穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

東陽経済研究所

2022-10-31 07:13:46 | 小説みたいなもの

  彼は今年の年賀状を探して只見大輔の年賀状を手に取った。大学時代の友人で卒業以来会ったことはないのだが、まめに毎年必ず年賀状をくれる相手だ。最初は年賀状を受け取ったあとで年が明けてからお礼の賀状を送っていたのだが、毎年必ず送ってくるので最近は暮れのうちに出す年賀状と一緒に賀状を交換している。
 彼の賀状には自宅の住所のほかに勤め先の名前と電話番号が印刷されている。彼の記憶では卒業後何回か勤め先が変わっていた。今年の年賀状には勤務先として東陽経済研究所が印刷してある。賀状の中の近況報告では経済関係のデータバンクでコンサルティングもしている会社らしい。
 どんな調査会社か詳しいことは分からないのだが、ひょっとしたら不動産取引のデータも扱っているのではないかと思ったので電話をしてみた。
只見は電話を受けてびっくりしたような声をだした。卒業以来会ったことは勿論、電話で話したことも今日が初めてなのでびっくりしたのだろう。驚いたような声で「珍しいな、どうしている?元気かい」と尋ね返してきた。
「うん、それがね、しばらく病気でぶらぶらしているんだ」というと心配そうに「どうしたんだい。大病なのか」
「いや、暑気あたりのひどい奴らしい。二、三日ひっくり返っていた」
「病名はなんだい」
「いや、医者には行っていない」
「どういうことだ」
「なんとなく治ってしまったんだ。その代わり心境の変化をきたしてね。会社をやめてぶらぶらしている」
へえ、と彼は驚いたように絶句した。
「実はね、ちょっと聞きたいことがあってね。今年の年賀状で経済関係の興信所みたいな仕事をしていると書いていただろう。それで聞いてみたいことがあってね」
「ふーん」と言って彼は沈黙した。意外におもったのだろう。しばらく沈黙した。
 不動産関係のデータでね、と彼は切り出した。「都内でいいのだが、木造の古い一軒家で周りをマンションに囲まれているようなところを探している」
 そんなところに住もうというのか、と怪訝そうに聞いた。
「いや、そうじゃないんだけど、ちょっと事情があってね」
「フーン」と彼は腑に落ちないような声をだした。
「なぜだい」
「それは言えない」
「おいおい、それでは雲をつかむような話じゃないか」と只見は呆れた様な声をだした。

 


安部公房「他人の顔」一応読了

2022-10-30 07:49:43 | 書評

 この本(新潮文庫)には大江健三郎の解説がある。大江は安部より一まわり若く、いつもつるんで歩いていたと誰がが評していたのを思い出したが、その解説のなかで安部の作品は再読を求めると書いている。たしかに、、、そうかな。
 しかし、あの文章を再読するのは勘弁してほしい。何しろアヴァンギャルドルドだから意地悪に分かりにくい悪文を書いている。安部公房の小説で一応最後まで読んだのは、前に書いた「燃え尽きた地図」に続き、二冊目だ。   

 アヴァンギャルド風味はこちらのほうが強い。再読は勘弁してほしいが、その代用として一気に読まないで(実際は読めないのだが)今日は二十ページ、十日後に三十ページというふうに読むと、やや再読的な効果があることが分かった。そんなわけでこの小説を読み終わるまでに一月かかった。
 これも大江が書いていることだが、安部の作品は演劇的だ。ケロイドのやけどを顔面にうけた*私と精巧な仮面を作って被る*俺と*妻のペルソナの三角関係だ。私は仮面をかぶって妻を別人として犯そうとする。妻はそれに乗ってきたが、最初から仮面は私と同じだということが分かっていたのよ、という話である。最初はとても演劇と言うか映像化できない話だと思ったが、このように整理すると芝居や映画になるかもしれない。
 腑分けすると、私がひそかに仮面を制作する場面、これが小説の半分以上を占める、とそれを被って予行演習をする場面、妻を他人として誘惑して犯すパート、そしてそれをノートに書いて妻に読ます場面。それに対して妻がそんなことは初めから分かっていたのよと興ざめな返事をする場面になる。これをノートに書いた告白文と言うスタイルで書く。
 大江は最初のパートは後半を理解するためには、読むのを疎かにしてはいけないという。評者はそうは思わない。後半だけで充分だ。前半の退屈な部分を読まないと、「鮮やかな後半の形而上学的どんでん返しのアクロバット」が分からないという大江の考え方には賛成できない。
 勿論前半は必要だが、それを別様に書くのは能力だろう。ま、ハロウィーン物語の一種かな。


ロケハン3

2022-10-28 08:36:30 | 小説みたいなもの

 テレビで月島の民家が派手に燃えてあがる映像を流している。二階建ての民家だという。周りにはすぐ近くにタワーマンションが建っている。すると東京のど真ん中にもこういう木造のしもた屋がタワーマンションと軒を接しているところが残っているのだ。月島が都心と言えるかどうかだが、銀座からだとタクシーで十分ぐらいで行けるところではないか。
 彼は江東区のような都心から離れた場所だけではなくて、都心のロケハンもしなければいけないと気が付いた。都心というか都心から一里以内のところにもロケハンを広げる必要を痛感した。そういえば、侵入者は男性とも限らない、と彼は先入観も考え直したほうがいいかもしれないと思った。ひょっとすると、女性かもしれない。俺には女難の相があるそうだからな、と独り言ちた。女性と言うと恨まれそうな相手は結構いるからな、と彼はうんざりしたようにため息をついた。
 まず、手近というと妙だが、昨年まで在籍していた会社の女性を当たってみようと書棚から再び職員名簿を取り出した。二、三年分を遡ったが「それらしい名前」にぶつからない。それに最近のことは名簿を見なくても、何か経緯とかもめごとがあった職員は覚えている。そこで彼は方針を変えて古いほうから見ることにした。入社一年目の名簿を開くとさすがに懐かしい名前が並んでいる。最初は女性の名前にはあまり注意しなかったが、今回は女子職員も見て行かなければならないと気が付いた。とにかく入社したばかりの頃は女性職員ばかりに目が行った。
 彼には女難の相がある、と喝破した女占い師がいた。海外出張の際、ニースのがけ下の洞窟のような小屋の中でその魔法使いのようにブクブク太ったジプシー女がタロットカードをめくりながら、貴方には女難の相があると言われたことを思い出した。彼にはそんな自覚も体験の記憶も無いのだが、あるいは無意識に女性に恨まれるようなことがあったのかもしれない。
 望月清美という名前が彼の視線をとらえた。しばらく眺めているうちに彼女からN響のチケットを貰ったことがあったことを思い出した。自分が行けなくなったからと二枚のチケットを渡されたのである。何気なく受け取ったが、結局そのコンサートにはいかなかった。彼は十年以上前のことを思い出して、あれはひょっとして彼女の誘いではなかったのか、と思い当たったのである。それなら僕と一緒に行こうよ、と言ってほしかったのではないか、と気が付いた。その時は碌にお礼も云わずに受け取り結局チケットを使わなかった。そんなことで恨まれることがあるのだろうか。まさか、と彼は昨年の最新の名簿を調べたが彼女の名前は無かった。と言うことは結婚して退社したのだろう。あるいは社内結婚して名前が変わったのか。分からない。古い名簿を見ているうちにすっかり忘れていたそんなことまで思い出したが、ほかにはなにも気になる名前は無かった。

 これは会社関係は調べても無駄だと、今度は家族のことを考えた。しかし、マンションに周囲を囲まれた木造住宅に住んでいる者はいない。友人はと対象を広げてみたが思い当たらない。これはどうしようもないな、と思ったが不図大学時代の友人で、現在興信所に勤めているか私立探偵みたいなことをしている者がいたことを思い出した。

 

 


安部公房とは何か

2022-10-27 08:32:24 | 書評

 ウィットゲンシュタインではないが、問いに答えがあるかどうかは措定する命題で決まる。「安部公房とはだれか」ではない。その問いには有効な、あるいは正しい答えがあるだろう。そうではないのだ。「安部公房とは何か」なのだ。意味のある答えがあるのだろうか。鄙見をのぶればない。
 私の書棚には十一冊の安部公房がある。一応最後まで読んだのは一冊、途中まで読んだのが三冊、あとは未読未開頁である。勿論再読したものはない。ある年に安部公房を読もうと思ってまとめて買ったのだが、それから十年以上のような状態なのである。どうも読めないのである。理由は分からない、つまらないである。「つまらない」は趣味の問題だから脇におくとして、「分からない」は下拙の読解能力が関係しているのかもしれないと、もともと謙虚な私は考えた。
 普通ならそれで放っておくのだが、なにしろ彼は世評の高い作者である。そんなわけで読まない本を処分することは躊躇して、未読のまま書棚にささっているのだ。
 そこでアンチョコを探した。もとえ、解説書を探した。これがない。大書店には大体「作家論」の一隅がある。しかし数店、日課の書店散歩で探したがどこにもない。書棚の各冊の最後の解説を読んでも役に立つ情報があるわけでもない、と僭越ながら独断してしまった。
 ところが先日ある書店の作家論コーナーで安部公房の書評が五冊も並んでいた。そのうち、二冊は朝鮮人の女性研究者のものである。これには奇異感をおぼえた。なぜ韓国女性なのか、パス。また彼の娘さんの書いた本があった。これは作家論と言うよりも個人的な「思い出」らしかったのでパス。ほかに未知の女性研究者らしい人の本がささっていたので、とりだして立ち読みをしたが、大学の紀要のような印象で価値のある情報とは無縁のようであった。あと一冊は男性の書いたもので、名前の知らない人だったので、これもパスした。結局何も買わなかったのである。五冊中四冊が未知の女性の著者と言うのにも驚いた、モトエ、感じ入った。
 それでもまだ未練がましく「安部公房とは何か」と問うた。ある人はアヴァンギャルトだという。ある人は前衛だという。そうすると、と私は考えた。前衛芸術と言うのは文学に限って言えば昔から理解できない。絵画の世界で前衛と言うのは理解できるのだが。小説ではだめだったのである。


1026ロケハン2

2022-10-26 07:38:38 | 小説みたいなもの

 例によってバーボンのお湯割りで深夜のスイッチオフ作業をしていた。直径10センチほどの500ミリリットル入りのマグカップに2センチほどジャックダニエルを注ぎ60度のお湯で割る。三杯目を飲み終わったころに彼の視界がフラッシュした。「なんだなんだ」と我に返る。視界を共有するのは久しぶりだ。Q駅から徒歩十二分だったかな、と彼は広告の表示を思い出して酔眼をこすった。ナノ秒のフラッシュだったので定かではない。Q駅と言うと江東区にある地下鉄の駅だったはずだ。
 彼は反故紙の裏で作ったメモ用紙を引き寄せると、のたくった字でQととりあえずメモした。それ以上の精神作業は今夜は無理だ。はっと気が付くと椅子に座ったまま寝込んでいた。時計を見ると午前二時だ。
 翌朝、寝床から這い出ると彼はメモ用紙にあるかろうじて判読できるQと言う字を眺めた。そうだ、今日の一万歩の目的地はきまりだ。例によって場末の定食屋で昼飯を済ませるとQ駅に向かった。この駅にはバリアフリーがない。もっとも初めて来た駅なので、あるのかもしれないが、見つからなかった。気の遠くなるほど地下深いところにある駅だ。ようやっとの思いで長い階段を登りきると地表に這い出た。
 一時間ほど、あたりを徘徊した。この辺もすでに高層マンションや大きな工場に囲繞されている。しかし、表から裏通りに入るとまだ古いアパートや木造家屋が点在している。ここかな、と彼はきょろきょろとあたりを見回した。アパートはさびれた外観ですでに無人に打ち捨てられた印象を持っていた。あるいは地上げ屋にすでに買い取られて解体を待っているのかもしれない。前を通ると古い食物の腐ったような饐えた匂いが微かにする。人はおろか鳩一羽も猫一匹も見えない。

 少し離れたところには木造のしもた屋があった。ここはまだ住人がいる気配だ。これかな、と彼は家の周りを二、三周した。しかし確信がもてない。そのうちに家の二階のカーテンが動いた。どうも上から監視されているらしい。あやしい人間がうろついていると警戒されたのだろう。あるいは執拗な不動産屋や地上げ屋の手先と思われたのかもしれない。うろうろしていると警察に通報されそうだ。
 不審者面をしている彼は普段でもよく警官に不審尋問をされる。彼は慌ててその街を離れて表通りのファストフード店に入った。注文したブレンドコーヒーは信じられないくらい生ぬるくて、まずかった。彼の席の両隣には若い女性がいて、いずれもパソコンを開いて、薄暗くて新聞も読めない店内でキーボードを叩いていた。ちかごろ流行りの在宅勤務らしい。職業婦人も当節は楽じゃない。
 相変らずパソコンの画面を仔細らしく睨みつけている女性客を後にして、コーヒーを飲み残して店を出た。再び彼は駅にもどり周辺の看板を丹念に見て回った。フラッシュに出てきた『駅から徒歩十二分云々』という看板は見つからなかった。見落としているのかもしれないが。9800歩達成!

 


燃え尽きた地図は探偵小説である??

2022-10-16 06:42:18 | 書評

 該書にはドナルド・キーン氏の解説がついている。引用する。
「本書は厳密な意味では、探偵小説であるが、、」新潮文庫309ページ
これって誤植じゃないの。もっとも新潮社は昭和五十四年以来訂正していないから誤植じゃないんだろうな。誤植じゃなくて単純な誤りなんだろう。言うならば『探偵小説のスタイルを装った、あるいは借用した小説』と言うべきだろう。
ま、趣向には違いない。それで思い出すのはポール・オースターの『ニューヨーク三部作』である。これも同様の趣向だが、探偵小説的起承転結にはなっていない。『起承』にはなっている。

 オースターについては安部公房に影響されたのではないかというひとがいる。オースター自身も認めたらしい、ただし確認は取れず。そこで二人のアクメを調べた。安部公房1924生まれ、オースター1947年生まれ。安部は早くから欧米に翻訳され、フランスの文学賞を受賞しているし、オースターがフランス修業時代に読んでいた可能性はある。


読者は役者のように何回も下稽古を求められる

2022-10-15 08:34:36 | 書評

 該書(燃え尽きた地図)は読後何となくわかったような気がする。しかし本当に理解するためには、大江の健ちゃんが言うように、安部の作品は論理的(論理構造がしっかりしているという意味か)なので、理解するためには再読が必要だという。とすると、該書も読み直すと、くっきりとした論理構造が味読出来るのかもしれない。
 これって、俳優が長期間下稽古をして作品、演出者の意図を理解していく過程と似ているね。芝居、映画でもそうらしいが、長期間、半年とか、何回も稽古をするらしい。そうして演出者が納得するような舞台に仕上げていく。芝居の意図が観客に伝わるように仕上げていく。
するってえとだ、安部が小説の読者に再読を要求するのは、芝居の下稽古で役者に作品の意図を出演者に沁み込ませて理解させるようなものだね。われわれ読者は役者にならなければいけないのかな。いや役者兼読者か。
これも演劇作者としての安部公房のドラマツルギーから来ているのかもね。


演劇と小説のハイブリッド

2022-10-14 07:07:42 | 書評

 ドラマティックというと劇的、ドラマチックというのかなカタカナ表記では、辞書にはそれしかないが、普通は劇画的なおどろおどろしい変化にとんだ、びっくりすることの連続ということだが、私が安部公房の燃え尽きた地図(ほかの作品もそうかもしれない、とにかく読了した唯一の作品「燃え尽きた地図」についてのことである。ここで言うのは作劇上の、と言ったほどの意味で言っている。
 ドラマチックというのは作劇上のテクニックについてである。具体的に言うと段落ごとに、登場人物が入れ替わるたびに彼は安倍晋三であるとか、何とか何子であるとか作者は紹介しない。芝居の場合、観客は舞台を見ればわかる。だから芝居ではキャラが入れ替わるたびに人物(小説で言えば主語)がこの段落ではA子ちゃんですよとかB氏ですよとか断らない。これを小説でやるのが安部公房である。
 聞くところによると(正確には読むところによると)、安部公房は芝居も沢山書いているらしい。その手法で小説もやる。もっともそれだけでは小説にはならない。彼の場合モノローグ的な記述が長々と続く。これは芝居の役者にはできない。心境だとか、心象風景だとか、表象、知覚の記憶の記述が延々と続く。これを要すれば彼の(コノ)小説は芝居と小説のハイブリッドである。
 この手法が意識的に取られているとすると、安部の狙いはなにか。読者は戸惑う。読者はそこで本を放り出すかもしれない。もっと真面目な読者、つまり作者に敬意を持っている読者は考える、この段落のナレイターは誰だろうかと。そしてそんなに難しくないから、ああそうかと思う。真面目なファンにこの間を取らせることが作者の狙いかもしれないね。


燃え尽きた記憶

2022-10-13 08:51:22 | 書評

 最後まで読み切れない作家というのが私の場合にある。安部公房なんかがそれだ。ふとした気まぐれから安部公房の「燃え尽きた地図」を贖った。たしかに大分前に読んだ記憶があるのだが、書棚を探しても無かったので新たに買ったわけ。
 何故かと言うと丁度読書の端境期に入っていて口寂しい(目寂しい)時期の無聊を慰めるためなのである。安部公房の作品はどうも最後まで読めない。そのなかでこの作品は最後まで読んだ記憶のある唯一の小説ということでふとした気迷いから書店の棚からピックアップした。
 ところが驚いたことに読み始めて全然読んだことがないことが分かった。特に出だしの部分はかすかに残っていた記憶とまったく合わない。こんなことって滅多にないんだけどね。そうすると別の作品かなと思ってインターネットを漁ってみたが、(安部公房と興信所ないし探偵というキーワードで)、そんな作品は無いようだ。はてね?
 とすると、何冊か読み始めて我慢が出来なくて放り出した安部公房の作品の中で唯一読了したつもりになっていた作品も読了どころが最初の数ページも読んでいないということだ。あれれ、だ。今度は一応最後まで読んだから書評をしてみよう。続く


夢の検証

2022-10-10 11:36:49 | 小説みたいなもの

  このところの狂ったような残暑も今日は落ち着いてどんよりと曇った肌寒いような日だった。彼は大江戸線の若松河田の駅から地上に出た。
 この間やめた会社は毎年職員名簿を作成して全職員に配布している。彼女が整理した本棚には一番左側の目立つところに職員名簿があった。憑依するというか、受信するというかはやはり何らかの関係がある人間の可能性が高いのではないか。不図思いついて彼は職員名簿の一番新しい版を本棚から引っこ抜いて机の上にで開いた。
 まず退職時に所属していた部署所属の名前を見た。続いてこれまで所属していた課を順に新しいところから見て言った。取り立てて記憶に引っかかるような人間はいない。そのうちに一人の人間の名前のところで視線が停止した。トラブルと言うのではないが、代理店との問題で苦情を持ち込んできた男がいる。その男が担当している代理店から苦情を持ち込まれて、ちょうどその職員が出張していたので彼が応対した。そして便宜を図ってやったことがあった。    ところがその職員が出張から帰ってきて、その代理店から何か言われたらしい。血相を変えて怒鳴り込んできて部長にクレイムしたことがあった。非常に不愉快な記憶ではあったが、彼はすっかり忘れていたのである。
 ほかに今のところ思い当たる人間もいないし、一日一万歩の日課の目標も毎日同じ順路になってしまっているし、散歩がてら行ってみることにしたのである。彼は新宿区のZ町に住んでいた。もっとも昨年の名簿だから今もそこにいるかどうかは分からない。番地から見るとマンションではなくて一軒家のようだ。白日夢つまり彼の知覚に突然飛び込んでくる映像では周りを低層階のマンション風の洋館に取り囲まれた日本家屋の一軒家なのである。はたしてそこが白日夢に現れるロケイションかどうかお楽しみというわけである。
 方向感覚の取りにくい街であった。道幅がやけに広く交通量が多い通りが不規則にぶっちがいに交差している。あらかじめ地図で新宿よりを右に入ると確認しておいたのだが、方向が分からない。結局三つ四つ違う街に入り込みようやく目的の街にたどり着いた。
 大通りから車一台がようやく通れるような曲がりくねった道を入り込む。道の両側には三階建てくらいのあまり広くない地所にむりやり建てたような低層マンションが立ち並んでいる。また、一昔前までは日本家屋だったのだろうが、代替わりでコンクリートの洋館に建て替えられたらしい家屋がある。家屋やマンションの間にはすきまがない。なにか気の滅入るような街だ。昼下がりの街には人通りがない。猫や犬も一匹もいない。とうとう日本家屋が残っているところは見つからなかった。

 


幽霊語である人格

2022-10-07 07:34:50 | 小説みたいなもの

 類縁語というか、別名というか人格と言うことばほど、親戚が多い言葉は無い。そして語釈というか定義のない言葉群はない。
 たとえば、テレビという商品がある。エアコンと言う商品がある。これには別称と言うものがない。ま、エアコンは(電気)冷房、暖房と言うことばもあるがほとんど使われない。スマホもほかに呼びようがない。ガラケーなら携帯電話と言う別称があるが、ほかに言い方は無い。そして定義しようと思えば、べつに定義する必要も無いのであるが、ずばり定義できる。定義するのもバカバカしいほど言葉にまぎれがない。パソコンも歴史的には、ワンボードマイコン、マイコン、ラップトップコンピュータと変遷してきたが今はパソコン以外は通用しないだろう。
 人格の類縁語、あるいは同義語と思われるものは多数ある。個性、自己、個人、自我、英語で言えばペルソナ(パーソン)、エゴ、セルフなど。もっとも辞書には定義がある。広辞苑によれば人格とは「道徳的行為の主体としての個人」であるとし、「自己決定的な自律的意思を有し、それ自身が目的自体であるところの個人」とある。前半はともかく後段はなにを言っているのかわからない。
 哲学者の言及はもっとばらばらで統一的な見解は無い。現代の心理学でまともな定義があるとも思えない。ヒュームの言葉はちと面白いから引用してみる。「人間とはおもいも及ばない速さで次々に継起する、様々な知覚の束ないし集合にすぎない」
 フロイトなんかによるとエゴと言うのは(性的)欲望の屈折した表現となるらしい。


アブサン

2022-10-05 08:27:46 | 小説みたいなもの

 秀夫がパソコンを開いて随想風の日記をつけていると電話がなった。裕子からだった。しばらくしてチャイムがなった。このごろ、彼女は不定期的に来るようになった。そうして部屋をいじくりまわしていく。なんだか部屋の共同所有者になったような有様なのである。
 インテリアデザイナー志望で、今はしがないOLの彼女は彼の部屋をいじくりまわしてインテリアデザインの実験台にしている。彼も部屋が片付いていいのでやらせているのだが、困るのはやたらと本の整理をすることである。机の上、床の上に放り出してある本を彼女流の分類方法で整理してくれるのだが、その分類法がまったくわからない。本と言うものは散らかっていても当人は何処にどういう本があって、どこにこれはどうしようもない本で処分しようとしている駄本があるかは、頭の中にはいっている。だから必要な本を探すのに手間はかからない。それが彼女の分類法でやられると、あの本は何処かな、と半日探し回ることになる。半日探しても出てこないこともある。そして翌日ひょっこり見つける。しかし彼の部屋の汚れの一番の原因は書籍なのだから、彼女も彼が苦情を言ってもとりあわない。
 汚れた食器や流しはピカピカにしてくれるし、隅々まで電気掃除機をかけてくれるし、溜まった郵便物はきちんと整理してくれるので、うっかりして処理しなければならない通知などを見落とすこともなくなった。そういうわけでトータルに判断して彼女の整理に任せてあるのだ。
 整理が一段落すると彼女は冷蔵庫から缶ビールを取り出して呷った。唇の周りの泡を手の甲で拭うと彼のそばに来て何をしているの、とパソコンをのぞき込んだ。日記は秘密ではない。もともと、例の暑気あたり後の発作で精神に変調を覚えた後、大学病院でチンピラの医局員にいじくりまわされるのが嫌で、日記を書いて、読み返し、まともかどうか自己診断をしている。だから第三者に見せるのはむしろ求めているのだ。まして彼女は広告の仕事でコピーライターみたなことや、プレスリリースを書いたりもしているから感想を聞くのには適しているだろう。
「フーン、アブサンか」
「飲んだことあるのか」
「無いけど、ある意味で有名な酒だよ。麻薬みたいな効果があるらしい。ボードレールとかピカソなんかが愛飲していたんだよ。いまではフランスでは禁止されているんじゃないかな」
「だけど日本では作っていないだろう。どうせ輸入しかないんだろう。密輸かな」
「いや、そうじゃないでしょう。アブサンと言っても昔のとは成分や製法、原料が違うんじゃないかな。それで飲んでみてどうだった」
「小さなグラスで一杯だけだから別に素敵な効果もなかったな」

 


古本屋で見つけた本から

2022-10-02 07:38:21 | 小説みたいなもの

 彼はあまり古本屋に寄らないのだが、三省堂も長期工事に入ったし、神保町の書店めぐりもすぐ終わってしまう。そこで毎日一万歩の目標を達成するために、最近は古本屋をのぞくこともある。そこで買った本に次のようなことが書いてある。
& 透視と言うのは一方から他方を見るということである。障害物があるとか、非常に遠方にあって普通は見ることが出来ないものを見るということだ。他人の内心の考えを言い当てるような場合も場合によっては透視というかもしれない。一般に超能力のひとつとされる。
 では非常に遠方にある人間の知覚や表象を共有するのをなんというか。憑依と言うのとはちょっと違う。憑依と言うのは一方の人間の意思や命令が相手方に向けられる。つまりとりつくことだ。二人の力関係である。一方が他方を支配する。場合によっては相手はお狐さんだったりマルクスだったりするが。ただ単に相手の見るものを見、聞くものを聞くという現象は、そういう現象があるとして、何というのか。千里眼というのかな。
 その場合、Aという個人の見ていること、聞いていることが空中を伝わってBというまったく関係のない相手に伝わらなければならない。しかも瞬時にというか同時に。こんなことがあるのかどうか。検証が十分に行われているとは言えないが、古来そういう例が報告されている。哲学者のカントなども「視霊者の夢」なる論文をものしている。カントは事実は認めるが検証や説明は不可能であると書いている。この場合、オカルト現象の体験者がスウェーデンの著名な科学者であって、報告が疑えなかったからであろう。彼の名をスウェーデンボルグという。
 彼は旅行中数百キロ離れたストックホルムの大火を同時刻に「見た」というのである。この場合「見た」と言うのが直接見たのか、ストックホルムの住民例えば彼の知人が見たことが400キロの空中を瞬時に奔ったのかはカントの論文やスウェーデンボルグの伝記では不明である。カントもそこまで分析していない。うかつと言えば迂闊な話である。
 いずれにせよ、この事件がスウェーデンボルグが本格的に霊的問題に取り組む一つの機縁にはなっているらしい。
 そこでだ、そういうことがあるとして、その場合キャリアは何だということである。二地点間で影響しあう場合には必ず仲介者がいなければならない。離れた空間で影響しあうのは代表的なところでは引力や磁力がある。また光は物象を運ぶ媒体となる。じゃあスウェーデンボルグのような場合は何なのだ。一番可能性があるのはやはり「ひかり」か同様の伝播力を持つ電波かニュートリノのような素粒子の仲間だろう。光や電波は一秒で地球を七周半だかする。400キロなんてメじゃない。&
 フムフムと唸って彼はしばし本を置いたのである。