穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

デカルトの情念論 (3)

2021-09-29 13:36:50 | 読まずに書評しよう

 昔から精神の三分野として知情意と言われる。大体この言葉がシナ古典にあるのか、西洋にも同様の分類があるのか浅学菲才にして知らないが、今回改めて考えてみると、例えば西洋哲学史でも「情の哲学」というのはあまり出てこないようだ。

 勿論感情についての断片的な言及は大抵の哲学者がしている。しかし、ややまとまった思想としてはストア派の考えぐらいしか思いつかない。勿論デカルトとかマールブランシュとかにはまとまった作品はあるようだが、十七世紀の一時期に限定され哲学史の中では例外的である。

 哲学と言えば愛知(フィロソフィー)ということばがあるように知識あるいは知識の根拠を探求することと見られる。意(意思)も近世になってからは幅を利かしてきた。自我の覚醒とか、近代の倫理学で一大テーマとなった自由意志の問題はそれだけで知を凌駕する分野になっている。カント(実践理性批判)、ヘーゲル左派のシュテルナー、キエルケゴール、ニーチェなど、すべてメインテーマは意思である。ハイデガーも意志の哲学と言える。大体実存主義というのは煎じ詰めると意志の哲学である。「盲目的な意思」のショウペンハウアーも陰画的な意志の哲学の代表者である。

 そもそもデカルトは自分の情念論を哲学と思っていたのだろうか。彼が哲学と思っていた(認めていた)のは思弁的な形而上学だけだと私は考える。彼の情念論は自然科学と考えると分かり易い。勿論十七世紀の最新の自然科学である。

 デカルトは数学のほかに、光の研究だとか、現代でいえば、自然科学分野の研究がある。そうすると、情念論の手法は生理学、心理学、解剖学の研究である。もちろん当時のそれら分野の知見をより合わせたものだ。当時のそれらの学問の最新の研究を寄せ集めている。彼独自の部分はあるのか、ないのか。

 医学では西暦二世紀の人ガレノスの思想から動物精気なるものを流用している。現代病理学でいえば神経やホルモンとでもいうのだろう。それに当時の心理学的な常識。そうかと思とデカルトと同時代人ハーヴィーの最新の発見である血液循環論を採用している。要するにごった煮である。

 近世初期のモンテーニュとかパスカルの作品のことを考えると、そして当時の生理学、心理学のレベルの限界を考えると、このような主題を扱うにはエッセイが適していたのではないか。

 

 

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デカルトの情念論(2) 九月二十七日

2021-09-27 07:42:44 | 読まずに書評しよう

 デカルトは強いタニマチに逆らえない、逆らわないのを処世術としていた。

前回は訳文の問題を取り上げたが、どうも本文の程度、質にも問題があるようだ。この本の執筆過程からして、特徴的な問題があるようだ。よく知られているように(解説者が必ず説明しているように)、この本(論文)はデカルトのタニマチであったスウェーデンの女王クリスティナの求めに応じ、彼女のために書いている。

 政治家や有力者が有名な文化人、学者のタニマチになって彼らを見せびらかすように侍らすことは現代の日本でもよく見られるように何時の時代も、どこの国でも共通である。このクリスティナ女王は強引さはストーカーに近かったらしい。再三デカルトにスウェーデンに来るように誘い、挙句の果ては迎えに軍艦を派遣している。ほとんど脅迫に近い。そしてデカルトはスウェーデン滞在中にこの論文を出版した。

 用心深いデカルトは自分の研究を続けるためには、世間に目立たないような生活をすることを処世術にしている。これは方法叙説のなかで書いている。だから権威に楯突いたりしない。女王の強い要求に最後は従ったのであろう。

 デカルトはスウェーデンの厳しい気候と女王との応対の気疲れから、かの地で肺炎で死亡した。要するに無理やりに書かされた、あるいは出版を急がされた急ぎ仕事でその内容はほかの著作よりかは質が落ちたのはやむをえないのかもしれない。

 

 

 

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デカルトの情念論 (1)

2021-09-26 13:38:34 | 読まずに書評しよう

 最近隙間時間を利用して頭書を手に取った。大分前に読もうとして、何を言っているのか分からないので途中で投げ出したのだが。最初になにで読んだかを書くのが礼儀だろう。中公文庫にある方法叙説と一緒に収められている。

 今回も前回と同じくたちまち意味不明の雲の中に迷い込んだ。方法叙説のほうはいい。短いし、今になってみれば常識的なことを言っているだけだから、どうと言うこともない。

 わけの分からない理由はいろいろ考えられる。デカルトの高邁な思想は到底理解できないというのかもしれない。それなら、わが読解力の無さを嘆くしかない。

 負け惜しみではないが、どうも訳文が適切ではないのではないか、という疑念を払しょくできない。間違っているとは言わない。私はフランス語が出来ないから間違っているとは言えない。しかし、日本語として適切に対応しているのか。

 岩波文庫に別の人の訳文があるようだ。暇が出来たらそちらも覗いてみたい。それと、私はピンと来ないときは原文か、私の分かる欧文訳で確認することが多い。有名な本なら英訳もあるだろうから、そちらも覗いてみたい。

 原文を直訳すると、とくに哲学的、人文分野の本は意味が取りにくくなる。関係代名詞など、日本の文法にない文章は注意しないとあちこちと訳文が跳ね回る。

つづく

 

 

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係数Cが光速である必要はあるのか

2021-09-11 08:49:17 | 小説みたいなもの

 おはようございます。朝の行事です。どうも朝一番に一本アップしないとすっきりと目覚めないようなのです。朝のラジオ体操と言うか、排便と言うか、どうもそれを済まさないとすっきりとしません。

 さてアインシュタインのE=mc2ですが、Eはエネルギー、mは質量の等式ですね。cは光速秒速30万キロ弱ということですが、この係数cには必然性がないということは前回までに申し上げました。ほかにmとEの単位もあいまいなようです。単位のとり方で計量的にはどうにでもなりますからね。

 上の等式が意味していることは質量を全部エネルギーに変換するとものすごいエネルギーが発生するということでしょう。別に光速にする必要はない。光より早いものはない、と言うことになっているからそうしたのでしょう。30万ではなくて百万にしてもいい。光速にこだわる必要はまったくない。

 つまりこの等式は日常言葉で「物質を変換すると、とてつもないエネルギーになる」と言ってしまえばすむことです。

 ユダヤ教の聖典である旧約聖書の創世記だったか、では神が最初に「光あれ」といったからなのか。広島の原爆でenergyに変換されたのは搭載されたウランの0.7パーセントだった「らしい」ですからね。

 

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アインシュタインはドグマティストである

2021-09-09 07:11:40 | 小説みたいなもの

 マルクスと同様である。ウィットゲンシュタインもそうであろう。彼は自覚していたようである。Wの言葉に「私がユダヤ人だから、そう考えるのだろうか」というのがある。この三大天一坊はすべてユダヤ人である。

今お勉強中のアインシュタインに話を限ると、

1:世界には、(宇宙にはだったかな、あるいはこの慣性系にはだったか)、光より早いものはない、とアは言う。これは実証されてもいないし、論理的に帰結されてもいない。

 一時はニュートリノは光より早いなんてニュースがあった。計測ミスだと訂正されたが、別に光が一番早いことの証明にはならない。

2:E=mc2、c2は光速の二乗

これも実測されてはいない。論理的に証明されていない。彼の相対性原理では、光速より早いものはないと『前提』されているが、実証されていないし、証明もされていない。つまりドグマである。

 ドグマティスには、実証されていない(出来ないと言ったほうがいいかも)、かつ論理的にも説明できない前提となる思弁的、形而上学的前提がある。古代、中世のキリスト教神学が神の超越的、絶対不可侵性を前提としたのは古典的ドグマである。

 もっとも、ドグマというものは信じてしまえば、そして皆で共有してしまえば、使い勝手はよいものであるが。それがパラダイム野になれば、すべて世はこともなし、となる。どうも私のSFは奔放なものになりそうだ。

 

 

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光速についての本日のお勉強の成果?

2021-09-04 10:31:31 | 小説みたいなもの

細切れのアップになります。そうしないと忘れちゃうのでね。

 光の速度より早いものはない、とアインシュタイン先生は仰る。これが現在のいわゆる多数意見、というかパラダイムのようです。それに対する挙証はないようですがね。あれば教えていただければ訂正します。

 ところでわたくしのほかにすでに、これに疑問を呈している方がいらっしゃる。何種類の反証方法があるのか知りませんが、例えばインターネットに上っているものなど、無作為に拾ってみると、残念ながら反証側の議論にも実証的なものは一つもない。いわゆる思考実験的に反対していて、実証しているわけではない。繰り返しますけど思考実験は決め手にはなりませんよ。

 要するにどちらにも軍配をあげられない。

 

 

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ただいま勉強中です

2021-09-03 12:21:27 | 無題

 連載中の「無題」を長らく休載しておりまして申し訳ございません。最初は「アップデート要求」というタイトルで勢いよく連載をはじめ、「恩寵と刑罰」に改題し、これもどうもぴんと来ないというので「無題」としたわけですが書きあぐんでおります。一応SF的ということで進めているわけですが、どうも知識がないので、あまり業界常識とかけ離れてもいけないでしょう。それで物理学と天文学のお勉強をすこししています(小学校レベルから)。

 早速難問と言うか疑問に逢着、アインシュタインの理論が間違いじゃないのか、などと飛んでもないことを考え始めました。解説書によるとアインシュタインは思考実験をよくしたようです。もっとも思考実験をするのは量子力学も同じようですが。

 この思考実験にべったりと乗っかっていいものでしょうか。思考実験でアイデアが正しいから、つまり論理的だからということで、其処を出発点にした理論が多い。時間の進み方がその人が高速で移動していると遅くなるなんてある。これが理論のキモらしい。

 仮説としての出発点はそれでいい。それが現実にあっているかどうか、検証することが不可欠ですが、どうもそこのところはすっ飛ばしているのではないか。そうじゃない、と教えていただけると安心するのですが。

 世にはパラドックスというのがある。ウサギと亀の競争なんてね。うさぎは絶対に亀を追い越せない、理屈ではね。ところがこんな現実を信じるひとはいない。ところがアインシュタインの思考実験は現実に試せないほど規模がけた違いである。なにしろ秒速(時速ではありませんよ)三十万キロの世界ですから。実際に観測、計測したことがあるのだろうか。また、観測結果は多数回、同じ精度の結果がでたのだろうか。そんなことは書いていないようですね。

 論理的には正しくても(と言うことは言語の表現として、ということですが)実際には否定される「論理」があります。パラドックスといいますね。アインシュタインの思考実験がすべて「パラドックスではない」と言い切れるのでしょうか。また分からなくなった。連載が遅れます。すみません。

 

 

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