穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

からまれる

2022-09-30 07:58:14 | 小説みたいなもの

 ここ数日パソコンからプリントをしようとすると、インクが切れていますと表示される。大体においてこういう場合面倒くさいからなかなか新しいインクを買いに行かない。それでも脅迫的な「インクがございません」と言う表示が出ても二週間ぐらいは正常にプリントできる。かすれもしない。もっともそう大量に毎日印刷しているわけでもない。

 しかし、新宿で昼飯を食った後で、たしか西口にパソコン関係の量販店があることを思い出して、インクを買うかと駅前の大通りを渡り、ごみごみとした通りを大型量販店に向かったのである。

 相変わらず人出が多い。スマホを見ながら前をよく見ずに歩いている若い男女が多い。前の人間にぶつからないようにと前の歩行者の背中を見ながら注意して歩いていると、ちょうど前を歩いていた背の低い男がいきなり振り返り、すごい形相で因縁をつけてきた。怒鳴り声は大きかったが何を言っているのかは把握できなかった。なにか気に障るようなことがあったらしい。しかし、こちらはスマホを見ていて前方を注意していなかったわけではなく、距離を開けて歩いていた。わけが分からない。ぶつからないようにその男のボサボサの白髪交じりの後頭部に注意していただけである。

 新宿の雑踏にはおかしな人間が多い。こういう時に、たんに「何ですか」と反問しただけで更に逆上する連中がいる。慌てて立ち止まって相手を観察した。その男は年齢は3,40歳ぐらいで崩れた感じの自称アルチザン風とも取れた。自由業と言うか、芸能界の縁辺に巣食ういわゆる自由業のルンペン芸能人ともとれないこともない。

 髪を長くのばし、櫛も入れていない。顔の皮膚は睡眠不足を思わせるどす黒く、病的に疲弊した感じである。後ろから歩いてくる私がなにか触ったか何かしたと勘違いしているらしい。場所柄、ドラッグに酩酊した芸術家風の男が多いのかもしれない。 勝手に妄想にとらわれているのだろう。

 私は用心深く距離を保ったまま状況を見極めようとした。相手の男はそのうちに自分の錯覚と悟ったのか、再び前に歩き出した。ヤレヤレ、今日は厄日になりそうだと嘆息した。こういう特異な日は妙なことに続けて変なことに遭うことが多い。注意しようと思った。

 

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久しぶりに陶淵明を読む

2022-09-26 08:40:35 | 哲学書評

 五柳先生伝に「意に会する」文章あり。
『書を読むを好むも、甚だしく解するを求めず。意に会するもの有るごとに、すなわち欣然として食を忘る』
 哲学書と言うものは曖昧なものである。それは詩をしのぐ場合が多い。しかし、なるほど、うまいことを言うな、と思わず膝を叩いてうれしくなることがある。そんな時に食事を忘れるほど有頂天にはならないが、ま、そんな感じだ。
 その意味を「甚だしく、事細かに、根掘り葉掘り解(釈)し詮索する」のは大学の哲学教師に任せておけばよろしい。彼らはそれで飯を食っているのだから。

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ある朝

2022-09-25 08:48:36 | 小説みたいなもの

 腎臓が早朝の活動を始め彼の脳髄に信号を送り始めた。
「起きたの」と横に寝ていた裕子が言った。
「うん、何時かな」
 彼女は「ヨッコラショ」とけだるそうに掛け声をかけてベッドからすべり降りると窓際に行ってカーテンを引いた。まだ日は出ていない。外は暗い。交通信号の明滅がわずかに室内を明るくしていた。
「まだ五時前だよ」と彼女は伸びをしながら答えた。「あなた、寝言を言うのね」
またか、と彼は不安に思いながら「なんて言ってた」と聞いた。
「うーん、なんだか同じことを繰り返していたみたい」
「そんなに長いこと言っていたのか」
「そうね」
「『おかしいな』とか『どうして迷っちゃったのかな』とか、そうそう『もう二時間も迷っている』とかね」
 また定番の夢を見たんだな、と彼は思った。彼は今夜の夢はもう思い出せなかったが、かれがしばしば見る夢がいくつかあって、まったく同じパターンなのだ。その一つに迷子バージョンと言うのがある。
 いつも同じ場所と言うか情景で、どうも大きな駅、上野駅の周辺のように思えるところで道に迷う。どこに行こうとしているのかは目覚めてから考えても分からない。自宅でもなさそうだし、会社でもなさそうだ。とにかく目的地に行こうとして同じところに戻ってきてしまうというバージョンである。上野駅ではなくて、どこか旅行先でホテルに行こうとしているのかもしれない。
「きっとその夢を見ていたんだな。寝言を言っているとは分からなかった」と彼女に説明した。
「なんだかフロイトの夢判断に出てきそうな話だね。彼ならきっともっともらしい解釈をでっちあげるかもね」と大学の一般教養で心理学を齧った彼女は言った。
「彼ならどう解釈するのかな」
「そうねえ、そのデスティネイションと言うのは人生の目的ととらえるかもね。どうしても自分の人生目的がつかめないで悩んでいるとかね」
「なるほど、説得力があるな。実際おれに当てはまるよ。よくさ、小学校やなんかで将来は何になりたいか、なんて卒業文集に書かせるじゃないか。みんな結構具体的に書くんだよね。だけどオレにはそういうものがなかったな」
「それでなんて書いたの」
「ま、適当にね。本当はそんなものになりたくなくても野球選手だとか、医者だとかさ、皆が書きそうな無難なことを書いとくのさ。ところで裕子は何になりたかったんだい。いいお嫁さんになりたいとかかい」
「馬鹿にしないでよ」と彼女は気色ばんで口を尖らせた。
 彼は慌てて言った。「現在もさ、会社を辞めて、これから何をしようかと言うことも決められなくてさ」
「一生の問題と言うわけ」
「そうらしい」
「駄目ねえ」と彼女は決めつけるように言った。

 

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ゼノンのパラドックスに対する対応のタイプ

2022-09-07 08:13:07 | 哲学書評

ゼノンのパラドックスに対する反応のタイプに三種あり

1:新旧の数学理論で解釈しようとするもの、例えば現代で言えばバートランド・ラッセル。彼は集合論で説明しようとしていたと記憶する。
数式と言うのは人間が作り出した一種の言語だからね。もっともゼノンの逆理は四つあって、ウサギと亀は第二番目の逆理だが、ラッセルは第三のパラドックスについてだったかもしれない。もっとも四つのパラドックスは通底する前提があるので。

2:論理の形而上学的前提を否定する。ベルグソンはこれにあたる。「ウサギと亀」論には時間と運動は空間と同様に分割できるという形而上学的前提がある。ベルグソンは時間は分割できないと振りかぶる。根拠はあまり説得力はないが、たしかにゼノンの論理は時間や運動の二分割、そして二分割の無限連続から成り立っているから、この前提を崩せれば逆理なんてないことになる。

 そしてベルグソンの特色はこの否定が論理のお遊びではなく彼の全哲学の基礎になっていることである。時間は分割できないから、記憶はすべて残る。記憶はすべて持続するという彼の哲学がこの形而上学的前提の上に乗っかっている。
 

3:これは私の考え方に近いが、この逆理は人間が作り出した言語(数学を含む)の限界である。あるいは致命的欠陥である。実利的にはこの逆理を大上段に振りかぶらなくても、実生活上あるいは工学上は全く問題は起こらない。

 サルが人間に進化したように人間が全く違うより高等な種に進化して、あたらしい言語を獲得しない限り、このパラドックスは解決しない。

 

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ウサイン・ボルトは脚萎え老婆を追い越せない(1)

2022-09-05 07:14:45 | 哲学書評

 古代ギリシャの哲学者ゼノンのパラドックスとして知られたこの話にはいろんな呼び名がある。
 イソップ物語ではたしか、ウサギと亀の競争、古代ギリシャではもともと、アキレウスと亀だったらしい。というのはゼノンの言葉は残っていなくて伝聞や後の哲学者(アリストテレスのような)の引用文としてしか残っていないのだ。要するにウサギは亀を絶対に追い越せないというのである。
 筆者はウサインボルトとミミズとしたいが、ミミズは気持ちが悪いとオバさんが言いうのでウサイン・ボルトと足萎え老婆とした。第一現代の若造はミミズなんか見たことが無いだろう。
 世の中にはインチキ商法おっと間違えた、インチキ学説で自慢げにこれはパラドックスだという詐欺師的学者が多いが、ほとんどは箸にも棒にもかからないテイの物である。この「ウサギと亀」は真正のパラドックスである。
 その証拠に以来2500年にわたって名だたる哲学者が大真面目で汗をかきながら、いじくりまわしている。
 

 パラドックスとはなんぞや?
論理上は、あるいは言説上は、瑕疵がないが、現実にはあり得ない場合のことである。
 ウサギと亀の話は三才の幼児でも現実にはあり得ないことを瞬時に喝破する。

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ベルクソンの生霊についての考え方

2022-09-03 07:27:28 | 哲学書評

 UFOというのがある。これについてのアカデミズムの態度は三つのタイプがある。
1:ばかげたことを言うな
2:何とも言えない、よくわからない、調べてみな
3:UFOはある
 さて、生霊、超常現象、テレパシー、透視、幻視などのオカルト現象についてもUFOの場合と同様の対応がある。
 ロンドン心霊研究学会の会長を一年間勤めたベルクソンの態度は上記2である。いや2.5かな。研究方法やご丁寧に仮説まで提案している。以上は1913年に同会長に就任した時のベルクソンの講演による。
 次回は見ぃーけた、ゼノンのパラドックス。

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