西村賢太の小説は「何処から読んでもいい金太郎飴」と総括したら失礼にあたるだろうか。全部の私小説作家の「ワタクシ小説」に該当するわけではないだろうが、わたくし小説と言うのは潤色した日記であるから、終わりからでも、途中からでも読んでいい。最初から読む必要はない。一般論ではね。
そして何処から読んでも「同じ味がする」、どこから切っても同じ柄が出てくる金太郎飴と同じだ。これは特に西村賢太の場合に言える。
西村の遺作となった「雨滴は続く」を読んでいる、今月初めから。全480ページの長編である。彼の小説を単行本で読むのは初めてである。これは彼の逝去により未完の遺作となったという。今月初めから読み始めて七月が終わろうとするのに、ようやく160頁だ。今回は最初から読んでいる。金太郎飴だから、一気呵成に読むのは無理だ。精力剤のようなどぎつい表現で叩きつけてくるから、読み続けると感覚が麻痺してしまう。退屈で神経が弛緩したようなときに元気を出すために読むと良い。
修辞的に言うと、難しい言葉を使うね、大体ワンパターンだ。ジャズのドラムでガンガンやるのと同じで、演奏者はバリエーションをつけているつもりでも読むほうは区別がつかない。続けて読むと麻痺して退屈してしまう。忘れたころにまた本を広げるてチビチビ読むと精力剤的な効果がある。
潤色した日記と書いたが、面白かったのは売り出し(デビュー)のころの雑誌の編集者とのやり取りだ。文芸雑誌と言うのは養鶏業者と同じで唾をつけた作家がコンスタントに売れる卵を産めるかどうか見極める作業がある。当たり前だ、出版社だって儲からなければ話にならない。出版社にとって都合のいい金(銀でも銅でもいいが、とにかく)のタマゴを経常的に産ませなければならない。その辺の見極めというか、探りと言うかリサーチと言うか編集担当者とのやり取りが面白い。こちらは斯界の事情に疎いのでね。西村賢太が例によって反発するところが面白い。もっとも実際を反映した記述ならば、ということだ。西村も古い話をよく覚えているね。
さて、「どうで死ぬ身の一踊り」は西村の出世作だというので読んでみた。
この作品は藤沢清造を顕彰追憶する仏事や、寺の作法を潤いのない筆で細々と描写する部分と滝野川での同棲女性に対するバイオレンスの二本立てであるが、この二つのハシラの間には有機的関連がない。小川榮太郎氏の「作家の値打ち」では苦役列車73点に次ぐ71点を与えているがまったく的を外している。久世光彦とか坪内祐三とかの「読み巧者」が絶賛している、というが理解不能。この二人の人物がどういう人物か全く知らないが。たしか、「雨滴は続く」で西村賢太本人が「体が震えるほど」感動したとの久世の言葉を誇らしげに引用していたが、この引用が正確だとしてもまったく理解の領域を超えている。
仏事の話は全く潤いを欠いているし、営業仏教(寺の)の些末な行事を事細かく誇らしげに書いているのには全く西村らしくなく失笑してしまう。西村の作品は読んだのは五指にも満たないが、そのなかでも最低の作品であることは間違いない。
ところで、西村賢太はあちこちで「どうで」という言葉を多用しているが、これは藤沢静造の故郷である、たしか能登半島のどこかの方言なのだろうか。私は「どうせ」という意味だろうと理解しているが、それでいいのかな。
ついでに思い出したが、ひっきりなしに「はな」という言葉を使う。これは「はなっから」と同じ意味と受け取っているが間違いないかな。西村が威張る江戸言葉ではないようだが。もっとも江戸と言っても広い、「江戸」=「江戸川区」なのかもしれない。
あれは、やはり西村賢太だったのかな、と思い出したのは最近彼の「どうで死ぬ身の一踊り」の冒頭を読んだ時だ。たしか彼が芥川賞を貰ったころだった。テレビやなんかで彼の顔が流れていたころだ。「どうで、、」に滝野川に家があったようなことが書いてある。小説だが、私小説だから大体場所なんかも同じだろう。その時に私は東大の正門前からバスに乗った。いまは工事中の三省堂の前の「駿河台下」という停留所で降りようとして、後ろの座席から降りてくる乗客にぶつからないようにと後ろを確認したときに彼はいた。あの特徴のある顔とゴリラのように発達した上半身の人間は滅多にいない。だから一瞬かれかなと思った。それだけの話であるが、「滝野川の家」云々のくだりを読んで思い出した。彼がよく神保町の古本屋に行くというのはあちこちで書いている。そのバスは王子発で(今は知らない)滝野川、本郷、神保町を通って丸の内に行く。彼の生活圏に合致する。
彼の雰囲気が独特で不機嫌そうで、うっかりすると彼の小説の中のように罵声を浴びせかけられそうな気がした。ぼんやり見ていると、いきなり因縁をつけられそうな気がした。気がしたというだけの話だがね。世の中にはまれにそういう空気を漂わしている人間がいる。別にその時は因縁をつけてはこなかったが、そういう警戒心を抱かせる雰囲気を纏っていた。
それだけの話だ。つまらない話で申し訳ない。すっかり忘れていたが、急に思い出した。多分彼ではなかったかもしれないね。合掌
訂正が必要か? 七月二十日追加
そういえば、その人物はジェラルミンのアタッシェケースを持っていなかった。西村賢太氏ではなかったかもしれない。
「わたくし・小説」の作家西村賢太氏が亡くなった。なんとなく藤沢清造みたいな最後だと一瞬感じた。どこの新聞だったか忘れたが、彼の遺作の書評が載っていた。それで久しぶりに読もうと書店に行ったのはいいが、間違えて2014年作と言う「ヤマイダレの歌」と言うのを買ってしまった。読んでいるうちになんか変だと思って買おうとしていた本を間違えたことにきがついた。刊行年代からいうと苦役列車とあまりかわらない。
この本、ヤマイダレの歌は二十歳までの家庭すなわち父母と姉のことを書いている。たしか2011年だったか「苦役列車」で芥川賞を取ったときに、いずれおやじのことを書いてみたいと書いていたのを記憶していたので、ははあ、これがそうだなと思った。
しかし父親や母親のことを書いているのは前半だけである。それも新聞記事というか週刊誌の特集記事風の書き方で小説と言う感じがしない。後半の舞台は貫多の二十歳の物語であり、西村賢太風の書き方になる。
二十歳になるのを機に心機一転しようと都内から横浜の安アパートに引っ越して植木屋(造園会社)でアルバイトをして3か月ほど働く。西村賢太節は読んでもらうことにして、ここでちょっと触れてみたいのは、田中英光の作品に出合った衝撃の書き方である。
よく作家や、作家でなくても有名人が書いた「私の人生を変えた本」なんていうのがある。自伝とか随筆でね。だが大抵は第三者が読んでも無味乾燥で体感的な受け止め方が伝わってこない。これは筆達者な大家の文章でも同じである。
ところが西村賢太氏の田中英光との遭遇の書き方は、こういう言い方があるのかどうか、内容がある。全身全霊が根底から揺さぶられた様子がなまなましい。これは田中英光を知らなくても、あるいは私のように一応読んで、それなりの評価はしているものの、西村のように全人生を鷲掴みにされていなくても、伝わってくる。例によって失恋し、仲間外れにされた賢太が田中の小説にからめとられていく様子が生々しい。
この小説の後半はほとんどが田中の小説との出会いの衝撃の物語である。
やがて田中ショックから例の藤沢清造に出合う。しかしそれは最後の際に1,2ページしか書いていない。その後の西村氏の活動から彼の興味研究の対象は藤沢に代わっていくのだが。
冒頭にちょっと仄めかしたが、西村氏の死は田中の死よりか藤沢に似ている。これもなにかの因縁か。田中は太宰治の墓前での覚悟の自裁である。藤沢の死は厳冬の夜、芝公園で凍死である。人はこれを野垂れ死にと表現することもある。西村賢太氏はタクシーの中での発作と言うことだが自裁ではない。むしろ最後に没後弟子を名乗った藤沢清造のパターンといえよう。
さて今回はジークムントのフロちゃんの話である。そう、あの東欧からのユダヤ難民の子であるジークムント・フロイトである。古代ギリシャ悲劇の傑作エディプス王(オイディプス王)を幼児ポルノに貶めた男である。
精神分析と言う妙なカルトの創始者である。現代のフランスの哲学者あたりが持ち上げている男である。精神分析と言うのも所詮は記憶の話なんだね。むかし、主として幼児の時に父親から割礼される恐怖の記憶とか、母親に対する性欲とかの記憶が抑圧され変形されて大人になってからも悪さをしているというわけである。
彼らの理屈によると、そういう大昔の記憶が変形されて大人になった自分の体の不調として悪さをしているという話だ。だから煎じ詰めるとこれは記憶をめぐる大衆科学の一種なのだ。記憶は変形されて何十年たっても悪さをしている。しかし、その記憶を変形から元の形に復元すれば問題解決と言うわけだ。
だから、大昔の記憶は変形されずにいつまでも残っているという前提に立っている。この限りではベルクソンと同じだ。同じなのはそこまでだけどね。ベルグソンはそれを哲学に仕立て上げる。フロイトは幼児ポルノに変形する。その辺がフランスの哲学者には受ける。
ベルクソンとは生没年ともほとんど同じだが、交渉は無かったようだ。
アメリカの連邦最高裁が妊娠中絶が重大犯罪であるとの判決を出した。ところが日本のマスコミは超パカだから痒いところにまで孫の手が届くような適切な報道が皆無である。
どうして「失われし時をもとめて」のテーマと関係あるのだ、とのご疑念ごもっともなれど、これが大ありなんだね。
妊娠中絶に対してどういう量刑が課されるのか報道がない。ま、実際には各州の最高裁か州議会が法律で定めるのだろうが、30年前だっけ、何州かでは犯罪だったのだから参考事例はあるだろう。何の報道もないから調べてみたら(私がするのだからきわめて荒っぽい調査だが)、ある州では懲役10年、罰金10万ドルになるらしい。
これは妊婦に対する刑罰なのか、中絶手術をする医師やもぐり医師に対するものかはっきりとしない。適用される刑法は殺人罪なのかもはっきりとしない。殺人罪なら懲役10年というのは軽すぎるようだ。双子だったらどうするのかな。死刑になるのか。
それと、連邦最高裁によると「妊娠十五か月以上の妊娠中絶は犯罪」というのだが、この解説がマスコミにはない。なんで十五か月なんだ。胎児も受胎後十五か月で人間になるというのか、人格があるというのか、きわめて重要なポイントで根拠を報道するのが小学生マスコミの義務だろう。
胎児は受胎後早い時期に記憶をつかさどる脳の海馬が出来てくるという。感覚も発達するらしい。腹の中じゃ目が見えないから視覚は必要がないからともかく、聴覚は発達するらしい。羊水を通して外界の音を聞いているそうだ。
触覚はもちろんできてくる。母親の喜怒哀楽、ストレス、幸福感、嫌悪感は母親のホルモン分泌を変化させるだろう。胎児はそれをもろに感知し記憶する。また、母親が嬉しかったり安心すれば胎児を包む筋肉は弛緩する。嫌悪恐怖に襲われれば筋肉は収縮して胎児を圧迫する。それらは発達してきた胎児の海馬に蓄積される。分娩後も当然脳内に記憶として残る。もっとも記憶の先入れ後出し原則でよほどのことがない限り意識の表面に浮上してこないだろう。
というわけで、十五か月問題というのは重要なのがお分かりいただけただろうか。
もっとも、これはベルクソン同様すべての記憶は完璧に記憶されて消滅することはないという理解に基づいている。ベルクソンはたしか『イマージュ』の堆積といったかな。