穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

89:異邦人からの手紙

2020-04-30 07:17:10 | 破片

 それは六十年前の日付だった。
「君はどうしてそんなに変わってしまったのだと君に聞かれたことがあった。憶えているだろうか。多分もう忘れてしまっているだろう。僕ですら最近ふとしたきっかけから思い出したくらいだから。それで、僕はその時君の疑問に答えていなかったことも思い出した。人は自分にとってもっとも重要なことを明確に真剣に考えることを無意識に防御的に避けるものらしい。質問したのに無視されたのでその時には君は不愉快に思われたのではないかと想像する。古い昔のことでおそらく君も忘れていることに、わざわざ手紙を書いて答えるというのも妙なことに違いない。

 自分自身にとって長年の疑団氷解というほど目覚ましいものではないのだが、すこし「解」に近づいたようなのだ。しかし、頭の中でまとまってきた想念は妄想に過ぎないかもしれない。文章に表現することによって確かめてみたいのだ。それで手紙と言う手段で君の昔の質問に答えてみようかと考えた。君にとっては迷惑なことに違いないが。

 あれは中学の二年か三年のころだったと思う。古い話で時期は曖昧なんだが。「大丈夫かい」と心配してくれた。誰が見ても僕は大丈夫ではなかったろう。しかし親切に気遣ってくれたのは君だけだった、と手紙は始まっていた。

 知らない男から電話がかかってきたのは十日ほど前の夜の十時過ぎのことだった。三十過ぎとおぼしきハリのあるバリトンの落ち着いた男の声であった。その人は突然電話した非礼をわびたうえで私の姓名を確認した。「大変ぶしつけなことを伺いますが、昭和十七年に旧制府立XX中学をご卒業になりましたか」と聞かれた。不審に思い黙っていると、「今はご存知のように都立XX高校となっておりまして、その同窓会誌で調べました。私の祖父がおなじクラスにいたのをご記憶でしょうか。申し遅れましたがわたくしは一本松と申します」

 徐々に記憶が蘇ってきた。同じクラスに風変わりな同級生がいたことを思い出した。
「たしかに一本松君と言う同級生はいましたが、あなたはそのお孫さんなんですか」
私の言葉に不審げな警戒するような雰囲気を感じたのだろう。
「突然このようなお電話を差し上げてさぞご不審でしょう。じつは」と言ってしばらく考えているようであったが、「要点だけ申し上げますが、祖父の遺品を整理しておりましたところあなた宛ての未発信の手紙の草稿が出てまいりました」
「一本松君は最近亡くなられたのですか」
「いえ、五十年ほど前に亡くなりました。私の父も同じ家にその後も住んでいたのですが、昨年父もなくなりまして古い家を処分することにいたしましたので。それで祖父や父の残したものを整理して処分しようとしているのですが、その作業の中で父の手紙が出てきたのです」
「なるほど、私宛の手紙の草稿と言うか、メモのいうのが」
「そうなんです。実は内容にも目を通したのですが、祖父の知らなかった意外な面を知って驚きました。また、平島様には大変親切にしていただいたことが書いてありましたので、もし連絡がつけばお渡ししたほうがいいのではないかと考えた次第です。ご迷惑でしょうか」
「いや、そう言われても」と私には答えようがなかった。
返事を待っていたが、私がなにも言わないので「郵送いたしましょうか、それとも、、何分古いことなのでこちらで処分してもよろしいですか」
「しかし、彼はなぜ手紙を発送しなかったのだろう」と私が言うと
「手紙に付箋が貼ってありまして、あなたの新しい住所が分からないので調べて出すことにした、と書いてありました。それでそのままになっていたのでしょう」
「そうですか、大学を卒業したころから後は会うことも無くなったからな。二人とも違う大学に入ったし、会社に入ってからは会っていないな。しかし、かれがその後も草稿を処分せずにとっておいたということは、なにか読んでほしいことがあったんだろうな。それでは読ましてもらいましょうかな。お手数だが郵送していただけますか」

 というわけで手元に届いた彼の文章を読んでいるのである。

 


88:狂女注意

2020-04-28 15:54:24 | 破片

 大分日が長くなった。六時と言うとまだ明るい。JSは自宅に帰ると道路から自宅のただ住まいを一瞥した。怪しいところはないようだ。築八十年の木造二階建てである。玄関の郵便受けの下を確認する。悪質なDMを投げ込まれないように郵便受けはガムテープで封鎖してある。それにも関わらずDMを下に置いていくやつが時々いるのである。今日はなにもないようだ。ドアの上には警備保障会社のステッカーが貼ってある。その下には赤い大きな字で「狂女に注意」と書かれたステンレスのプレートがある。

 JSは家の横の木戸に回った。表にぶら下げてある南京錠を外すとソロリソロリと秒速十センチで木戸を引き開けた。レールからなかば外れかかった木戸は普通のつもりで引き開けるとばらばらになって倒壊してしまうのである。中に入ると木戸を用心して閉めレールからはずれていないことを確認すると内側から南京錠をかけた。

 じめじめした庭を回って勝手口に達すると警備保障会社の操作盤に暗証番号を打ち込んで警報装置を解除してから鍵を差し込み台所の戸を開けた。外出中に警備保障会社からの発報はなかったので無事だとは思うが長年の習慣で用心してそろりと中に身を入れた。電灯のスイッチを入れ、靴を脱いで板敷の台所に上がる。

 彼は一部屋ごとに電灯をつけて鋭い一瞥を室内に加える。窓の施錠を確認する。一階の各部屋を点検すると二階にあがり同様にすべての部屋を点検した。用心するにこしたことはない。父の建てた家は大正時代にモダンではやったアールデコとかいう様式だが、いたるところから侵入を誘うような構造上の欠陥がある。外部からテラスに上るのは子供でも出来るし、全部の部屋がガラス窓で雨戸などがある部屋は一つもない。現代の治安状況ではまったく無防備な家である。昼間は毎日外出していて無人となる家では、警備保障会社を使っていても不安なのである。

 彼は書斎に使っている二階の一部屋に入った。建築当時の日本家屋には珍しくその部屋だけは板敷なのである。いまではフローリングというらしい。そこには父が使っていた大きなデスクがある。重たい回転椅子がある。彼は椅子に腰を落ち着けるとプリンターに挟まれたままになっているプリントアウトを引き抜いて書きかけの原稿に目を通した。続きを書くために一応これまで書いたところを再読したのである。

 庭を隔てた隣の家は昔はどこかの実業家の家であったが、いまではある役所の新入職員研修生のための寮に使われている。書斎の向かいの部屋は女子用になっていて、当たりはばからず喚き散らし、嬌声をあげる新入女子職員の二人部屋らしい。夏などは下着姿で窓枠に腰かけて見られていることなど全然気にしない。

 部屋の壁には能で使う般若の面が掛かっている。オヤジの生きていた時からあるものである。子供のころは彼はこの部屋に入るのが怖くてしょうがなかった。行商人がしつこくベルをならして粘るときに、かれはやおら般若の面をつけると、中野のガラクタ屋で買った芝居用の白髪ぼうぼうのかつらをかぶり行商人に応対するのである。相当に無神経な奴でもびっくりして退散する。そこで彼らは玄関にある「狂女に注意」のステッカーを理解するのである。

 


86:競馬とな

2020-04-23 17:41:22 | 破片

 とJS老人が驚いた。この自粛要請の中で競馬をやっているんですか、と不審げに問いかけた。
「ええ、やってますとも、無観客でね」
「だけど、それじゃ成り立たないでしょう。慈善事業じゃあるまいし」と心配したようにつぶやいた。「しかし、それで大丈夫なんですか。競馬場に入れないとすると場外馬券だけなのか」
「場外馬券も発売禁止ですよ。あれくらい混雑するところはありません。三密状態の典型ですから」
「するってえと、無収入で興行するわけですか」
「そうじゃない。これまででも、インターネットの売り上げが80パーセントあったそうでね。無観客開催で競馬場に行けなくなったので、インターネットの利用者が増えているそうです。政府もやめさせるわけにはいかないんですよ。中央競馬だけでも年間三兆円の売り上げがある。政府がその25パーセントをテラ銭として召し上げる。具体的には農水省がね。それが国庫に入るからやめさせるわけにはいかない」
「なーる」

 いつの間にか来ていたCCが診療所から集めて回っている検体の入った四角い銀色のクルーケースを空いた椅子の上に置くと、「橘さんはお医者さんだったんでしょう。コロナ騒ぎでお医者さんの手が足りなくなっているからカムバックしたらどうですか。需要がひっ迫していますから」

「私は精神科だったからね。内科じゃないから。患者の頭に手を突っ込んだことはあるけど、患者の体に触ったことがないからな」と橘さんは応じた。
「競馬には経験があるんですか」
「昔ね、社会人になったころにすこし」
「橘さんはなんにでも博才があるんですね」
「そうでもない。非接触型だけですよ。ちょっとやるのは」
「は、コロナの話ですか。医者の話ですか」
「もちろんギャンブルの話です。博打でもプレイヤー同士の張り合いというか、やりあうのは全然だめですね」
「と云うと」とみんなが怪訝な顔をした。
「麻雀とかは全然だめですね。付き合いでやむなくすることはあっても、交際の出費だと思ってやっている。儲ける気は全然ありませんね。勝てないのが分かっているから」
「なるほどね」
「カジノゲームではブラックジャックとかもディーラーはいるけど、基本的には客同士の競り合いでしょう。そういうのはダメなんだな」
「だから競馬だということですか」

「そうですね。カジノゲームで言えばルーレットは大歓迎ですよ」
「しかし、あれには胴元というかディーラーがいるでしょう」
「一応いますが、あれは進行役でね。基本は客同士のやり取りです。そりゃだれも乗ってこないときや、いわゆる丁半がそろわないときには店が勝負に応じる場合もたまにはあるが、あるいは掛け金が上限のリミットを超える場合でね。そんな勝負はもともとしないから」と橘さんは説明した。「それにね、不思議だけど、客同士の張り合いはいやなんだけど、ディーラーとの駆け引きにはそう気を使わない。どうしてかな。なんか無機物に向かい合っているような気がするんだろうな」

「しかしねえ」と橘さんは心配そうに付け加えた。「競馬の無観客開催もいつまで続けられるかですよ。関係者にコロナ感染者が一人でもでれば中止するそうですからね」
「最近の様子じゃどこで感染するか分からないしね」
「そうすると橘さんは困りますね」
「そう、国内には公認のカジノはないからルーレットも出来ない」
「なんか秘密の地下カジノは日本にもあるみたいですね」
「あってもねえ、そういうところはカジノは楽しめないだろうな。そういうのは胴元が暴力団かヤクザがやるんだから、そういう組織に対する警戒感から結局対人型のギャンブルと同じになるんでしょうね。やったことはないけど、そんなことに気を使っていたら勝負になりませんよ」

「そうしたら、お医者さんに復帰ですか」
「それもありですね」

 


87:暗いカジノもある

2020-04-23 17:41:22 | 破片

 JS老人が第九のほうを向いて「あなたが客を呼び込んでいるみたいだな」と言うので老人の視線の向いているほうを振り返るとチョンマゲを頭に載せたフリージャーナリストの五百旗部氏が女主人に会釈しながら店内に入ってきた。

「皆さん、自粛疲れがでたんでしょうね。我慢できなくなって街にさまよい出たみたいだ」
頼りなげに頭の上で揺れているチョンマゲを気にしながら彼は一座に加わった。
「コロナ騒ぎでお忙しそうですね。すっかりお見限りで」
「ハッ?」と彼は一太刀不意打ちを浴びせられたように立ち竦んだ。
「取材で多忙を極めているでしょう」
「とんでもない。商売あがったりですよ」
「へえ、ジャーナリストは忙しくなるかと思っていた。飲食店と同じなんですか」
「覗き屋稼業もこう世間が自粛もムードでは商売できません」
「そんなもんですかね」
「なんだか話が弾んでいたようですね。コロナの話ですか」とチョンマゲは確認するように聞いた。

「そうじゃないんですよ。橘さんのパチプロ商売が立ちいかなくなったというんですよ」
「なるほど、政府はとうとう休業しないパチンコ屋は店名を公表すると言ってますからね」
「それで馬券師になろうというんですが、競馬もコロナの感染者が出れば開催を中止するというので橘さんが困っているんですよ。パチプロでは休業手当も出ないそうで」
「ははあ」
「それにね、日本ではまだIRが成立していないからカジノもないし、という話をしていたんでさあ。あなたはカジノなんかにいくんですか。仕事柄取材で海外にいくこともおおいだろうし」
「ええ、好奇心が強いほうだから機会があれば覗いてきましたがね」
「さっきも話に出ていたんだが、海外ではカジノが公認でヤクザや暴力団が関係していないから安心して遊べるというのは本当ですか」

そうねえ、とチョンマゲは首をひねった。女ボーイが持ってきたコーヒーを一口啜ると、なにか汚れがカップについていないかと目を細めたが、
「裏社会が、マフィアとかね、そういうところが関与しているかどうかというのは表面からは海外ではわかりませんからね。日本では公認されていないから歴然としていますがね。
とにかく公認されているからこそこそと人目をはばかりながら賭場に入って、怖いお兄さんに監視されることはないですね」

しかしねえ、と彼は考え考え付け加えた。雰囲気は場所によって大きく違いますね。小さなカジノは危険かもしれない。例外なくそういうところは雰囲気が暗いからね。インチキをされているのかもしれないと考えることもある。モナコとかニースのようなところは安心ですけどね」
橘さんが同意のしるしに頷いた。

具体的に言うとどういうことが、と誰かが聞いた。
「一度ウイーンで入ったカジノは映画で見る日本の賭場のように暗い雰囲気でしたね。ルーレット台が一つしか無くてね」
「ルーレット台は店で操作できるというのは本当ですか」
チョンマゲはギロリと視線を質問者に向けた。
「常識でしょうね。しかし大きなカジノではそういうことはまずしないようですね。さっき言ったところとかラスベガスの大きなカジノでは心配しなくていいようです」

それでウイーンの賭場はどうでした、と橘さんが聞いた。
「一言で言えば店の雰囲気が暗い。これは曰く言いようがないが、直感的に肌で感じる。目で暗さを感じるのではない。肌に迫るのです」といって一同を見回した。
「入った以上そのまま出るのはまずいので適当に低いベットで何回かやっていると、店内に東洋人の集団が入ってきた」
「客だったんですか」
「そうらしい。みんな細い目が吊り上がっていてね。種族的特徴が顕著でした。全員がグループらしい」
「日本人ですか」
「もちろん違います。もっとも彼らは集団にも関わらず一言も話さないからよく分からない」
「どういう連中なんだろう」
「直感ですけどね、北朝鮮を連想しましたね。ピンときました。ウイーンは彼らの欧州での諜報活動の拠点ですからね」
CCが言った。「彼らが現れたのは五百旗部さんが現れたからなんでしょうかね」
「関連がある、というのが直感でしたね。変ね客が来た。どうも日本人らしい。風体が怪しい、というので店の誰かが通報したのでしょう」
へえ、と誰かが言った。
「もちろん推測ですよ」
「どうしてだろう」
「わかりませんね。私が諜報関係者で彼らとつながりのある店を探りに来たと疑ったのかもしれない。なにしろ私はこの風体だし、どこにいっても怪しまれるんでね」とみんなの笑いを誘った。
「あるいは」とJSが言った。いいカモが来た。篭絡して利用しようと集団で押し寄せたのかな」
「その可能性はありましたね。それで私も気味が悪いので、すぐに店を出たんですよ」

橘さんがチョンマゲに聞いた。「ラスベガスはどうですか、あそこは大きな店でもルーレットは一台か二台ぐらいしかないが」
「だけど店自体が大きいから、あまりインチキは心配しなくてもいいんじゃないかな。しかしあそこで気をつけなければいけないのはオンナですよ。部屋にまで入り込んできますからね」
橘氏はなにか思い当たるところがあるらしく頷いた。

 

 


85:パチプロ橘さんが失業

2020-04-20 08:28:05 | 破片

 ところで今何時ですか、と時計を持っていない第九は老人に尋ねた。彼は腕時計に目を落とすと、もう三時だね、と盤面を読んだ。
「もう、だれも来そうもありませんね」というと第九は再び読みかけの記事を読み始めた。
 どうもさっきJS老人に解説したことは間違いだったらしい。記事で宇宙と言っているのは数学的な宇宙ということのようだ。これでもまだ紛らわしいな、と彼は思った。数学、幾何学で表現できるすべて、ということらしい。それならシステムが違う体系がいくつあっても不思議ではない。べつにSFのように鬼面人を驚かすような話ではないのかもしれない。記事にパラレルワールドなんて書いてあるから誤解するんだ。

 オイオイと老人がびっくりしたような声を漏らした。「噂をすれば何とやらだぜ、珍客だ」
第九が見上げると入り口からパチプロの橘さんが入ってきた。今日は景品の茶色の紙袋をさげていない。儲からなかったらしいな、と彼は思った。ママがびっくりしたように大きな声を上げて挨拶をしている。

 橘氏は近づくと椅子一つを開けて腰を下ろした。
しばらくご無沙汰だったね。ひと月ぶりくらいかな、とJSが言った。
「十日ほど地方を回ってましてね」
「地方のほうが儲かるんですか」
「いえいえ、そんなことじゃないんです。緊急事態宣言で東京のパチンコ屋は休業中ですからね。まだ営業している地方の店に行っていたんですよ」
「なんか、東京のパチンカーが大挙して田舎になだれ込んでいるらしいな」
「そうなんですよ。いやもう大変な混雑で」
「関東近県にご出張でしたか。家なんかも早朝に出なけれならないんですか。私はパチンコをしないからよくしらないが、開店前に並んで良い、つまりよく鳴きそうな台の奪い合いを客同士でするそうですな」

その通りで、というと店の紙ナプキンで脂ぎった顔をごしごしと拭いた。「10時に開店ですから、早くから行列に並ぶには家を7時ごろには出ないといけない」
「それは大変な仕事ですな」とJSは橘氏に同情を示した。
「それでね、東京に近いところは特に込み合うから宇都宮とか福島まで行きました」
「へえ!」と言ったきり驚いて二人は声が出ない。
「何時に家を出るんです」とJSが気が付いたように聞いた。「新幹線でも使うんですか」
「そうなんですね。それでも早朝に家を出なければならないので、向こうでビジネスホテルに泊まっていました。値段的にはそのほうが経済的なんですよ」
「そんなに忙しくてはダウンタウンに帰りに寄るなんて余裕はないわな」
「申し訳ありません」と橘氏は律義に謝らなくてもいいのに頭を下げた。

それで今日はパチンコ屋通いもお休みになったんですか」と第九は聞いた。
「ええ、当分は休業ですよ。地方にもオイオイと緊急事態宣言に追随することが出てきましてね。そのうちに全国のパチンコ屋は休業になるでしょう。それで今日は仙台のビジネスホテルをチェックアウトして戻って来ました」と橘氏は几帳面に報告をしたのである。

「それで今後はどうなさいます」といつの間にか近くに来ていたママが心配そうに聞いた。
いや、それですがね、と橘氏はくちゃくちゃになった紙ナプキンを再び広げると禿げあがった額を二度三度と拭ったのである。「馬券師に復帰しようかと思うんですよ」

 


破片84:外出自粛下のダウンタウン

2020-04-18 08:40:37 | 破片

 公共交通機関に乗るのをやめろと高札に出ていたから、模範的市民である第九は毎日歩いてダウンタウンに通った。片道二時間かかる。殺風景な東京の街を歩くのは苦痛と言っていいが、日ごろの運動不足の解消にはなるだろうと思ったのである。そのかわり目標にしている毎日一万歩は軽く達成できた。しかし普段そんなに歩かないからたちまち足の指が痛くなりだした。今日は電車で帰ろうかなと考えながらダウンタウンのある階まで登って行った。エレベーターに乗るのも怖いから階段を登るのである。店内は超閑散としている。普段からコーヒー一杯千円の店が場末で流行るわけがないのだが、コロナ騒ぎで一段と店内はさびれてきた。

 席に着くとママがいそいそと注文を取りに来た。今日は女ボーイのすがたが一人も見えない。何時もの常連も来ていない。みんな今日は来ないのかな、とママに云うと「そうですねえ、これからどなたかいらっしゃるでしょう、来られるのが遅くなりましたね」という。

 彼らも電車や地下鉄でなくて歩いてくるのかしら、と彼は思った。
「いっそ、店を閉めて休業手当でも貰ったほうがいいんじゃない」と言ったらママは困ったように苦笑した。彼はいつもの通りインスタントコーヒーをカレー用スプーンで山盛り二杯注文した。二時間歩いていささか疲れたので砂糖は疲労回復の為に20グラム入れてもらうように頼んだ。

 新聞のラックからもってきた新聞の記事を片っ端から読んでいると、朝日新聞と読売新聞を隅から隅まで読み終わり、産経新聞を読んでいると入り口で割れ鐘をぶっ叩くような大声がした。顔を上げると下駄顔老人がママと挨拶を交わしている。隣に座ったJSに「あなたも歩いてきたんですか」と聞くとそうなんだ、君はと問い返してきた。
「私も歩いてくるんですよ、片道二時間かかります」
「そりゃ仕事と同じだね」
「まったく。運動不足の解消にはいいかなと思ってね。だけど歩きなれないからたちまち足に来ましたね。あなたはどのくらい歩くんですか」
「一時間とちょっとかな」と湾岸エリアの新開地に住んでいるJS老人は答えた。
 老人は第九が広げていた新聞を見て「何が面白い記事がありますか」と尋ねた。そして紙面をぞきこむと第九がちょうど読んでいた「消えた反物質の謎」というタイトルを見て、「ほほう、あなたは科学記事に興味があるんですな」と感心したようにつぶやいた。
「いや、とくには無いんですけどね。反物質なんてなんだろうと思ってね」
「反物質とは向こう狙いのバカげたネーミングだね。反物質なら無ということだべ」
「まったく、最先端の物理学者はお経みたいな世迷い事をいいますね。そうそう、最近読んだ記事でも妙なのがありましたよ。これは数学者の発見だか発明らしいんですがね」

「どんな話ですか」
「京都大学の望月という教授が「ABC予想」という難問を証明したというんですよ」
「一体何のことですか」と分からないことにはすべて直ちに軽蔑の念をしめすJS老人が吐き捨てた。

「いやね、数学的なことは記事じゃよく分からない。取材した記者にも分からないようでしたね」
「それじゃ話にならんね」
「面白いのは、この宇宙は幾何学的な図形で出来ているというんですな」
「なんですと」とかれはあまりに突拍子もない話を聞いて、持っていたお冷のコップを落としそうに驚いた。

 


SFつれづれ

2020-04-12 08:55:26 | ミステリー書評

 外出自粛、本でも読むかと思ったが食指が動く対象もない。久しぶりに書評めいたものを書くか、という次第である。

 サイエンス・フィクションなる分野がある。あまり読まないがそれでも百冊以上はよんでいるかもしれない。例外なく「砂を噛むような読後印象」しかない。内容を覚えているものはない。もっとも、和書は読んだことはないから翻訳物のことである。翻訳がまづいのか、原文がつまらないのか分からない。

 この間早川で「書架の探偵」ジーン・ウルフというのを読んだ。途中までだが。それで気が付いたんだが、SFというものは最初の仕掛けが非現実的というか幻想的というか未来的なんだね。びっくりして、それじゃ小説で書くと登場人物はどう動くのか、どうなるんだ、と買ってみる。

 そうすると、そういう未来的な仕掛けの中で動く人物は当今の人間と行動様式も考え方も使命感も同じなんだね。なんだ、これは、と思うわけ。金を返せ、とね。

 それも紙芝居的、小学校低学年向きの作文だから最後まで読めるわけがない。つまり現代と同じ人間が紙芝居をやっているわけだ。読むに堪えない。

 私が読んだなかでは、これもSFのジャンルらしいが、ハックスレーの「すばらしき新世界」が唯一内容もサイエンス・フィクション的で未来的であった。つまり外面的なこけおどしのギミックだけではなくて、人間のOSまで様変わりして書いてあるから成程と思わせる。

 これはSFではないが、人間のOS(内面、あるいは行動規範)まで変わった世界を見事に描いたものにカミュの異邦人第一部がある。ちょっと、断っておくがカミュというとカフカがおまけでついてくるが、カフカは外面、つまり世界のOSが違ってくる(壊れていると現代人は考える)世界をえがく。これはこれで工夫があるから最後まで読める。

 純文学(おどろおどろしい言葉だから一般小説家としよう)の分野ではノーベル賞作家のカズオ・イシグロの「私を離さないで」はクローンを画いてSF的なところがある。さすがに並みのSFのような紙芝居の域は脱しているが、どうも迫力不足に感じる。

 


83:屁でためす

2020-04-09 17:29:18 | 破片

 どうしたらいいんだろうね、と誰かが言った。
「かからない用心は三密をさけろなんていってるね。このごろでは人との接触を八割減らせなんて、お経みたいなことをいう政治家もいる」
「問題はかかっても自分で分からないということだろうね。余計に不安になる」
「においが分からなくなるって云うじゃない」と憂い顔の長南さんが言った。
「なんの症状もまだ出ていないのににおいが分からなくなったら危ないのかな」
「ほかに原因もないのににおいを感じなくなるのは明らかに異常だからね」
「俺は子供の時にひどい風邪をひいて、においや食い物の味が分からなくなったことがあったな。親父が医者でそういったらバカに慌てていたな」
「花粉症なんかでにおいが分からなくなるって云うわね」とママが言った。
CCが思いついたように発言した。「女がダイエットをするとにおいを感じなくなりますよ」
一同が不審そうな顔をした。どうしてだい、とJSが聞いた。
「極端なダイエットをすると栄養が偏る。とくにミネラルが不足するらしいんですよ。亜鉛だったかな、あれもごく少量でいいが体内に無くなると味覚や臭覚障害を起こすらしい」
「するってえと、若い女には臭覚障害が多いんだろうな」
「そのとおりです。だから香水をつけてもにおいを感じない。そこでこれでもか、これでもかと安香水をジャブジャブかける。においを感じられるまでね」
「ははあ、若いのにビショビショになるまで香水をかけないと安心できない女がいるね。あれはそういうことなのか」と卵頭が気が付いたように言った。
忘れちゃいけませんぜ、とJSが注意した。臭覚は加齢とともに衰える。痴呆の進行度と大体おなじらしい。
「まったく、ばあさんの中にはこれでもか、これでもか、と白粉を塗りたくるのがいるね。どうだ、恐れ入ったか、におうだろうってね、威張ってる」
皆さんは大丈夫ですか、臭覚のほうは、と第九が問いかけた。
おれも心配だからさ、毎日確かめているんだと卵頭が言った。
「コーヒーのにおいをかぎますか」
「いや、家ではコーヒーを飲まない。それに魚の干物みたいにマンションの隣の部屋にまでニオイが侵入してくるものはもともと家族全員が嫌いなんだ」
「それじゃ困りましたね」
「それでさ、ガスのにおいを試した」
「ガスって都市ガスですか」「そうよ」
「臭いはないでしょう」
「点火すればにおわない。だからガス栓を開けて火をつけないで顔をレンジの上にもって来るんだ」
「危ないな、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃなかったな、嫌な臭いは嗅いだんだが、すっと気が遠くなって流しの床に倒れてしまった。気を失ったんだよ」
「えれえこった」
「生ガスはどんどん出る。ガス検知器はがなり立てる。火災警報器がマンション中に鳴り響いたな」
「無事だったんですか」
「救急車が来てさ、病院に連れていかれたよ」
みんな呆れかえった顔をしていた。
「それでさ、自分の屁で試すことにしたんだ」
「へえ」(一同)
「そんなに都合よく出ましたか」と第九が心配そうに聞いた。
「いや、出ないね。都合のいい時にでるものじゃない。都合の悪い時に出てきそうになる。それにさ、いつもにおうわけじゃない。全然無臭の屁というものもある」
「たしかにあるな」
「それでサンプルを増やすために孫娘にも協力させているんだ」
「どうやって」
「屁が出そうになったら我慢して俺のところに来て嗅がせろってな」
「お孫さんはいくつなんですか」
「当年とって24歳の独身さ」
「それで協力的ですか」
「俺の言うことは何でも聞くのさ」
「それで今のところ臭覚は異常なしと」
「そういうことだ」

 


82:すくなくとも経緯の説明はすべきだ

2020-04-05 08:27:45 | 破片

 シナ人はゲテモノ食いですからね。蝙蝠でもナメクジでも食うんじゃないですか、といつの間にか店に来ていたCCが言った。
「アメリカの国務長官が武漢ウイールスといったら、中国が抗議したというんだから呆れるね」
「少なくとも、武漢での発生や蔓延の経緯を正直に説明すべきですよ。武漢が震源地であることは明白なんだから。例えば外国から来たなんて珍妙な主張をするなら経緯の説明が不可欠ですよ。挙証責任はシナにあることは明白だからね」
「中共も虚証の権利だけは持っていると信じているらしい」

「しかし中国は封じ込めに成功したといっているが、本当ですかね」
「さあねえ」
「発生したのは12月らしいけど、明るみに出たのが二月だったかな」
「一月の末じゃなかったかな」
「それにしても、彼らの云うことが本当だとしたらわずか二か月ほどで片をつけたのなら大したものですね」
「逆に言えば、それは中国が熟知していたウイールスであるということでしょう」と第九は言った。
「そうだね、自分のところで開発した生物兵器なら扱いは知っていたということになるからね。蔓延した場合の対処法も兵器使用法の一部だからね」とチョンマゲが応じた。「独裁国家ならではの乱暴な取り締まりもある程度効果があったかもしれないが」

「最初のころはすさまじいことになると思ったからね。本当に目途をつけたんなら大したものだ。それにしても分からないのは欧州やアメリカでの広がり方だよね。欧州では油断があったようだけど、アメリカで短期間に爆発するなんて意外だったな」
「そうですよね、真っ先に中国との人の往来をシャットダウンしたのはトランプだったしね。常識的にはアメリカが一番防御していると思ったがな」
「それがコロナ流行に関する最大のミステリーだろうな」
「中国は新型コロナの対処法の勘所は秘密にしているんだろう。自分では情報は透明化しているなんて言っているが」
「そんなのは真っ赤な嘘でしょうね」

「あのウイールスは人種的に選り好みがあるんじゃないかしら」突然憂い顔の長南さんが発言してみんなを驚かせた。「ヨーロッパの流行を見るとイタリアとかスペインとかフランスがひどいでしょう。ラテン系というかロマン系というか」
「じゃあ、アメリカの流行はどうなんだい」と誰かがきいた。
「アメリカの流行でもヒスパニックが多いんじゃないかしら」
「そんな報道はないぜ」


81:ものの見方にもよりますが

2020-04-03 08:44:52 | 破片

 チョンマゲは不審そうな顔をした。「そんなことを言いましたっけ」
「おっしゃいましたよ。生物兵器としては完成度がいまいちだとか」
「そうでしたか」彼は感慨深げに首をかしげた。「どうも発作で直前記憶が吹っ飛んでしまったらしい。そうですね、あれが生物兵器だという説はありますからね」と言葉を切るとしばらく考えていた。
「そうですね」とチョンマゲは考え考えするようにゆっくりと話し始めた。
「生物兵器とするともう少し練り上げたほうがいいかもしれない。いってみればマイクロソフトが完成度が全然ないOSを販売するようなものでしょうね」

話が急激に飛び離れたので皆は驚いた。「マイクロソフトはひどい会社でね、普通ならリコールになるような製品を平気で押し売りする。そうして『アップデートしなさいよ』と一日に数回アップデートさせる。普通の商品ならリコールものですよ」
「まったくなあ、最低でも一日に一回はそういう強要メッセージが現れるな」

まるで利用者がアップデートをしないと、ハッキングなどの被害にあっても、お前の責任だというんだからひどいものだ。さすがにアメリカの会社だね、とJSが頷いた。
「マスコミなんかもだまされて、とくにIT評論家と称する人間はマイクロソフトのお先棒を担いで『頻繁にアップデートしないのは利用者が悪い』なんて頓珍漢なことを訓示する」
「まるであべこべだね」

タマゴあたまが聞いた。「それでどの辺が完成度が低いんですか」
チョンマゲは困ったような顔をした。私は生物兵器の購入者でもないし、利用者でもないから、どこがどうだとかは言えませんよ」
「そりゃそうだ」

「ところであの事変、武漢肺炎事変とでもいうべき騒ぎはどういう経緯だったのかな」
とJHが言った。「いや、つまり意図的にどこかが細菌戦争をしかけたものかな」
「それはないだろう」とタマゴ頭が反論した。
「するってえと、事故ということかな」
「事故説というか誤って漏出させたというのが有力な説のようですね」
「武漢のあの辺りに細菌兵器の研究所があるそうですな」
「そのようですね」
「そうするとそこの研究者が誤って漏出させたと?」
「まあ、真相は藪の中ですが、こういう説がありますね」と軍事評論家のチョンマゲが披露した。「ご案内のように新型コロナウイールスは遺伝子解析から野生のコウモリがもっているウイールスに近い。それでその研究所では蝙蝠を大量に捕獲して研究実験に使っていたらしいんですよ」と彼は言うとコップのお冷で喉に湿りをくれた。なにしろ彼のノドは繊細である。

皆は黙って彼の説明を待っていた。「実験に使ったコウモリの死骸はウイールスが外に漏れないように徹底的に殺菌して焼却処分にすることになっているが、そういう作業をするのは末端の日雇いのような人間でしょう。そういう連中が蝙蝠の死骸を海鮮市場にもっていって小遣い稼ぎに売っていたというんですよ」
「本当ですか」
「それは分からない」
「かの地の民度を考えるとありそうだな」と誰かが言った。「コウモリの肉は珍味なのかもしれない」
「高値が付くのかしら」と憂い顔の長南さんがつぶやいた。

 

 


破片まとめ、70-79

2020-04-02 07:22:15 | 破片

70:尻を拭くなら新聞紙を使え

世の女どもに告ぐ、くそをしたら古新聞で尻を拭け、と誰かが言わなかったっけ、と同棲相手兼雇用主の洋美がばたばたと化粧をして家を飛び出した後でテレビをつけた彼は思い出した。トイレットペイパーを女どもが買い占めているらしい。普段ならすぐ忘れてしまうような昨日の体験を思い出した。帰りにコンビニに寄ったときである。行列に並んで順番を待っていると前の客に長々と時間がかかっていた。見るとトイレットペイパーの大きなロールをまとめて買っている。テレビを見て、ははあ昨日の客も噂というかデマに踊らされた買占め客だったなと気が付いた。

その客にやや観察の視線を注いだのであるが、年恰好は六〇くらいだろうか、木賃宿の女中という印象であった。家族や宿泊客に多数の盛大に下痢をする人間でもいるので、腕に抱えきれないような量を買っていると彼は思った。なんだか彼女までが不潔のようで列に並ぶのをやめようかな、と思ったときに彼が呼ばれたのでしょうこと無しにカウンターに機械的に進んでタブロイド夕刊紙を買ったのである。

テレビでは前世紀のオイルショックの時にもトイレットペイパーの買占めパニックがあったそうである。そのころの映像が流されていたが、買占め客はみんな女性である。家族の間でトイレットペイパーは女性が買うものという役割でもあるのかな、と彼は不思議に思った。それとも女というものは排泄の時以外にも陰部を拭く必要があるのであろうか、知識の乏しい第九には判断が出来かねた。

テレビのワイドショーが終わると食卓の後かたずけ、洗濯、掃除と朝の行事を済ませると昼飯を食いに外出した。駅の近くのスーパーの前を通ると長い行列が入り口の外に出来ている。デパートなんかでは特定の菓子などの人気商品の前に長々と行列が出来るときがあるがスーパーでは珍しい。彼はドリンクでも買っておこうと店に近づいた。味付け水のプラスチックボトルはコンビニで買うと一五〇円以上するのにこのスーパーで九五円で買えるのである。それで店に入ろうとすると偉そうな男が大手を広げて彼を阻止した。背広を着た男でレジや店内で作業をする店員には見えない。おそらく店の幹部社員なのだろう。

「行列に並んでください」という。午前中にこんな行列が出来たことは無い。いや、一番込む時間帯の夕方でも行列して入店を待つなんてことはない。「何でなんだ」と彼が詰問すると、トイレットペイパーは一人一個までで順番に入店させるという。別にトイレットペイパーを買うわけじゃないといったが、店長らしき男は入れてくれない。そうすると今頃来る客はみんなトイレットペイパー狙いだと思っているらしい。ヤレヤレと彼は店を離れたのである。

定食屋で鶏肉と野菜のあんかけを食うと日課にしている本屋を回りダウンタウンに入った。
砂糖二〇グラム入りのインスタントコーヒーを注文すると、すでにたむろしていた常連の席に行った。彼らの話題は今日も新型コロナであった。第九は今朝ワイドショーを見ていて浮かんだ疑問を発した。
「尻を新聞紙で拭け、と言ったことを聞いたような気がするんですがね」と云うとJSは
昔はトイレットペイパーなんでものはなかったからね」と言った。
第九は驚いてそれで新聞紙で尻を拭いていたんですが、と反問した。
「昔でもしりふき紙はあったさ、チリ紙みたいなものだろうな。俺が記憶しているのは古新聞だったな。もうチリ紙なんてものは貴重品になっていたからな」
「何時頃の話ですか」
「すぐる大戦のころさ。物資が欠乏してな」
「それじゃ便所が詰まってしまうでしょう」
「詰まりはしない。水洗じゃないからな。紙はポトンと下の糞貯めに落ちる。それをあとで天秤棒で担ぎ出して田んぼに肥料として撒くのさ」

するっていうと、と第九は言った。昔のように古新聞を使えというわけか。
「たしかオイルショックのときに誰かが言っていたな」
CCが疑問を呈した。しかし、オイルショックというともう水洗便所がかなり普及していたんじゃないかな」
「東京ではね。しかし地方ではまだだろう。だからさ、水洗になったところでは拭いた後の新聞紙は流しちゃダメなんだ。ごみ袋に入れて燃えるゴミでだすのさ」
「本当ですか」
「さあな。しかし古新聞を使え、という主張はあったよ。憶えているからな」


71:日本人は肛門性愛期である

帰るさ、第九は外国でもトイレットペーパー騒ぎは起きているのだろうか、という疑問が脳中に浮かんだ。家に帰ると早速インターネットを漁った。アジアの近隣諸国を含めてトイレットペーパー恐慌は日本以外では起きていないようだ。そんな記事はない。彼は念のためにオイルショックの時の記事も検索した。1973年というからもう半世紀も昔の話である。やはり、日本以外でトイレットペーパーの買占めがあったというニュースはない。

社会的な大事件で、たとえば戦争とかパンデミックとかでは特定の商品が品薄になるというデマや思惑で大衆心理が惑わされて恐慌が起こるというのはあるようだが、トイレットペーパーが対象となることは外国ではないようである。しかも半世紀を隔てて全く違う恐慌が原因でいずれもトイレットペーパーが買占めパニック現象になるのは日本だけであるのは間違いないようである。

こりゃあ、何だ。日本人の種族性かな。種族心理学でも調べなければならない。フロちゃん(ジムクンド・フロイト)一派の深層心理分析に頼らなければなるまい。あるいはユンク教にも、と第九は思ったのである。日本人は種族としてまだ肛門性愛期にとどまっているのかもしれない。女性に限っては絶対そうだ、と彼は思った。柔らかいトイレットペーパーは懐かしいお母さんの手のひらの記憶かもしれない。

おや、と彼の視線はパソコンの仮面に釘付けになった。韓国ではトイレットペーパーを便器に流さないという。便器の横にごみ箱が置いてあってそこに使用した紙を入れるというのだ。クレジットを見ると二、三年前の記事だから、いまでもそうなのだろう。理由も書いてあって、トイレのパイプが狭隘ですぐに詰まるからとか、紙の質が悪くて水に溶けにくくて詰まってしまうからだという。日本も便器の脇にごみ箱を置いて捨てれば新聞紙でもいいわけだ。尻へのあたりはすこしゴワゴワするだろうが。もっとも肛門性愛期とすると、違和感があるのかもしれない。第一臭くってしょうがないだろう。


72:四谷はどうかしら

と洋美は言ったのである。タワーマンション脱出計画はようやく二件の物件に絞られたのである。いずれも四谷の物件である。一件は丘の上のお屋敷町に建つ三階建てで、模造レンガの褐色の壁がいかにも高級感を醸し出している。外から見ると住居を仕切る隔壁など見当たらない。ワンフロアに一住居のように見える。
欠点は、その広さである。百五十平米というのは、洋美ご自慢のマリーアントワネット風の天蓋付きベッドの容器としてはふさわしいのだが。価格も二億円近いというので、いくら彼女がいまをときめくキャリアウーマンと言ってもローンは組めない。賃貸にしてくれないかと聞いてみたら家賃が百五十万円ならと所有者は言っているそうである。第九が「あきらめろ」などというと彼女が逆上するから、しばらくは彼女の夢見物件として泳がせているのである。

彼女の第一候補なのである。一応不動産会社を通して引き合いに出して交渉を引き延ばしている。交渉を引き延ばして売り主の焦りを誘って値引きを引き出そうというのが彼女の作戦なのである。うまく行くはずもない。しかし、あまり高すぎるので他に引き合いもないらしく不動産会社もなにも言ってこない。

もう一つの候補は交通の激しい大通りに面したマンションの五階の部屋である。元は三業地だったということで、付近は商店ばかりである。マンションの一階はコンビニになっていて利便性は悪くないと第九は思うのであった。

翌日ダウンタウンに行ったときに、JHが引っ越しは決まりましたかと言われたので二件の物件があるが、と話した。
「一つは高すぎて現実的じゃないですがね」
「丘の上だか坂の上だとか言うとお岩稲荷の上かしら」とママが聞いた。
「さあ、どうですかね」とお岩稲荷を知らない第九は答えた。
「四谷というからには谷が四つあったんな」とEHが思いついたようにつぶやいた。
「今でもあるでしょう」とCC
「するっていうと、丘も四つあるわけだな」と大発見をしたようにEHが発した。

そうすると、引っ越しは急がないわけだ。腰を据えてさがすんだな、とJHが言った。
「しかしねえ、急いだほうがいいかもしれないな」とCCが思い出したように話に割り込んできた。「武蔵小杉の浸水騒ぎもあるけど、停電は別に台風のためばかりじゃないからな。いわゆるブラックアウトなんて原因不明の都市全域の大停電もありうるからな」
「いつかニューヨークでありましたね」

「タワーマンションではその他にいろいろ聞きますよ。深夜寝込んでいたところを警備員に踏み込まれた奴がいましたっけ。夏目さんのマンションは江東区でしたね。風はどうですか」
「ビル風っていうやつ」と長南さんが聞いた。
「海が近いせいかしょっちゅう強風が吹き荒れていますね。都心に出ると風なんか全然吹いていない日でも風速二十メートル以上の強風が一日中吹きまくっている日があります。それはビル風なんて生易しいものではない。私の知り合いの住民なんか自分のマンションを颱風荘としゃれて言っているのがいますよ」
「だけど、それと警備員に襲われる話とどうつながるの」と長南さんは不思議そうな顔をした。若き女性哲学徒はあくまでも納得のいく説明を求めるのである。
「それですよ」と一座はCCの説明を求めるように彼の顔を見た。

73:発報せり

「ご疑問はごもっともなれど」とCCは言った。「とにかく湾岸地域の高層マンションの周りで吹く風は狂暴でしてね。しかも風が巻くんですね」
「竜巻みたいに」と長南さんが憂い顔ですこし語尾をあげた。
「そうそう、だから管理事務所が住民に隔壁にひびが入りませんでしたか、としょっちゅう聞いてくるそうですよ」
「赤ん坊なんかは空に舞いあげられるの」と長南さんは本当に心配しているようであった。
「さあ、一人で置いておかれたらそうなるかもしれませんね」
ママが身震いして顔をしかめた。
「とにかくドアの風切り音が鳴りやまないんですから」
「風切り音って」
「風が強い時にドアがガタガタとゆすぶられるようになる時があるでしょう」

「しかし、ああいうマンションは全部中廊下だろう」とJSが疑問を呈した。
「もちろんです。その仲の廊下に面したドアがみんなガタガタいうわけですよ。それでね、颱風の時にはひときわそれが激しい。ああいうマンションは設備が最新式でしょう。防犯設備も各部屋に最初から設置されている。勿論ドアにもです」というとCCはコーヒーを啜った。
「ところがね、勿論センサーで監視しているわけだが、この設定が非常に厳しかった。というより厳しすぎた。台風の時に防犯ベルが一斉に発報したんですよ。驚いたのは警備室です。とにかく数百戸の部屋の警報が一斉に不審者侵入を発報したんだから」

「そりゃ面白れえ、壮観だったろうな」とJSは現場を見物できなかったことが残念でならないようであった。
「それは千所帯ちかい住居が入っているわけだから防災センターも大勢警備員はいるが、全部の部屋に対応することなど出来ない。とにかく一斉に警報が喚きだしたので、どうしたらいいか分からない」

「そうだなあ、センサーの感知レベルの設定が難しいね。緩くすれば本当に侵入者があった時に役にたたないわけだしね」

そうすると、引っ越しは早くしたほうがいいな、と第九は思ったのである。
それで警備員はどうしたの、と長南さんは聞いた。
「警備員が全員飛び出してめくら滅法にドアを蹴破って、失礼、合いかぎで開けてということですが、部屋に踏み込んだそうですよ」
それは昼間のことかい、とEHが念のために聞いた。
「いや、深夜二時ごろだったそうです」
「そりゃ住民も驚いただろうな」

この話も洋美にしてやらなくちゃと思った。


74:老樹いまだ花を開かず

今年は桜の開花時期がやけに不揃いだ。テレビでは満開の桜の映像がもう流されているが、第九が毎年街に出るたびに遠回りして見に行く桜はまだ枝先がもやもやしている。それはお屋敷町の邸宅の前庭にある一本の桜なのだが、咲きそろったときのあでやかさは形容しがたい。相当の老樹と思われる。まずは間違っても染井吉野ではない。まるで江戸時代から生えているような雰囲気を持っている。東京のお屋敷町は区画整理を免れて旧幕時代の武家屋敷の敷地がそのまま大邸宅になっているところがまだわずかにある。そんな家の前庭に生えている桜の大木がまだ全然開花の気配を見せていない。どこだかは書かない。個人の住宅であり、当世はインターネットでちょっと書くとたちまち人が群がって邸宅の住人に迷惑が掛かるから書かないのである。第九はここ数日外出するたびにその前を期待しながら通るのであるががっかりした。他にもそのような見事な桜を何か所か知っていたが、みな最近の住民の代替わりであっという間に桜は切り倒されて跡地にマンションが出現している。此の樹は彼の知っている桜の最後の美樹なのである。

ダウンタウンは閑散としている。コロナ騒ぎで客は相当に減っている。今日は常連ではJSさんだけだ。ほかに滑稽で貧弱なちょんまげを頭に載せた初老の男、あれれ、彼は先日長南さんの葉巻の攻撃で窒息しかけた男ではないか。彼はママと話している。たしか、彼女と同じマンションに住んでいるとかいっていた。

JSは前のテーブルにラップトップPCを広げて、怒ったような赤い顔をして画面をにらみつけている。かれが店でラップトップを広げているのは初めて見た。
「珍しいですね。ラップトップを広げてお仕事ですか」
「あんたね、いまではノートブックパソコンというんだよ」と彼は教えてくれた。
「おやそうでしたか。マイコンではなくてパソコンというようなものですな」
JSはギロリと第九をにらんだ。だいぶイカっている様子である。
そういえば何時か彼がエロ本執筆者だとか言ってなかったけ。秘密出版だとか、いやボケ防止対策だといってたかな、と第九は思い出した。それにしては赤い顔をして怒っているのはなぜなのだろう。それとも、エロ小説を書いていて自分自身が興奮怒張してきたので赤くなったのかな。

何をお書きですか、と一応聞いた見た。
「警世の書ですよ」
「は?」
「わかりやすく言えば木っ端役人に対する警告書ですな」
なるほど、それで納得した。世を嘆き、世を怒っているからああいう赤い顔をしているのだ。
「木っ端役人と言うと」と説明を求めた。
「警察庁、財務省、総務省だ」
これはすざましい。いや勇ましいと言うべきだろう。
「思い出しても腹がたつ」と吐き捨てた。
この老人を相当に怒らしたことがあったらしい。

75:瀰漫するシャベツ不感症

ジャパニーズ・サンダル顔(下駄顔)老人JSの声は興奮とともに段々大きくなった。ママと話していたちょんまげ男のロバのように大きな耳がピクリと十五度ほど老人のほうへ動いた。

「びどいシャベツですぜ。シャベツの極まれるところだな、老人に対して。女性シャベツなんていうとマスコミなんかが豚みたいなピーピーという威嚇するように喚くのにな」
「シャベツというのは差別のことですか」と一応第九は確認した。
老人はジロリと彼を睨みつけると、唇に浮かんだ唾を長い舌を出して舐めた。

大正生まれの老人は大学センター試験を通らないような言葉を用いる。大学センターレベルの学力では理解できないことがある。そのため、第九はいつも持ち歩いている電子辞書をバッグから取り出して調べた。そうか、やはりシャベツというのは差別の正調な発音であった。拙稿愛読者の高校生諸君、ここは無視して覚えないこと、そうしないとセンター試験で落ちるよ。

「何がありました」と第九は事態の究明に乗り出した。
「なんだと」と老人は怒鳴った。今度はママまでがピクリとしたような大声を出した。
「銀行くらいふざけたところはないぜ。金を預けてやっているのに利子も出さない」
「本当ですね、人を馬鹿にしたような低金利でね」
「もともと、利子を当てにして預けているようなケチな料簡は持ち合わせていないがね。こっちは金の番人のつもりで預けているんだ」
札束のトランクルームですね、と第九は同意を示した。
「そうよ、日本の治安では金を家に置いておくと危ないからな」
いや、まったくです、と第九は答えた。
「だからよ、こっちが利子を払ってやってもいいつもりなんだ」
トランクルームの利用料みたいなものですね。
「そうよ、それなのに必要な時に金を引き出そうとすると、とうの立った女行員が嫌がらせをするんだ。何に使うんだとか、本当に必要なのかとか客を見下したような態度をとりやがる」老人はまた、泡のようにくちびるに飛び出したツバキを舐めた。

そんな権限が彼女たちにあるんですか?
「もちろん、ないさ」
「それでどうしました」
「こんなすがれた女を相手にしてもしょうがないから、支店長を出せと怒鳴ったのさ」
第九は老人を見た。
「そうしたら窓口の店員は奥に行った。しばらくして窓口の女よりは年を食った女を連れてきた。その女が『わたくしが対応します』なんて一人前の口をききやがる。それで相手の役職と名前を確認しようと胸の名札に目をやるとだね、これが意図的だと思うんだが、名札はつけているがちょうど胸のあたりの制服に止めてある名札がうまい具合に下向きになっていて名前がみえない。それでさ、それじゃ名刺を出せといったのさ」
老人はまた唇を舐めるとコップのお冷をゴクリと呷った。

横のちょんまげ男はママをそっちのけにして老人の話に聞き耳を立てている。
「その時にその窓口の上役らしい女がどう答えたと思う?」と老人は第九を見た。
さあ、名刺を出しましたか?
「いやさ、『あいにく名刺は持っておりません』とぬかしやがった」
「へえ、こりゃ驚いた。どうなっているんですかね」


76:チョンマゲ男参入

いまや、座っている椅子を老人の傍まで引っ張ってきたちょんまげ男が横から参入した。
「いや、まったくですよ。むかしは銀行の窓口にいたのは若くて上品で愛想のいい女性でしたからね」
JSはギロリと横目でちょんまげを見た。「あんた、そんな昔のこと知っているの」と言ったが、頭に載せた白と黒の中間のグレイディングのちょんまげをみて相手の年齢を図りかねたのか、言葉を切った。たしかに年齢の良く分からない男だと第九も思った。


ちょんまげも相手の疑問を察したものらしく、「昔は私もまっとうな会社の会社員から社会人を始めましてね」と弁解した。「いまは落ちぶれてフリージャーナリストをしていますが」と謙遜したように補足した。
「何時頃のはなしですか」と老人は念を押した。
「さよう、四、五十年前になりますか」とちょんまげ男はすまして答えた。

「昔は嫁にもらうなら銀行員かスチュワーデスなんて時代があったな」これは老人の回想である。「何時頃から劣化が始まったのかな」と至極もっともな問題をフリージャーナリストにぶつけた。
「やっぱり時代の風潮ですかね。とくにリーマンショックの前後からでしょう」
さすがにフリージャーナリストだ、すぐに答えが出てくる。「銀行の危機なんて言われた時代でしたよね。それで財務省の介入で細かな銀行がメガバンクと合併したでしょう。地方銀行とかなんとかと」
「うんうん、そうだったな」
「悪貨は良貨を駆逐するというが、三つも四つも、何回もそういう合併をして人員がまじりあうと平均値はどうしても低いほうに引っ張られる」
「なるほど、そういうものかもしれん。さすがは軍事評論家だ。違いましたっけ」
ちょんまげは変な顔をした。「どこでお聞きになりました」
「この間、ここでひどくせき込んで発作を起こされたでしょう。その時にママが言っていた。同じマンションにお住まいだとか」

「なるほど、分かりました。フリージャーナリストと名乗ってもちっとも信用されないからそういうことにしてあるんでさあ」
老人はびっくりしたように彼を見て「まさか詐称しているんですか」
ちょんまげは慌てて顔の前で手のひらを左右して、「実際そんなことも書いてはいるんですがね」と相手を安心させるように言った。付け加えて、「それだけじゃあ食えませんから何でもネタを探して原稿を書いて売り込むんでさあ」
「どこへですか」
「週刊誌とか、実話雑誌とか。時には忙しい売れっ子のジャーナリストのゴーストライターなんかもしますよ」
「ははあ」と老人は言った。第九もキツネにつままれたような気がした。
チョンマゲが釈明した。「それでね、失礼だとは思ったんですが、お隣で聞いていて面白い話なので、覗き屋の習性でネタにならないかなと本能的に思ったのです」
なるほどね、といきなりの参入に警戒気味だった老人も笑顔を見せた。

「それじゃ、あなたに話しましょう。聞いてください。私が抗議の手紙を財務大臣に送りつけても秘書のまたその下の下僚にごみ箱に捨てられるだけでしょうからな。あなたが細工して週刊誌にでも載せてもらえれば、そのほうが歩留まりもいいかもしれないな」

いや、どうも、と彼は頭に手をやってチョンマゲの形を整えた。

「もちろん、取材費なんて要求しませんよ」と老人は付け加えた。

 

 

77:IT化異聞

ところで、と老人はチョンマゲに問いかけた。「あなたは銀行の窓口で意地悪された経験はありませんか」
「いや、とくには」
「あなたはまだお若いからな」
「さあ、彼女たちがどう思っているか知りませんが、私は大体窓口に行くことがないんですよ。キャッシュカードでたいていの用が足せるのでね」
「なーる、あなたはキャッシュカード時代の人なんだ」
老人はつるりと顔を撫でると、「銀行は合理化というのか何というのか、IT化をすすめているでしょう。それも顧客の便宜のためではなくてIT化で合理化した経費でびっくりするような銀行員の高給を維持するためらしい」
「言えてますね」
「我々のように通帳と印鑑世代に全部しわ寄せがくる。銀行の窓口はたくさんあるのに個人用の窓口は一つしかないところが多い。だからものすごく待たされるんですよ。その上金を下ろしたり振り込むときには嫌がらせを受ける。入金するときには何も言わないんですから露骨ですよ」
「通帳は万能なバウチャーのはずですからね。もっとも大事にすべきは通帳を使う顧客ですよ」とチョンマゲが応じた。
「実はね。私もキャッシュカードは持っているんですよ。使ったことはないですがね。それで昨今の通帳顧客の冷遇を見て、キャッシュカードを使おうとしたんですよ」
チョンマゲは黙って謹聴している。
「そこで問題発生でさあ」
「期限切れでしたか。もっともクレジットカードじゃないから有効期限なんていうのはないな」

「いやそうじゃない。ATMを操作すると取り扱い限度を超えていると応答するんでさあ」
「おいくら出すんですか」
「五万円ですよ」
「その額でそんなメッセージが出るなんておかしいですね」
「わたしゃ、不安になりましたよ。銀行から誰かが無断で引き出す被害にあったのかと思いました」
「最近そういう犯罪が多いですからね」
そこでね、と老人は続けた。「残高確認というメニューがあるでしょう。それを押したら、何とあなた、そのメニュはだめだというんですな」
「だめだと出たんですか」
「さあ、はっきりと覚えていないが、要するに使えないというか参照できないという趣旨のメッセージでしたな」
チョンマゲは首をかしげた。
「それでね、もう一度ためしに金額を三万円に下げて操作したら今度も限度額を超えているというんですな」
「かなり深刻ですね、というよりか考えられない。異常です」
「そうでしょう、それでもう一度スタートメニューに戻って画面をにらみつけると、引き落とし限度額の変更というボタンがある」
「ありますね」
「それで、そのボタンを押し下げた。そうしたら1万円以下でしたら限度額を引き下げることが出来ると答えた」
「そりゃあひどいな」とチョンマゲは驚いた。
「これは私の預金は犯罪者に根こそぎ引き出されたに違いないと思いましたね」


78:どこです  三月二十八日

一体どこの銀行ですかとチョンマゲが聞いた。
小泉純一郎が民営化したところですよ、と老人が答えた。
「ははあ、なるほど。最近簡保の詐欺的勧誘で指弾されたところですね。ありそうな話だ。自民党は何回か大きな国営企業の民営化を行っているが、大体成果を収めている。国鉄なんて優等生と言っていいでしょう、しかし、、」
いきなり頭の上から「国鉄って」という黄色い声が降ってきた。いつの間にか憂い顔の長南さんが来ていた。葉巻事件以来チョンマゲの傍を敬遠していたが、今日は老人と二人で店内に響き渡るような大声で喧嘩でもしているようにしている議論に引き寄せられるように寄ってきたらしい。

チョンマゲは上を見上げて、先日の猛女を確認するとぎょっとしたように腰を浮かして逃げ腰になったが、今日は葉巻を吸っていないのを見ると座りなおした。
「省線のことだよ」と老人は彼女に教えた。
「ショウセン?」
「その昔は院線ともいったかな。運輸省の前に鉄道院という役所があってな。そこが経営していたから院線というのさ、それから鉄道省になった。そのころは省線と言った」

あっけにとられている彼女を見て、チョンマゲは助け舟を出した。「いやさかのぼって定義をしていくとそうなんですが、逆にたどるとその省線が国電になり、民営化してE電と呼ばれた。しかし座りが悪いと評判がよくなくてJRに今はなっているんですよ」
彼女はようやく納得したようであった。
郵政民営化というのはひどかったな、と老人は話した。「理念もしっかりとした計画もなかった。今日の体たらくは当然の結果だろう」
「あれはアメリカに強要された結果ですからね。それに小泉首相の郵政省(いまの総務省)に対する私怨が相乗りしていたものですからね」

「初代の社長に強盗的な商売で有名な民間銀行のトップを持ってきたときにもオイオイどうなるんだと思ったけれどもね」
老人は乾いた唇に湿りをくれると「どうです、ネタになりそうですか」と聞いた。


「なりますとも、すこし周りを固めてみましょう。ほかの銀行のことも調べてまとめてみたいですね」
「どうぞご自由に」と老人は笑った。

「ところで、あなたの預金は無事でしたか」とチョンマゲは思い出したように老人に聞いた。

79:NHKの小学生ドラマ 

は?と下駄顔は戸惑ったような表情をみせた。
その、預金が無断で知らない間にごっそりと引き出されていたことは無かったんですか、とチョンマゲは念を押したのである。「おれおれ詐欺だとか振り込め詐欺だとかNHKが誰に頼まれたのか、しつこくやっている番組があるが、そんな被害はなかったんですか。知らない間にキャッシュカードを使われるということがあるらしい、NHKによるとだが」

「まさか、あなた、そんなことはありませんよ」と老人は心外そうに答えたのである。
「まあ、善意に考えれば銀行の窓口で老人だと思って親切に心配してくれているとも取れますな」と人のいい老人は呟いた。「しかし彼らに善意があるとは全然感じられないがね。それにNHKが本当のこととして報道しているような事例がそんなにあるんですかね。しつこく毎日国民の貴重な資源である電波をジャブジャブ使って放送する必要があるのかな」ともっともな疑問を呈したのである。

NHKはなぜしつこくあんな放送をするのだろう、これは老人がいつも逢着する当然の疑問であった。

「あれはひょっとすると、警察庁の下っ端が仕事を無理にひねり出しているのかもしれませんね、あまりにも不自然だからな」とチョンマゲが思案するように言った。「官僚が一番怖いのは仕事がなくなることなんですよ。だから要らない仕事を常に作り続けている。あれも彼らが失業しないための仕事づくりかもしれない。それでNHKも警察や財務省に言われて放送する。警察に協力しているという姿勢を示しておけば、何かの時に役に立つ」

というと?

「たとえば、近い将来、国会でNHKの解散が問題になった時にはNHKはこんな仕事でも防犯に協力していますといえば、なにかの役にたつと考えているのでしょう」

それで財務省の下っ端役人もいい仕事が出来たというので金融機関に命令を出す。財務省も立派な仕事が増えたわけですよ。銀行は当然従うでしょう。そんなことで財務省のご機嫌を損ねてはわりがあいませんからね。それに銀行にもメリットがある。客のあづけた金が外に出ていくのを一番銀行は嫌がりますからね。一人一人は少額の引き出しでも積もり積もれば大変な金額になる」
「ナール、辻褄が合いますな」
チョンマゲが心配そうに最初の質問を繰り返した。「それであなたの通帳は無事でしたか」
「そうそう、それですよ。家に帰ってね」と老人は興奮から覚めたように云った。

「ああそうだった。それでね、家に帰って預金通帳をみたら元のままの金額だ。考えてみれば当たり前ですよね」と老人は恥ずかしそうに言った。「しばらく全然使っていないんだから、前の金額のままなのは。それで翌日郵貯に行ってATMで残高照会をしました。そうしたらね、残高はいじられていませんでしたね」
「よかったですね。それで銀行には抗議されましたか。話を聞いていると銀行内部の事務処理というか、つまりコンピューターを使ったシステムの運用上の問題という可能性が濃厚なんですがね」
コンピューターシステムの問題ですか?
「ええ、しかしハード的な問題よりも運用上の問題ね」
すると人為的な問題だと?
「取材してみないとわかりませんが、そんな感じですね」