穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

Z(3)章 夢商品

2017-02-27 21:38:56 | 反復と忘却

 わけの分からないろくろみたいな物を詐欺師夫婦の口車に乗せられて買ってしまった。どこかの商店のなからしいのだが、どこだか、どうしてそこに入って来たか全然思い出せない。なにしろ夢のなかだから。

なかに水を入れ蓋をして、蓋に付いた取っ手を回すと何でも出てくるらしい。そんなような口上だった。説明書がついていない。使い方を聞くと女の商人は相手にしない。その亭主に聞くと知らん顔をしている。もっとも金を払った記憶もない。女がロクロを回して実演している時にはよく分かっているような気になっていたのだが、気が付くと全然覚えていない。三四郎も最近は時々夢を見る。その内の少しは醒めた後でも覚えている。もっとも少年の頃は全く夢を見なかった。仇に出会ったように激しく歯ぎしりをしながら大声で喚くことはあったらしい。もっとも三四郎はまったく覚えていない。深夜の睡眠中のことである。

なにかその轆轤に秘密があるらしい。その使い方さえ分かれば忘却の中から、白い煙だか、悪鬼だかが飛び出してくるような気がした。彼は夢をみると、とくにそれが覚醒後まで不愉快な印象を残した夢を見ると唯物論的にその原因を考える癖がある。たとえば、昨夜食べた食事は何だったか、なにか悪い物でも食ったのではないか。消化の悪い腹にもたれるような料理が影響しているのかとか、あるいは不愉快なことがあったか等と昨日一日のことを朝から順を追って思い出してみる。

平々凡々な毎日を送っている彼にはあまり大きなインシデントには遭遇しない。昨日ではないが、三、四日前に彼は久しぶりに女と寝た。変わった女だった。何を話したっけ、なんか調子の外れたような会話をしたような記憶が有る。おんなの顔はピカソの絵みたいだった。からだはゴーギャンの描く裸婦のようだった。

非常に詮索好きな女で彼のことを知りたがった。彼女は中堅のマンション販売会社の営業担当で彼がマンションを買い替えることにしていくつかの不動産会社のウィンドウショッピングをしたうちの一つの物件を担当していた。あれこれ気迷いがあり、数ヶ月もの間色々と質問をしたり交渉をしたりしたが、その応対がとても辛抱強く、しかも有能で適切なのに彼は感心した。

「あなたのきょうだいは何人いるの」とバスルームから戻って来た彼女はたずねた。十人いるというと彼女はえっと驚きの声を発した。本当は十人もいないのだが、沢山いるという意味で咄嗟に十人といったのだ。実際には八人くらいだろう。

「私は一人っ子だからきょうだいが沢山いる人が羨ましくて」

「どうして。一人だったら親も集中的に面倒を見てくれるからいいじゃないか」

「でも寂しいわよ」

「そうかなあ、うちは多すぎてまとまりがなかったよ」実際はまとまりがないどころか喧嘩ばかりしていたのである。

「どうして十人もいるの」と彼女は信じられない様に聞いた。人数のことはあえて訂正せずに彼は答えた。

「まず父親が勢力的だった。それに妻が三人もいたからな」

「ふーん、なんだか複雑になりそうね」

かれは答えた。「まあ、家庭によって色々ちがうだろうがね。そこにいくと僕はトランプさんには敬服しているのさ」

「トランプさんて」と彼女は反問した。

「アメリカのトランプ大統領」

「トランプさんなんて気安く言うから誰かあなたの知り合いかと思った」

「かれは僕のオヤジと同じで三婚だ。しかも先妻に死別したなら再婚もしょうがないが、離婚を重ねている。普通なら複雑でまとまりがなくなる家庭をしっかりとまとめているじゃないか。それぞれの異母きょうだいを選挙中に一緒に紹介したりする様子を見るとね。先妻の息子や娘と現夫人も仲良くやっているようだしさ。

彼はあれでアメリカをうまく治めるかもしれないな。修身治国平天下というだろう。すこし古くさい言葉かな。我が家をうまく修める者でなければ天下も治めることが出来ないという意味だ」

「うんうん、分かるわよ」と彼女は言った。彼女は三四郎より一つ年上の同年代だった。

そんな会話がきっかけで、彼の家庭とか少年時代を当たり障りのない範囲で彼女に話した。あまり過去を振り返ったことがないので、思い出しながらぼつぼつと、思い出すままに時系列を無視して(記憶は時系列を無視して蘇ってくるから)話した。それがいけなかったのかな、と彼は思った。あまり楽しい記憶でもないので当たり障りのないように脚色して話したのだが、必然的に当時の情動を呼び覚ましたのだろう。池の底のヘドロを掻き回したのかも知れない。

 


Z(2)章 オレの知らないドイツ語はない

2017-02-22 07:14:53 | 反復と忘却

三四郎にとって父の存在感は希薄だった。だかといって父と離れて住んでいたわけではない。同じ家で暮らしてはいたのだが、ある時期までは父の記憶が全くない。無理をして思い出そうとすると、それは畳の上に正座して尺八を一生懸命に吹いている姿であった。いかにも苦しそうにいきんで音を出そうとしている。しかし結局あきらめてしまう。そうかと思えば、きれいに掃除をした畳の上に小さなごみでも落ちていると目ざとく見つけてすばやく腰をかがめて指でつまみあげる姿である。

 それがある時期を境にして目の前に立ちはだかる力士のように存在になった。彼にとって脅威となった。三四郎にとって大きな脅威として立ちはだかったのである。それは小学校の終わりか中学生になった頃であった。彼とは一回り以上年の離れた異母兄がいたが、兄が口癖のようにいっていた「お父さんは一緒に暮らすのは難しい人」になったのである。

 兄の言うところによると、それはやはり兄が十二,三歳のころかららしい。つまり息子が大人になりかけると父にはそれが非常に目障りになるらしいのである。普通は子供が成長するのは親の楽しみであるはずなのに、父には非常に目障りなことらしいのだ。

 そういえば、そのころ急速に身長が伸びて背の低い父を追い越したのである。それが癪に障った可能性があるのかもしれない。父は自分の短躯にコンプレックスを持っていた。父は妻運がないというか最初の二人の妻とは死別してしまって三四郎の母は三人目なのだが、母は父より背が高い。三四郎はもちろん前の妻たちのことは知らないのだが、兄の言うところによると彼女たちも皆父より背が高かったらしい。兄はぐれていた学生時代に「三人の母」という小説を書いたそうだが、優生学的配慮があったらしいと言う。

 優生学的配慮の結果である息子たちの身長がいざ自分を追い越すと理屈抜きでむかついた。何事にも負けず嫌いな父は我慢が出来なかったらしい。そういえば、思春期は知的にも飛躍的に成長する時期であるが、それがまた父には気に食わなかったようだ。自分の父親としての権威をないがしろにする許せないことと受け取った。

 三四郎がショックを受けたのは、当時父に質問したのか意見を求めたのか、好奇心が旺盛になった時期で、質問が何だったかは忘れてしまったが、父に質問すると彼は必ず「そんなことを考えるのは邪道だ」とどやしつけるのである。子供でもそのころになれば幼児が際限もなく「何で何で?」と見境もなく親に聞く時期はとっくにすぎている。そんなにおかしな質問をしているわけでもないのに、見境もなくいきなり「邪道だ」と言われて唖然としないわけがない。

 車夫馬丁の類の無知な人間ならともかく父は世間ではひとかどの学者として尊敬されていた。それだけ三四郎のショックは大きかった。とにかく、息子には「知らない」ということが言えない性質であったのだろう。父の口癖の一つに「オレの知らないドイツ語はない」というのがあった。

 「負けず嫌いなんだな」と兄は笑った。「息子に追い抜かれるということには恐怖心を持っているんだ」と兄は言った。二十近く年が上の兄は父の若いころを知っている。また父の実家と父との間の長年の確執も見聞きしているらしく、「それがオヤジの若いころのトラウマになっているんだ」と三四郎に話した。

「どういうこと?」と聞くと

「おやじが田舎の実家や本家と大喧嘩をして東京に出てきた時に大変ないきさつがあってね。自分が父親になると今度は逆に息子たちに同じことをやられるんじゃないかと警戒しているんだ」

「下剋上か、うちは田舎では分家なのか」

「そうらしいな。オレも親戚から聞いた話だけどね。とにかく、とにかくオヤジがいまでは親戚の中では一番の出世頭というわけさ」

「それじゃオヤジのかたくなな態度は理屈じゃないわけだ。道理で充足理由率は通用しないんだな」

 兄は怪訝な顔をした。「なんだ、ジュウソクリユウとかいうのは」

理工系の兄には通用しないわけだ。その当時哲学科にいてショウペンハウアーにまいっていた三四郎は思わずこなれない言葉を使ってしまったのである。もっとも後年これは間違っていたことが判明するのであるが。

 


ヘルマン・ヘッセ「デミアン」

2017-02-19 21:46:02 | ノーベル文学賞

ヘルマン・ヘッセ「デミアン」三点評価 

* ムンムン度 低い

* ゴツゴツ度 高い

* 小説度   高い 注

 注:

小説度とは「説教節」度である。考え(学説)をお話仕立てで展開する程度。ヘッセのデミアンの場合、精神分析、それもユング風の通俗展開臭濃厚である。

日本の司馬遼太郎も説教節(本当かな、という)が鼻につくがムンムン度が高くゴツゴツ度が低い(つまり文章がうまい)ので一応我慢して読める。

それにしてもロマンとかストーリーとかノベルをどうして小説と訳したのかね。坪内逍遥の小説神髄も読んでみたが一向に分からない。支那古典に「小説」なる言葉があるようだが、かならずしも現代日本の『小説』の意味では無さそうだ。

以上ノーベル賞作家ヘッセの代表作と言われるデミアンの感想でした。

 


Z(1)章運命

2017-02-18 15:40:58 | 反復と忘却

 運命というのは人生の岐路である。そこでこれまでの道をまっすぐ進むつもりが外部的な力で脇にそれる結果になるイベントのことである。つまりそれは外部から来るものであって、これまでのプログラムに組み込まれた自己生成的なコースを変更する。

運命にも大きさがある。カントのカテゴリーで言えば量であり重さがある。大きな運命というのは例えば戦争で命を失うとか家を焼かれて財産を失うというような事である。これは個人の力ではどうしようもない。事後的に将来そういうことが起きない様にしよう、あるいは出来るというのは楽観論である。世の中には楽観論者が多い。

つまり彼らは大きな運命は運命ではないと考えている。彼らは例えば地球温暖化による悲惨な結果は人類の努力と叡智でかえられる、あるいは回避出来ると考えている。もとより鱒添三四郎にはそんな関心はない。 

小さな運命というのは日常的に遭遇する。たまたま道路で自動車に轢かれるとか、食中毒になるとかいろいろある。これは相当程度個人の生活態度というか行動規範に注意することで回避することが出来る。たとえば青信号が点滅し始めたら絶対に横断歩道を渡らないとか、いかにも衛生状態の悪そうな店では食事をしないとかいう用心をすればいいわけである。

だから大きな運命は考えてもあまり意味がないし、小さな運命は日常の用心で相当程度回避出来るから気に病むことはない。問題はその中間である。運命の厄介なことはいきなり襲ってくることである。襲ってくる前に視界に入ることはまずない。

しかも人生に与える影響は決定的な場合が多いのである。個人の人生にとっては決定的と言える。鱒添三四郎にとっては、十三歳の夏のイベントからまず始めなければならない。運命の一撃を受けるとだれでも「何故?」と間の抜けた質問をする。しかし分からない。分からないから運命というのである。

それ以前にもそのようなイベントは何回かあっただろう。複雑な家庭環境では当然予想されることである。しかし、それ等は茫茫として忘却の海に沈んでいる。サルベージするにしても一番困難な問題から始めるべきではないだろう。その夏のこともかなりの部分が砂に埋まってしまっている。百条委員会を設置するにしても出席出来る証人も少ない。それは三四郎の航路を90度以上変えてしまった非常に不可解な出来事だった。しかしこの縺れた糸をなんとかして辿ってみなければならない。ほどいてみなければならない。

実存主義者はそんなことは考えないらしい。ポンと発射台から出てしまったのだからあとは自分で軌道を考えるというのが実存主義らしい。その割には、彼らは大きな運命には拘泥する。つまり実存主義者には社会主義者が多い。すなわち大きな運命は変えられると思っている訳である。どうも矛盾があるようである。

 


物自体に先輩あり

2017-02-15 21:46:11 | カント

 カントがイギリスの哲学者ヒュームに独断のまどろみを破られたと述懐しているのは有名である。そのヒュームさらには其の前のロックにも物自体(Ding

 an Sich)という待避所がある。ただし英語であるからthings 

themselvesという。

ただし、この遊水池の機能は大分違う。

カントでは物自体は不可知である。すなわち、それはごみためであって再利用不可能である。いったん放り込めば再利用不可である。ディスポーザーに投げ込んでまわしてしまうようなものである。

イギリスの先輩二人はとりあえず分からないから一時ファイルに退避させておこうというものである。すなわち仮説を立ててなんとか分かろうとする。分別ゴミのなかから再利用可能なものがないかと一時脇にためておくのである。 

考えてみると、近代、現代科学は物自体に仮説を当てはめては検証して行った連続である。最後には「暗黒物質」なんてひねりだしてね。こうなるともうカント的不可知実体に大分近づいたね。もっとも数学にも虚数なんて切れ味のいい物自体に似た考えもある。

 


カントの三つの「*自体」、カントの土木工学的手法について

2017-02-11 09:33:48 | カント

遊水池を作るのがカントの常套手段である。洪水に備えて「逃し水」のための貯水池、水路を造りますよね、都市土木工学では。

純粋理性批判では遊水池は「物自体」である。実践理性批判では「存在者自体」(叡智者自体とも人間自体とも)である。判断力批判では「超感性的基体」である。最終的な辻褄をそこであわせる。

実践理性批判では「存在者自体」であるが、これは実存哲学などの「実存」に酷似する。

実践理性批判の内容は純粋理性批判の構想よりも前に、あるいはほぼ同じ時期に懐胎したらしい。しかし発表の順序は皆様ご案内のとおり純粋理性批判、実践理性批判であり、純粋理性批判をまとめるのに10年くらいかかったらしい。実践理性批判はなかなかすっきりとはまとまらず純粋理性批判に遅れること更に数年であった。そして出来上がった内容もそれほどクリアアットではない。

純粋理性批判と実践理性批判はパラレル・ワールドである。内容ではない。その形式であり、手法でありアルゴリズムがパラレルである。実際、実践理性批判にはおびただしい箇所で純粋理性批判への言及がある。


カントの道徳哲学 題名は体を表すか、Sittenは近似的にMoralsか?

2017-02-10 08:28:45 | カント

ドイツ語原題は GURNDLEGUNG ZUR METAPHYSIK 

DER SITTENというが、ある英訳ではこの最後のSITTENを

Moralsと訳している。ドイツ語にも英語と同じ意味でMoralという言葉がある。また同じ意味でEthikという言葉もあるのにSitten(Sitteの複数形)を選んだのには理由があるのか、という素朴な疑問を抱いたのである。 

ドイツ語辞書でsitteを見ると第一の語釈は慣習(英語ではcustoms)である。ひいては風習、慣行、慣例、個人の習慣的行為などを意味する。第二語釈に道徳、風紀とある。わたしはsittenを選んだのは意図的で名は体を表すというか、カントの思考からするとモラルよりぴったりと来るように思われる。

カントは該書で何回も民間の常識と哲学者がひねり出した道徳哲学の結論は同じになると繰り返している。そして該書のトーンは哲学では(つまり自分の論考では)世間で通用する常識に優る結果を打ち出したという自信を示すのを躊躇している。

カントの言葉を逆手にとれば道徳の実質というか内容をカテゴリカリーに提示するのは難しい。この書の最後の部分はカントの自信の無さが感じられる。このところを読んで(唐突な比較であるが)ウィトゲンシュタインが論理哲学論考の最後で述べている心境に似ていると思った。たしか、私は何も成し遂げてはいない、分析的手法はなにも新しい知識を生み出さない。命題の意味を整理し明確かするだけだ。読者諸君は「私のかけたはしごを上ったら、はしごを蹴倒して」壁を乗り越えて欲しいというような文章ではなかったかと記憶する(怪しげな記憶だが)。

カントの有名なことば、(個人の格律が普遍的な規則に一致する様に行動せよ)は実質的には何も示さない。カント自身が何回となく注意している様にそれば「形式」なのである。

といって、出来ないというのでもない。この書ならびに「実践理性批判」のあとに続く「人倫の形而上学」の法論とか徳論では内容を示す試みがなされているのだろう。もっとも下拙はこの著書は未読である。なお、この書は現代では広く読まれてはいないようだ。例えば日本ではカント全集でなければ読むことが出来ないようである。

 


カントの「存在者自体」、2

2017-02-09 08:04:59 | カント

前回のマエセツ(前説)の続きである。言い忘れたことが二、三あった。このブログで以前フランスの哲学者ポール・リクールのことを書いた。文庫クセジュでジャン・グロンダン氏の解説を紹介したことが有る。この本の半分くらいはリクールの若書きである「意志的なものと非意志的なもの」の解説に費やしている。 

そこでほとんど絶版同様になっているらしい該書の翻訳を探し出して手に入れた。その感想もこのブログに書いたが、若書きのせいか、翻訳の日本語のせいか興味索然として途中で止めてしまった。その時に気が付いたのだが、彼の思考はカントのそれをふまえているのではないか、と感じたのである。自由、悪、非意志的なもの、などほとんどカントのターミノロジーのように思えた。

グロンダンの解説でも彼の思考の基礎の一つはフランスの反省哲学であるとしている。反省哲学とはこの場合カントの流れを継ぐものである。とくにリクールの若書きの場合はカントの道徳哲学のそれを。そんなわけで途中で読み捨ててしまった該書の記憶が頭の片隅に残っていたらしい。

また、ヤスパースがどこかで、本当に読むべき本は少ない、プラトン、アウグスティヌスとカントを集中して読めと言っていた。たしか「哲学入門」だと思う。

プラトンは何冊か読んだことがあるが、あの会話体というのがかったるい。どうしても思考を移入して行けない。テンポが古代的で思考にずれが出来てしまう。

アウグスティヌスについては「告白」を読んだくらいだから確とした印象はまだないわけである。そんなことが記憶に引っかかっていたからか、書店でカント本に目が届くようになっていたのであろう。

 


カントの「存在者自体」

2017-02-08 20:04:08 | カント

カントを読んでいる。なぜか?読む物が無くなったからである。それだけでは充分な理由にならない。かつ徒然(トゼン)に耐えかねたのである。読書しなくても他に気晴らしがあるあいだは本を読まなくても空腹は感じないのだが、しばらく食わないとやはり活字を食いたくなるらしい。

「カントを読んだことはあるか」と聞かれると熟読したとは言いかねる。「論理実証主義」(これは死語かも知れないが)から入った私としては純粋理性批判がらみでは覗き見ぐらいはしている。つまり認識論がらみの本では大抵カントの純粋理性批判に言及、あるいは同書から引用、もしくは同書を参照している箇所が有る。そんな所を読んで、ああカントとはそういうものかと理解したという程度である。

随分昔だがプロレゴメナは読んだと思うが内容は霞のようになってしまって記憶がはっきりといない。純粋理性批判の拾い読みは、そういえば、したかな。

そうそう、比較的最近「判断力批判」をこのブログで取り上げた。忘れていたよ。これは全部読んだんだが、随分取り留めもない本だな、というのが正直な印象であった。

今読もうとしているのは倫理学というか、道徳、人倫の哲学である。とりあえず「道徳形而上学原論」を取り上げる。これは岩波文庫の訳題であるが、随分いろいろな訳があるようだ。中公クラシックでは「人倫の形而上学の基礎づけ」だし、これは訳本ではないが講談社学術文庫の「カント」では「人倫の形而上学の基礎」である。

ここまでがマクラというか前説である。続く