穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹文学はレビュー

2016-01-27 23:03:23 | 村上春樹

否定の否定ではない村上春樹の肯定 

だれかプロの批評家が主義者文学が終焉に向っていた7、80年代に否定性を否定したのが村上春樹だというようなことを言っていたような記憶がある。

否定の否定は肯定だが、それは強くはない。あえて言えば現状肯定ということだろう。そういう捉え方はたぶんに問題がある。ようするにそれが彼を照射する観点ではない。

彼が才人であることは間違いないが、彼の小説はレビューなのだ。カタカナで書くとこの言葉は二つの全く異なった意味がある。book reviewのレビューと軽演劇のrevueである。言うまでもなくここでいうレビューとは後者である。バラエティーの別名である。

大抵の評者は村上の小説は喪失の文学であると言う。これもどうかな、と思う。確かに彼の小説では登場人物が失踪、行方不明、病死、自殺、精神を病むなどが多く出てくる。しかし、なんら深刻な問題を提起していない。簡単に言えばそれらは物語の舞台を暗転させるギミックなのである。 

喪失の世代がどうのこうのと深刻に論ずべき問題ではない。

彼の小説には物わかりの良い(包容力のある、と女性は表現するらしい)フリーターのような若い男とちょっとおかしな女性が出てくるがさしたる深刻なフリクションも起きない。おとこが変に物わかりが良すぎるのだ。

最初に述べた否定とか肯定ということだが、彼の小説には悪人が出てこない。強烈な否定性を示す人物もいない。そのかれが否定(理不尽な)の固まりみたいなサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に入れこむのはちょっとアンマッチの興味がある。自分にないところに惹かれるのかな。

村上の本質は講釈師の機能に似ていると言ったら笑われるだろうか。むかし寄席に講釈、あるいは落し話を聞きに行った江戸庶民は語りの面白さ、心地よさを求めていた。講談にしろ、落語にしろ内容や結末は観客にとってはすべて先刻ご案内のところである。繰り返し寄席に通うのは語りの過程が心地よく響くからである。結末を聞きに行くのではない。

寄席芸人は大変なテクニシアンである。くすぐりやである。村上春樹の小説を「楽しむ」読者は叙述の、描写の「過程」を楽しむのではなかろうか。そのうえ、ノーベル賞がもらえれば言うことはない。

 


毒婦を描かない村上春樹の小説

2016-01-22 08:56:31 | 村上春樹

ふと気が付いたんだが、村上春樹の小説で女性の主要な登場人物は皆と言っていいほど(というのは彼の小説の全部を読んだ訳ではないので)サイコなんだね。そしてそれが独特の味を出していてうまい。

しかし、それらのサイコは強烈な個性を持っているようで何処かしら受動的なんだな。要するに「悪さ」をしない。そんな女を主役にしたら女性の読者はいなくなるだろうからね。ようするに意識してそうしているのだろうが、毒婦を村上は描かない。これも村上マーケッティングの要諦だろうね。

DDDにも雨と雪というサイコの母娘が登場します。


ロング・グッドバイに酷似するダンスダンスダンス

2016-01-21 19:10:37 | 村上春樹

といっても部分的なんだが、上巻の21章以降はチャンドラーのロング・グッドバイに酷似する。前回シャイニングに似ていると書いた。古い建物(いずれもホテルだ)自体の怨念が怪談話のタネになっていると言う点では全く同じである。

今度はLGB(ロンググッドバイ)との酷似。このDDDは数年前に遊んだ遊女キキにどうしても会わなければならないというボクの焦燥感(上巻終わりまで理由は示されず、おそらく最後まで示されないのだろう)が物語の推進エンジンとなっている。これをふまえないと以下の説明にならないので。

中学時代の同級生が映画スターになっていて、その映画にキキが五反田と共演している。それで五反田君(スター)に連絡して再会、コールガールで接待される。なぜなら五反田が呼んだのはキキの同僚なのである。そこで連絡のつかないキキのコンタクトが聞けるかも知れないと五反田が気をきかしてくれた。ところがその女たしかメイだったか、もキキの連絡先を知らない。そこでボクは自分の名刺を女に渡して、分かったら連絡してくれと頼む。

何日かして刑事が来て署で取り調べをボクが受ける。その女が絞殺されたのである。そして残された財布にボクの名刺があった。ボクは名刺を渡したいきさつを正直に話すと友人五反田に迷惑がかかる。彼女がコールガールだという素性が分かり、友人の映画スターがスキャンダルに晒されるから本当のことをいわない。それで3日あまり署に留め置かれてしぼられる。

このくだり、LGBで友人のテリーをメキシコに送り出したマーロウが刑事に暴行を受けても話さなかった所と酷似する。テリーは妻殺しの容疑をかけられていたからである。ここだけなら酷似してもよくある話ですむ。

ある弁護士が裏から手を回して釈放してくれる。これもLGBのプレスコット弁護士の役割と酷似。この弁護士を手配したのはボクとあるかかわりのある少女ユキの父親で有名な作家(社会的地位のある)である。このへんもLGBのアイデアだ。 

さて酷似はもっと続く。釈放された後彼女に連れられて父親に会う。父親はすこし問題のある(性格に異常のある)その少女を監督してくれという。警察に容疑者として尋問されたことを承知でマーロウをわざわざ指名して酒浸りでスランプの有名作家ウェイドの監視をしてくれというLGBに酷似する。それ以降どうなるか下巻を読んでいないから分からない。 

一点だけの酷似なら偶然である。しかし三つも本質的というか構造的に同じパターンが続くということは意識的であると無意識であるとに関わらず強い影響を受けている。

それが悪いというのではない。才人村上春樹らしくよく処理されている。もっともいくつか詰めの甘い所はあるが、それは構造的酷似の問題ではなく、派生的な部分の問題である。

欧米の評論家によると、DDDはドストの白痴に似ているそうだが、いまのところその点には出くわさない。下巻ででてくるのだろう。

 


村上春樹二題

2016-01-18 08:09:10 | 村上春樹

前回のアップはあまりといえばあまりに、お愛想がないので追加。

&1:

12日の記事「スプートニクの恋人」、読者評(あるいはプロの人かも知れないが)で、ネタバレがあるかも知れないようなことが書いてあったが、なにもなかったな。彼(彼女?)はミュウとヒロインの女性が実は母娘だったというのだが、そういうオチはなかった。もっとも、そう推測して書くことも出来そうな下地はあったけどね。そうするとこれは「オイデプス王」のレスビアン版になるので、才人村上春樹氏には挑戦して欲しかった所だ。

&2:

「ダンスダンスダンス」100頁あまり読んだ所で、これは村上版シャイニングかな、と思った。ホテルの16階が停電する当たりでね。怪談ばなしなんだが。どうもっていくつもりか。

だいぶ前に村上春樹とS.キングの比較をした記事を書いたが、キングは村上と同じく怪談話をテーマにするんだが、村上にはそれにファンタジーというかおとぎ話風な要素をミックスするんだな。

ダンス〃〃のこの辺りでキングを思い出したついでに両者を比較したんだが、登場人物の構成がまるで違う。キングは親子のペアが多い。母と娘(キャリー)、父と息子(ファイアースターターとかシャイニングもそうだ)なのに対して、村上はいつまでたっても、若いフリーターみたいな男と後腐れのない男を求めているアラサー見当の女というマンネリズムだ。男の役割は物わかりの良い(女性に取っては都合のいい*)いわば電動こけしのようなものである。

 *別の表現をすれば紳士的で物わかりの良いということ。奇麗な言葉で言えば、女性に優しいとでもいうか。そしてここに村上作品のマーケティング成功の鍵がある。

別に悪いとは言わない。それが書きやすければそのバリエイションでどんどん書けば良い。

村上作品を耽読する女性は電動こけしがわりにしているって。そこまでは言わない。

 

 


スプートニクの恋人

2016-01-12 08:11:49 | 村上春樹

この本、わりと聞くことが多いので読んでいる(現ポジション201頁)。

これはノルウェイの森の習作かと思った。ところがどっこい、アンチョコによるとノルウェイの森の方が10年以上も前らしい。

習作と思った理由はシチュエイションが似ていること、叙述がノルウェイの森より劣ることである。

へえ、と思ってインターネットに投網を投げ込んだ。あまりヒット数はないが読者評がいくつかある。「ネタバレ(くたばれ)」なんだそうだが、大分ひねりがあるそうだ。とするとシチュエイションは酷似していても別の趣向ということかな。

少なくとも200頁まででは分からない。


やれやれ

2016-01-07 08:07:45 | 村上春樹

また、チャンドラーのロンググッドバイを拾い読みしている、村上春樹訳で。お得意の『やれやれ』がよく出てくる。一体英語でなんと言うのだろうか、とチェックして見ると、原文では色々ないいかたなんだね、phooneyとかgoshとか。

春樹さんは『やれやれ』が好きらしい。ある時あるところで(というのが重要なんだが)、かれがもっとも影響を受けたか、好き(正確な表現失念)な作家はドストエフスキー、フィッツジェラルド、チャンドラーだと言っていた(対談だとおもった)。

作風でドストを連想させる作品はない。もっとも換骨奪胎という言葉もあるが、それと気づくところはない。あるひとは彼の「ダンス、ダンス、ダンス」はドストの白痴に似ているというようだが、ダンスは未読なので分からない。

フィッツジェラルド(のグレート・ギャツビーなんだろうが)とも似ている所はないように感じる。村上の作品は読んでいない方が多いから或は中にはあるかもしれない。

さて、チャンドラーだが、村上の作品(とくに中期までの)は表面上というか文体というか、表現というか、チャンドラーを真似した所が眼につく(鼻につく)。これは読んでいてすぐに分かる所だ。句読点が(比喩的な意味ですよ)髭を剃った、シャワーに入った、簡単な料理を作った、皿を洗った、掃除をしたなどの独身男の家事作業であるところなど、そっくりだ(一例をあげると)。

また、比喩もチャンドラー風なのが多い。もっとも、チャンドラーの方が抑制が利いている。村上の中期の作品はひねりすぎていささか鼻につく長たらしい比喩が目立つ。

 


村上春樹の杖術(ジョイ・スティック術)

2016-01-03 08:16:36 | 村上春樹

村上春樹の子宮射撃術 

村上春樹は何故売れる ? というマーケティング上の命題でございますが、相変わらずこの問題にかかずらわっております(かかずらわる、っていいませんか。変換できないけど、まちがっているのかな)。広辞苑によりますと「かかずらう」とあります。意味はそれなんですが、語尾変化が間違っているのかも知れない。

かかずらう、と、関わる、をごっちゃにしているのかな。これは文体とはいえませんね。いや、変なところにかかずらって本題にまだ入れません。

村上春樹の小説はなぜ魔法の様に売れるのか。検討する価値のある問題です。彼の本は世界的に売れているわけですが、地域を分けて原因を考える必要がありそうです。

欧米と日本、これは同じ理由のように思われます。その理由は後述するとして、韓国、中国、香港、台湾などでの人気は欧米とは別の様に思われます。先進化が進んでいる地域で、経済成長がおわり、安定期に入った日本の、村上春樹が描く新しいライフスタイルと言うかファッションが彼らを引きつけるのではないでしょうか。彼らのモデルになっているのではないでしょうか。

事実、これらのアジア地域では村上春樹の小説の主人公の生活を真似ることが憧れになっているらしい。韓国には春樹世代という言葉まであるそうです。

欧米と日本は基本的に同じ理由ではないかと思われます。前から非常に気になっていることは彼の小説で重要な部分を占めるファンタジーというか、おとぎ話的なパートが占める意味です。それだけ取り出すと小学生の作文並ですが、リアルな語りのパートと平行している。たとえ話のようでもあり、寓話の様でもある。 

これが巧まずして(あるいは作者が計算しつくして)読者の子宮の奥底まで到達して激震を起こしている。どうもこの解釈が一番説得力があると考え始めました。

ところで彼のファンは女性が多いようですが、男性の読者も結構いるようです。男性にも子宮があるということを知っていますか。アニマという器官です。加齢とともに段々と退化していきますが、青少年時代にはかなりアクティブと言われています(ユングの所説参照)。

これから欧米の評論家の意見で手に入るものがあれば読んでみるつもりです。