ま、無理をしないことね」と最後に彼女は言った。
電話を切ると、彼はどうしたものかと改めて思案した。父の実家と言うか田舎の親戚を探して訪ねまわるということは慎重にしたほうがよさそうだ。しかし、一度はどういうところなのか見てみたい。鉄道かバスで、と考えたのである。
彼女は冷蔵庫を開けると「卵は切れているのね」と落胆したような声を出した。冷蔵庫には、ある時でもタマゴ、時にミルク、缶ビールくらいしか入っていない。いまはなにも入っていない。青い照明が何もないがらんどうの庫内を冷たく照らしている。
「朝食はどうするの」と彼女は口を尖らせながら彼を見た。
「オートミールがどこかにあるから、それにしようよ」
「だけとミルクがないじゃない」と彼女は指摘した。
「どこかにクリープがまだ残っていたと思う。それを使えば」
「しょうがないな」と言いながらシリアルのパックの中を覗いた「どのくらいいれるの?」
「シリアルは大匙で五杯、クリープは三杯か四杯がいいだろう、勿論好みで調節して」
「ふーん」と彼女は眉を顰めながら呟いた。
「お湯を沸かすのね」
「いや電子レンジでいいよ、一分半」
彼女がこの間買ってきた自分用のティーパックで紅茶を入れた。「あなたはインスタントコーヒーをスプーン大盛で三杯ね」と彼女は彼の朝のスターター処方を心得て言った。食べ終わると彼女はハンドバッグを取り上げるとあわただしく会社に行くために出て行った。
しばらく意味もなく、興味もなく、朝のニュースやワイドショーを眺めていたが、『そうだ、俺の夢パターンにはコネクティングルームというのもあったな。最近よく見るようになった』と思い出した。
ホテルによっては二部屋が内部のドアで行き来できるようになった部屋がある。大家族とか訳ありのカップルが廊下に出ないで行き来できる仕組みの部屋だ。普通のマンションには無いように思うが良く知らない。とにかく夢の中でそういうマンションに住んでいるのだ。勿論二つの部屋は内壁のドアで仕切られている。必要に応じてドアにカギをかければ独立した部屋になりプライバシーは確保される。
彼の夢ではどこか全く記憶にない棲んだこともない部屋に暮らしているのだ。しかもコネクティングドアがあるということにまったく気づかない。それがある晩、隣の部屋に行けるということに気が付いて不安に襲われる。なぜなら隣の部屋の住人がいつでも自分の部屋に入って来られるからだ。それでぞっとするという夢だ。しかも妙なのはその部屋に住んでいるという現実感は鮮明なのに、思い出そうとしてもそんなマンションに住んだ記憶はないのだ。
彼女にはさっき話さなかった。その時には思いださなかったからだが、彼女の「フロイト式解釈」でこじつけるとこの夢はなにを意味しているのだろうか。要点はなにかと彼は思案した。つまり、知らない間にプライバシーが侵されているという不安を表しているのか。もっと突っ込めば、なにか他人の考え、霊と言ってよければ、そんなものに憑依される不安を表しているのだろうか。