穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

南国太平記を資料として読むとはどういうことか

2017-12-13 14:53:22 | 直木賞と本屋大賞

 はやとちりの読者がいるといけないので断っておくが幕末薩摩藩の内情の「史実」を南国太平記に求めたわけではない。そんなバカげた誤解をする読者はいないと思うが。

 私が読んだのは幕末のアルカイダ西郷隆盛の怪文書として読んだのである。すなわち西郷党の宣伝パンフレットとして調べたのである。川口松太郎という大衆作家がいた。たしか川口浩とか川口ひとみとかいう映画俳優の父親ではなかったか。直木三十五の使い走りとして出発した人物である。彼が南国太平記には種本があったらしいとのちに書いている。直木は絶対にその資料を川口に見せなかったそうである。これは西郷一派が久光派を狙い撃ちしたスキャンダル文書であることは間違いない。西郷一派のことであるからどこまで本当か分からないが薩摩藩士に相当の影響力を与えたらしい。ま、稗史という言葉もある。

 西郷一派がどういう宣伝工作を行っていたかという「史実」を私は調べたわけである。なぜそんなことを調べたのかというのか。若干家の歴史に関係してくるのでね。詳しくは話せないが。


直木三十五「南国太平記」に再会

2017-12-12 22:33:38 | 直木賞と本屋大賞

 犬も歩けば棒にあたるといいますが、わたくしという「自我を失った犬」が本日市中徘徊中に珍しい本に遭遇しました。探していた訳ではなくて行き当たりばったりに眼についたのです。

 直木三十五といえば菊池寛の友達で芥川賞と一緒に直木賞を作ってもらった作家で、生前は飛ぶ鳥を落とす勢いの流行作家だったというが、現在一冊の本も手に入らない(古本を除く)。ま、大衆作家というのはそう言う者では有りますが。例外的には吉川英治などがあるが彼とてほぞぼそと文庫が生存しているに過ぎない。

 南国太平記は彼の代表作と言うことになっており、書名だけは好事家の間では有名ですが読んだ人はほとんどいないのではないか。私は大分昔になりますが、幕末の薩摩藩のことを調べる必要があって、古本屋で見つけて購ったのであります。古本に手を出すことの無い私として異例のことでした。

 それが角川文庫で先月出たのですね。上・下二巻約1200ページ。私が読んだのは単行本でたしか五分冊だった。文庫本上下で収まるのかな、と疑いましたがとりあえず購入。昔読んだ本は出版社の名前は忘れたが、確か昭和30年頃の発行だと怪しげな記憶が有る。原作は昭和5年から6年にかけて新聞に連載された。

 この文庫には北上次郎氏の短い解説が載っている。大変面白いとあるが私の記憶では別に面白くもなかった。上に申し上げた様に資料として読んだだけですから。

 その後、つまり昭和30年ころ?以降に再版されなかったとおもっていたが、北上氏によると、1997年に講談社から出版されたそうだ。これには気が付かなかった。それで(一部の大衆文学史では)有名な割には再版されないのは訳があると思っていた。それが正しいかどうかは分からないが、出版界には皇室に対する自主規制というか遠慮があったのではないか、と理解していた。

 おいおい後で回を改めて述べるつもりだが、簡単にいうとこれは薩摩藩の有名なお家騒動を扱っている。世にお由羅(またお油羅)騒動という。簡単に言ってしまうが、香淳皇后(昭和天皇の皇后)はおゆらさまから五代目の子孫であらせられる。

 小説では、またその元になった流説ではおゆらは希代の毒婦である。島津

斉興の側室となり島津久光を生む。斉興が正室に生ませた斉アキラのこどもを次々と呪殺させたとして西郷隆盛に毛嫌いされた女性である。

 昭和天皇がご婚約を発表された時には薩摩の西郷党(昭和の初めでも右翼の間では勢力があったらしい)一派は右翼を結集してこの婚約を破棄させようとした。世にこれを宮中某重大事件という。直木三十五の南国太平記はまさにこのような時に書かれた。軍部の青年将校の間でも愛読者が多かったと言われる。

 戦後この本が出版界で日の目を見なかったのは出版業界の自主規制ではないかというのはこのことである。1997年の講談社の本もあまり注目されなかったようだし、今回の角川文庫はどうなのかな。時代の変遷で受容の仕方も違うのかも知れない。>>

 

 

 


滑走路手前にクラッシュ・ランディングした「砂の王国」

2017-07-20 08:20:36 | 直木賞と本屋大賞

 

「砂の王国」を読み終わった。忘れないうちに書いておこう。最後の百ページで失速、滑走路手前に墜落した。前に書評を書いた「ガダラの豚」は最後の3,400ページできりもみ状態になっていたから、こちらの方はまだいい。最後の百ページ(つかみ)はガダラと同じく少年漫画ふう。

 教団が膨張を続けてどういうきっかけで変質し、オリジナル・メンバーの内紛が起こるかというのがキモであり、荻原氏の構想力、筆力からどう展開するかな、と期待していたのだがお粗末だった。

 そこでこの辺の失速が直木賞に落選した理由かな、と選考委員の評を読んだ。一人もラストとそれまでの落差に触れたものはない。それに対して「先行作品があるとか気になった」というコメントはほとんどの委員が書いている。

 篠田節子氏の「仮想儀礼」が先行作品というが、(記憶)では先行作品というのは理由にならない。これをそんな理由で撥ねれば「探偵小説はほかの探偵小説があるから駄目」という理屈が大手をふるって通用することになる。

 思うに、作家が選考委員であることが原因ではないか。少しでも、どこかで、設定とか登場人物の関係が似ていれば「模倣」と排除するのは作家としての作家ギルドの自己防衛以外のなにものでもない。そうやって、先行者としての自分の利権を守りたいのである。後輩者に対してこの理屈でいちゃもんを付けるのは利権を守ることになるからね。

 改めて各選考委員飲評価を見てみた。選考委員は九人いる。

 伊集院静:わりと高い評価をしている。先行作品云々には触れていない。

 林真理子:仮想儀礼を先行作品として理由にしている。かなりお粗末な論法

 阿刀田高:「ステレオタイプ」「結末もきっとこうなる」 << そんな必然性はない。結末はこの作品の最大の瑕疵である。つまり阿刀田氏の構想力、想像力は荻原氏なみということ。

 宮部みゆき:「同一テーマの先行作品があるが、そのことは大きな問題ではない」

そのとおり、しかし仮想儀礼は先行作品ではない。さらに言えば「同一テーマ」でもない。

彼女は部分的に一人称から三人称に変換しているところに違和感を表明しているが、私も同感である。

 桐生夏生:彼女は既視感があるそうだ。これは先行作品という意味だろう。

 宮城谷昌光:登場人物が急に増えることによって、希薄化(これは私の要約、かれは長々と書いているが)。後半特に最後の部分についての評なら当たっている。

 渡辺淳一:「バーチャルで(ママ)ゲーム感覚で書かれた」。最終部分については当たっている。

 浅田次郎:類似作品が取りざたされている」

 北方謙三:「既視感がつきまとう」

 以上であります。ヤレヤレ(誰かに似ているね)

追記:選考委員が全員同じ口調で「先行作品云々」という。推測だが、だれも仮想儀礼を読まないで言っているのではないか。もっとも一人ぐらいは前に読んでいたかもしれない。また、それなら読まなくちゃと初めて読んだ良心的な人も一人ぐらいはいるだろう。

じゃあ何故小学生のように口をそろえて複唱するかというと直木賞というイベント企画人(文芸春秋)の担当者が事前に候補作品のブリーフィング資料を作って選考委員に渡しているのだろう。先生たちは忙しいからね。候補作品は自分で読むだろうが(大部分は流し読みだろうが)、出版社の編集担当者がこういう先行作品があると言うので、確認のために自分の目でじっくり読むような良心的な選考委員はいないのだろう。

そうでなければ北朝鮮の幹部が金正恩の言葉を口移しにするように同じことを非クリエイティヴ

に繰り返すこともないだろう。


 

 


教団を作る話

2017-07-18 07:33:45 | 直木賞と本屋大賞

荻原浩「砂の王国」。正確に言うと「教団を作って壊される(壊れる)はなし」である。上下二冊(文庫)。PRPosition Report )、上巻読了。平成22年下半期直木賞候補。その二年前に出た先行作品がある(設定が似ている)ということで落選した。良い線までは行ったらしいが。

 作者はその後別の作品で直木賞を取っているから筆力はある。先行作品というのは篠田節子の「仮想儀礼」である。この本は直木賞の評を見て当時読んでみた。当ブログでも取り上げたが肝心の「砂の王国」は最近まで未読であった。

 もうよく記憶していないが、それほど似ているとも思えない。この程度を先行作品(模倣という意味だろうが)とするなら類似のケースは多いのではないか。同じようなテーマ(ストーリー)を扱っても歴然たる差異があるものと、本当の模倣とは違う。ま、すっかりと忘れているので「仮想儀礼」はもう一度読んでみよう。例によって読後該書は捨ててしまったので現在は手元にない。文庫になっているらしいからその内に再読するか。

 とにかく、上巻を読んでいても篠田版を思い出すことはなかった。読書興趣が尽きないというわけではないが、読み続けさせる腕力は筆者にはある。

 お断り:井上夢人の『ダレカガナカニイル』を80ページほど読んで書評を載せたが、こちらの方は読み続けさせるだけの内容からはほど遠い。中途半端になっていることをお詫びする。いずれ暇になったら続けるかも知れない。大森望氏が絶賛しているが理解出来ない。京大クランだからかな、ご推奨になるのは。

 


教団を壊す話と作る話

2017-07-17 21:21:44 | 直木賞と本屋大賞

中島らも氏の『ガダラの豚』という小説はある教祖の奇蹟というか超能力を手品師があばくという小説である。教団が壊れたかどうか分からないが、教団のトリックを暴かれそうになって不法行為を行った教祖、幹部が逮捕されるのが第一部である。

 この小説は第三部まであるが(文庫でも三分冊)、一部と(二部、三部)は有機的な関連はない。ただ登場人物が同じメンバーであるというだけである。言ってみれば毎回シャーロック・ホームズが出てくるが話は違うというわけ。それよりかは、つながりがあるけどね。物語としての緊密性というかまとまりはない。

 登場人物は民俗学者(先生、弟子、家族)、手品師、超能力青年の成れの果て(スプーン曲げ)、TV局の番組担当者。

 第二部はTV局と学者がタイアップしてアフリカに取材に行く。ケニアの呪術を民族学者が現地調査し、その様子をTVが取材編集放映するという企画である。第一部と第二部は一冊にまとめてもいい。書くと長くなるし、面倒くさいが8年前のフィールド・リサーチの時に事故死した民俗学者の娘が呪術師の呪具になっているのを奪い返して命からがら日本に逃げ帰る。この結末活劇はTVの低俗番組のことし。

 第三部は第二部終わりの活劇の続きで奪われた娘を取り返しにアフリカの呪術師が日本に来てチャンチャンバラバラする話だが、まるで低級TV活劇の粗書き(なんていうの、脚本、台本?)あるいは低級な子供向け漫画を見るが如し。

 一部と二部は割と読ませるが第三部はいきなり質が低下する。そのためかどうか、この作品は平成5年上半期の直木賞候補だったが、高い評価は得られなかったようである。

 なお、タイトルは新約聖書に出てくる話でエピグラフに全文が引用されているが、叙上の小説の内容とはマッチしない。

 


恩田陸「蜜蜂と遠雷」、韓国市場をあてこむ著者と編集者

2017-05-03 07:01:57 | 直木賞と本屋大賞

 本屋をまわると、村上春樹氏の新著と恩田陸女子の新著がてんこ盛りである。最近は「蜜蜂と遠雷」のほうが優勢である。そこで久しぶりに新著をとりあげる。当ブログの方針である「社会的にニュースになった本」を対象とする。

 例によって最初にポジション・リポート: 400ページまで読んだところ。ただし後で書くが三次予選の描写あたりからぐっと質が落ちたようなので、その辺はほとんど読んでいない(つまり一ページ1,2行読んでだめだとおもうと次のページをめくる)。

 1:布石がいい。ただし叙述が明晰でないところがあるので、100ページ当たりまでは二度読んでから先に進むとよい。とくに高島明石が女性かと思ったり、明人というのが彼の息子であるというのがはっきりしない。

 2:テーマは音楽コンクールの予選から決勝までをおうものだが、音楽の演奏を自然描写とか絵画とかドラマ展開に変換していくので、これが新機軸かどうかは寡聞いや寡読にして知らないが、なかなかうまい。わかった気にさせる。音楽に疎い小筆が読んでも文章としては読ませるという意味である。このスタイルは演奏者、鑑賞者(聴衆と他の共演者の演奏を聴く参加者)の心情描写に使われる。

 読んでいて、疑問に思ったのは(音楽業界にうといので)、音楽評論家も同じ手法を使うんだろうかということ。つまり演奏のうまい、下手をそんな風に評価するのかということ。読んでいくと著者は審査員の記述ではこういう書き方はしていないようだ。つまり演奏の受け止め方が鑑賞者と審査員では違うものとしてかき分けている。おそらく意識的にしているのだろうし、合理的で読んでいて納得できる。

 もっとも、審査員が彼らの弟子を指導するときには自然描写とかドラマ性を曲の演奏指導のtipにすることはありそうだ。

 3:大会は第四次の決勝まであるのだが、第一次、第二次までは読ませる。第三次からは描写の質が落ちるようだ。文章のイキも短く箇条書き的になってきた。意図的に著者が別の観点か手法を用い始めたのかもしれないが、単に質が落ちてきたように思われる。そこ今後は第三次、決勝の箇所はすっ飛ばして最後の2,30ページだけ確認しようかと思っている。

 4:異様に感じたのか、意外に韓国、中国の参加者(コンテスタント)が沢山登場して、皆主演級の扱いを受けていることである。現在の世界の音楽マーケットの状況を知らない小生としては、それが実態なのかどうかは判断できない。第一小説だから実態を反映する必要もないのだが。この辺は著者かあるいは編集者の意識が韓国マーケット、大陸マーケットにあることを示している(のだろう)。村上春樹作品にも全作品に中国マーケットを意識した箇所があるが。恩田氏の作品は40冊以上韓国で翻訳されているという。

 


破門が映画になるそうだ

2017-01-30 09:44:48 | 直木賞と本屋大賞

 テレビの芸能欄でいっていた。改めて本を見るとたしかに帯に映画化って書いてある。西川(だったかな)巡査部長は出てくるかな。ヤクザ、それも下っ端のヤクザの便利屋みたいな男だったが、端折るだろうな。映画だからどんどん端折る訳で警察から文句が出そうな所はどんどん端折るだろう。

思い出して後書きを読み返した。直木賞選者の浅田次郎の評だが「細密なディテールの集積は、まったく映像の表現しきれぬ、小説ならではの世界である云々」

意味がよく分からなかったがカジノのルールを非小説的に解説したところなのかな。よく分からない。映画を見に行くつもりはないが、浅田氏の評からすると映像化に問題があるということらしいが。ま、どうでも良いことだ。こちらで心配することではない。


「破門」終わりはよろしいようで

2017-01-29 19:42:03 | 直木賞と本屋大賞

あと百ページあまり残した所でどうしようかと思った。この種の小説は最後まで我慢して読むと失望がいや増すのが普通なのでね。ところが捨てる機会も無いまま放置してあったのを本日手に取って最後まで読んだ。予想に反して終わりの部分はそれまでの部分に比較すれば「非常によい」。 

この小説の出だしはどうだったのか、とか、途中の細かい筋はすっかり忘れているのだが、そんなこととは関係なく気持ちよく読めた。これは非常に珍しいことだ。相当な腕だと認めよう、終わりの部分を読んだ印象は。

ところで前にタイトルで「ヤクザは小説家である。声優である」なんて書いたがすこし補足しないと何のことかわからないだろう。その心はヤクザも小説家も自分で考えた勝手な筋を相手に強引に売りつける、である。小説家は不特定多数から一冊100円だか150円だかの印税で広く浅く売りつける。ヤクザは「因縁」という名のフィクションを特定の目を付けた個人から強請り取る。ヤクザは小説家と違い対面販売だから相手を脅す声色を練習しておかなければならない、という訳である。

 


これがハードボイルドだって? 小説家はヤクザである

2017-01-26 11:17:28 | 直木賞と本屋大賞

前回書いたが「破門」が直木賞を受賞した時に、取り上げようとして書店で見つからなかった。どうせ同じ作者が書いたなら似たようなものだろうと書名はわすれたが「*神*」とか言うのを買って途中まで読んだ。非常に退屈な本でヤマがない。ということは平野も裾野もない。同じような場面(つまり丘)は数十回、数百回続くという印象だった。 

そのときの記憶を忘れていたので、前に探した本があった、というので破門を買ってしまったのだ。立ち読みで後書きにずらずらと直木賞の選考委員の評が引用してある。これ以上ない言辞を連ねて絶賛している訳ね。今回途中まで読んで一体これらの選考委員がどんなことをいったのか、と改めて後書きをみたのだが、呆れたの一言。

ただ、高村薫の批評に「ほかの五作に抜きん出ており」とある。ほかの五作とは同じ作者のそれまでの作品ととれるが、比較の上で言うと「*神*」よりかはいいだろう。それとも「他の五作」というのはその回の他の候補作のことかな。

この後書きの作者は紀伊か何処かの地方紙の記者らしい。もとは朝日新聞にいたらしいが、この作品は「ハードボイルド」だという。これもおかしな意見でこれが「日本の」ハードボイルドなのかしら。任侠映画を崩した小説みたいで、私は任侠映画というのは、あるいはヤクザ映画というのはウェットの極致にあると思っているから、これをハードボイルドと言われると唖然とする。

ところで、何だね。これは警察を相当刺激しただろうね。暴力団対策の刑事が出てくるが、これが下っ端のヤクザから5万、10万のはした金を貰って違法な使い走りをする場面が頻繁に出てくる。しがない文芸誌に連載している分には目立たないだろうが、直木賞をとって社会ダネのニュースになると警察もなにかいいたくなるんじゃないかな。それで出版社に圧力をかけたのかもしれない。 

それと金融犯罪の手口を言わなくても良いことまで細かく書いている。それだけ一生懸命取材をしたのだろうが、オレオレ詐欺(この小説はそうではないが)の手口を紹介するようなもので警察としては待ったをかけたくなるだろう。

滑稽なのは、何回もマカオの取材に行った作者の成果をぶちまけたいのだろうが、カジノでの描写が細かすぎて興味索然とする。小説の流れから言うとこんな説明は全く不要である。

カジノで葉巻を吸う場面があるが、爪楊枝で吸い口を開けるというのを得々として書いている。専用のカッターがあるのを取材しなかったのかな。歯で噛み切ると吸い口がバラバラになるから、というのだがカッターが無い場合は吸い口を噛み切るのが普通じゃないの。葉っぱがバラバラになるなんてことは経験したことがない。田舎者が大根をかじる様に噛み切るとそうなるのだろう。よほど安物の葉巻ならしらないが、一本300ドル(香港ドルらしいが)もする高級葉巻が吸い口を噛み切ったからとバラバラになるとは有り得ないことだ。そんな巻きの粗雑な葉巻にはお目にかかったことがない。

 


ヤクザは小説家であり声優である

2017-01-25 07:39:24 | 直木賞と本屋大賞

 このブログ十日以上も更新していない。さぼってはいけませんな。もっとも書くこともなかったが。それにつれてアクセス数も激減した。

何年か前に芥川賞、直木賞の受賞作を取り上げようとしたことがある。話題性だけはあるし、多少はこのブログのアクセスが増えるかな、という助平根性からである。しかし、何人かやってみて、どうも気の滅入るような下らない作品が多くて、そのインセンティブも消滅した。

そのころに、新聞なんかの書評のヨイショ記事でちょっと注意を引いた作品があったので、書評してみようかなと思った本があった。黒川博行氏の「破門」だった。当時書店で探したがこれがない。普通直木賞なんか取ると書店がしゃかりきで店頭にてんこ盛りにするが、全然見当たらない。必死になって探すこともないのでそのままになっていた。

彼の他の作品は単行本、文庫本で店頭に並んでいるのにどうしたのかな、と思ったことだけを覚えていた。そのせいだろう。この間書店の文庫棚「ク」の前を通ったら「破門」が平済みに(といっても4、5冊)なっていた。解説を見たら2014年の受賞作という。四年目に文庫になったわけだ。これだけは普通のペースらしい。

当時書店に単行本が無かったのはどうしてかな。売り切れなんてことが有る筈がない。売れれば増刷するだろうし。なにか事情があったのか。それにしては文庫本はでるからわけが分からない。印税のことで揉めたのかな。あるいはヤクザが買い占めたのかな、教科書として。あるいは彼らに都合の悪いことが書いてあったのか。

で、今回は最近のこのブログの趣向を変えてこの本を読んでみようと思う。現在63ページ。

 


浅井リョウ「何者」

2015-12-12 07:35:23 | 直木賞と本屋大賞

文庫で300頁でいま200頁。これ芥川賞だろう、とカバーを確認。やはり直木賞。芥川賞で技能賞という感じなんだけどね。就活学園物語だが、これ、エンタメなのかな。そう早くは読めない。現在の芥川賞のレベルでいえば、芥川賞でもおかしくない。

暫定評価60点、最後まで行くと(行けそうだが)すこし変動するかも知れない。直木賞で文庫になったのでは最新の受賞作じゃないかな。

「なにもの」と云われるような実のある(実績のある、世に出た)人間になろうとする若者の欲望を描いたものかな。

振り返ると(そのくらい昔になるが)私の学生時代当時の希望(ネガティブなもので)は「何者にもなりたくなかった」若者であった。「何者」になるということは自分をはっきりと限定してしまうことで、それが当時の私には一番の恐怖であった。

だから定義不能、何者にもならなくて済みそうな哲学を消去法で選んだ。

さて、この小説、ツイッターを多用している。この方面に不案内な小生がインターネットであさると、このようにツイッターを取り込んだ小説は初めてだそうだ。それなら技能賞ものじゃないかな。

普通の小説のモノローグというものをツイッターで表している。そして主人公だけではなく、登場人物全員のモノローグで構成している。三人称多視点のモノローグというのは珍しいんじゃないかな。従来型の小説ではこう言う時には

1:手紙を援用 2:立ち聞きという手を使う 3:伝聞、噂

を使う手があるが、せいぜい一人の視点のみだ。

 

ツイッターはやらないが、登場人物の一人の言葉だが、ツイッターというのは最大140文字で自分を表現しなければならないから、なんだったかな、自分をもっとも強く表現するだったかな、なにかそんな制約だか、メリットがあるとか云う。それもいいが、四六時中ツイッターでこんなことをするのは健康に悪いね。

云ってみれば、お湯を沸かす時に10秒ごとに一番熱くなっている表面を掬って放り投げているようなもので、永遠に対流は起こらない、すなわちお湯は全体として沸騰しない。料理だってそうだろう、土鍋に蓋をして一時間じっくりと煮る。

ツイッター世代には精神的構造物を完成する能力はないのではないかな。

続く(予定)

 


「復讐するは我にあり」佐木隆三 60点

2015-12-01 11:58:19 | 直木賞と本屋大賞

ノンフィクション小説だそうである。妙な解説がついている(文春文庫)秋山駿氏。

近代日本の犯罪小説の嚆矢だそうである。60点はグロスである。5点は香典である。合掌。ネットで55点。

カトリック教徒の連続殺人犯のマンハントを捜査側の資料にそって記述している。直木賞を取ったというからところどころで記述に冴えがあるが、全体にまとまり無く、記述混乱、非常に理解フォローしにくい。これを小筆の読解力の欠如とすることも可能である。

タイトルと内容のつながりが分からない。全部舐める様にして読めばあるいはなにかあるのかも知れない。

追う側(警察)の資料に全面的に頼っているので小説的な感興は湧かない。犯人は膨大な手記を残したらしいが全くと言っていいほど小説には採用されていない。内容が平凡なものであったのか。

犯人側の視点が少なくとも30パーセントぐらいは描けていないとつまらないものになる。唯一目を惹いたのは犯人の言葉として引用されている「この数十日間、すなわち最初の犯行から捕まるまで、ほど人生で充実したときはなかった」という言葉くらいだろうか。キリスト教徒として逃走中もミサに参加していたというが、宗教と犯罪のからみを掘り下げる力量があったらもう少し興味深い作品になったかも知れない。

 


「廃墟に乞う」佐々木譲 65点プラス・アルファ

2015-11-24 08:15:17 | 直木賞と本屋大賞

彼の作品を読んだのは初めてである。大分前にNHKだったか、「エトロフ発緊急電」というのを見て面白いと思った。なにか日本の小説と異質な物があるような印象を持った。もっとも今に至るまで原作の小説は読んでいないが。 

「廃墟に乞う」は短編集である。休職中の刑事が舞い込んで来た依頼を引き受けるという話である。ほとんどが、そして間接的な物を含めればすべて警察の紹介というかお下がりの物件である。チャンドラーのマーロウとバイオレット・マギーのような関係とも云える。

直木賞も懐が深いね(広いね、というべきか)。辻村さんのような純文学気取りの作品から、池井戸潤氏の企業小説、佐々木氏の警察小説(というらしい)そして葉室さんの「蜩の記」のような時代小説まで。

廃墟に乞う、文章は70点に近い。出来にむらあり、短編集だから当然だが。

短編「兄の思い」だったか、思い返すとおやと思うところ、マキリに関したところだったか、そう言う所も散見するが、するりと読ませてしまうのも腕だろう。

このブログで何遍も書いているがミステリーでは謎解きが平板にならない作品は皆無といっていい。しかも、謎解きはラストに来るから余計目立つ。これを避ける方法の一つは「ほのめかし」「暗示」で流すことである。佐々木氏のほとんどの作品(廃墟に乞うのなかの)は謎解きに紙数をかけない。賢明な策といえる。

ようするに全体として文章の力で読ませる腕がある。

 


「鍵のない夢を見る」辻村深月

2015-11-22 07:34:06 | 直木賞と本屋大賞

147回直木賞、160頁当たりで挫折。80頁は乗り越えたのでお約束通りまず50点、それに女性優遇枠で5点加えて55点とします。

短編集で、4作目160頁あたりで挫折。興味索然砂を噛むがごとき感あり。三作まではまあ、なんとか。構成に苦心していることは認められる。しかしこういう苦心の跡は読者に悟られてはいけない。隠し味でなければ。一読了解というのは未だし、の感あり。 

第四作は他作に比べて長いので、破綻がでたのかもしれない。表現にも工夫の跡が何カ所かある。間違いではなくて工夫の跡と取りたい。編集者の目も通っているのでね。つまり大学入試センター試験ではバツになるようなものがある。

文章には艶が欠けるようだ。

タイトルの意味がわからない。最後まで読むと分かるのかな。

 

 


池井戸潤「下町ロケット」 負担重量57キロ

2015-11-19 23:35:24 | 直木賞と本屋大賞

下町ロケット、70点と採点します。競馬のハンデで表現すれば負担重量57キログラム(古馬牡馬)というところです。 

この小説は集団騎馬戦みたいなもので、登場人物は企業というか、企業のなかのサラリーマンの集団というか、が主人公だが、うまく雰囲気を表現している。リアルかどうかということよりも、雰囲気をよく捉えている。

企業人の集団の雰囲気を捉えた小説というのは私の乏しい読書経験では非常にすくない。これがうまく表現されていないと、トンチンカンな活劇になってしまう。

著者は銀行に新卒で入り10年ほど勤めたらしい。銀行という特殊な企業に10年もいれば大体企業内のグループダイナミックスがどんな物かはわかる。しかし、その雰囲気を適切な表現に移すには才能がいる。 

かれは他にも半沢直樹とかいうおなじジャンルの作品があるらしい。大変評判がいいというが頷ける(ただし小生は未読)。