穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ついでに

2023-07-09 10:04:24 | ハイデッガー

ついでに、二、三トリビアルなことを、

この本には索引がない。内容が多岐にわたっているし索引は必要である。

ナチスとの関連は第六章、第七章あたりで大部詳しく述べられているが、新聞記事の引用のような部分が多くて、哲学的な内容を上回っている。この辺は記述に工夫が必要であろう。巧みな要約が求められる。圧倒的な量は肝心の哲学的な内容の印象を薄くする、つまり読む気がなくなる。

ということで大部分読み飛ばしました。


ヒトラーを教導しようとしたハイデガー

2023-07-09 09:44:39 | ハイデッガー

ハイデガーはヒトラーの家庭教師たらんとした。両人の生年は1889年である。ヒトラーが政権を取ったときは40歳を超していた。当然ハイデガーも同様。ハイデガーがナチスを利用した意図は明確であろう。ハイデガーは実年の古だぬきのヒトラーの家庭教師たらんとした。

ギリシャかぶれのハイデガーの念頭にあったのは、幼きアレクサンドロス大王の家庭教師であったアリストテレスである。所詮ヒトラーを教導しようとする目論見は的外れであった。

それにヒトラー政権の有力閣僚であったゲッペルスも哲学者であった。成功するはずもない夢を見ていたらしい。フライブルグ大学の学長に若くして就任したハイデガーは一年で辞職に追い込まれた。

補足:アリストテレスは幼年のアレクサンドロスより18歳年上であった。


ハイデッガーの該書ナチス加担の記述に入る

2023-07-08 13:38:08 | ハイデッガー

「存在と時間」は私の記憶では存在に触れず、時間についてもほとんで触れていない。第一章と第二章の記述でそれを確認した。だからこれまでの西洋哲学の全否定とすごんだわりには主観主義哲学の一種だといわれてもしょうがない。ハイデガーもそれを気にしていたという。古代ギリシャ哲学に戻ってぴしゅす(自然)に戻ったり、中世キリスト教神学に戻ったりしている。

そうして、ナチスの政権獲得に連れてフライブルグ大学の学長に就任して大学の教育改革に乗り出すところまで来た(250ページあたり)。結局一年余りで挫折するのだが、そこまでは読んでいない。

相変わらず、新語を乱発している。やめられないんだろうね。私から見ると下手な新語つくりは逆効果である。

 


後期ハイデガーの解説

2023-07-04 06:16:34 | ハイデッガー

さて昨日話した轟秀夫の本だが序論を読み終わった。要するに「存在と時間」以後の著作が全七章のうち五章をなしている。たしかにこの後期ハイデガーの解説書はあまり見かけない。二、三の論文は読んだ記憶があるが、あまり印象に残っていない。改めて通読解説を読んでみるのも、なにか得るところがあるだろう。

これはこれまで読んだ著作の印象だが、「存在」の扱い方(伝統的な西洋形而上学)が存在を超越者として見ていると断じているようだ。「存在」と「現存在」をアートマンとブラフマンと融通無碍にとらえる仏教思想が念頭にあるのかもしれない。

戦後の悲惨な経済で日本からの裕福な留学生の家庭教師などで糊口を凌いでいた当時のドイツの哲学者がそれらの日本人留学生に熱心に東洋、日本の宗教思想を聴いていたという話が残っている。ヒントにはなっているだろう。

日本政府が日本の大学にハイデガーを招聘したという話も紹介されている。三木清が話を持って行ったらしい。年俸一万円の破格だったという。当時のレートでは悲惨で天文学的なインフレに喘いでいただドイツの学者には魅力だったろう、カール・レーヴィットだったかは招きに応じて東北大学に赴任している。

 


学びて時に之を習う

2023-07-03 19:08:44 | ハイデッガー

さて辻村深月のツナグであるが、これは5編の短編からなるが、一,二作はまあまあだ。四作、五作は興味索然として最後まで読み通せなかった。五作、最終作はまた戻って第一作からの使者(イタコのような人物)の修業物語りへデングリ返るという趣向だが、いまさらね、と言う感じ。これで辻村氏の書評は一応おわり。

さて本日書店で「ハイデガーの哲学」「存在と時間から後期の思索まで」というのをあがなった。新書であるが、500ページで1500円という安さで手を出したのである。

どうも、本を買うときには目方の割に安いのに手を出す癖がある。ハイデガーは本人の書作も種々の「解説本」も散々書評で取り上げたが、まあ、いいじゃないか。論語にも「学びて時に之を習う、またよろしからずや」とあるではないか。

ハイデガーはドイツ人がいっていたが、評物が100人あれば100説あるという代物だ。作者は防衛大学教授の轟孝夫氏(未読未聞)の人であるが、

 

 

 


ヒトラーの家庭教師たらんとしたハイデガー

2017-06-12 14:44:03 | ハイデッガー

ハイデガーとナチスの関係はナチスが政権を取る以前に遡る。彼の妻は早くからナチスの信奉者であり、ハイデガーもナチス系の学者と交流があった。ナチスが政権についたのが1933年一月であった。四月にハイデガーはフライブルグ大学総長となり、五月にはナチスに入党している。

 ハイデガーの念頭にあったのはアリストテレスとアレクサンドロス大王の関係である。少年時代のアレクサンドロスの家庭教師がアリストテレスである。アレクサンドロスは20歳でマケドニア王に即位し、ペルシャ、シリア、エジプトを征服しインドに攻め入った。

 ヒトラーを歴史の最終段階に入った、つまり人類の歴史の頂点に位置するゲルマン民族の絶対精神の顕現と見たハイデガーが自分をアリストテレスに擬したことは間違いない。しかし彼の誤算はヒトラーが少年ではなかったことである。すでに政党の党首、政治指導者であった。ヒトラーとハイデガーは同じ年の1889年生まれの中年であった。彼の師父たらんとすることは幻想であった。彼の周りには多数の取り巻きがいる。海千山千の側近達がいた。まず側近達と衝突があった。そしてハイデガーは就任一年も立たず、慣れない政治闘争に破れ翌年1月にはフライブルク大学総長を辞任せざるを得なかった。

 ナチスの政権基盤が確立する過程でヒトラーによって粛清されたナチス突撃隊との関係が深かったこともハイデガーの失脚に関係があったらしい。

 ハイデガーはまだ45歳、先の人生は長い。ここでナチスを離れることは出来ない。たとえば、新撰組に入りながら途中で脱退するような者である。脱退すれば厳しいお仕置きが待っている。抜けるに抜けられない。ハイデガーはナチスが崩壊するまでナチス党員であった。

 そこで彼が選んだのが「ニーチェ」執筆である。ニーチェはナチス公認の哲学者である。そして彼が選んだ対象がいい。「権力への意志」である。これはニーチェの遺稿で生前は出版されていない。ニーチェの妹が保管編集したものという。ニーチェの妹エリザベートは当時のナチス幹部と親善であった。ニーチェの遺稿をナチス公認版で研究している限り、それを批判的に考察しない限り、安全である。

 当時ニーチェの遺稿はエリザベートが管理し、それはナチス党によって保護されていた。

 


ハイデガーの「投企」について

2016-06-10 07:55:07 | ハイデッガー

翻訳者は訳語にお化粧をしてはいけない、大原則である。そうした方が、とおりがよくなるから、とか、もっともらしくなるから、というので言語の意味に厚化粧をさせてはならない。翻訳者の良心でしょう。同時に日本語の基本的なセンスがなければならない。読者を戸惑わせ、不快感をあたえるように造語を作ってはならない。 

さて、「投企」であるが、これはH氏の基本概念中の基本である。ひところの「実存主義」青年の合い言葉でもあったらしい。妙な言葉だが、「投」と「企」を無理矢理くっつけたものらしい。

この世界に投げ出されたんだから、今更くよくよしてもしょうがない、自分で努力して主体的に人生を切り開け、というような意味と理解しているが理解が浅いかな。

「投」は投げ出されて、を縮めたものらしい。「企」は企てる、計画を立てる、のつもりか。ハイデガー語ではEntwurfとかentwerfenというらしい。例によって独和辞典を見ると、Entwurfは設計図とある。entwerfenは下絵を描く、とある。つまりトウキ(こんな単語は変換出来ないから以後カタカナでいく)の後ろのキにかろうじて連なる意味しかない。トウをつけるのは訳者の余計なお化粧である。どういう神経だろう。親切のつもりか。あるいはH氏の思想から言えば「世界に投げ出されて途方に暮れているな、積極的に自分の人生を企画せよ」という含意があるよ、と親切に教えているのか。

そんなことは訳者の仕事ではない。Hの前後の文脈でそういう意味(なんだろう)にとれるなら、その作業は読者がするものである。H氏の文章の売りは奇異感である。しかも意図的な。だったら、言語の通りに訳さないとH氏の文体が生きてこないではないか。

例のマコーリとロビンスンの英訳を見るとprojectやprojectionを当てている。これらの語は計画とか企画という意味が一般的でドイツ語のオリジナルに比較的忠実である(つまりキに焦点をあてている)。もっとも英語のprojectionには発射という意味もあり、この世に発射されて、に引っ掛けているとも取れる。すくなくともこなれた日常語であるプロジェクトを訳語にしている点でも英訳の方が数段すぐれている。

まだまだ沢山あるがきりがないので今日はこれまで。

 


ハイデガーの「配慮」について

2016-06-08 10:23:34 | ハイデッガー

 精神分析学者のユングによるとハイデガーは精神病者である(90分でわかるハイデガー)。分かりにくくて当然か。しかしこの種の著者の特徴として独特の迫力がある。私がハイデガーを読む理由である。といっても大して読んでいない。存在と時間に限っていえば

1:ハイデガー「存在と時間」注解、マイケル・ケルヴェン著、長谷川西崖訳

ちくま学芸文庫・・途中まで読んだ。

2:「存在と時間」,細谷貞雄訳 ちくま学芸文庫の訳者後書きだけ読んだ。

まず正確に読んだ範囲をご報告して本文に入る。

上記2:の後書きにこうある。

a: 「存在と時間」は、まだドイツ語にさえ翻訳されていません・・あるドイツ人の言葉

b:レーヴィットは、この本が外国語に訳せたら、それこそ奇蹟だとおもう、と言った。 

ハイデガーを読んでまず奇異に感じるのは異常な「言葉あそび」、「言葉いじり」、「正当性の疑わしい語源いじり(とくに古代ギリシャ語)」であろう。

今回はbesorgenという言葉に軽くあたってみようと思う。上記1:の訳書では「配慮」と訳されている。他でどう訳されているかしらないが、どうもこれが代表的な訳語らしい。世界内存在である現存在が世界と関わり合うモードの基本的なものだと言うのだが、どうもしっくりと腑に落ちない。

独和辞典をみると配慮という語釈はない。これをbeとsorgenに分解してみるとbeは強調の意味、sorgenは配慮するという訳語がある。そうなら、besorgenの訳でそれに相当する訳語が辞書に記載されているべきではないのか。

ちなみに上記のケルヴェンの著書のなかでしばしば引用されているマコーリとロビンスンの訳書「Being and Time」によるとconcern, provide, make provision

などの訳語があてられている。配慮とはニュアンスも違う。関心というか、あるいはあらかじめ足りない物を準備して供給する、または将来に備えるなどの意味であり、これならすんなり原文の意が通じる。

気になったので他の意味の通じない訳語を当たってみたが随分と辞書や英訳と違うところがあるようである。この様に訳す根拠は何なんだろう。

続く


デカルトは躓きの石

2016-05-28 08:09:34 | ハイデッガー

 中山道の道端に道しるべが立っていると思ってください。左大阪、右江戸と書いてある。左右もとより逆でも可である。

デカルト村の境に立っている道標には、右フッサール、左ハイデガーと書いてある。

仏教における「南無阿弥陀仏」のように「コギト エルゴ スム」という呪文がある。ラテン語には詳しくないが(もっともこんな簡単なフレーズに文法もへったくれもないだろうが)、「我思う 故に 我あり」と普通訳される。語順も同じようである。

ハイデガーのように粘着性のしんねりむっつりスタイルで解釈する。「我思う」と「我あり」の間につなぎで「故に」が入っている。この「故に」をどう解釈するか。左の句が先行するととるか、左の句が前提となると取るか判然としない。がまあそれはこの際問題にしない。両方の意味があるとしよう。

フッサールは繰り返し「デカルトの明証性」を称揚するからこの点では完全なデカルト・ファンなのであろう。ハイデガーはチト違うようだ。ハイデガーはデカルトを論難する、彼は我思う(思惟、精神、主観)ばかり取り上げて、我あり(存在)を全くないがしろにしている。それに、「我ありのほうが(論理的に<適切の言葉ではないが他に適当な言葉を思いつかないので)先行している」というわけである。

 

フッサールとハイデガーの共通点は意識の明証性に至る道も、存在の意味を明らかにするのも、おなじ乗り物に乗って行くということである。「現象学」という馬車である。この馬車がおなじものかどうかはよく分からない。にたようなものには見えるが。もっともハイデガーは現存在という脇道を迂回するわけである。

この書評も段々「小説のようなもの」に見えて来たでしょうね。時々このような取り留めも無いことを書き記さないと読んでいたことを忘れてしまうのでメモを取るつもりで書いている。

 


ハイデガーは刺身がいいか

2016-05-26 08:57:40 | ハイデッガー

 タイトルの「謂ひ」はハイデガーの著書は直接読むのがいいか、どうか、ということである。要するに加工調理せずに素材で味うのがいいのか、どうかという設問である。

哲学書の場合には特に留意すべき点である。ここでは「存在と時間」に限って述べる。彼38歳壮年期の処女作である。力が入っている。勿論哲学徒として論文は多く書いていただろうが、大著としては処女作であろう。

まず、結論からいうとハイデガーは色々な理由から生で食わない方が良い。煮るか焼くか二次加工したものを食う(読む)のがおすすめである。

哲学者によって生で十分賞味出来る人もいる。カントなどはその例だろう。カントの場合は自著解説などがあってこれもなかなか行き届いている。純粋理性批判に対する「プロレゴーメナ」がその例である。もっとも実践理性批判の解説書と言える「人倫の形而上学の基礎」はそうとも言えない。解説書から入るのがいいのはヘーゲルの精神現象学などである。ただ、こういう有名な書物には腐るほどの解説書があるからどれを選ぶかが大切である。解説書といっても90パーセント以上は読まない方がいいようなものであったりする。

さて「存在と時間」であるが、先にも触れた様に壮年期の大著、処女作であり肩に力が入っている。一種の狂躁状態で教祖の「お筆先」のように書かれている。木田元氏推奨の訳書(ちくま学芸文庫)でハイデガーに直接会って疑問をぶつけた訳者細谷貞雄氏の後書きがある。これは必読である。そこに

「私はこの本がさほど周到な彫琢を経たものではなく、かなり慌ただしく書き下ろされたものにちがいないという印象を持つ様になっていた」とあり、ハイデガーに面会してその印象を確認したと書いている。

ハイデガーは率直真摯に細谷氏の質問に答えたそうだが、自分でも昔の著書を読むと不安を感じる時がある、と述べたそうである。また、ハイデガー氏との逐行的な読み合わせで、印刷段階でかなりの誤植や、原稿に由来する誤記があった、と書いている。

この種の著作は第三者の解説者の手を経ることによって、素材の味は損なわれるが、著者の意図は整合性をもったかたちに整理されて伝えられる。これがハイデガーはまず煮るか焼くかして味うべきであると私が言う所以である。

勿論、ハイデガーになじんで来たら原著にあたって改めてその熱気にふれるのもまた楽しからずやである。

 なお、解説書であるが、まだ三分の一しか読んでいないが、ちくま学芸文庫のマイケル・ケルヴェン著「ハイデガー『存在と時間』注解」はいいと思う。

 


二種類の科学哲学

2016-05-22 20:26:18 | ハイデッガー

 二通りの科学哲学(ハイデガーの言葉でいえば個別科学の論理学)がある。

つまり、「遅ればせの」(後追いの)論理学と先導的な論理学である。つまりアポステリオリの科学哲学とアプリオリのそれである。

「存在と時間」は1927年に出版されたが、ちょうどいわゆる科学哲学が隆盛に向かうころだが、その後の科学哲学はすべて後追いの論理であるようである(科学哲学業界に詳しくない人間の印象である)。

科学研究を先導する方法論(哲学的)などないと思います。天才の超人的な頭脳スーパーコンピューターがぶん回って煙が出始めるころにぱっとひらめくのが通例ではないでしょうか。科学の最先端の開発のありようはそのようにクリエイティブなものだと思う。方法論やハウツウものを超越していると思う。むしろ方法論は創造性を委縮させるものだと思う。

 カントの場合、三批判書は本人によって予備学と位置付けられている。カントはさらに自然哲学(自然科学)をこの予備学の上に構想していたようだ。そちらのほうが本番であったらしい。

 カントにはその種のものが二つある。一つはまだ活発に研究していた1786年に出版された「自然科学の形而上学的原理」で、これは前の世代に確立されたニュートン力学の基礎をまとめたものらしい。つまり「後追いの、遅ればせの論理学」である。

 もう一つは遺稿の中に含まれているもので完成しなかった。「自然科学の形而上原理から物理学への移行」と題された大量のメモがあるらしい。これは「自然科学のための先導的な方法論」になる予定だったようである。

 これはカント全集に入っているのだろうか。どう問題を料理しようとしていたか興味はある。

 


ハイデガー哲学は科学に貢献できるか

2016-05-22 09:15:43 | ハイデッガー

この問いは「哲学は科学に貢献できるか」あるいは「科学哲学は科学の発展を先導できるか」と置き換えてもよい。

例によって(相も変わらず)ハイデガーの「存在と時間」を読んで改めて感じたことである。細谷貞雄訳ちくま学芸文庫

 序論第三節 存在問題の存在論的優位、より

ここで実証的実定的科学(自然科学、人文科学)における哲学(存在論)の優位が説明されている(ハイデガー立場から)。

 「基礎概念とは、それぞれの科学のあらゆる主題的対象の根底にある事象領域についての諸規定であって、この領域はこれらの諸規定においてあらかじめ理解され、そしてこの理解があらゆる実証的研究を先導することになる」 >> 同意 >> 正確に言えば、漠然と理解(了解)され、であろう。

 「かような研究は、実証的諸科学に先駆しなければならないし、」>> ??実態としては必ずしも先駆するとはかぎらない。

 「先駆することができる」 >>半分同意 ≪先駆することもある≫

 「この意味で行われる科学の基礎づけは、科学のその時々の現況を調べてその方法をつきとめるというような、遅ればせの論理学とは原理的に区別されるべき」 >> 同意 現代の科学哲学がこれに該当する。

 実証的研究の「本当の進歩は、そのようにして得られる実証的研究成果を蓄積して*事典*に収録することにあるよりも、むしろ事象についてこのように蓄積されていく知識の増加からたいてい反作用的に押し出されてくる、それぞれの領域の根本構成への問いのなかにある」>>ほぼ同意だが、物理学の場合などは*現在の理論に矛盾する観測データの出現が当該科学の根本的構成への問いを誘発しているといいたい。

 続く

 


ハイデガーも言葉遊びがすぎる

2016-05-08 08:05:42 | ハイデッガー

 

ハイデガーの「現象学の根本問題」作品社の「序論」と最後の「テンポラリテートと、存在というアプリオリ。存在論の現象学的方法」を読んだ印象である。

要するに現象学というのは「哲学」のことなんだね。もっと彼の意に即して言えば「本当の来るべき哲学」なんだ。ではなぜ現象学なんて言う必要があるのだろうか。H氏お得意の語源遊びがあるかと思って読んだが何の説明もない。 

「これぞまさに現象学などというものはありませんし、、」

「対象に近づけさせてくれるそのときには、、当の方法を必ず滅びさせてしまいます」とうまく逃げている。520頁

そうかと思うと、現象学には三つの方法(分野?)があるという。現象学的還元(内容不明、説明なし)、現象学的構成(内容不明、説明不明)と既存の哲学の解体(これは意味はわかる)があるという。44、45、46頁

お得意の語源遊びはアプリオリについての講釈ではじまる。これはギリシャ語ではなくラテン語である。この辺も胡散臭い。アリストテレスもプラトンも同じことをいっているというなら、なぜハイデガーが博識を誇るギリシャ語遊びをしないのか。

最大の問題は「アプリオリは時間的に先立って」という意味であると断定する。言葉という物は多義的な意味を持つ。時間的に先立ってという意味にも使う。しかし優先的にという意味もある。このラテン語から出て来たと思われる(というのは念のために英語の語源辞典を参照したが、ラテン語の語源は触れていなかった)priorityということばは優先的にという意味で使われる。

また、その他に演繹的に、とか推定とかいう意味もある。これらはいずれも時間とは関係がない。また、カントがアプリオリという言葉を中心概念として使った訳だが、カントの場合は時間的に先行しているというふうには受け取れない。ハイデガーは非常に強引という印象を受ける。

しかも、この時間制が彼の哲学、人間と存在の関係や存在論のキモとなっていることを顧慮すると、軽々に見過ごせる問題ではなかろう。彼の主著は「存在と時間」だし、彼の哲学のいわばキーワードでもあるわけだから。

語源遊びで哲学をするな、ということである。以上が昨日哲学を学び始めた当ブログの意見であります。

なお、凝り性のわたくしはラテン語の辞書も調べました(図書館で)。物好きですね。それによるとpriorとは、よりすぐれた、大切な、根本的な、という意味です。aは冠飾詞というか言葉の前につけて、離れた、と言う意味だそうです。超越的に通じますね。はなれて根本的な(大切な、よりすぐれた)というなら私達がカント等の用例から受け取る印象に近い。

 

 


「ハイデガーはサイコパスである」ユング

2015-04-14 20:59:30 | ハイデッガー

1時間半ほどお時間をいただけるでしょうか。wave出版「90分でわかるハイデガー」ポール・ストラザーン著、浅見昇吾訳という本があります。 

そのなかでユングの言葉が引用されています。「複雑な凡庸さの巨人・・・ハイデガーの哲学の方法は徹頭徹尾ノイローゼ的で、突き詰めれば気難しさと心の不安定さから出て来たものだ。彼と気のあう友人がいるとすれば、親しい友人であれ、それほど親しくない友人であれ、精神病院にいるだろう。患者としてかもしれないし、哲学的に暴れ回っている精神科医としてかもしれない・・・」

すこし安心しましたね。分からないのは頭の悪いせいだけじゃないらしい。専門家がこれほど思い切ったことを言っているんですね。出典は『ユング書簡集』というのらしい。翻訳が適切かどうか判断出来ませんが、それほどややこしい文章ではないし、問題はないでしょう。

彼の言う「存在」については前に分析しましたが、宗教の世界で言う神、絶対者、彼岸に酷似しています。したがってハイデガーの思想というのは哲学というよりかは宗教といったほうがいい、というのが私の意見です。

そうすると、一部の人たちからはサイコパスのように見られるところがあるのも分かります。私はそれも、宗教家というよりか、霊能者というカテゴリーに入るのではないかと思います。「そのつど」アリストテレスが憑いたり、「そのつど」パルメニデスが憑いたり「そのつど」お稲荷さんの狐が憑いたりする。

この「そのつど」がとにかくなんにでも付くんですね。ハイデガーの文章は。異様です。いま現存在分析のトバ口を読んでいますが、「そのつど私のものなのである」とか、「そのつど可能な存在する様式であり」という具合に何にでもつく。 

何なのでしょうね。時間により変化する私と言う存在者の存在つまり現存在の有時性へと引っ張って行きたいのかもしれません。

誰の哲学でも、哲学は大体総論が面白くても各論(或は具体論あるいは詳論)に入るととたんに質が落ちてつまらなくなる。哲学の内容は全く違いますがヘーゲルなんかでも、そうですね。「存在と時間」も各論「現存在分析」に入って艶が無くなった。

 


水と油の予感、存在と時間の第一部を読む

2015-04-12 09:40:43 | ハイデッガー

これまで序論の論述について述べたが、いよいよ第一部を読み始めた。第一部は段落124から始まる。ざっと段落165あたりまで目を通した。序論でたからかに謳い上げた「存在への問い」を整え仕上げる作業の着手点として「現存在分析」に入ったわけである。 

具体論に入っていきなり細かくなったという印象である。たしかに一部(世界の大部分の哲学者、例えばサルトルのようなフランスの哲学者達)が抵抗し難い魅力を感じたことがわかる面もあり、面白いとは言える。

至る所で「存在論的に」議論しない形而上学の歴史を攻撃するところなど威勢がいい。たしかにこの調子で形而上学の歴史の「在庫」を各個撃破していくのだろう。

すこし読んだだけだが、これで「存在への問い」の完成へ結びつくのかな、という疑念をおぼえた。ますます収斂しがたくなっていく記述のような気がする。実際「存在と時間」は「現存在分析」すら未完のまま中断されている。その後の彼の著作で哲学として、体系として「存在への問い」への解答は出ていないようだし。

未完部分を含めて計画目次が段落123に示されている。その未完の第二部に「有事性の問題系の前段階としての、カントの図式論と時間論」というのがある。これによって推測するに彼は1925年に書いた「カントと形而上学の問題」を全面的に書改めるつもりだったようだ。それもうまくいかなかったということだろう。