「砂の王国」を読み終わった。忘れないうちに書いておこう。最後の百ページで失速、滑走路手前に墜落した。前に書評を書いた「ガダラの豚」は最後の3,400ページできりもみ状態になっていたから、こちらの方はまだいい。最後の百ページ(つかみ)はガダラと同じく少年漫画ふう。
教団が膨張を続けてどういうきっかけで変質し、オリジナル・メンバーの内紛が起こるかというのがキモであり、荻原氏の構想力、筆力からどう展開するかな、と期待していたのだがお粗末だった。
そこでこの辺の失速が直木賞に落選した理由かな、と選考委員の評を読んだ。一人もラストとそれまでの落差に触れたものはない。それに対して「先行作品があるとか気になった」というコメントはほとんどの委員が書いている。
篠田節子氏の「仮想儀礼」が先行作品というが、(記憶)では先行作品というのは理由にならない。これをそんな理由で撥ねれば「探偵小説はほかの探偵小説があるから駄目」という理屈が大手をふるって通用することになる。
思うに、作家が選考委員であることが原因ではないか。少しでも、どこかで、設定とか登場人物の関係が似ていれば「模倣」と排除するのは作家としての作家ギルドの自己防衛以外のなにものでもない。そうやって、先行者としての自分の利権を守りたいのである。後輩者に対してこの理屈でいちゃもんを付けるのは利権を守ることになるからね。
改めて各選考委員飲評価を見てみた。選考委員は九人いる。
伊集院静:わりと高い評価をしている。先行作品云々には触れていない。
林真理子:仮想儀礼を先行作品として理由にしている。かなりお粗末な論法
阿刀田高:「ステレオタイプ」「結末もきっとこうなる」 << そんな必然性はない。結末はこの作品の最大の瑕疵である。つまり阿刀田氏の構想力、想像力は荻原氏なみということ。
宮部みゆき:「同一テーマの先行作品があるが、そのことは大きな問題ではない」
そのとおり、しかし仮想儀礼は先行作品ではない。さらに言えば「同一テーマ」でもない。
彼女は部分的に一人称から三人称に変換しているところに違和感を表明しているが、私も同感である。
桐生夏生:彼女は既視感があるそうだ。これは先行作品という意味だろう。
宮城谷昌光:登場人物が急に増えることによって、希薄化(これは私の要約、かれは長々と書いているが)。後半特に最後の部分についての評なら当たっている。
渡辺淳一:「バーチャルで(ママ)ゲーム感覚で書かれた」。最終部分については当たっている。
浅田次郎:類似作品が取りざたされている」
北方謙三:「既視感がつきまとう」
以上であります。ヤレヤレ(誰かに似ているね)
追記:選考委員が全員同じ口調で「先行作品云々」という。推測だが、だれも仮想儀礼を読まないで言っているのではないか。もっとも一人ぐらいは前に読んでいたかもしれない。また、それなら読まなくちゃと初めて読んだ良心的な人も一人ぐらいはいるだろう。
じゃあ何故小学生のように口をそろえて複唱するかというと直木賞というイベント企画人(文芸春秋)の担当者が事前に候補作品のブリーフィング資料を作って選考委員に渡しているのだろう。先生たちは忙しいからね。候補作品は自分で読むだろうが(大部分は流し読みだろうが)、出版社の編集担当者がこういう先行作品があると言うので、確認のために自分の目でじっくり読むような良心的な選考委員はいないのだろう。
そうでなければ北朝鮮の幹部が金正恩の言葉を口移しにするように同じことを非クリエイティヴ
に繰り返すこともないだろう。