穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

川端康成「踊り子」

2010-06-22 20:00:32 | 書評

川端康成「踊り子」、川端の代表作は何なんだろう。我々みたいな素人の耳に入ってくるのは「雪国」と「踊り子」だろうか。岩波文庫は現にこの二冊しか入っていない。もっとも「踊り子」はほかに数編の短編が入っている。

前回、雪国の島村は永井荷風のカリカチュアだといった。これは訂正しないが、川端の執着するパターンでもある。それが「踊り子」を読むと分かる。

一方に別カーストの女がいる。他方にその女が憧憬を持って見るインテリがいる。雪国では、男は無為徒食の高等遊民であり、文筆の徒である。女は温泉芸者。

踊り子では男は一高の学生、それをまぶしく見るのは下層カーストの遊芸クラスターの旅芸人の少女。

いずれも視点は相手が自分を神様のように慕うさまが男の側から描かれる。確かに文芸評論家なるものが言っているように抒情小説であり、それなりに泣かせる。新潮文庫の雪国の解説、ちょっと待って、伊藤整だ。彼が絶賛する

「雪国は、川端康成においその頂上に到着した近代日本の抒情小説の古典である」とさ。いくらなんでもほめすぎだろう。

村上春樹は井戸が好きだそうだが、川端康成はトンネルが好きだ。

雪国、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

踊り子、「「暗いトンネルに入ると、冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた」

両小説とも、インテリの中年男や高校生(旧制)を神のごとくあくがれる女の風情、心情を冷徹に観察叙述したものだ。たしかに筆致は抒情的だがわたしはこの冷たさは好まない。

それと岩波の踊り子短編集には「十六歳の日記」というのが入っている。これがちょっと面白い。

どうって、いうのですか。川端の生い立ちは非常に興味をひかれる。運の無くなった家庭というのはいつの時代でもあるパーセンテージであるものでわずかの間に家族のほとんどがなくなるという環境だ。川端がもっとこの問題を掘り下げるとよかったと思うがね。

あれ、また女がおれを神様みたいに慕っているなんて言うテーマは普通は恥ずかしくて何回も書けないんじゃないのかな。

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川端康成「雪国」

2010-06-15 07:31:31 | 社会・経済

無聊を持て余して本棚をのぞく。そしてあまり厚くない小説を引き抜く。この頃の小説はバラ肉を売るみたいに目方で勝負をする。やたらとページ数が多い。肉屋じゃあるまいし、そういう本はお呼びではない。ドストエフスキーやディケンズは別だがね。

そこで雪国。川ちゃんはどうも肌に合わない文章なんだが、最初のほうをパラリとめくっていると布石が墨東奇談(略字でごめん、ワード一発変換しないのでね)に似ている。それで少し興をそそられて80ページほど読んだところだ。

「無為徒食」の正体不明の西洋舞踏評論家の島村と山奥の芸者駒子のおはなし。無為徒食と言うのもいかにも芸の無い大学生言葉だ。もうすこし工夫があってしかるべきだろう。

荷風の奇談は深夜治安のよくない下町をうろつくときに警察官の不審尋問対策に、いつも保険証書、戸籍謄本と実印を財布に入れて持ちあるく大江老人と玉野井の酌婦雪のはなしだ。

類似はそこまでなんだが、これはパロディだな、と直感。どっちがパロッテいて、どっちがパロられているか、それが問題だ。

そこでちょっとクロノロジーした。奇談は昭和11年11月脱稿、朝日新聞に連載開始したのが12年四月、完結が同年六月。

雪国は12年7月らしい。わずかの差しかない。早業だ。しかし随所に大江というより、当時マスコミのゴシップ欄で攻撃されていた荷風のパーツがあるようだ。

川端康成は荷風が嫌悪した文芸春秋のお抱え文士。こりゃ、ぱろったのは川端のほうだろう。

キャラは違う。同じ苦界の泥水をすする女にしても雪は文明(荷風が嫌悪した西洋模倣の世相)に毒されていない、無知で健全なおんな。

駒子は神経衰弱気味のサイコ。80ページまで読んで一番感じた相違は雪国の島村のキャラがまったく、今風にいえば、キャラがまったく立っていない。ここは作者の意図としても島村と駒子をくっきりと対比したいのであろうが、筆力がついていっていない。

それと駒子の会話部分だ。二通りある。一通りは温泉芸者の地言葉だ。これは自然だ。もう一つは東京のインテリ島村と素面で会話する時の女学生言葉、これがなんとも不自然。当時の女がどういう会話をしていたかしらないが、こんな話し方をしていたのかね。

80ページ以降読んで感興が湧いたら随時アップ。

& お約束通り150ページあたりまで読んだポジション・レポート、あと20ページほどだ。

温泉街の女で正体不明の葉子と言うのが出てくる。『トンネルを出ると雪国だった』汽車に乗っていて島村が窓ガラスと戯れた女だ(この場面有名らしいね、どうも感心しないが)。

この葉子もサイコだ。最後にどうなるのかな。ま、駒子、葉子の最後がどうなるか期待をつなぐ筆力はある。

さて、島村が永井荷風のカリカチュアとして始まったことは間違いないようだ。だが、いかなるモデル小説も書いているうちに登場人物が自律運動を始める。言いかえれば当初のもくろみどおりに操り人形として動かなくなる。

それでも予定通り推し進めることはできるが、ま、それなりの筆力のある作家は作品としてまとめるためにはオリジナル・アイデアには固執しないものだ。

川端も同じだ。この辺が島村のキャラが結局はっきりとしない所以だろう。

*「無為徒食」の資産家で西洋の芸術を知ったかぶりで書物を通して得た知識でひけらかす、文壇、文芸春秋ゴシップ欄の見方だ。

*女をだます気などさらさらないが、結果的に芸者、私娼、酌婦の心理をもてあそぶインテリ、これも文芸春秋ゴシップ欄の見方だ。

こういう悪意に満ちたモデル感で始まったことは見て取れる。しかし、さすがに週刊誌のネタのようにそれで最後まで押し通すのは無理があったということだろう。

菊池カンやつるんで飲み歩いていた文壇仲間との雑談、噂話からモデルが選ばれたのだろう。

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