穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

3-1:ビッグ・キルあるいは言葉遊び

2018-07-29 07:01:08 | 妊娠五か月

 ビッグ・キルとはスラングで競馬の大穴を射止めることである。文字通りの意味では大量殺人である。これはカント流のカテゴリーでいうと空間的と時間的なのがある。

  時間的なのはシリアル・キラー(連続殺人犯人)という。空間的なのは同時に大量殺人を行う。最アメリカの大学、高校のキャンパスでの銃撃事件のようなものだ。日本では「通り魔事件」と命名されている事件にこの種のものが多い。 大量殺人だからビッグというよりもメニー・キルのほうが英語としては正しいのかな。

  閑話休題。さてビッグ・キルはワイドショー狙いが多いようだ。話題、事件の衝撃がビッグ・ニュースとして流布されたいという願望が垣間見える。また、逃亡を考慮していない。その場で捕まるか殺される覚悟がある。捕まった後も饒舌であることが多い。事後本を書く犯人もいる。

  それに対してシリアル・キラーは捕まらないようにたちまわる。何故って?次の犯行が出来ないじゃない、捕まったら。

  大体においてシリアル・キラーは性欲に突き動かされるものである。ビッグ・キルは概念による犯罪である。あるいはフィクションによる犯罪である。一説では「幼いころから、人の言うことを、言葉通りにしか理解できない」ような人間に多い。これは「ネット・いのち」の人間の特徴でもある。 

  つまり人の言葉を前期ウイトゲンシュタイン流にしか理解できない。言葉のあいまいな外延に気が付かない。お粗末でした。お後がよろしいようで。

 


2-4:出前

2018-07-27 07:50:03 | 妊娠五か月

 よく発作を起こすんですか、と間の抜けた質問をした。

「いや、そういうことではないが、前にも一度ありましたよ」

「碁で興奮するんですかね」

「そうでしょうね。もつれてきてウンウン唸りながら集中してくると頭が熱くなってくるんじゃないかな」

「それが本人にもわかっていても、碁会所に来るんですかね。よほど碁が好きなんでしょうね」

そういえば、ドストエフスキーの伝記だったかで、発作が起こるときに鮮明な至福感を経験するとか書いてあったような記憶がある。まさか、それを味わうために来るのではなかろうが。

 商人風の男は長考の末、いい手を思いついたらしい。エッとTが思ったほど意外なところに白石を置いて太い吐息を吐いた。一仕事終わったというように彼は伸びをすると「山室君、天津丼を注文してくれ」と受付の青年に呼びかけた。それからTのほうを向いて「あなたもなにか注文しますか」と聞いた。時計をみると夕食には時間が早すぎる。「いや私は」と断ると「コーヒーも注文できますよ」と言った。

 そうだな、とTは思った。碁会所の中は空気が淀んでいる。執拗に絡んでくる白石に四苦八苦していたから頭も熱くなってきた。『コーヒーならいいな』とTは考えて碁会所の受付に頼めばいいんですか、と相手に聞いた。

「ええ、隣の喫茶店に注文を取りついでくれるんですよ。そら、壁にメニューが張ってあるでしょう」

 目を上げると、なるほど中華料理屋と喫茶店のメニューが貼ってある。『当店の当日のレシートをお持ちのお客様には100円引き』と書いてある。「じゃあホットコーヒーを頼もうかな」というと相手は受付に向かって「それからホットコーヒー二つ」と叫んだ。

 しばらくすると、先にコーヒーを制服姿のウェイトレスが運んできた。喫茶店と中華料理屋は碁会所とおなじ経営者かもしれない。やがて運ばれてきた天津丼をものすごい勢いで食べてしまった相手は急に元気が出てきたようで、一段と攻撃的になった。Tは途中で投了した。

 この粘着質の相手はしつこくて一勝一敗ではすっきりしないらしくて「もう一局」と言った。その碁も彼のペースで勝たれた。

「いや参りました」と彼は頭を下げた。腕時計を覗くと「ちょっと用事がありますので」と断わった。受付では碁会所のコーヒー代300円を払った。振り返ると彼は新しい相手を探すように碁を打っている連中の勝負を覗き込んでいた。

 


2-3:臭害

2018-07-23 08:16:26 | 妊娠五か月

 Tの背後で突然けたたましい女の嬌声が沸き起こった。ワンテンポ遅れて窒息させられそうな強烈な臭気の波が漂ってきた。綾小路老人はすばやく立ち上がると入り口に来た女性に近づいた。それは見せびらかすように派手なファッションを身に着けた老婦人であった。厚く塗った白粉とこれでもか、これでもかと身に振りかけたあまり品のよくない香水を高温の体から盛んに蒸発させている。

  Tはあっけにとられた。しかし口と鼻は手のひらでしっかりと覆うことは忘れなかった。老人は親し気に愛想よく老婆と会話をしている。その丁重な態度から彼女はこの碁会所のオーナーかな、いやオーナーの奥さんだろうと推測した。ふたりは連れだって中に入ってきた。二人はTのそばを通って奥へ行った。通り過ぎるときに見ると老婦人のバッグを持った手の薬指には白色に輝く大きな石をつけた指輪をはめて居る。太くてごつい節だらけの指との対照が目立つ。

  碁盤の前に向き合って座ったところをみるとこの女性は碁を打ちに来た客らしい。このごろは女性で碁を打つ人が増えたという。若い女性ばかりでなく年配の婦人のあいだでも盛んになっているらしい。女性は彼に背を向けて座る。その前に老人が座って碁を打ち出した。老人は婦人に盛んに話しかけている。彼は整った顔立ちで若いころはさぞ美男子だったろうと思わせた。しかし歯並びがよくない。歯は黒ずんで汚れている。

  そのうちにまた客が入ってきたらしい。受付の青年が来て「四級の人が来られたんですがお打ちになりますか」と話しかけた。Tがうなずくと「先ほどのかたとはどうでしたか」

と聞くので「負けました。どうも僕の実力は5級もないみたいだな」と答えた。

 青年はしばらくTの顔をみていたが、「それではお二人で決めてください」と言って新しい客を案内してきた。その人は50歳前後の男性で手には小さなバッグみたいなのを提げている。中小企業の集金係かな、と思った。挨拶をして座った男は「どうしましょう」と商談でも持ち掛けるように問いかけた。「私が白を持ちましょう。コミなしでどうです」とぺらぺらしゃべった。どうせ時間つぶしだ。賭け碁でもないしどうでもよかった。先ほどの結果からも互先では勝負にならない、二子か三子置くのがいいと思っていたが、諍わずに相手に同意した。

  今度は布石から乱暴にやった。綾小路老人の忠告にしたがって切れるところは見境もなく切りまくっていった。相手はさすがに驚いたようであった。「いや、どうも弱りました」なんて言っている。盤面は滅茶苦茶な様相を呈してきた。相手は考え込んでしまった。長考し始めた。手が動かない。

  一瞬あたりが異様な静寂に包まれた。嵐の最中、近くに雷が落ちる直前に静まり返るような静寂が碁会所の空気を支配した。と、奥のほうでタンスでも倒れたようなものすごい音がした。そちらを見ると周りにいた客が総立ちになっている。Tの相手をしていた男はそちらのほうを見ると「またやったな」とつぶやいた。「なんです」と不安そうにTが聞くと

「癲癇の発作ですよ」

 

 

 


2-2:まずは軽く

2018-07-21 11:37:10 | 妊娠五か月

 学生風の男は千二百円いただきますと請求した。金を受け取るとお釣りをTに渡して、「この方は初めてなんですが5級くらいということですが、お願いできますか」と綾小路と呼ばれた背の高い頑丈な体格をした男に話しかけた。年齢は70歳前後のその男性は愛想よくニコニコ笑いながら、あいている席にTをいざなった、着席すると「どうぞよろしく」と頭を下げた。Tは慌てて「どうぞよろしく」とオウム返しに言った。こういうのは下級者が教えてもらうのだからこっちから先にあいさつしないと思ったので慌てたのである。

 「四子でやりましょうか」と男は言った。続けて「5級ぐらいですか」と続けた。

「いや、もっと弱いでしょう。何しろ昔ちょっと始めただけで、ここ十年以上碁石に触ったこともないですから」

「なるほど、とりあえず四目ということでやってみましょう」と彼が言うのでTは碁笥から黒石を碁盤の四隅に並べた。綾小路氏はちょっと小首をかしげるとしばらく間をおいてから調子をとるような気取った手つきで白石をそっと盤面に置いた。小首をかしげる様子をみてTは立ち合いの前の相撲取りを思い出した。男の大きな体も相撲取りのようだった。前は力士で今は痩せたが骨格だけは骨太といった感じである。

  布石が進む。Tの碁は本で習った語だから布石だけは格好がいい。もっとも相手が最初から手強く挑んでくればたちまち崩れてしまうのだろうが、相手は悠揚迫らず全然攻めてこない。そのかわり、しきりに「ふむ」とか「なるほど」などと独り言を言う。言われるたびにTは相手にケチをつけられたか、バカにされているような気分になる。また、Tが打つ手が理解できないというように小首をかしげる。

  そのうちに彼は感心したように「なかなか上品な碁を打たれますな」なんてお世辞かどうかわからないことをいう。だんだん白黒の石で盤上が込み合ってきた。ふと彼は眼を上げると「この石は死んでいるのにお気づきですか」とTに盤面にのたくっている黒の大石を指示した。「えー!」と見るがよくわからない。「ほら、ここが切れているでしょう。目も一つしかない」

言われてみると白に四方から追いかけられて天元付近をのたくっている黒の大石には目がない。

「ここをお継ぎなさい」と彼はTの既に打った石を待ってくれた。『この人は碁会所の師範代みたいな人だな』とTは判断した。

 さて、終わって石を並べてみるともちろん白の勝ちだがそれほど大差はついていない。そのへんも彼がうまく調整しているのだろう。

盤面に散らばった石を碁笥に片付けた。「これじゃ星目置かないとだめですね」とTは降参した。

「あなたの碁はおとなしすぎるんですよ」というと綾小路老人は整理された盤面に今の勝負を再現していく。親切な人だ。石を並べながら所々で、「こういう所は切ってしまうんですよ」なんて教えてくれる。


2-1 動機

2018-07-19 08:52:43 | 妊娠五か月

 山手線のT駅に隣接する雑居ビルの五階にある本屋を一回りするとTは腕時計を見た。六時に新宿で人に会う約束があるが、まだ二時半である。それまでにかたずけておく半端仕事もとりあえずはない。久しぶりに映画を観るか、と思いついたがすぐにその考えを捨てた。映画館にたどり着いたところでちょうど始まるような映画はないだろう。それにあの騒々しい音響は一番後ろの席で聞いていても我慢ができない。それでも本番の映画はまだいいが、予告編のきちがいじみた音はどうにかならないのか。しかもどうかすると本番の映画上映よりかも長々とやる。よく苦情がでないものと思う。今の観客はあれをやらないと満足しないのだろう。予告編のおまけがないと損をしたように思うらしい。Tの理解をはるかに超えている。

  「そうだ、このビルには碁会所があったな」と彼は気が付いた。いまでもあるかしらん、と彼は腹の中で思案した。ずいぶん昔のことだ。さて何階にあったか記憶がない。かれは五階のエレベータの横にある案内板を上から下まで読んでいった。碁会所は出ていない。十何年も同じところに存続する碁会所など珍しいのかもしれない。一階まで下りて外に出た彼は駅の改札のほうに歩きだした。あたりには同じような雑居ビルが立ち並んでいる。待てよ、と彼は考えた。ビルを間違えたかな、いや確か本屋のあるビルだからあのビルのはずだがなと周りを見回して彼は初めて気が付いた。昔本屋のあったビルを思い出した。「あのビルじゃなかったな」とかれはバスターミナルの近くにあるビルを見て思い出した。そばに行ってみると本屋は入っていないらしい。本屋業界も消長が激しい。昔あったなじみの本屋があっという間に閉店して近くの新築の駅ビルに大型書店の支店が出来ていたりする。念のために彼はビルの中に入った。三階に碁会所はあった。隣に喫茶店があって、中華料理屋もある。うん、ここだったと彼は独り言ちたのである。

  中に入ると受付には学生のような若い男が座っている。そばに行って「入会しないといけないんですか」と聞いてみた。「入会していただくこともできます」と若い男は申込書のようなものを取り出して彼の前に置いた。

「あんまりこの辺には来ないんだけど、ちょっと時間が出来たんで相手がいれば」というと、「どのくらいの人がいいですか」と後ろを振り返りながら訊いた。中には碁を打っている人のほかに他人の碁をのぞき込んでいる人もいた。適当な相手が現れるようまで待っているのだろう。

「どのくらいというと、、、最近はあまりうっていないけど」

「何段ですか、初段くらい」と聞かれた。何級と聞くと失礼と思ったらしい。かといって巷の碁会所にふらりと来る客に高段者がいるわけがない。初段くらいと聞くのが無難らしい。

「そんなもんじゃないですよ。だいぶ前にちょっと習ったくらいで、そのころはたしか5,6級といわれたかな」

受付の男は店内を見渡していたが、ちょうど一級の人があいてますね。聞いてみましょう」というと「綾小路さんと呼びかけた。

 

 


2-0:連続心中魔・太宰治

2018-07-15 08:25:29 | 妊娠五か月

 自殺未遂二回、心中三回(未遂二回、既遂一回)

  これが太宰治の自殺、心中歴である。心中に一回失敗するということはたまには、あるようである。しかし、その場合、二度と試みることはないらしい。再度試みるとしても絶対に失敗しないように行うだろう。しかも心中ごとに相手が違うというのは異常である。同一人物と再度ということはあるかもしれないが。

  彼の場合、狂言あるいは自殺ほう助、殺人の疑いがかけられたこともあるらしい。

  昭和4年のカルモチンによる自殺失敗は、当時左翼運動にかかわっていた嫌疑による逮捕を逃れるための狂言だったという説がある。二回目は首つり自殺というが、あまり失敗したという例はないらしい。

  最初の心中では女は死亡し、太宰は生き残った。警察は自殺ほう助を疑ったらしい。二回目は男女ともに生き残った。三回目は成功したが、捜査をした警察によると最後の段階で太宰にためらいが見られた証拠があるという。

  ちなみに彼を師匠と仰ぐ田中秀光は太宰の墓前で自殺したが一回で成功させている。心中ではなく一人で実行した。

  太宰治の嗜癖をどう解釈するか。一人で死ぬより連れがあったほうがいいということに落ち着くのだろうがその心理は如何。秋葉原大量殺人事件とか土浦事件とかあるが、報道される犯行の動機とかきっかけを読むと、復讐する相手を狙えばいいものを(この言い方に語弊があるが)、どうせならなにも関係のない人間を多数ターゲットにするという人間の原始的心理が垣間見えるような気がする。中東の自爆テロなんかも似ているのではないか。つまり個人(個)より種、種より類のほうがいいというか大きい仕事を達成したというホモサピエンスの原始的な満足心理ではなかろうか。太宰の場合もそれに通底するようだ。一人よりも二人のほうが種概念に近くなる。

  太宰治の創作活動は戦争中極めて多産であって、日本の古い民話に題材をとった健康的な作品が多い。戦時下非常時にあって小説の出版印刷に回される用紙には厳しい統制があったなかで太宰治の次から次への作品発表は異例であった。軍部当局のお眼鏡にかなわなければありえない。

  かれが自殺、心中騒ぎを起こした時期は大戦以前と以後に集中している。帝国の興亡を賭けた戦いでは毎日毎時間、彼我双方で大量の死があった。敵国人の死があり、日本国民の大量の死が毎日あった。そういう強烈な光芒のなかにあっては太宰の死に対する嗜癖は充たされていたのだろう。

  終戦によって世の中の一切のくびきが絶たれ、正反対の「民主国家建設」が叫ばれるようになると太宰の対象は再び個人と小規模な種概念に向かうしかなかったのであろう。彼の関心は無頼な生活と薬物中毒と矮小化された個人的な死に向かったのであろう。

 

 

 

 


1-6:箱庭のような中国自動車道

2018-07-13 07:22:40 | 妊娠五か月

 Tを乗せたタクシーは十分ほども市街地を走ると畑や田んぼの点在する道に出た。風景はだんだんと鄙びてきて、両側に低い山並みがせまる単調な風景の中を走る。

 「お客さんは不動産関係の人かね」と運転手が聞いた。ぼんやりと外を見ていたTは不意を突かれて、えっと言ったが、そうか、さっき人に頼まれて土地を見に行くといったから不動産屋かと思っているのだな、と気が付いた。そうだ、ととりあえず簡単に頷いた。運転手はちらっとバックミラーを見ると、「あんなところの土地を買う人が居るんですかね」とつぶやいた。

 「そのお客も誰かから騙されているのかもしれないね。うまい話のようにお化粧されて売りつけられているのかもしれないな。原野商法というやつかもしれないな」

「そんな話にひっかかるんですかね」

「さあね、その人も全く見当がつかないが怪しいとは疑ったのだろうな。簡単に断れないような知人からの紹介なのかもしれないね」

「その人は年配の人なんですか」

 失礼な運転手だ。しつこい奴だとTはあきれたが、こしらえた話は続けなければなるまい。「ああ、お年寄りだ。おばあさんだ」

 運転手は馬鹿にしたようにヘーっと言った。俺の話を信用していないようだとTは思った。信用しなくてもいい、それで運転手もうるさく質問しなくなった。

  沿道にはところどころまだ集落は残っているようだ。道端に理髪店のぐるぐる回る派手な看板が出ているのには驚いた。

「床屋が営業しているのかね」と運転手に聞いた。

ああ、とかなんとか運転手は口の中でつぶやいた。

「こんなところで床屋を開業するほど客がいるのかな」とTは驚いた。周りは田んぼで2,300メートル行けば山の中に入ってしまう。人家は見当たらない。運転手は返事をしない。

  ふと右側に迫ってきた山並みを見上げると、上のほうの山腹に開いた穴からミニアチュア・カーが這いだしてきてのろのろと走ると反対側の山並みに吸い込まれていった。Tは現実感が喪失したように上を見上げてぽかんと口を開けた。「ありゃー」とTが言うと運転手はちらりとTの視線の先を見上げて「中国自動車道ですよ」と教えてくれた。

 「そろそろこの辺ですがね」と運転手はGPSを確認しながら言った。「そうか、すこしゆっくりと走ってくれ」とTは頼んだ。しばらくは草ぼうぼうの放置された田んぼのようだった。休耕田というのか、生産調整で放置されたままの水田らしい。突然ゴミ捨て場が出現した。それも整備されたものではなくて、沿道から勝手に投げ込まれたような廃品やごみが積み上げられている。汚れた洗濯機のような家電製品もたくさん捨ててある。壊れた自動車も無造作に捨ててある。自転車の残骸も放り込まれている。

  そのゴミ捨て場に隣接して二階建てのプレハブが立っていた。驚くことに今でも人が住んでいるらしい。プレハブの前には浅黒い男女が立っていた。通り過ぎるタクシーをうさん臭そうな目つきで窺っている。その前を通り過ぎるとその先は行けども行けども人の気配はない。

 「お客さん、さっきの所じゃないですかね」と運転手は再びGPSを確認しながら言った。

「どうもそうらしいな。ありゃなんだろう」とあっけにとられたようにつぶやいた。

「ときどきああいうのを見かけますよ。昔の飯場みたいなところじゃないですか」

「いたのは外国人みたいだったな」

「そう、外国から来た建設労働者ですよ。女は風俗だね」

「こんな山奥に住んでいるのか」

「只だからね。放置された他人の土地に入るこむんだから金はかからない」

「だけど不便だろう、どこに働きに行くのだろう」

「なあに、道路が整備されているからね、ボックスカーに詰め込まれて働きに行くんですよ。街まで大して時間はかからない」

「彼らが自分でやってるわけ」

「そんなわけはないでしょう。やくざが仕切っているんですよ」

そうだろうな、とTは納得した。「じゃあ、戻ってくれるか。降りて写真だけでも撮っていくか」

「危険ですよ。彼らに因縁をつけられる。不法占拠だからいつ強制退去させられるかとビリビリしていますからね」

「とにかく戻ってくれ。ゆっくりと前を通ってくれ」

  前をゆっくりと通ったが降りるのはやめて車内からスマホで撮影したがうまく撮れたかどうか。驚いたことに駐車していた黒いバンがゆっくりと動き出して威嚇するようにしばらくタクシーの後をつけてきた。「冗談じゃないぜ。俺を相続人にして彼らを立ち退かせる交渉の矢面にしようというのか。あの無秩序なゴミ捨て場を片付けるのが所有者の責任だと持っていくのが市役所の魂胆らしい。桑原桑原。

 

 

 


1-5:タクシーを雇う

2018-07-09 10:10:29 | 妊娠五か月

 岡山空港は「ももたろう」空港という名前がついているらしい。桃太郎の鬼退治伝説というのはこの辺の昔話らしいのだ。Tはリムジンに乗り込むと市内のシティホテルにむかった。翌朝9時ごろホテルをチェックアウトするときにフロントの従業員に今日調べに行く土地へのアクセス方法を聞いてみたが、職員はそんな奥地の山岳地帯のことは何も知らなかった。地元の人間でも知らない相当の僻地か過疎地らしい。もしかしたらその職員は別の土地の人間で最近採用されて配属されてきたのかもしれないが。

  この辺からタクシーを雇うとべらぼうに取られそうだし、レンタカーなら多少は安いだろうが不案内な山道を行くのは不安だ。彼は駅の構内にあるファストフードのチェーン店に入ると朝食を注文した。席に落ち着くと岡山県の地図を取り出した。目的の一番近くまでいくバスか鉄道がないかと地図を調べた。

  その結果、倉敷から伯備線で北上するのがいいらしい。さらに支線で何駅か先が一番現場に近そうだ。店で朝食セットを食べコーヒーを飲み終わると、腹の中の料理が落ち着くまでキオスクで買った朝刊をざっと目を通した。読み終わるとTは立ち上がり切符売り場に向かった。列車は一時間ほどでN駅に着いた。比較的大きな駅である。彼はここで下車した。地図で見ると、さらに乗り換えて数駅先で降りるのが距離的には一番近いようなのだが、この辺の事情が彼にはまったく分からない。そこで降りたら無人駅で、あたりにはタクシーもいないかもしれない。近くには商店も人家もないかもしれない。そうなると、そんなところから現地にも行けず、結局岡山に戻るまで列車を何時間も待たなければならない羽目になるかもしれないのをTは危惧したのである。

  一応体裁の整った?N駅で降りて改札の職員にタクシーが呼べるか聞いた。駅員は100メートルほど先にタクシー会社があると教えてくれた。行ってみるとトタン屋根で小屋掛けをした駐車場にタクシーが二台待機していた。車のそばに立って煙草を吸っていた運転手にTは目的地を告げて往復で料金はいくらぐらいになるかたづねた。初老の貧相な運転手は胡散臭そうに彼をみると「さあね、あんまり行ったことがないからな」と言った。地元の運転手も行かないところなのかと彼はすこし不安に感じ始めた。

  その運転手は彼を離れてもう一台駐車しているタクシーの運転手のところに行きなにか相談している。二人でTを見ながら話していた。戻ってきて「二万円ぐらいじゃないかな」とぞんざいに教えた。「そんなに高いのか」と驚いて見せると、「往復でしょ、向こうに着いたらどのくらい待つんですか」と言った。

「いやちょっとだけだ。別にだれを訪ねるわけでもない。どんな土地か見て来るだけだ」と答えた。

運転手は一体何をしにいくのか、と疑わし気に彼の様子をうかがった。「誰かを訪問するんじゃないんですか」

「そうじゃない」というと彼の訪問の目的をますます疑いだしたようだ。まさか、自動車強盗と思われたわけでもあるまいが、Tは「その土地を買おうとする人がいてね、調査を頼まれたんだ。だからあまり運賃が高いと請求しにくくてね」ととっさに口から出まかせを言った。

すると運転手は「あまり待たなくてもいいなら、安くなるでしょうね」と言った。

「どうだ、一万円で言ってくれないか、メーターを倒さないで」とTは押してみた。

「冗談じゃない。そんなことはできませんよ」というと運転手はしばらく黙った後で、「すぐ戻るんなら一万五千円前後で行けるかもしれない」

 とにかく他に手段はないTはタクシーを雇うことにした。

 


1-4:35秒

2018-07-06 07:34:55 | 妊娠五か月

 時間が来て搭乗手続き開始のアナウンスが流れた。もう一度長い列を作って機内に入り込むと彼の座席は最後部のスターボード・サイドに指定されていた。スチュワーデスのお姉ちゃんに何度も聞いてようやくたどり着くと、その列はすでに埋まっていた。窓際の席には手荷物やらバッグやら上着がうずたかく積まれておかれている。巡回している女性従業員に尋ねると、彼女は彼の搭乗券を確かめて、彼の席はその荷物の積み上げられている席だと教えた。キャビン・アテンダントがその隣に座っているでっぷりと太って額の禿げあがった男に「おそれいりますが、窓際の席はこのかたの席ですので」と話しかけるが相手は知らん顔をしている。こんどは彼女が英語で問いかけるがその男はじろっとこちらを見るが返事をしない。隣に座っていたこれも太った初老の女がまわりの乗客たちとチイチイパッパとさえずりだした。どうも中国人の団体らしい。

  キャビン・アテンダントは思案にくれたように「あいにくこの便は満員でして、空いている席があればご案内できるのですが」と彼に話しかけた。その様子を見て団体の一行はようやく事情が分かったらしく窓際の男になにか話しかけた。彼は窓際の席に積み上げられた上着やバッグを一つ一つ周りや後ろの席の同行客に配り始めた。Tは身を縮めるようにして彼らの前をとおり指定された席に落ち着いた。離陸するまでにまだ時間があるようだ。そのうちに隣の太った男は暑いのか着ているシャツを脱ぎだした。隣に座っていた女は彼の妻らしく夫がシャツを脱ぐのを手伝っている。男は下着姿になった。妙なかび臭い漢方薬のようなにおいが漂ってくる。まあ、岡山までは一時間ぐらいの辛抱だろう、とTはあきらめたように考えた。

  タクシイングを開始した機体は滑走路の端に到着したらしく、ぴたりと静止した。「この機は間もなく離陸いたします。皆様、安全ベルトをいま一度お確かめください」と女性従業員のアナウンスが流れた。やがてエンジンの回転数があがる音が客席の中まで伝わってきた。機体はブルンブルンと軽く二、三度尻を振り、ブレーキをおっぱなされた機体は滑走を始めた。Tは祖父の形見の懐中時計をポケットから取り出してストップウオッチを押した。35秒後Tは浮揚感を感じた。小さな窓からは外の気配は全く分からないが機体が地面を離れる感覚は500人乗りの棺桶に閉じ込められていても分かるらしい。ヤレヤレ、無事に離陸したようだ。これが一分近く浮揚感がなければオーバーランしていたかもしれない、と祖父の言葉を思い出した。

 


1-3:幽霊土地

2018-07-04 08:20:57 | 妊娠五か月

 岡山行きの便の待合所にはすでに人が溢れていた。Tは昨年岡山県北部の自治体から土地の相続書類に署名捺印しろと脅迫状が届けられたのである。まったく心当たりのない物件である。添付された書類を見ると所有者の名字はTと同じだが名前は林右ヱ門となっている。まったく心当たりのない名前である。剣呑な書類である。本当に自治体が発行した書類であるかどうか疑わしい。ひょっとすると原野商法かなにかの詐欺事件かもしれない。

  彼はあまり親戚付き合いはしていないが、林右ヱ門なる人物が何者なのか、名字が同じであるから遠い親戚なのかもしれないと思い、日ごろ疎遠な親戚にも問い合わせてみた。その結果彼の叔父が林右ヱ門なる人物は自分の祖父である教えてくれたと。つまりTにとっては曽祖父にあたる。この時に叔父の話を聞いて彼は初めて彼の祖先は岡山県の出身であることを知ったのである。

  そこで自治体から添付された書類を改めてみてみると謄本の作成日は大正10年とある。林右ヱ門は当然死亡しているだろうが、その土地はだれにも相続移転されることなく百年近く放置されていたらしい。一体この百年間固定資産税はだれが払っていたのだろう。危なっかしい話だな、とTは慎重に考えて返事を出さなかった。ところが今年また同じところから同じ書類が届いたのである。それには昨年はなかったことも記されていた。土地を確定測量するから来月A日午前10時に現地に来いというのである。そして草刈りをする道具も持ってこい、というのである。どうも話が尋常ではない。

  今後のこともある。役所というのはしつこいから毎年類似の督促が来るかもしれない。といって指定された当日に行くのは危険だ。相手のペースにはまってなんらかの書類に署名捺印させられるかもしれない。Tは岡山県の地図を買って、どんなところだろうと調べたが、山の中の県道沿いの土地ということが分かっただけで見当もつかない。それで向こうが指定する日にちの前に現地の様子を見てみようと岡山行きを決めたのであった。

  旅行の前に大学時代の友人でフリーランスのノンフィクションライターをしている男に話したら、原野商法ではないだろうという。百年もほったらかしてあったのは役所の怠慢ではないのかというのだ。どうして今頃と彼が聞いたら、友人は一番可能性があるのは、最近はやりの町村合併かなにかで古い書類を突き合わせていて、書類の不備に気が付いて、慌てて合併前に書類のお化粧をしようというのではないか、というのだ。

  友人はもう一つ別の可能性も示唆した。彼の祖先がうっかり相続手続きをしない間隙をぬって誰かが、たとえばその土地の管理を任されていた人物が長年詐取していたのではないかという。それが何代か続いていたが、最近になって、たとえばその一家が都会に移り住んで無住の地になった可能性である。

  「まあ、可能性としてはほかにもあるけどね」と友人は言った。「最近所有者不明の土地が全国で増えているとかいう報道があるだろう。政府もそういう土地の所有者を確定できないと、たとえばそこに道路を通したり、公共工事をするときに支障が出るだろう」

 そういうニュースが最近はよく報道されるな、とTは頷いた。とにかくその土地の実情がどうなっているか、独自に調べてみようとTは考えたのである。

 

 


1-2:鍵を15個

2018-07-01 09:05:28 | 妊娠五か月

 Tは再び行列の後ろに並んだ。彼の番が来てどうしたものかと立ち竦んでいるとゲートの横にいた四角いえらの張った顔の女が手荷物をわきの移動ベルトの上に置いてゲートをくぐるようにと身振りで指示をした。彼がゲートを潜るとたちまち赤いランプが点滅して百舌が鳴くような鋭い音の警報が鳴り響いた。係の女性はポケットの中身をすべて出すように指示した。

  はて、なにかまずいものを捨て忘れたかなと彼は思った。わきにあるトレーにまず鍵束を左右のズボンのポケットから出した。それからコインの詰まった財布を出す。クリップで留めた数枚の札、手帳、テッシュー、ポールペン、腕時計が出てきた。後は何枚かの領収書それで全部だった。検査員の目は鍵束に釘付けになった。ずしりと重い鍵束を取り上げると一つ一つチェックした。

「鍵は15個あるわね。なんの鍵なの」と検査員は聞いた。

「家の鍵ですよ」

「そのほかには」と検査員は疑わしい目を彼に向けた。

「全部家の鍵です」というと彼女はますます声を尖らせた。

「沢山の家を持っているんだ」と鍵束をかぼちゃの重さをはかるように手の中でもてあそんだ。

「全部俺のうちのだよ」と腹の立ってきた彼はおもわず乱暴な口調になった。険悪なやり取りに気が付いた周りの検査員たちも寄ってきた。彼の家はマンションではない。マンションなら鍵は一つか二つでいいのだろうが、築90年で祖父が建てた家である。今では倒壊寸前のあばら家である。建付けはひん曲がってしまっていて扉はいくつも鍵をつけておかないと簡単に蹴破られてしまう。二階家で建坪は100平米以上あるが、裏口も玄関とにたような状態である。庭に囲まれた昔風の日本家屋というのは勝手口、窓、縁側どこからでも簡単に侵入できる作りになっている。そんなことをTは集まってきた検査員たちに説明したが彼らは理解できないようであった。しかし、鍵を沢山持っているというだけで搭乗を拒否できないのだろう。彼女は最後に彼の体中を洋服の上から触った。内腿の上まで撫で上げられたうえ、ようやくTは検問所を通過した。危なかったぜ、と彼は独り言ちた。催涙スプレーを捨てなければ別の部屋に連れていかれてさらに尋問されたに相違ない。