穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

チャンドラーが描く警官三態

2015-04-29 19:59:51 | チャンドラー

 前回の記事を少し補足した方がよさそうだ。湖中の女、270頁あたりまで読み進んだ。大体初期の作品から全作品を通してチャンドラーは警官にローカル色をつけているようだ。

第一は大都会の警察、ロサンジェルスやハリウッドが大都会といえるかどうかだが、まあ有名な都会だな。この辺の刑事はまともというか紳士的なタイプに描いている。

第二は「在」のお巡りだ。これが暴力的で私立探偵を憎むことが甚だしい。なぐる、ける、でっちあげ、なんでも理由なしにやっていいと考えている。「在」という言葉は分かるかな。もう死語かな。大都市と田舎の中間地域のことで、百姓といえども、都会的な嫌らしさ、こすからしさだけは持っている。具体的な例を挙げると差し障りがあるが、「都下**市」と今では呼ばれるところだ。今では都下というのも死語かな。弱ったな、現代日本語は恐ろしく表現力が衰弱したな。

チャンドラーの作品では「ベイ・シティー」だ。この都市は勿論架空だと思うが、ロスから車でちょいとでたところだ。チャンドラーの作品ではもっともよく出てくる地帯である。

第三は山奥の駐在だ。チャンドラーは純朴に描いている。もっともこの手の巡査は湖中の女だけにしか出てこないようだ。マーロウに非常に友好的、協力的に描かれている。

第四といえるかどうか、留置場の警官はわりと普通の人間として描かれている。ロンググッドバイとか湖中の女にも出てくるが。

湖中の女も読んで行くとベイシティーの刑事警官が出てくる。パトカーで停車を命じて、酔っぱらい運転という罪状をでっち上げるために無理矢理マーロウにウイスキーを飲ませて腹を殴る。吐き出したアルコールで背広が汚れると立派な酔っぱらい運転の証拠になる。日本でもやっているのかな、そこまではしていないだろう。このようにチャンドラーの小説では『在』のお巡りはえがかれているのである。 

以上は極おおざっぱに分類した訳で「大体のところ」ぐらいに考えて欲しい。

 

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「湖中の女」がいまいちな理由

2015-04-29 06:49:09 | チャンドラー

いつもの癖でチャンドラーを読み返し始めたら一通り全部読んでみようと、湖中の女を三分の一ほど読んでいる。 

どうもいまいち,読書に興がのってこない。何故だろうかと考えた。主人公、依頼者のキャラのせいらしい。この作品の依頼者は日本の週刊誌風の表現でいえば「ビジネスマン」である。といっても日本ではビジネスマンと言えばひらの勤め人(サラリーマン)まで指すが、湖中の女の主人公キングズリーは化粧品会社の支店長だか、部長だか、傭われ重役といった感じなのである。

チャンドラーは彼の肩書きを書いていないが、そんなところらしい。これが彼の主人公らしくない。調子はずれのユニークさがない。こういう階層の連中で桁外れ、調子外れの人間というのはアメリカ社会でもいない。

チャンドラー節もそのせいかどうか、あまり響かない。チャンドラーの作品で繰り返される通奏低音は警察との張り合い(縄張り争い)だが、湖中の女は彼の長編で唯一警官と終止友好的な作品である。これが彼の作品に緊張感を生み出せない理由かも知れない。

もっとも、この作品の警官は山の中の駐在所の純朴な巡査で、ロスのすれっからしのデカとは違う。むしろ巡査の方がひとしきりマーロウの推理、調査方法に感心してしまうのであるが。

 もう一つ、チャンドラーの作品では始まってすぐに印象的な(魅力的とはいわないが)ヤクザ、悪漢が出てくるが、それがない。そのへんも作品にメリハリがつかない理由かも知れない。

訂正(?):

依頼者のキングズリーについて早川文庫の「登場人物」には化粧品会社の社長とあるね。本文に書いてあったかな。書いてあるとすれば最初のほうになければいけないのだが、気が付かなかった。感じとしては「ボス」という印象だが、せいぜい支店長のように読めたがな。あるいは映画化されたときに「社長」になっていたのか。

彼のオフィスに創業者の写真があると書いてあるが、氏名は違っていたと記憶する。とすると、創業者の婿養子に成り上がった男という設定かな。いずれにせよチャンドラー・キャラではない。

追記:ぼちぼちチャンドラーの短編を再読しているのだが、短編にもおなじタイトルの作品がある。当然長編の下敷きになった短編だが、そこでは依頼者は「化粧品会社の支店長」になっている。これなら長編のキャストとしてもぴったりなんだが、早川文庫の「登場人物」リストで化粧品会社社長となっているのは、そうすると、益々わけが分からない。どこから持って来たのかな。

 

 

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大衆的ではないチャンドラー

2015-04-28 09:26:07 | チャンドラー

ヤフーの知恵袋の質問だったと思うが、チャンドラーを読もうと思って村上春樹訳の「大いなる眠り」を買ったが、よく分からない、どういう風に読めばいいのか教えて欲しい、という質問があった。

意外な気がしたが、よく考えてみればこの質問者は極めてまともな、かつ平均的な読者だろう。チャンドラーは大衆的なベストセラー作家ではない。高踏的という部分も有る。スジを端折るという点ではイメージ、行間の余韻を多用する詩的な部分も有る。チャンドラーは若い頃(イギリス時代)は詩作を試みている。

 どういう反応(解答)が知恵袋であったかは忘れたが、私ならまず「ロング・グッドバイ」を薦める。「大いなる眠り」はひとまず脇に置いておく。「ロング・グッドバイ」は彼の一番平易な作品である。かつ代表作とみなされている。そして、色々な評価(私だけだったりして)はあるものの、名作である。

次に分かりやすさの点で言えば「さよなら、愛しい人(村上訳邦題)」であろう。あと難易度を付けるのは難しいが、プレイバック、高い窓、湖中の女であろうか。一番読者を混乱させる(スジに限ってだが)のは「リトル・シスター」だろう。スジを追うのがミステリーの読み方だとするならばリトル・シスターが一番「破綻をきたしている」。

ただ、村上春樹氏があとがきで書いている様にこの中で出てくるオマフェイ・クエストというカマトト娘の描写だけでも読む価値は大きい。ただ村上氏はオマフェイの描写は最後まですばらしいというが、私の印象では読む価値が有るのは中盤までで、実は彼女が犯人の主役のひとりだと持って行く当たりは、スジの展開の是非はともかくとして、人物描写としては無味乾燥になっていく。

ハードボイルドの定石の一つは(その後のハードボイルド亜流ではそうでもないが)、チャンドラー、ハメット、スピレーンあたりでは無害に見える美女が実は犯人というのがハードボイルドの定石である。ロンググッドバイのアイリーンを観よ。大いなる眠りのカーメンを観よ、高い窓のマードック夫人を観よ、さよなら愛しい人のヴェルマを見よ。

 ハメットのマルタの鷹のオーショネシーをみよ。スピレーンの裁くのは俺だを見よ(名前は忘れた)。

 

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チャンドラーのヒント回収三様

2015-04-27 07:34:06 | チャンドラー

日本のミステリー評論業界では「伏線の回収」なんて言う。いかにもセンスのない表現だ。彼らの語彙の貧弱さ、言語能力の乏しさ、そしてピント外れの意見にはいつも驚かされる(てなことを申しましてな,相済みません。評論家諸氏殿)。

前回もちょっと触れたと思うが村上春樹氏がどこかで言っていたが「チャンドラーは伏線が投げ出されたままになっていることがある。後でフォローがない」と書いていた。

たしかにそう言う所も有るようだ。しかし、今回またゴドクしていて、意外に律儀に「回収」しているところもある。チャンドラーの場合、なにしろ文章が印象的だから、ヒント部分の印象のほうが強くて、さらりとフォローが書いてある(そういうことがチャンドラーの場合結構有る)ので見逃してしまったと、再読して気が付いたりする。

並のミステリー作家は、あるいはその分身である探偵は「回収部分」にさしかかると、「どうだ!」と見栄を切る様に力むから読者もぎょっとしたり、感心したりするあんばいになる。 

チャンドラーの場合;

1:読者が容易に気が付くフォロー

2:読者にヒントの文章の与える印象が強くてフォローを見逃す場合

3:作者がフォローを忘れる場合

4:作者がフォローを必要と考えない場合、つまり意識的にフォローしない場合;

などがあるようだ。

4:についてだが、「リアリズム」の観点から言えば、調査の過程で十とおり考えるうちで本当のヒントは一くらいの割合だろうから、4:の場合はもっと有っても言い訳だ、一般論としては。

 


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チャンドラー「大いなる眠り」ゴドク

2015-04-23 20:20:32 | チャンドラー

ユングの言う様にハイデガーがサイコパスだとすると、無理して理解しようとして読むとこっちがサイコパスになるかも知れない。というのは冗談ですが、どうもダーザイン分析で内容も平板になったわりには、いきなり前置きもなしに「世界内存在」だとか「気配り」(気づかい、だったかな)とかが、錦の御旗というか黄門様の印籠のように振りかざされるのでこのシリーズもひとまず終わります。また、ネタ切れになれば続きをするかもしれませんが。

そこで、種切れのときはチャンドラーというわけで「大いなる眠り」です。創元社文庫、村上春樹訳、原文と何回も読みましたが、「読む物がなくなったときはチャンドラー」という訳です。前に集中的にチャンドラーを取り上げましたが、大分前になります。続けざまに読む気にはなりませんが、何年か経つと読む気になるのが気に入った「名作」というものでしょう。 

再三読んだというのを、五回で代表させた訳です。五読というのは、だから、正確に五回目というのではなくて、今までに何回も読んだが又、という意味です。

今回初めて感じたのは、プロットが甘いという評判のチャンドラーですが、「大いなる眠り」は重苦しいほど構成が緊密で凝縮されているということです。チャンドラーはその名文で、プロットを読んだり、伏線を発見したりする「一般的」ミステリー読者のような読み方をしないでも、言い換えれば流して読んでも、その文章力で楽しませてくれるということがあります。

訳者の村上春樹のあとがきも大いに読み応えがありますが、この辺はすこし見解が違います。もっとも、例えば後期の「ロング・グッドバイ」などはややこしい伏線はほとんどありません。川の水のようにさらさらと流れる話ですが、それでも勿論おおいに読ませる訳です。それと何だったっけ、「リトル・シスター」だったかな、スジもめためたなものもあります。

わたしもこれまで気づかなかった様に、『大いなる眠り』も蜘蛛の巣の様に絡み合った叙述をほどいて行かなくても楽しめる訳だし、これだけ複雑なwebを一般的読者に一読して直ちに理解させる様に書くことは無理でしょう。それは作者には分かっていても、こりにこったのでしょう。処女長編というので、その辺もまじめにやったのかもしれません。その後は「無駄」な努力はしなくなったのでしょう。

五読目ともなると、こういう楽しみ方もあるのかな、というわけです。どこがどうと、書いてしまっては、この業界の人が言う様にネタバレになるんでしょう。遠慮しておきましょう。

村上春樹氏があとがきで書いていますが、「大いなる眠り」はルモンド誌の世界の名著100冊に選ばれ、またタイムの百冊のすぐれた小説にも選ばれたというが、ロンググッドバイはどうなんだろう。日本ではどうやらロンググッドバイが一番の代表作ということになっているが、欧米では二作品の評価はどうなのかな。

おなじあとがきにあるが、作者は「3ヶ月という驚異的スピードで書き上げた」というが、上に述べた複雑な構成の決定まで含めて三ヶ月で仕上げたのなら驚異的である。文章的な観点からは300頁(ハヤカワ)、原文では200頁弱だろうが、このくらいのスピードは驚異的とも言えないのではないか。文章という物は「ノリ」という側面が有るから、このくらいなら「叉手の間」というのも不自然ではないような気がするが。

 

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「ハイデガーはサイコパスである」ユング

2015-04-14 20:59:30 | ハイデッガー

1時間半ほどお時間をいただけるでしょうか。wave出版「90分でわかるハイデガー」ポール・ストラザーン著、浅見昇吾訳という本があります。 

そのなかでユングの言葉が引用されています。「複雑な凡庸さの巨人・・・ハイデガーの哲学の方法は徹頭徹尾ノイローゼ的で、突き詰めれば気難しさと心の不安定さから出て来たものだ。彼と気のあう友人がいるとすれば、親しい友人であれ、それほど親しくない友人であれ、精神病院にいるだろう。患者としてかもしれないし、哲学的に暴れ回っている精神科医としてかもしれない・・・」

すこし安心しましたね。分からないのは頭の悪いせいだけじゃないらしい。専門家がこれほど思い切ったことを言っているんですね。出典は『ユング書簡集』というのらしい。翻訳が適切かどうか判断出来ませんが、それほどややこしい文章ではないし、問題はないでしょう。

彼の言う「存在」については前に分析しましたが、宗教の世界で言う神、絶対者、彼岸に酷似しています。したがってハイデガーの思想というのは哲学というよりかは宗教といったほうがいい、というのが私の意見です。

そうすると、一部の人たちからはサイコパスのように見られるところがあるのも分かります。私はそれも、宗教家というよりか、霊能者というカテゴリーに入るのではないかと思います。「そのつど」アリストテレスが憑いたり、「そのつど」パルメニデスが憑いたり「そのつど」お稲荷さんの狐が憑いたりする。

この「そのつど」がとにかくなんにでも付くんですね。ハイデガーの文章は。異様です。いま現存在分析のトバ口を読んでいますが、「そのつど私のものなのである」とか、「そのつど可能な存在する様式であり」という具合に何にでもつく。 

何なのでしょうね。時間により変化する私と言う存在者の存在つまり現存在の有時性へと引っ張って行きたいのかもしれません。

誰の哲学でも、哲学は大体総論が面白くても各論(或は具体論あるいは詳論)に入るととたんに質が落ちてつまらなくなる。哲学の内容は全く違いますがヘーゲルなんかでも、そうですね。「存在と時間」も各論「現存在分析」に入って艶が無くなった。

 

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水と油の予感、存在と時間の第一部を読む

2015-04-12 09:40:43 | ハイデッガー

これまで序論の論述について述べたが、いよいよ第一部を読み始めた。第一部は段落124から始まる。ざっと段落165あたりまで目を通した。序論でたからかに謳い上げた「存在への問い」を整え仕上げる作業の着手点として「現存在分析」に入ったわけである。 

具体論に入っていきなり細かくなったという印象である。たしかに一部(世界の大部分の哲学者、例えばサルトルのようなフランスの哲学者達)が抵抗し難い魅力を感じたことがわかる面もあり、面白いとは言える。

至る所で「存在論的に」議論しない形而上学の歴史を攻撃するところなど威勢がいい。たしかにこの調子で形而上学の歴史の「在庫」を各個撃破していくのだろう。

すこし読んだだけだが、これで「存在への問い」の完成へ結びつくのかな、という疑念をおぼえた。ますます収斂しがたくなっていく記述のような気がする。実際「存在と時間」は「現存在分析」すら未完のまま中断されている。その後の彼の著作で哲学として、体系として「存在への問い」への解答は出ていないようだし。

未完部分を含めて計画目次が段落123に示されている。その未完の第二部に「有事性の問題系の前段階としての、カントの図式論と時間論」というのがある。これによって推測するに彼は1925年に書いた「カントと形而上学の問題」を全面的に書改めるつもりだったようだ。それもうまくいかなかったということだろう。

 

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「存在」を問うのは祈りか呪文か

2015-04-11 08:01:44 | ハイデッガー

ハイデガーは「俺が初めて(彼の言葉に従えば、古代ギリシャ以来初めて、すなわち元初二回目)、存在を問うたのである。形而上学のすべての在庫を破棄する」とうたいあげる。

何が何でも俺がオリジナルだということだが、本当にそんな独創性があるのだろうか。言葉の目くらましは万華鏡の様にばらまかれるが本当に独創的なのか。

これまで読んだところによって判断すると、彼はきわめて従来的な枠組みの中で理論を構築している。たしかに言葉はあたらしい。造語のオンパレードである。 

彼の哲学の類似性はキリスト教神学とのあいだに強い。もとイエズス会修道士希望者(注)なら当然かも知れない。以下に枠組み対応表を作成してみた。A:とあるのは西欧哲学ないしキリスト教神学など(含む異端魔道)の思想である。B:と有るのはハイデガーの哲学である。

1:彼岸と此岸

A:神、天界、霊界、彼岸、イデアの世界

B:存在

 

2:祈り

A:祈り、祈祷、呪文(魔道)

B:絶えること無く反復される存在への問い(朝昼晩何回となく勤行で称えられる祈祷、読経のようなものだ)

 

3:チャンネル

A:原則として彼岸からの一方通行(ダウンロード・オンリー。ただし魔道魔術においては呪文や儀式により下界から操作可能)

宗教、宗派によって色々に呼ばれる、啓示、さとり、回心

B:上に同じ。用語としては開示、あらわれ、不伏蔵などいろいろ造語がある。

 

4:コミュニケーションの規則性

A:なし 恩寵によって与えられる

B:なし 全くの偶然、或は存在の恣意による。だから問いを絶やさずに身構えていなければならないわけである。

 

5:コミュニケーション言語による伝達可能性

A:なし、というのが一般的である。禅:不立文字 聖書:喩えによらでは答え給わず

B:なし、段落115:

「存在者を存在においてとらえることは、・・・・たいていはことばがかけているばかりでなく、『文法』が欠落している。」

 

ほかにも色々と項目はあるだろうが、ハイデガーは従来型の宗教的思考の枠組みのなかにあると結論せざるを得ない。

 

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ハイデガーは何回「存在」を看たか?存在と時間を読む-9

2015-04-09 09:07:46 | ハイデッガー

第七節C 現象学の予備的概念:

この節にはハイデガーには珍しく、気の利いた文章がある。比較的整理された文章である。

(109) 『存在は』隠されている、埋もれている、あるいは偽装されていることがある、云々 

(112) それゆえ、発掘を目ざすにはまず、存在者自身を正しく提出することが必要である。

(113) 事象からすれば、現象学とは存在者の存在の学—つまり存在論である。

注:これは(103)の:「現象学」は研究の対象を名指すものではない(つまり方法論である)と矛盾する。

(113)同段落では現象学は解釈学であるとの言明が複数回繰り返されているが、解釈学とはなにか説明なし。範例的な現存在(ニーチェなど)の残したテクストを解釈するということかな。

(114) 存在の一般性は類より高い所にもとめられなければならない。(うまく逃げたな・・・つまり存在者を扱う普遍、類、種概念とは範疇が違う、だからもっとも一般的な概念である、と主張する、存在概念を修飾してもなんら影響は無いということなのだろう。)

だから、「存在とは端的に超越概念なのである(きまった)。

きめは段落117である。

(117) 以下の分析の中でもちいられる表現のぎこちなさと「つたなさ」については、つぎの注記をくわてもよいだろう。つまり・・

以下長くなるから引用でなく要約して示すと

「存在」を捉えること(あるいは体験すること)と「存在」を物語ることは別である。「存在」を物語る言葉は無いばかりでなく文法もないのである。それを文章で表現しようとするから、私ハイデガーの文章の表現はつたなくぎこちなくなるのである。了解されたし、読者殿:となる。

ちなみに、これを禅の言葉で表現すると不立文字(フリュウモンジ)という。言葉では伝達し得ない真理ということである。キリストの弟子の言葉でいえば「師は喩えならでは何事も語り給わず」となる。そしてキリストは、聖書の記述を読めば喩えの超天才であった。 

この節は、H氏には珍しく明晰な文章がおおく、彼自身もそれを自覚した余裕からであろうか、上述の「おわび」が出たと思われる。

 

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 追いつめられて?「存在と時間」を読む-8

2015-04-08 07:25:10 | ハイデッガー

第七節 「探求の現象学的方法」を十頁ほど読んだ。読んだ、というのが正確な表現なのか。読んだ=理解した(同意した)、というなら視線をすべらせた、というのが正確かも知れない。 

まさにjargon(たわごと)の見本のような文章である。上品な読み手なら本能的な嫌悪感を覚えるところである(言い過ぎたね)。jargonには仲間内の用語つまり隠語という語釈もある。仲間内では十分に通用するのだろう。

これが現代哲学の二大潮流というのだとか。あと一つはなにかな。現象学という言葉を使った人は前からいるようだが、『売り』にしだしたのはフッサールからハイデガーそしてその追随者ということらしい。

19世紀の末には、科学の勃興に押されて哲学は影が薄くなった。それにつれて論理実証主義とか分析哲学が芽を吹き出した。大変だというので紙と鉛筆で出来る「哲学」を必死になって模索したわけだ。

特に脅威を感じたのは、認識論の生物学主義、心理主義であったらしい。哲学が諸学の王であるためには、紙(原稿と本)と鉛筆でも研究出来る基礎理論が欲しい。心情としてはわかる。 

前にも書いたが、確かに「科学哲学」には創造的なところはない。ウィトゲンシュタインがある著書の末尾に書いている様に、「種々語ったが結局何も語っていない」。そうだろう、分析的命題の分析に終始すれば、それは文章の推敲(明晰化)しかできない。新しい成果は総合命題でしか得られないのだから。 

中世、哲学は神学のハシタメだと言われた。現代の分析哲学、科学哲学は科学の端女(はしため)にすぎない(注)。科学の成果の整理分類は出来ても科学を先導することはできない。お手伝いさんなのである、ヘルプなのである。

注:20世紀の後半から分析哲学とスコラ哲学の類似性が研究されだしたのもその証左だろう。

フッサールやハイデガーがハシタメじゃ嫌だというのは分かる。しかしjargonに逃げ込むのは感心しない。

何回か前の記事にハイデガーは注釈書ではなくて、原文(翻訳でも可)で読むべきだと書いた。分かりやすいと書いた。上述と違うじゃないかと言われるかも知れないので補足しておく。

解説書とか注釈書というのは弟子、孫弟子、押し掛け弟子が書く。「師匠」という商品を売るためには商品を魅力的にパッケージしなければならない。また、当然のことながら師匠を賛美する。そのためには、出来るだけ分かりやすく、反感を持たれない様に、師匠の顔をお化粧をする。

つまり、師匠の素顔は見えなくなるのである。このような意味で原文を読むことを薦めている。師匠の素顔がわかるからである。

 

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「存在と時間」を読む-7-存在への問いは知的な問いなのか

2015-04-07 08:54:42 | ハイデッガー

段落68; 「有事性の次元に向う方向へと探求のみちゆきを一歩だけすすめた、あるいは現象自身に強制されてその方向へと押しやられた、最初の、そして唯一の者はカントである。」

同段落訳注2; 「ここで予示されている方向で、カント『純粋理性批判』を解釈しようとした著作が『カントと形而上学の問題(1929年)』である。

ハイデガーの「1953年第七版へのまえがき」;

「存在の問いへの解明に付いては、この新版と同時におなじ書肆から刊行される『形而上学入門』が参照されるべきである」

 

さて、H氏が前書きで併読を指示しているのは自著「形而上学入門」だけである。「カントと形而上学の問題」には一言もふれていない。もっとも、上述引用から分かる様にこの分野でカントの成果は無いと言っている。

誤解のないようにいうと、カントの時間論は感性の直感形式についてであって、いうなれば認識論の鳥羽口というか入り口である。存在論で時間を論じている訳ではなく、ハイデガーの評価も妙である。

訳者の言う様に、「カントと形而上学の問題」と「存在と時間」を関連付けるのは哲学教師や哲学徒におおい意見の様に見受けられるが本当だろうか。勿論私は読んでいないのだが、読む前に評価選択するのは重要なことで、読書思考の経済のために避けて通れない。何時も言う様に「読む前書評」が大切なゆえんである。

そこでハイデガーが前書きで「カントと形而上学」の併読を指示しなかった理由を忖度すると、次のような場合が考えられる。

1:単純に書くのを忘れた。

2:あんまり、自著を色々読ませて読者に負担をかけるのを避けるために省いた。

3:1927年、1929年に書いてはみたものの、その後、存在論に時間を持ち込む観点からはカントの業績は参考にならないと気が付いた。

ちなみに、簡単な書誌をしるすと;

1927年 「存在と時間」刊行

1929年 「カントと形而上学の問題」

1935年 「形而上入門」講義

1953年 「存在と時間」第七版刊行

同年    「形而上学入門」刊行

これから先を読みますが、カントの感性論をいくら読んでも参考にはならなかったのではないかな。

 

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「存在と時間」を読む-6-伝承を破壊する意義 ?

2015-04-06 08:43:51 | ハイデッガー

タイトルに入る前に気になることを一つ。いずれも熊野訳ですが、原語も同様或は類似の言葉でしょうから、疑問をかえる必要はないでしょう。 

やたらと、「平均的」と言う言葉が出てくる。算術用語なんでしょうが、たとえば「平均的存在了解」なんて(段落21)ある。ほかにも沢山有る。ありふれたという意味なんでしょうか。非常に違和感があります。

さて、第六節「存在論の歴史の破壊と言う課題」。存在への適切な問いをさぐるのに「・・歴史の破壊」は必要なのでしょうか。どうしてそんな迂回路をとるのか。ずばり本題に入ればいいじゃないですか。

地震(大雪洪水でもいいが)で山中に孤立した村が有る。救出しようにも道路が使えない。こういうときは途中の道路を復旧し、通行を妨げている岩とか土砂を破壊して進まなければならない。そういうことなのでしょうか。どうも事情が違うようだ。直裁に問題にぶつかったらどうなのです。

そしてこの節で名前が挙げられているのは、デカルトとカントぐらいで哲学史の講釈にもなっていない。大げさなタイトルで期待していたのですが。

(59)「現存在の存在は、その意味を時間性のうちに見いだす」

時間ということばはここが初出だと思いました。大いに期待したのですが、「その意味を時間性のうちに見いだす」論証は続いていませんでした。読飛ばせば良いということなのか。

さて、第七節「探求の現象学的方法」。多分現象学とは何か、がわかるでしょう。世に「現象学」なる修飾句を付けた文章は腐るほどあるが、ほとんどこの修飾句を付ける必要がないのではないか、と常々感じております。これから読みますが多いに期待しております。

 

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「存在と時間」の読み方-5

2015-04-05 07:27:36 | ハイデッガー

毎朝お騒がせしています。突然ですが、小保方晴子さんはハイデッゲル教授の研究室に入っていればあんなことにならなかったでしょう。

思い込みの強さで86年間も、死後も長い間思想界に大魔王として君臨出来る世界が哲学界です。

さて「問い」を練り上げきれなかったハイデガーでありますが、考えてみると、問いを練り上げるということはますます解答から遠くなるわけです。ジレンマですね。 

「存在への問いについては答えがかけているばかりか、問いそれ自身があいまいで方向を失っていることである。存在の問い(存在への問い、と、存在の問い、はどう違うのか>訳者殿)を反復することが意味するのは、したがって、まず第一に問題設定を十分に仕上げるということなのだ。」(第一節 段落10)

第一に、とありますが、書かれていない第二がありますか。こういう表現にフト、ウィトゲンシュタインを思い出しました。表面的には似ている。設問を有意味に措定しなければ答えがでるわけがないというのがWSの売りですからね。

また、段落64にはこうある。「存在の意味への問い(存在への問い、あるいは存在の問い;この三つの問いは同じもものですか>訳者殿)は解決されていないだけでなく、十分に設定されてもおらず云々」

之によって此れを観るにハイデガーは正しい問い方をすれば存在の問題は簡単に解けると信じ込んでいる。それにしては、終生正しい問い方が分からなかったということでしょう。

問いを十分に設定するということは、縷々エラボレイトする、詳細にする、あるいは具体的にする、と同じことと理解しましたが、「存在への問い」は究極の問いであり、質問を修飾し、細かく規定し、あるいは限定することは究極の、そして根底的で普遍的な問題により具体的な回答を求めることになり、とても適切な通路とは言えないのでは有りませんか。

 

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「存在と時間」の読み方-4

2015-04-04 09:14:34 | ハイデッガー

該書の目次は章、節となっていますが、節は章に関係なく、章にまたがってシリアルになっているので本稿で言及する場合は節で示します。また各段落に番号をふってあり、これも章、節に関係なくシリアルになっていますので、段落に言及する場合は(111)のごとく示します。

さて、第一節のタイトルに「存在への問いを明示的に反復することの必要性」とある。これをみると、著者は最初から答えはないことを承知している節(フシ、だぶりましたね)がある。

気になるのは「反復することの」と「必要性」です。すこし異様なタイトル付けではありませんか。毎朝、歯を磨きなさい、というような意味で「反復することの必要性」があるのか。毎朝歯を磨いてもなにも変わらない。虫歯にならなくなるだけです。

毎日、机を整頓して哲学書を開き、あるいは原稿用紙を広げ、あるいは哲学的思考に入る前に儀式の様に「存在への問い」を行うとご利益があるということなのか。

このタイトルをみると、この節には「必要性」が説明してあるかと思う。実際には歴史上、「存在への問い」が等関に付され、忘却された理由がハイデガーの分析として述べられているだけです。「必要性」は説かれていない。

なお、「存在への問い」が無視され、忘却された理由は、H氏(ハイデガー、以下H)によると、三つある。1)存在という言葉が普遍的な概念であり、2)定義不能である(これは普遍的な概念であれば定義不能なのは当たり前で2:として析出する理由はありません)、3)存在は自明な概念である。というものです。

まことにもっともな説明でHがどこかでショウペンハウアーの根拠率の説明を学部レベルの学生の議論だとあざけっていた例にならうと、学部レベルの議論です。

そして記述はここで終わります。どこに「必要性」の説明がありますか。これは序論の冒頭の文章です。もうすこし丁寧にやってほしかった。

なお、第一節のおわり、段落9、10で曖昧な表現があるが、訳者の注解によると、>だから、「存在への問い」の問い方をリファインする必要がある<と言いたかったと読める。それならそうと、はっきりと主題を書くべきではなかったか。

なにも歯磨きの様に「毎朝、毎食後にしなければならない、答えはでないけど」などと書く必要は無い。問い方をきちんとすれば答えは出ますよ、と言えば良いのである。

もっとも、この「存在と時間」の無慮数千ページおよぶ記述は「問い」をリファインしようとして、ああでもない、こうでもない、とやっているうちに尻切れとんぼに終わっているのかも知れない。

 

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「存在と時間」の読み方-3

2015-04-03 18:23:08 | ハイデッガー

本文で読むことにしました。岩波文庫全四冊です。結構な出費になりますが、とりあえず「第一分冊」を購入しました。私の選択基準は一にも二にも目に優しい本作りということなんですが、文庫ないし新書で手に入るのは中央クラシックと岩波文庫のようです。で私の選択基準で岩波を選んだ訳です 

前に哲学書で解説書を読むよりいきなり現物を読む方がいいものがある(わかりやすい)、と書いたことがありますが、「存在と時間」はその部類に入るようです。カントなんかもそうですね。一方解説書がないとどうもというのの代表格がヘーゲルでしょう。しかし、適切な解説書という条件がつきます。そうしてこの条件がなかなか満たされない。読書運というものも有るんでしょうね。

岩波の翻訳は熊野純彦さんですが、妙な物でこの人が「梗概」というのを書いている翻訳はいいが、梗概はあまり良くない。読まなくても良い、というか読まない方が時間と思惟の節約になります。同じ人なのに妙な物です。 

で、まだ本文を30ページほどしか読んでいませんが、冒頭で書いたような印象を持ちました。分かる所も有り、僭越ながら同意しかねる部分も早くも出て来ています。ということは書いてあることが分かるということです。何をいっているかさっぱり分からないというのでは批判も出来ませんのでね。

つまらないことばかりかり書きますが、ハイデガーの良い所は序が短い所です。もっとも序といっても凡例みたいなのが多い。63ページに「1953年 第七版へのまえがき」というハイデガーの文章がある。わずか1ページです。それによると、「存在と時間」は1935年に行われた講義録「形而上学入門」と一緒に読めとある。私はたまたま最初にこの『形而上学入門』を読んだので、このハイデガーの指示はよく分かる。もっとも、「存在と時間」はまだ30ページしか読んでいないが、1927年から1935年までの間に著者の思想に画期的な進展があったとは認められない。あくまでも補足ということでしょう。

それと、翻訳について、「たほう」というのが頻出する。これは「他方」のことのようだが、仮名にする意味がよく分からない。非常に分かりにくく、リズムが途切れ違和感がある。まあ、センスの問題かも知れない。

つづく

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