穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

宮本輝の『優駿』と『泥の河』

2016-06-30 09:35:45 | 宮本輝

 「優駿」を最後まで読みました。前に書いた様にベトナム戦争当時の世相の雰囲気を調べたくて資料として優駿をピックアップしたわけですが、今は昔の馬丁とか馬番単枠指定などの懐かしい言葉が出て来たがやはり競馬界がテーマで一般の世相のことではあまり参考にならなかった。単枠指定なんて懐かしいな。何のことだか分かる?馬単も馬番連勝もなかったころの話です。

社長令嬢が町で公衆電話を探して連絡するとか、車で走っていて電話ボックスを見つけるたびに停車して公衆電話をかけるとか(ということは自動車電話も普及する前であったことだ)、これなどうっかりすると携帯電話を登場させそうになるのを注意する意味では参考になるといえばなる。

さて、優駿と一緒に同じ著者の「泥の河」と「蛍川」の入った新潮文庫を同じ目的で買った。「泥の河」を読んだ。これは1977年の太宰治賞作品だそうだ。50年に一度くらいは太宰治賞もいい作品を選ぶね。もっとも、ほかに太宰治賞の作品は読んだことはないのであるが。

解説は桶谷秀昭氏である。これはいい。古風な小説というが昭和三十年を描けば古風になるわけで、作風には古風という評はどうかな。とにかく時代の雰囲気はくっきりと描かれている。大阪のことはしらないが、東京でも似たようなものだったであろう。

「原色の町」とかいう作品があった。読んだかどうか記憶しない。とにかく、内容の記憶はまったく無いのであるがタイトルがいかにも戦後の日本の町を一句でよく表現していたと感心したのである。

廃墟とそこから復興に無秩序に立ち上がる熱気が町中に溢れていて、そこらじゅうに原色が散乱しているという印象に括られるだろう。町の明るさも現在より数段鮮明だったような気がする。現在の日本の町が60ワットの照明下あるはサングラスを通して見た色調だとすると、裸眼に飛び込む200ワットの照度であった。

照明が強烈であれば影の暗さもまた現在とは比較にならない。そんな暗さを少年少女の描写から浮き上がらせたのが「泥の河」である。ひさしぶりにいいものを読ませてもらった。

 


第D(1)章 初めてのノン

2016-06-29 08:53:57 | 反復と忘却

テレビのニュースで日本人の平均寿命が80歳に達したと聞いた時に三四郎は突然マラソンの折り返し地点を通過したことに気が付いた。

「これからは、高高度水平安定飛行だな、いやそうも行くまい。せめて低空でも安定飛行で行きたいものだ」と思ったものである。「低空で飛ぶから気流の悪い所に遭遇することもあるだろう」。むかし、三千メートル当たりをうろうろして日本全国を飛び回っていた頃を想起したのである。気密装置もない飛行機で頭はがんがんするし、耳はキンキン鳴る。プロペラの騒音と振動は腹にひびく。乱気流でしょっちゅう揺れては吐きそうになった。

彼は人生でかって一度も自分で決断したということがない。強いて言えば決断を拒否するという意志が、つまりすべてにノンというのが彼の性向であったのである。しかし、三年前に人生で初めて一つの決断をしたのである。すべてにノンというかわりに一つの俗っぽい具体的なことにノンを突きつけたのである。会社に辞表を出したのである。その辺の事情を記述しても一つの面白小説が出来ないことはないがそれはしばらく脇に置いておこう。

大体、大学に入る時も会社に入る時も彼には決断をしたという自覚も無かったし、まして気負いも抱負もなかった。彼の性格からして退社後の展望等まったくなかった。脱サラなんて馬鹿馬鹿しい気負いは彼には無縁であった。

彼は数年前に欧州に出張したときに、休日にジプシーの占い婆さんに見てもらったことがある。ニースの裏通りにある婆さんの店の前を通りかかったのである。その婆さんの占いは彼を感心させた。黙って座ればピタリと当てる、というのが占い師の才能であるが、よく言うことが当たっているのである。

そのなかで「あなたは一生小金には困らない」というのが一番印象に残った。「小金」という言葉に少し引っかかったが三四郎の経験にも合致していた。入社後友達に誘われて始めた競馬でまだ手ひどく負けた経験がない。別に収支をつけている訳ではないが、感覚的には二十年近くやっていて、かなり浮いているのではないかと思われた。また、株も会社に入ってからちびちびとやっていたが、これもどうやら浮き沈みが無かった。競馬ほど身を入れてやらなかったがマアマアの成績じゃないかな、と思っている。

そこにこのジプシーの婆さんの「保証」である。会社を辞める時にこの時の魔女ヅラの婆さんの占いがどこかで彼の「決断」をプッシュしていたことは間違いないようだ。

 

 


第N(12)章 二人目の侵入者

2016-06-26 08:52:17 | 反復と忘却

 三四郎は平島と分かれて水道橋で国電(省線)を降りた後楽園球場のそばを通った。誰かがホームランを打ったのか、あるいは守備でファインプレーがあったのか夜空をどよもした観客の歓声が彼の上におりてきて彼を包んだ。競輪場の横を右に曲がると千川通りに入り、こんにゃく閻魔の近くまで来た時に彼は一昨年同級生と家の中で鉢合わせしたことを思い出した。警察ザタにもなったどろぼうの被害はまだ彼が小さい頃の話であったが、同級生が家に侵入して来たのは一昨年のことだった。

家にかえって来た彼は二階にいた同級生と鉢合わせしたのである。顔を知っていたが話したこともないし、友達でもない。二階の座敷に入り込んでいたその少年は帰宅した彼を見ると狼狽を隠す様に訳の分からないニタニタ笑いを浮かべ身を翻して納戸の小窓からベランダに出てそとに生えている木を伝って逃げて行った。

ちょうど入って来た所らしい。なにも取られていないようだった。三四郎はこの事件を家族にも報告しなかったし学校の先生にも言わなかった。どうしてだか分からない。少年の浮かべた恥ずかしそうなニタニタ笑いが彼の警戒心を解除したとしか言いようがない。又、あいつがはいったのだろうか。かれとは高校で顔をあわせたことがないから別の高校に行ったのかも知れない。あるいは中学を出てすぐに働きに出たのかも知れない。

今回も三四郎には彼が又入って来てエロ雑誌だけを持ち去ったとは考えられないのである。「おたよりください」欄を見たと言って電話をかけて来たのはその後数人いた。彼は家にいるときは階下の廊下にある電話の近くをうろうろしていて、電話のベルが鳴ると受話器に飛びついた。ひと月もたつと彼を恥ずかしさと恐怖のどん底に陥れた「エロ電話」もかかってこなくなった。

そうすると、と彼は考えてぞっとした。ショウコでないとすると、俺が夢遊病者の様に知らない間に投書をしたということがあるのだろうか。あの一撃以来彼はふっと自信が持てなくなる時があるのである。栓をあけた途端にポンと出てくるコーラの気泡の用に何かが身体から飛び去って行ってしまったような気がするのだ。

 


明日の競馬は馬丁組合のストにより中止

2016-06-24 08:09:06 | 宮本輝

宮本輝「優駿」の良い所、悪い所 

現在上巻の終わり当たりです。進行形書評を。

競馬サークル(生産者、馬主、調教師、騎手、馬丁<差別用語かな>、競馬記者)を描いたところはいい。あたしがアウトサイダーだから真偽は判定出来ないが、いかにもありそうに書いてある。面白く読める。

一方興ざめなのが青少年婦女子を描いた部分である。恋愛とか色事のところですね。著者はあまり得意とは思えない。描写に艶がない。

それに比べて、競馬サークルを描いた所はツヤがある。イギリスの騎手あがりのディック・フランシスという推理作家・冒険小説作家がいるが、勿論描いている国が全く違うが、描写にツヤがあると言う点では宮本氏の方が優る。岩波剛さんもドストとの見当違いな比較をするなら、ディック・フランシス作品との比較をすべきだったね。

ポリフォニーというが、それなら青少年を描いたところも水準に達していなければならない。ドストにも妙なところはあるが、力量の差は比較を超えている。

前回、当時の世相を知るために小説を探していたと書いたが、そのころ馬丁から厩務員という言葉に変わったわけだ。正確な年月は不明だが。あたしも競馬をやるが時々長い中断がある。勝(的中)が不自然に続きすぎたときと、負け(外れ)が不自然に続きすぎた時はしばらく馬券を買わないのである。いつかアタシの競馬哲学でも書こうかな。

そんなある中断のあとで久しぶりに競馬を再開したら競馬新聞に厩務員なんて言葉がある。長い間意味が分からなかった。

馬丁は差別用語だというので馬丁組合が騒いだらしい。それでこの「非日本語」に変わったようである。「優駿」に書いてある。馬丁組合は戦闘的で左派勢力が浸透していたらしく昔から何かというとストライキをした。競馬場にいくと「馬丁組合のストライキにより本日の開催は中止」という立て札があったりした。中央競馬でですよ。

昔競馬開催が中止になるのは大雪と馬丁ストに限られていた。大雨の時には中止にならないのだね。大雪だと地面が見えなくなるので、馬がおびえるせいかもしれない。雪だとすべるから? それならどろんこの不良馬場も同じだからね。そうそう、一度新潟だったかな、台風で開催中止になったことがあったっけ。

 続く予定(最後まで読めれば)



第N(10)章 平島君

2016-06-22 08:21:59 | 反復と忘却

 東京の西の外れにある講師のアパートをおとずれた高校生達はまとまって中央線で帰った。途中で一人おり、二人おりて市ヶ谷ではとうとう三四郎と平島の二人だけになった。

このサークルに三四郎を誘ったのは平島だった。三四郎には去年あたりからまったく友人がいなくなった。誰も寄ってこないし、彼自身が友達を求めて行く気もなかったのである。そんななかでどういうわけか平島はよく彼に話しかけて来たのである。もっぱら平島が一人で話していることが多かった。三四郎はたいてい黙って聞いていた。話は大体が詩の話とか小説家の話題だった。三四郎は全然興味が無かったから黙って聞いていることが多かった。

なにを言っても文句も言わず反論もせずに黙って聞いている彼が平島にとっては都合が良かったのだろう。彼はまた映画の話をよくした。彼の兄がテレビ会社に勤めていた。外国の映画の輸入に関わっていたらしい。そういう関係なのかまだ日本のテレビで放映されていない映画の話を得意そうにすることがあった。これも三四郎にはさして興味はなかったが黙って聞いてやっていた。

彼は又自分が読んでいた本を三四郎に貸したがった。この間も熱に浮かれた様にリルケの話をしていたが、彼にその詩集を押し付けたのである。少し読んで三四郎には何の感興も湧かなかったが、返す時になにか言わなければ悪いと思って無理をして飛ばし読みをしたのである。

「世の中にはすごいアルバイトがあるものだね、そうとう給料はいいんだろうね」と平島はさっき若い先生のアパートで聞いた話を持ち出した。電車はお茶の水渓谷の崖の上を走っていた。

「いつごろから始めたんだろうか。前にはあんな臭いはしなかったよね」

その講師は昨年から高校に来たのである。

「そういえば去年の暮れころから気が付いたな」と三四郎は言った。

「ベトコンの反撃が激しくなって米軍の死傷者が急増しているというから小島先生みたいな人まで募集しているのだろう」

「あんなことをぺらぺら話して良いのかな。米軍から厳重に口止めされているんじゃないかな」

「そうだよね、口が軽すぎるみたいだ。皆に臭い臭いと言われるから弁解しないといけないと思ったんだろうね」

「よく分からないのは、彼はベトナム戦争反対運動家なのに、よくあんな仕事に就けたね。アメリカは身元なんかチェックしなかったのかな」

「取り出した内蔵はどう処分するんだろう」と三四郎は平島の疑問には答えず、ぽつんと言った。平島はびっくりしたように横に座っている彼の顔を見た。

「そういえば、小島先生も最近変わって来たね」と平島は話題を転じた。 

実際、金回りが良くなったせいか、講師の金遣いが荒くなり女遊びが激しくなっていた。口の悪い生徒達は彼のことを「コンクリートで下半身を固めたおとこ」と揶揄していたが、その頃には下半身を覆っていたコンクリートは破砕されていたらしい。

生徒達のなかには彼に新宿二丁目あたりに連れて行かれたもの達もいた。やがて彼は共産党を除名され、サークルも自然消滅したのである。

 


宮本輝 「優駿」

2016-06-21 19:14:25 | 宮本輝

なぜそんなものを読むかとびっくりする人がいるかもしれない。実は別稿で「小説のようなもの」を書いていて、ベトナム戦争時の世相を確認する必要があった。べつに資料は小説でなくても良いのだが、ここが小説等の書評ブログなので、資料的な小説がないかな、と探してみた。これが意外にない。おおまかにいえば1960−1975当たりなんだがね。

携帯電話がまだ無かったことは間違いないと思うんだがな。JRはまだ国電なんていっていたような。自動車電話はあったような。ちょいと小味をきかそうと思ったんだが、そのくらいのことしか思い出さない。そこで小説を探したんだが、ようやく見つけたのが優駿なわけ。ベトナム戦争より小説がカバーしている時機は前後に長いんだけどね。これが新潮文庫で上下二巻。こんなに長い小説はよほどのことがないと読まないのだが、他になければしょうがない。いま上巻の176頁。いや、ひろいものだった。なかなかいい。

いつも途中か最初に解説を読むんだが、これは全くのピント外れ。岩波剛とかいう演劇評論家だそうだが、やたらドストエフスキーと比べる。とんちんかんだ。

ほめるならもうすこしましな褒め方がほしいな、プロなら。もっとも作者はこの解説をつけるのを認めているのだから、ドストと比較されてまんざらではないのかも知れない。

そうそう、もう一つ、小説の記述によると1960年頃らしい(複雑な計算をしたので間違えているかも知れない)が、JRAはまだオッズを発表していなかったなんて書いてある。さっそく確認しなくちゃ。これもなにかに使えるかも知れない。そういえば、いまはない競馬新聞もあったな。

JRA文化賞を取った小説というが分かる。面白いことには異論がない。文章がうまいということだ、わたしが面白いというのは。ドストがどうのこうのなんて関係ない。 

そうそう、東京都庁は鍛冶橋にありましたね。いま国際フォーラム(東京フォーラムだったかな)のあったところです。これは使わせていただきました。

 


第N(9)章 ミイラ作成のアルバイト

2016-06-19 09:31:54 | 反復と忘却

その講師が働いている米軍基地の隔離された倉庫には毎日ベトナムから戦死した米軍兵士の死体が運び込まれた。それらの死体が腐敗しない様に内蔵を掻き出すのが仕事であった。それが終わると身体に古新聞とか充填剤を詰め込んで縫合する。そして死体の顔にお化粧をほどこす。もっともこれは専門家の仕事であった。

「それでさ、それをかちかちに冷凍してコンテナでアメリカに送り返すんだ」

「それでどうするんですか」と生徒の一人が聞いた。

「遺族に渡すのさ」

しばらく一座には沈黙が支配した。

「随分面倒くさいことをするんだな、なぜベトナムで火葬にしないんですか」

「キリスト教では火葬はしないらしいな。アメリカで土葬にするんだ」

「キリスト教ではどうして土葬にするんですか」

「復活って言葉を知っているか」とやせこけた大学院生は高校生達に問いかけた。勿論高校生達にわかるわけがない。

「最後の審判ってのがあってさ、そのとき死者の魂がかえって来て蘇る訳だ。その時に身体が残っていないとたましいが戻って来れないだろう」

フーンと一座は感心した。一人がいった。「エジプト人がミイラを作るのと同じですね。」

「そのとおりさ」と講師は答えた。

「なぜです」と一人が不思議そうに聞いた。「エジプトのミイラも将来魂がこの世に戻ってくる時に目標にするためなんだ」と講師が言った。

しかし戦争だからひどく損壊した死体もあるでしょう、そう言うのはどうして復元するんですか、と好奇心の旺盛な一人が聞いた。

「どうするのかな、そう言う死体は現地で火葬でもするのな」

「そうすると、そういう復元不能な死体は日本に送ってこないんですか」

「見たことはないな」

「遺族にはなんて説明するんだろう」

「戦闘中行方不明とでもするのかな」とオルグの大学院生はちょっと考えた後で答えた。

「それでさ、毎日そんな仕事をしていると死臭がしみ込んで取れなくなる。もちろんゴム手袋をしてゴムのオーバーオールを着て作業するが、全然役にたたない」

一座が講師の話にショックを受けた様に沈黙に包まれるとアパートの窓の前に広がっている田んぼの向うから中央線が通過する音がかすかに聞こえて来た。

 


第N(8)章 父の外面

2016-06-17 09:00:46 | 小説みたいなもの

 羽柴秀吉も驚く異様な出世スピードからも分かる様に父は如才のない人物で世間では天真爛漫な愛嬌者で通っていた。出世に役に立つと目を付けた相手にはとことん愛想を振りまいて取り入る。そのかわり下僚には過酷に当たった。同僚でも役に立たないと思った相手には非情であった。

その代わりというか、その埋め合わせをして精神の均衡を保つためか、家では理屈の通らない暴君であった。それは自分自身の母親にも当てはまった。

三四郎の母が結婚して家に入った時である、二人の部屋に祖母を呼びつけて一、二分簡単な紹介をした後で、父は祖母に向って「もう下がってよろしい」と言って部屋を追い出したのである。

万事がこの調子で祖母はしばらくして父の家を逃げ出て叔父の家に住み着いてしまった。この話を彼は叔母から聞いた。上の兄達も父親のきびしい虐待から逃れる様に叔父の家に入り浸った。そこで祖母や彼女の周りに集まる親戚の連中から散々父の悪口を吹き込まれたのである。それを,又おうむ返しに兄達は三四郎達に話すのであった。

父親というのは子供にとっては「社会」を意味する。世間の規範を意味する。往々にして強圧的な父親のいる家庭では子供は反社会的になる。権威と言う者に対する尊敬の念を失っていく。このような家庭から社会運動というか反体制的な思想に染まって行く若者が出る場合が多い。 

三四郎の場合も同様であって、左翼運動家や共産党などが高校に浸透してオルグを作っていたが、そういうグループに参加する様になった。とにかく、入り口では歯の浮くような言葉を並べ立てて三四郎のようなはぐれ者の高校生を取り込んでいたのであった。かれもそういうグループの一つに引きづり込まれて国鉄の駅前等で反戦ビラを配ったり幟を握って立っていたのであった。

彼らのグループを組織したのは高校に地学の講師として来ていた東大の大学院生であった。まだ若いだろうに、険しい表情をしたやせこけた小男であった。彼はいつも不快な臭いがした。クレゾールのような消毒液の臭いと混じっていた。長年寝たきりだった次兄の部屋の周囲で漂う死を連想させる臭いであった。

そのグループのメンバーで同級生数人と彼の下宿に言ったことがある。黒く汚れてささくれ立った畳の敷いてある六畳ほどの広さの部屋であった。台所や便所は共用らしかった。二階にあるその部屋には本の重みでひん曲がった安物の本棚が置いてあり、そこには文庫本ばかりが並んでいた。岩波文庫の青帯が半分ぐらいを占めていた。

彼は「いま小説を書いているんだ」とか言っていた。この部屋にも彼の身体から漂う嫌な臭いがかなり強かった。かれは右手を皆の前に突き出した。

「匂うだろ、何の臭いだかわかるか。お前達も気持ちが悪いだろう。おれもなんとかして消そうとしているんだがいくら風呂に入っても消えないんだ」

皆が黙っていると、目の前の少年達の疑問に答えてやろうというように話しだした。かれは米軍基地でアルバイトをしていると話しはじめた。

「これは死体の臓物の臭いなんだ」と言った。

「場でアルバイトですか」と一人が言った。

やせこけた男は答えた。「そうじゃない。人間の死体を捌くのさ。そのかわりいい金になる」と講師は皆の顔の反応を見る様に口を閉ざした。

 


第N(7)章 どろぼうと父

2016-06-15 08:31:37 | 小説みたいなもの

居間には父母と三四郎のきょうだいがいた。一番上の兄はもう就職していて建築会社の九州の支店にいた。二番目の兄は数日前漸くこの世に生還してきたばかりであった。大学の途中でアルバイトの無理がたたって結核になり長い間生死の境を彷徨っていたのである。離れに数年間寝たきりで母は感染をおそれて三四郎達に離れに近づくことを禁じていた。数日前に始めて三四郎は兄の顔を見たのである。かれは間もなく九十九里浜にあるサナトリウムに入ることになっていた。

兄がなにかの用事で二階に上がると、しばらくしてなにか喚きながら階段を転げ落ちて来た。階段の下に倒れたまま恐怖で腰が抜けたのか、長年の病臥で筋肉に力が無かったのか、起き上がれずに床に倒れたまま、なにかをねだる幼児のように片手をあげて二階のほうを示しながら「ド、ド、ド、、」とどもった。眼は一杯に見開かれて白眼が見えないくらい真っ黒な瞳孔が開いていた。

父親は階段を一気に駆け上がった。スポーツマンだったからすでに六十歳を相当に超えていたが敏捷なものであった。二階を点検した父は大音声で「どろぼう」と町内に響き渡るような声を出した。直ちに警察に電話した。あっというまに家の前にパトカーがとまった。後を追うように自転車に乗った近所の駐在が到着した。

彼らは土足のまま家にあがって来た。手にはホルスターからすでに抜いた拳銃が構えられていた。近くで強盗事件が発生していて犯人がまだ付近に潜伏しているということで警官たちは押っ取り刀で追跡していたのである。武装した強盗という通報だったので、抜刀したまま土足で踏み込んできたらしい。

泥棒はすでに逃走していた。二階は相当に荒らされた後だった。その後の警察の捜査は父を激怒させた。父は警察に呼ばれて盗まれたものを申告した。盗品のリストを作成していた警官が父を怒らせたのである。盗まれた物のなかに父の洋服やネクタイピン、カフスボタンなどの装飾品もあった。警官はいつもそうであるようにぞんざいな口調でまるで盗まれた方の父が悪という様に尋問する口調で訊いていたらしい。

父は熊と人間がまだ共存しているような山村の出身であったが、目覚ましい立身出世を遂げて政府の顕官に上り詰めていた。田舎者の常として成功するとおしゃれに精を出した。それでも成り上がり者だから泥臭さがある。なんでもチョッキのボタンがダイヤモンドだとか正直にいったものだから、取り調べの警官がにわかに露骨に興味をしめし、税務署員に早変わりした様に、どこで買ったのか、いくらしたのかなど執拗な質問を父にしたらしい。それで下っ端の警官等人間とも思っていなかった父は激怒してしまったのである。

それ以降父は警察の呼び出しを無視した。困った担当の刑事は家まで尋ねてきて調書を作成したのであるが、父は刑事を勝手口にまわし、相手を立たせたまま応対していた。それでも警察が一生懸命やってくれたのか、盗まれた物の一部は故買屋から回収されて戻って来た。

 


第N(6)章 消えた週間特ダネ2

2016-06-13 08:26:37 | 反復と忘却

翌日三四郎は学校の帰りに家の近くの小さな本屋に立ち寄った。大通りから脇に反れてだんだら下りの坂道で車がようやくすれ違えるような狭い道にある米粒の様に小さな本屋である。売り場はせいぜい三畳か四畳くらいで古本屋のような黴臭い臭いが何時も漂っている。すぐ後ろには薄暗い茶の間が覗ける帳場には影の薄い脂っ気のない白髪あたまの老人が意地悪そうな顔をして汚い座布団の上に座っている。狭い売り場の平台の上にはエロ週刊誌や女性雑誌しか置いていない。彼がときどきマスターベーション用のピンナップ・ガールの写真の効果が薄れてくると新しいのを買いにくるのである。「週間特ダネ」を取り上げると、さっそく「おたよりください」欄を探してかれは立ち読みを始めた。小さな活字で四頁をぎっしりと埋めている。これに全部目を通すのは大変である。まして三四郎は強度の近視である。店内は薄暗い。彼の投稿はないようだ。もう一度見直していると親父がわざとらしくゴボゴボと咳払いをした。

すると先週号だろうか。とうとう老人が土間に降りて来てかれの隣で嫌がらせをするように、ぱたぱたと帚をかけはじめた。彼は老人に聞いた。「この雑誌の古い号はとってありますか」

老人はびっくりしたような、探るような眼つきで彼を見た。

「どうだったかな、何日のだい」と老人は疑わしそうな眼をしてぞんざいに訊いた。

「さあ、わからないんですが、この前のじゃないかと思うんですが」

老人は彼の持っている雑誌を覗き込み「おたよりください」欄を見とがめる様にみていたが、「ちょうと待ちな、まだあるかもしれない」というと帳場の近くに積み上げてあった雑誌の山を調べ始めた。その間に彼は手にもっている雑誌の欄を二回読み終わった。やはり彼の名前はない。

老人が声をかけた。「もうないな、そいつは人気があって、いつも売り切れてしまうからな」というと訳知り顔に三四郎を見て、にたりと笑った。

三四郎はとぼとぼと坂を登りながら、やはりショウコに違いないようだと思った。まだ白いあじさいの花が咲いている寺の脇を通りながら、彼はふと思い出したことがあった。彼の家は二回泥棒に入られている。そとから侵入するのに、お誂え向きに出来ている家なのである。家は二階建で全面にベランダがある。そしてベランダの近くにところどころに樹が植えてある。その枝に脚をかけて登るとちょうどベランダに乗り移るのに具合がいい所が何カ所かあるのである。彼自身が遅く帰宅した時にそこから直接自分の部屋に戻ったこともあるから、随分不用心な家だと思っていたのである。

一回目は本職の泥棒に入られた。一家が一階の食堂で夕食後テレビを見ている間に入られたのである。

 


第N(5)章 消えた週間特ダネ

2016-06-11 09:44:02 | 反復と忘却

間抜けな雀が部屋に飛び込もうとして網戸に気づかずにぶつかってドサリとベランダに落ちた。びっくりして三四郎が窓の方を見ると栄養失調のような痩せた雀はようやく体勢を立て直して庭の奥へ飛去った。彼ははっとして意識を取り戻すと押し入れを開けた。とにかく母には見つからないうちにエロ雑誌を捨てに行かなければ、と気が付いたのである。

蒲団の下に手を突っ込んで探るが雑誌はない。彼は蒲団を一枚一枚取り出して畳の上に放り投げた。空っぽになった押し入れにはどこにも週間特ダネは見当たらなかった。がらくたを詰め込んである押し入れの反対側も調べた。天袋も苦労して中身を取り出して調べたが無かった。誰かが持って行ったに違いない。母でないことは確かだ、もし母が見つけたなら黙っているわけがない。きっと何か言われる。第一母がそんな留守中に彼の持ち物や部屋をこそこそ探るような人ではない。父親の筈がない。父は彼の部屋には入ってこない。

お手伝いだろうか。それも考えられない。彼女はいかにも善良そうなおばあさんである。もし、掃除や蒲団干しでもして雑誌を見つけても、中を見るようなはしたない真似をする人ではない。第一それを持ち去るなどということは絶対に考えられないことである。

「そういえば」と彼ははじめて気が付いたように思った。「自分の留守中に部屋を探られた気配があった」。時々有った筈の文房具が何処を探しても見当たらないことが何回かあった。気にもしていなかったが、急にそれらのことが意識のなかに集中して上って来た。

妹だろうか。ショウコかも知れない。彼女は幼い頃から人の物と自分の物の区別に気が付かない所があった。自分の気に入ると眼を付けたら他人の物も勝手に自分の物にしてしまう。気が付いて注意してもまったく何も感じないらしい。絶対に返そうとしないのである。子供の持っている物だから金額のはる物という訳ではないが、彼が中学生の修学旅行で関西に行った時にお土産に買った民芸品風にこしらえた筆立てもいつの間にか彼女が使っていた。

彼女のことを年上の兄達はメエメエと可愛がっていた。名前が羊子とかいてショウコと読ませていたのである。兄達になぜそう読んでいるのか聞いたことがある。確かに妹は彼より三つ年下でヒツジ年うまれだった。干支ではヒツジは未と書く。羊とか書かない。彼女はもともと祥子という名前だったらしい。父親が妾に生ませた子であるそうだ。生まれてまもなく生母が病没した。兄達の表現によれば父親に乗り殺されたのである。生母の親戚に赤ん坊の引き取り手がなかったので父が家に入れたのである。彼自身もそのころは物心もつかない赤ん坊であったので、勿論そんな経緯は大分後になってから兄に聞くまで知らなかった。

三四郎のすぐ下の妹がヘビ年ですでに巳江(ミエ)という名前を付けられていたので、おなじ未(ミ)を使うと呼ぶ時に紛らわしいというので、最初につけた名前の祥子から、偏だけ除いて羊の字を残したということだ。

 


ハイデガーの「投企」について

2016-06-10 07:55:07 | ハイデッガー

翻訳者は訳語にお化粧をしてはいけない、大原則である。そうした方が、とおりがよくなるから、とか、もっともらしくなるから、というので言語の意味に厚化粧をさせてはならない。翻訳者の良心でしょう。同時に日本語の基本的なセンスがなければならない。読者を戸惑わせ、不快感をあたえるように造語を作ってはならない。 

さて、「投企」であるが、これはH氏の基本概念中の基本である。ひところの「実存主義」青年の合い言葉でもあったらしい。妙な言葉だが、「投」と「企」を無理矢理くっつけたものらしい。

この世界に投げ出されたんだから、今更くよくよしてもしょうがない、自分で努力して主体的に人生を切り開け、というような意味と理解しているが理解が浅いかな。

「投」は投げ出されて、を縮めたものらしい。「企」は企てる、計画を立てる、のつもりか。ハイデガー語ではEntwurfとかentwerfenというらしい。例によって独和辞典を見ると、Entwurfは設計図とある。entwerfenは下絵を描く、とある。つまりトウキ(こんな単語は変換出来ないから以後カタカナでいく)の後ろのキにかろうじて連なる意味しかない。トウをつけるのは訳者の余計なお化粧である。どういう神経だろう。親切のつもりか。あるいはH氏の思想から言えば「世界に投げ出されて途方に暮れているな、積極的に自分の人生を企画せよ」という含意があるよ、と親切に教えているのか。

そんなことは訳者の仕事ではない。Hの前後の文脈でそういう意味(なんだろう)にとれるなら、その作業は読者がするものである。H氏の文章の売りは奇異感である。しかも意図的な。だったら、言語の通りに訳さないとH氏の文体が生きてこないではないか。

例のマコーリとロビンスンの英訳を見るとprojectやprojectionを当てている。これらの語は計画とか企画という意味が一般的でドイツ語のオリジナルに比較的忠実である(つまりキに焦点をあてている)。もっとも英語のprojectionには発射という意味もあり、この世に発射されて、に引っ掛けているとも取れる。すくなくともこなれた日常語であるプロジェクトを訳語にしている点でも英訳の方が数段すぐれている。

まだまだ沢山あるがきりがないので今日はこれまで。

 


第N(4)章

2016-06-09 08:27:23 | 反復と忘却

5月の連休明けの太陽光線は調教のない休日開けに覆馬場に放たれた休養十分の性悪サラブレッドのように皇居前広場の芝生の上をスタンピードしていた。焼かれた芝生の照り返しは三四郎の顔をフライパンの上のたまごのように炙った。彼の眼はチカチカしてきた。眼鏡のつるは側頭部を強く圧迫して疼痛を与えていた。三ヶ月前に買い替えた眼鏡の度はもう合わなくなって来たらしい。かれは鞄からアスピリンの箱を取り出した。今朝飲み忘れたせいか、注意力が散漫になっていた。都庁での失態もこれが影響しているのかも知れない。

彼はアスピリンの錠剤を一粒押し出すと口の中に入れて噛み始めた。酢酸のような写真の現像液の様に嫌なにおいが口の中に広がった。彼は噛み砕いたアスピリンを舌の下に押し込んだ。彼はアスピリンを水で飲まないのである。こうやって噛み砕いて粉末にして舌下に押し込む。この方が口腔の粘膜から薬が直接体内に吸収されて効果が格段に早く出る。一錠目を食べ終わると彼は二錠目を食べ始めた。三錠食べた後でようやく三四郎は人心地がついた。

この間も女から電話がかかってきた。階段を上がって来た母親が「女の人から電話よ」と彼の顔をじっと見ながら告げたのである。母親としての母は分かるのだが、女としての母親というものが最近三四郎には分からなくなった。その時は心配している母親ではない顔をしていた。

三四郎は眼を伏せて母親の横をすり抜けると下に降りて受話器を耳にあてた。全然知らない女であった。声からすると想定していた年齢より相当な年配である。彼が想定した様に同級生の女の子ではない。おまけにタバコ焼けをしたようなしわがれた声である。

「雑誌**実話を見たんですけど」と女は言った。ぜんぜん心当たりはないのだが、直感的にこれはヤバいぞ、と彼は身構えた。その雑誌は彼の部屋にも母親の眼に触れない様に押し入れの奥に隠してあるエロ雑誌である。彼はときどき買っているのである。マスターベションの時に利用しているのだ。だからその雑誌の名前を聞いた時にはぎょっとしたのである。

台所の方をうかがうと階段をいつの間にか降りて来た母親が台所の影で聞き耳を立てている気配である。彼は逆上してしまった。急いで電話を切ろうとしながら、電話のかけ間違えですよ、と言って受話器を置こうとすると、受話器の下から

「あなたは鱒添三四郎さんでしょう」と女が叫んだ。おもわず彼が再び受話器を慌てて耳にあてると、女が言うには、なんでもその週刊誌の「おたよりください」とかいう投稿欄に彼の名前が出ているそうである。

「違います、違います」というと彼は受話器を投げつけて二階に駆け上がった。

しばらく様子をうかがっていたが母が階段を上がってくる様子は無かった。彼は急いでアスピリンの箱を取り出すと三錠ほど食べて気を鎮めようとした。

 


ハイデガーの「配慮」について

2016-06-08 10:23:34 | ハイデッガー

 精神分析学者のユングによるとハイデガーは精神病者である(90分でわかるハイデガー)。分かりにくくて当然か。しかしこの種の著者の特徴として独特の迫力がある。私がハイデガーを読む理由である。といっても大して読んでいない。存在と時間に限っていえば

1:ハイデガー「存在と時間」注解、マイケル・ケルヴェン著、長谷川西崖訳

ちくま学芸文庫・・途中まで読んだ。

2:「存在と時間」,細谷貞雄訳 ちくま学芸文庫の訳者後書きだけ読んだ。

まず正確に読んだ範囲をご報告して本文に入る。

上記2:の後書きにこうある。

a: 「存在と時間」は、まだドイツ語にさえ翻訳されていません・・あるドイツ人の言葉

b:レーヴィットは、この本が外国語に訳せたら、それこそ奇蹟だとおもう、と言った。 

ハイデガーを読んでまず奇異に感じるのは異常な「言葉あそび」、「言葉いじり」、「正当性の疑わしい語源いじり(とくに古代ギリシャ語)」であろう。

今回はbesorgenという言葉に軽くあたってみようと思う。上記1:の訳書では「配慮」と訳されている。他でどう訳されているかしらないが、どうもこれが代表的な訳語らしい。世界内存在である現存在が世界と関わり合うモードの基本的なものだと言うのだが、どうもしっくりと腑に落ちない。

独和辞典をみると配慮という語釈はない。これをbeとsorgenに分解してみるとbeは強調の意味、sorgenは配慮するという訳語がある。そうなら、besorgenの訳でそれに相当する訳語が辞書に記載されているべきではないのか。

ちなみに上記のケルヴェンの著書のなかでしばしば引用されているマコーリとロビンスンの訳書「Being and Time」によるとconcern, provide, make provision

などの訳語があてられている。配慮とはニュアンスも違う。関心というか、あるいはあらかじめ足りない物を準備して供給する、または将来に備えるなどの意味であり、これならすんなり原文の意が通じる。

気になったので他の意味の通じない訳語を当たってみたが随分と辞書や英訳と違うところがあるようである。この様に訳す根拠は何なんだろう。

続く


南米移民

2016-06-03 08:17:27 | 反復と忘却

第N(3)章

実際その頃の彼は『現状全否定モード』だった。南米の農業移民に応募しようと思ったことがある。南米か中米の何処かの国への農業移民を募集していたのをテレビで見たのである。朝飯を食うと彼は家を出たが、高校には行かずに鍛冶橋の都庁に行った。どの部屋に入ったらいいのか分からないので見当をつけて入った部屋で南米移住の希望を話した。

初老の意地の悪そうな口やかましい田舎親父のような面をした職員は馬鹿にしたような陰険な目付きで彼を観察した。

「この間テレビで募集していたでしょう」と三四郎はテレビ・ドキュメントの内容を伝えた。

「今頃移民の話なんてあるわけがないだろう」と田舎親父は馬鹿にした様に言った。考えてみれば高度経済成長を達成してジャブジャブと金を捨てるように海外への経済援助を始めた日本から移民する計画等ある訳が無いのである。

「ドキュメンタリーだって、そんなことはしていないよ」とつっけんどんに言われた時に、たまたまそばを通りかかった別の職員が彼らの話を小耳に挟んで

「それは終戦直後の話だろう」と同僚に教えた。

そこで三四郎ははっと気が付いたのである。『そういえばテレビの映像はモノクロだった。しかも映像はかなりぼやけていた。そうか昔の記録映画なのか』と初めて気が付いたのである。そういえば、そのテレビ番組も最初から見ていた訳ではない。たまたまチャンネルをひねったときに途中から眼に飛び込んで来たので、彼はてっきり現在募集中だと思い込んでしまった。こいつは絶好の現状からの脱出機会と思ったのだったが。番組の最後に都庁が受付窓口になっているというテロップだけはハッキリと覚えたいたのである。

すごすごと都庁を出ると彼は馬場先門まで歩いて行って日比谷公園のベンチに座り込んだ。じっさい三四郎が崩壊しなかったのはインスタント・コーヒーとエルヴィス・プレスリーのレコードのおかげだったかもしれない。一日スプーン山盛り15杯のインスタント・コーヒーと100グラムの砂糖が無かったら彼の意識は持たなかっただろう。インスタント・コーヒーだけでは駄目なのである。大量の砂糖は必需の薬品のようなものであった。それとプレスリーのロックンロールだ。いわばネガに対するポジのようなものだ。