穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ヒトラーの家庭教師たらんとしたハイデガー

2017-06-12 14:44:03 | ハイデッガー

ハイデガーとナチスの関係はナチスが政権を取る以前に遡る。彼の妻は早くからナチスの信奉者であり、ハイデガーもナチス系の学者と交流があった。ナチスが政権についたのが1933年一月であった。四月にハイデガーはフライブルグ大学総長となり、五月にはナチスに入党している。

 ハイデガーの念頭にあったのはアリストテレスとアレクサンドロス大王の関係である。少年時代のアレクサンドロスの家庭教師がアリストテレスである。アレクサンドロスは20歳でマケドニア王に即位し、ペルシャ、シリア、エジプトを征服しインドに攻め入った。

 ヒトラーを歴史の最終段階に入った、つまり人類の歴史の頂点に位置するゲルマン民族の絶対精神の顕現と見たハイデガーが自分をアリストテレスに擬したことは間違いない。しかし彼の誤算はヒトラーが少年ではなかったことである。すでに政党の党首、政治指導者であった。ヒトラーとハイデガーは同じ年の1889年生まれの中年であった。彼の師父たらんとすることは幻想であった。彼の周りには多数の取り巻きがいる。海千山千の側近達がいた。まず側近達と衝突があった。そしてハイデガーは就任一年も立たず、慣れない政治闘争に破れ翌年1月にはフライブルク大学総長を辞任せざるを得なかった。

 ナチスの政権基盤が確立する過程でヒトラーによって粛清されたナチス突撃隊との関係が深かったこともハイデガーの失脚に関係があったらしい。

 ハイデガーはまだ45歳、先の人生は長い。ここでナチスを離れることは出来ない。たとえば、新撰組に入りながら途中で脱退するような者である。脱退すれば厳しいお仕置きが待っている。抜けるに抜けられない。ハイデガーはナチスが崩壊するまでナチス党員であった。

 そこで彼が選んだのが「ニーチェ」執筆である。ニーチェはナチス公認の哲学者である。そして彼が選んだ対象がいい。「権力への意志」である。これはニーチェの遺稿で生前は出版されていない。ニーチェの妹が保管編集したものという。ニーチェの妹エリザベートは当時のナチス幹部と親善であった。ニーチェの遺稿をナチス公認版で研究している限り、それを批判的に考察しない限り、安全である。

 当時ニーチェの遺稿はエリザベートが管理し、それはナチス党によって保護されていた。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミネルヴァのフクロウ

2017-06-09 10:55:37 | ヘーゲル

さて次はやはり法哲学の序文の最後に出てくる「ミネルヴァのフクロウは黄昏がやってくると初めて飛び始める」(中公クラシックの訳による)である。これは文脈ではっきりとした解釈がヘーゲルによって与えられている。したがって両義的ではない、となるが敵はさるもの(ヘーゲルを敵と言ってはいけませんな)、裏の意味を持たしているのではないかと邪推するわけであります。

 これがヘーゲルのオリジナルか出典が古代にさかのぼってあるのかどうか、つまりヘーゲルがどこからか引用したのか、ありそうだと思って調べてみたが分からなかった。ま、ミネルヴァのフクロウとはアテナイの知恵の女神であるアテーナーである。ミネルヴァはローマ読み。黄昏というのは一日のおわり、つまり物事を概念的に捉える哲学というのは現実の歴史がすべて終わってから出来上がるという意味だと、これはヘーゲルの注釈である。

これは事実の一面である。すなわち哲学というのは干からびた灰色なものである。これは一面の真実であると同時に当局に対して哲学というものはそういうものだから危険なものではない、と言っているのである。どうせ検閲官は序文しか読まないと思ったのだろう。

 ところでほかの著作でもいえるがヘーゲルは序文では韜晦しない。本文に比べるとわかりやすい。おそらく検閲官対策なのであろう。

 これからが小筆の憶測なのであるがヘーゲルの遊びとしてこういう裏解釈がありそうだ。本当の哲学はあからさまな文章では伝えられない。それは白昼の明るい光の下ではなく黄昏の暗闇(オカルト)の中で伝えられる。

 黄昏の特徴は一日の終わりであるとともに、暗闇を意味することである。

 それは当局の目をくらますためか、哲学の奥義はそう簡単に文章では伝えられないよ、ということかもしれない。日本語で言えば武道秘伝書、免許皆伝書の最後は必ず「以下口伝」とあり、白紙になっているのと同じだ。

 あるいは禅で言う「不立文字」がこれに相当するかもしれない。つまり哲学の奥義はオカルテックに表現される(用心して)ものだという西欧哲学の一方の伝統であるESOTERICな表現なのかもしれない。

 ところで、最近村上春樹の対談集で「ミネルヴァのミミズクは黄昏に飛びはじめる」というのがあるが、彼ら(村上、インタビュアー、編集者)がどういうつもりでつけたのかなな。また別の思惑があったのだろう。いずれにせよまだ70ページしか読んでいないからわからない。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヌエ(鵺)のようなヘーゲル

2017-06-09 07:40:57 | ヘーゲル

ベルリン時代のヘーゲルを見ていると、第二次世界大戦前、日本の満鉄調査部で業績をあげた共産党員からの転向者を思い出す(スケールは小さいが)。ナポレオン失脚後のプロイセンでの最初の改革はある程度自由主義的であって、これはヘーゲルの提案が取り入れられたという。しかし、その後極右的国粋主義的な学生運動が勢力を伸ばすと政府を悩ませた。ロシア人刺殺というテロも学生運動家によって行われた。また学生運動の旗印の一つはユダヤ人排斥であった。

 この学生運動対策として目をつけられたのがこれまたヘーゲルであった。その目的で彼はベルリン大学に招聘された。当時からヘーゲルは学生を手なずける才能が認められていたらしい(著書を通してではなく、講義を通して)。

 しかし当局はヘーゲルには啓蒙思想に染まった一面は残っていると疑っていた。彼がベルリン大学総長になったあとも死に至るまでプロイセン政府秘密警察の監視下にあった。かれはコレラで死んだのだが、これが本当の死因だったか疑問視する向きもある。発病の翌日に死亡している。普通のコレラ患者と異なり病状の進行が早すぎるというのである。

 ベルリン大学の学生たちはヘーゲルの葬送の行列に加わり行進することを計画していたが当局は学生たちの参加を禁止した。学生たちの参加がデモに発展し天安門事件のようになることを恐れたというのである。

 かれは普通プロイセン政府の御用学者と言われるが、正反対の側面もあったのである。カール・マルクスはヘーゲルの鬼子であった。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲルの奇妙な用心深さ

2017-06-08 16:41:50 | ヘーゲル

ヘーゲルはあまり著書を出版していない。これは彼の用心深さの一面だ。出版してしまうと、それは動かせない証拠となる。危険思想だと当局から一方的に判断されることがある。いくら韜晦して書いていても尻尾をつかまれる恐れがある。

 死後弟子や学生たちのメモから起こした講義録が多い。これはあまり韜晦していない。文章のような調子でやられては二十歳やそこらの学生は付いてこない。彼は大学教授でありベルリン大学総長になった人だから、私講師のように生徒の数で収入が左右されるわけではない。しかし、聴講生が一人とか二人だとやはり体裁が悪いし体面にかかわる。書いたものと違い、平易で気楽に話しているわけだ。

 さて、彼の法哲学から二つほど両義性というか意味不明瞭というか有名だがわけのわからない文章を取り上げたい。法哲学は歴史哲学や宗教哲学とならんで当局や教会とフリクションをおこしやすい分野である。ところどころでヘーゲルの芸がみられる。

 まず、序文にある「ここがロードスだ、跳べ」という文章だ。もとはイソップ物語だそうだ(私はもとの話を読んでいないが)。ある男がロードス島の競技会で大ジャンプをして優勝したと自慢した。嘘だと思うならロードス島に行って聞いてみろ」と言ったら「ここがロードスと思ってここで跳んで証明すればいいじゃないか」と言われたというのだな。

 まずこの比喩というか引用は前後の文脈としっくりこない。それをヘーゲルはくどく、これはこう言いかえられる、と書いている。「ここにバラの花がある、ここで踊れ」という。いかにも前後がつながらない文章である。日本語で書くとさらにわからないが、ロードスとローズをひっかけているというのだな、ぽかんとする地口である。

 後世のヘーゲル注釈者はいろんなことをいっている。秘密結社のバラ十字団のことだとか、ルターのバラと関係するとか。ヘーゲルはちらりと何か危険思想をほのめかしたつもりなのかもしれない。

 なかにはロードスは棒だという解釈もあるらしい。この男の得意は棒高跳びという推定である。英語で棒はrodというがあるいはラテン語起源の言葉かもしれない。ヘーゲルの解釈には面白いものがある。この棒を使って飛んでみろという、意味だそうだ。しかしこの解釈だとますます文脈の中で浮いてしまう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲルの両義性

2017-06-08 08:23:34 | ヘーゲル

大分前になるが「カントの悪文を弁護する」という記事を書いた。いまでも細々とアクセスがある。悪文というか難解といえばヘーゲルにも触れなければならない。ゲーテが「ヘーゲルもいいが、あの文章がね」と言っていたという。

 カントが悪文を書く様になったのは当局や教会からの迫害を免れるために韜晦したのが一つの理由であると上記のアップでも書いた。長年そういう配慮をして文章を書いていると、それが習い性となるというか、文体、スタイルとなる。そういうスタイル以外では書けなくなるのだね。たわいのない主題についても。

 当局、権力、世間の圧力を考慮して文章を曖昧にしたり、もってまわった書き方をしたりするのは哲学者の常道であるというのを、プラトン、アリストテレスまで遡って現代に至るまで論じた人がいる。

 とくに1789年のフランス革命を挟んだ18世紀後半から19世紀前半は哲学者にとって、かかせない配慮であった。カントは啓蒙思想が危険思想として地下深く蔓延し始めた時代から、フランス革命期の血で血を洗う革命勢力の凄惨な内ゲバ時代を活動期とした。あに用心深くならざるをえんや、である。カントの悪文の要因の一つである。かれは匿名で出版しなければならなかった本もあるし、晩年は宗教関係の著作を当局から禁止されていた。

 ヘーゲルも啓蒙時代の子である。神学校時代から染まっていたらしい。彼はナポレオンを崇拝していた。イエナで精神現象学を書き終わったときにナポレオンの軍隊が征服者として街に入って来た。ヘーゲルは興奮して「今世界精神が馬上で街を通った」と上気したような文章を友人に送っている。ヘーゲルにもこの時代より少しまえ、家庭教師をしていたころに秘密結社的な思想を匿名で出版している。>>

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Q(4)章 看護兵となる

2017-06-02 14:30:10 | 反復と忘却

雷鳴は間遠になったが、雨は依然として激しく降っている。彼らはもう一杯コーヒーを注文した。老人に聞くと彼もコーヒーを飲むというので老人の分も買ってきた。

「雑役夫というとどんなことをするんですか」

あらゆる雑用だな、と老人は答えた。「食糧や武器の運搬、軍馬の世話、負傷兵の輸送とかね。「幕府の長州征伐はぽしゃっちゃったが、すぐに戊辰戦争がはじまったからね。戊辰戦争の時にはイギリス大使館の医者が負傷兵や戦病兵の世話をしてね。なにしろ漢方医じゃ手が回らないんで大活躍さ」

 老人の話によると彼は英人医師の助手になったらしい。そうしているうちに器用なこともあって大体コツを飲み込んでしまったという。。戦場の負傷とか病気というのは決まり切っているし、大名や大商人の屋敷に上がってお脈拝見なんて悠長なことはできない。即断即決で荒っぽいこともする。老人も、彼の名前は尼子林次郎というそうだが、器用だから大体のところはすぐ覚えてしまって英人医師から信頼されてほとんどのことは独断で処置したらしい。

 そして英人医師にかわいがられて戦闘の合間にはあらかた臨床の方面のことは覚えてしまったという。そうしているうちに尼子の腕の良いことが大名たちの間でも知れ渡ってあちこちの大名家に出入りするようになったという。譜代大名のご典医になったこともあるという。

 そりゃ大出世ですね、と平敷が感嘆したようにいうと「なに、ご典医といっても眼科、外科、小児科など細かく分かれていてね、それぞれに数人典医がいるんでさあ」

「そうすると、現代の大企業が専属で持っている企業の大きな診療所の医師みたいなものですね」

「そうかもしれない」

 「一度は公家の家にも呼ばれましたよ。公家と言っても相当身分が高いかたでね」

「どこですか」

「それは言えないな。恐れ多くてはばかりがあるからな。ある老女としておきましょう。白内障を患っておられてね。薬では直らない。当時西洋流の手術が効果があることがわかってきたんだが、漢方医で処置できるものがいない」

「蘭方医がいるでしょう」

「白内障の手術というのはまだ珍しかったからね。それに手術の経験があっても相手が高貴な方だから、もし失敗したら責任問題になる。腹を切らされたでしょうな。だからだれも名乗り出ないわけです」

 「そこで私にどうか、という話になった。失敗したらその場で腹を切るつもりで短刀を懐に入れて手術にのぞみましたよ」

「それで」

「包帯をとったときに目が見えるとその方が言われた時には嬉しかったですね」

「成功したわけですね」

 三四郎が「どこかで当時は眼科が一番西洋医学に遅れていたとか読んだことがあるな。司馬遼太郎だったかな」

平敷が三四郎を見た。

「たしかに眼科が一番遅れていたでしょうね。そのせいか当時の日本は眼病の患者がやたらに多くてね。さっき話した英人の医師が現状を見て、お前も眼科だけはしっかりと勉強しておけ、きっと役に立つと言われた」

 それではきっと明治の医学史には名を残されたのでしょうね、と平敷がいうと、尼子老人はわたしは見様見真似のもぐり医者だからね、ご一新で世の中がひっくり返っていたころは通用したが、だんだん世の中が落ち着いてくると民間では繁盛しましたが、医学界では認知されませんでしたね。看護兵あがりで正式に医学の教育を受けたわけではないしね。

第一私には戸籍がないんですぜ、と付け加えた。

 「長州征伐の時に家出したといったでしょう。それで民間の医者としては経済的にはかなり成功して明治の中頃に故郷に帰ったときにわかったんだが、本家に戸籍を抹消されていた。家出して長年連絡がつかないというのでね。日本で初めてきちんとした戸籍制度ができたのは明治10年で壬申の戸籍と言われているものだが、その時に家のほうで抹消してしまったんでさ」

 雨はようやく小降りになってきた。窓の外も明るくなった。電気はまだ回復しないが。

「公家の老女の手術には後日談がありましてね。成功をねたんだ漢方医の集団に京都の五条の橋の上で闇討ちに遭いましたよ。さんざんに切り刻まれてね。川に飛び込んでようやく九死に一生を得たわけだが」というと老人はワイシャツの前をすこしはだけて見せた。胸から腹にかけて刺青をいれたように切り傷の後が光って見えた。「背中はもっとひどくやられたけどね」

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする