穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

18:来訪者

2021-01-31 07:38:07 | 小説みたいなもの

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受話器を置くと待ちあぐねたように受信音がなりだした。広報室長の原口からだった。

「新聞記者のなんとかいう、山もととかいう人物から電話があって例のコロナの新薬について聞きたいというんだな。これから来るというのだが、君に対応してもらったほうがいいと思うんだがな」

「そうか、実は先ほど副社長から連絡があってね、取材の話は聞いたんだが、まだ余裕があると思ったんだが、馬鹿に早く来たな。何時の予定なの」

「なんか近くに来たからついでに寄るとかいっていた。おっつけ来るような感じだったな。こっちは新薬開発のことはマスコミの報道くらいしか知らないから君に出てもらったほうがいいと思うんだ。こちらに来てくれるか」

「わかった。すぐに行くよ」

 彼はなにか資料を持っていこうかと思案したが、結局やめたほうがいいと判断して手ぶらで出かけた。自社ビルの二十二階から上りのエレベ-ターに乗ると先客がいた。大きなショルダーバッグを肩にかけている。何か知らないがなかに一杯詰まっているらしく、ぱんぱんに膨らんでいた。相当に使い古された茶色の革製のバッグで大型のボストンバッグに肩掛け紐をくっ付けた様な代物である。表面のいたるところに亀裂が走り、しわが寄って破れかかっている。上半身はどういう職業なのか異常に発達している。その割には脚が短い。腹は突き出している。あまりこのビルでは見かけない風体の人物である。

 河野は行き先のボタンを押そうとしたが、すでに目的階のランプは点灯していた。目的の三十階についてドアが開くと河野は奥のほうにいた先客に先に出るように促した。妙な風体だが自社の人間ではない。つまり来客であるから敬意を表して遠慮したのである。男はブスっとした顔で河野の前を通りホールに出た。河野は三完歩ほど遅れてエレベーターを出た。その男は河野が行こうとしたオフィスのほうに進んだ。ひょっとすると彼は取材に来た人間なのだろうかと考えた。

 案の定、彼は広報室に入っていった。ドアの近くの席に座っていた若い女性課員に来意を告げているところだった。彼女は立って原口のところに行って指示を仰いでいる。彼女は来訪者のところに戻ってくると「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」といい、客を会議室に先導した。彼女は戻ってくると河野に「部長もどうぞ会議室へお出でくださいとのことでした」と言った。

 河野が会議室に入ると二人は名刺を交換して挨拶を交わしていた。入ってくる河野を見ると「こちらの方がコロナ新薬のことで取材に見えた方だ」というと、来客のほうを向いて「こちらが研究開発部長の河野でございます」と言った。

来客はまたポケットを探って名刺入れを取り出すと一枚抜いて河野に渡した。名刺にはやや大ぶりなボールドタイプの活字で山本一郎と中央に印刷してある。会社名も組織名も肩書も印刷していない。河野は失礼だと思ったが、念のために名刺を裏返してみた。白紙である。

「ははは」と来客は笑った。「手品じゃありませんからウラはありません」

これで座の雰囲気はすこし和らいだ。原口は、どうぞおかけください」と声をかけた。

 


17:ペーパー・カンパニー

2021-01-28 09:32:43 | 小説みたいなもの

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  北国製薬で開発しているコロナ薬の治験が順調に進んでいることは内外のメディアでも大々的に報道されるようになっていた。フリーの雑誌記者でいわゆるトップ屋の山本は北陸製薬と共同で開発しているというベンチャー企業の葵生物化学研究所を取材しようと電話で取材を申し込んだが連絡できなかったのでアポなしで直接取材することにした。

 大宮駅のコンコースを改札口に向かった。駅から歩いて20分くらいのところにある葵研究所の入り口は閉まっていた。インタフォンを押しても応答音が聞こえない。近くの鋳物工場に行って従業員に聞くと「ああ、どこかに引っ越していったよ」と言った。研究所のドアには引っ越し先も閉鎖の挨拶もなかった。彼は北陸製薬に電話した。ワクチン開発を担当している部署に新しい連絡先を聞くと、驚いてそんな連絡は来ていないという。

 開発が信じられないような極めて速いペースで順調に進んでいる状況は内外のメディアによって報道されていた。株価は敏感に反応して跳ね上がり続けていた。北陸製薬の時価総額は15兆円になっていた。従業員持ち株制度で持っている河野の株もベラボウな金額に膨れ上がっていた。四十五歳の彼はそろそろ引退しようかな、と連日白日夢を見てぼんやりしている。今度の成功で次の株主総会で取締役に抜擢されるのは間違いないだろう。ひょっとすると、いきなり常務に飛び級昇格するかもしれない。しかしな、と河野は考えた。それから先が長い。十二人もいる先任常務を飛び越して専務取締役、副社長、社長、会長となるには、成れたとして、長い道のりがある。45歳の彼はそろそろ引退の潮時かなとも考えた。カリブ海に別荘でも買って引退するのもいい。ひょっとすると、南仏かスペインにもう一つ別荘が買えるかもしれない。自家用機を持つのは無理としてもSSTで日本と別荘の間を飛び回って気楽に暮らすのもいいな、と夢見ていると目の前のデスクの上の電話が不吉な呼び出し音を発した。彼はぎょっとして心臓が一瞬停止した。本能的にその電話が凶報をもたらすものと直感したのだ。

 電話は副社長からだった。「新聞記者の山本と言う人から電話があってな、葵研究所が引っ越して行方不明と言うのだ。どういうことになっているのだ」と咳き込んだ口調で詰問した。

「なんですって」と滑り落ちそうになった受話器を持ち直すと彼は「そんなことはありません」と答えた。

「彼は取材に来ると言ったが、こちらから連絡するからと言っておいた。すぐに調べて対処しなさい」というと記者の電話番号を教えた。

 河野は葵研究所の電話番号を押した。テープの音声で「この電話は使われておりません」と言うと切れた。普通は「新しい連絡先は」と案内が続くものだが何もない。

とにかく、ほおっておくとますますまづいことになりそうなので河野は山本に連絡したが、話し中だった。数分おいてまた電話するとまだ話し中だ。相手はあちこちと関連先を取材しまくっているらしい。

 彼はふと思いついて法務室に連絡した。葵研究所の設立登記を調べてもらうことにした。役員の住所や連絡先がわかるだろうと思ったのである。

 


16:一本道

2021-01-26 07:04:25 | 小説みたいなもの

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日本での感染者は二百万人をこえた。北国製薬研究開発部長の河野太郎の両親は相次いでコロナに感染した。二人とも重症化して現在エクモ5で治療を受けていた。彼はマウスによる実験を終わったばかりのCovit22αの新薬を持って始発のリニア新幹線で名古屋に向かった。新薬はマウスによる治験では好成績を収めていたものの人間に対する治験はまだ計画も出来ていなかったが、両親に投与することを決断した。

 葵研究所のプランに基づいた研究は目覚ましい成果を上げてはいた。特に治療薬については次々と目標をクリアしていきつつある。ワクチンのほうは成果を確認するには時間がかかるが、治療薬のほうは動物実験では100パーセントの効果を確認していた。ニューヨークとデュッセルドルフの動物園でチンパンジーが罹患したというので、そちらのほうからの要請を受けて治療薬を送ったばかりであった。

 普通新薬の開発は一応の見当はつけるものの、いろいろと試してみてどれがうまくいきそうだと進むものである。つまりトライアル アンド エラーの長い連続である。ところが葵研究所の計画書によるとそれが一本道なのである。すべて最初の計画で目標をヒットしている。普通はありえないことだ。河野は一体どうしてこんなに見事なプランを立てられるのか訝ったのである。まるで新薬開発の帰納法による長い道のりをあざ笑うかのように一本道なのである。最初から結論を知っているかのようだ。あるいは帰納ではなくて演繹法のみで正解を解いているようなのだ。

 一体あの徳川虎之介というのはどういう人物なのだろうか、と契約書を交わすときにも違和感を覚えたのである。契約交渉で金銭的な交渉は全く行わず、すべて北陸製薬の提示した案を受け入れたのである。収益の分配では普通開発者と製薬会社の間ではかなりシビアなやり取りがあるものなのだが、徳川は北国製薬の出した、ある程度は交渉で譲歩する用意のある、つまり含みのあるというかネゴシアブルな通常よりかなり低い取り分にまったく文句をつけなかった。

 葵研究所と言うのはどういう所なのだろう。北国製薬では契約前に確認はした。所在地は大宮市の町工場が立ち並ぶ一角にある建坪が四十平方メートルの三階建ての小さなビルであった。中は一応それらしき設備はあったが。ごくありきたりの設備であった。民間のベンチャー企業だし、ガレージ企業から目覚ましい発展をとげた企業はシリコンバレーにも多いことだし、それほどの違和感や不信感は抱かなかったのである。

 両親が入院している病院は大病院で北国製薬の大得意先でもあり、新薬の投与についても事前に了解をとってあったので到着するとすぐに意識のない両親にそれぞれ投与して様子をみた。投与後30分後には効果が見えはじめ、三時間後には両親とも意識を回復したのである。

 父は意識を回復すると息子の太郎の姿をみて「おうおう」と大きな声に出した。母親はしっかりとした目線でびっくりしたように彼を見つめていた。彼はほっとして息子に種痘を試したジェンナーもこんな気分だったのかな、と思った。

 

 


8A:ヒロポンじゃないか

2021-01-23 08:27:11 | 小説みたいなもの

 覗き屋すなわちノンフィクション・ライターにして実話雑誌記者の庚戌は巡礼のように役所や企業に押しかけてネタを漁るだけではない。図書館で調べ物をすることもある。最近の『通り魔事件』はどう考えても現代すなわち星人支配下の現代の犯罪ではない。古代的な色合いがする。あるいはが逆に超未来的なのかもしれないが。そこで巷では見かけることのなくなった古代の犯罪の記録を探したが、そんな情報は書籍はもちろんインターネットにもない。もしやと思って国立中央図書館に来たのである。

 狐めがねを鼻の中ほどに載せたおばさんの司書に相談すると「そんな古代の記録はあるかしら」と電算機のキーボードをしばらく引っ叩いていたが、「マイクロフィルムだけど当時の新聞があるわね、通り魔事件とかいう見出しよ」と教えてくれた。

「いつ頃の新聞ですか」

「AD1947年ね」

「ふーん、二千年前か」

「彼女はマイクロフィルムのビューアーがあるところを教えてくれた。

 慣れない機械でうまく操作できない。ようやく該当の記事を見つけたときには目がかすんできた。

 ヒロポンという薬物が流行っていたらしい。その中毒者が起こした犯罪と言うのが報道されているが、理由もなく往来で人に襲い掛かる事件が多かったようである。橋の上で乳母車(ベービーカーと言わないと分からないかな)に乗せた赤ん坊をいきなり川に投げ込んだなんて事件が数件紹介されていた。

 ヒロポンってなんじゃらほい、と思ったらその紹介が記事の下にあった。もともとは軍隊で開発されたものらしい。航空機搭乗員とか潜水艦乗組員など極度のストレスのなかで勤務する兵士の緊張を維持し、睡眠をとらなくても長時間過酷な任務に耐えられるように開発された薬剤らしい。興奮剤の一種で大戦末期には出撃する特攻隊搭乗員にも投与したという。終戦時軍は大量に在庫を抱えていたが、それが市中に流れ出したという。また、民間の製薬会社でも民需用に戦後売り出した。なにしろ町の薬局で簡単に購入できたという。疲労回復とか眠気予防などの効能をうたったという。しかし、中毒性が強く、すぐに依存性になるので発売が禁止されたとある。

 覗き屋の身軽さである。彼は木戸御免の厚生省広報室に現れた。

「ヒロポンってどんな薬ですか」と聞かれて係長の三島は「なんだい、それは」とぞんざいな口を聞いた。マスコミを相手に丁寧な言葉を使うと相手は逆に居丈高になって突っ込んでくる。ぶっきらぼうにまず突き放すのがいいと三島は先輩から教わった。相手は情報が欲しいという弱みから、下手に出てくる。

「なんでも旧日本軍が兵士に与えていた興奮剤のようなものらしいんですがね」

「日本軍って」

「大日本帝国陸海軍ですよ」

「そんな昔の話を知るものか」

そんなやり取りを隣で聞いていた若い課員が「そういう薬は今でも有りそうだな。アメリカの特殊部隊なんかは作戦前に与えられそうだ」

「そうだな、薬品名は違うだろうが、類似のものはあるだろうな」

「日本ではありませんか」

「あるさ、精神科医が使いそうな薬だな」

「市販はされていない?」

「あたりまえだ。しかし医師と言うのはモラルがないからな。市中に横流しする医者はいるだろう。暴力団相手なんかにな」

「そういう可能性があったとすると、どうして今年になってから昔のヒロポン中毒者の犯罪に類似した犯罪が発生し始めたのかな」と庚戌はしたり顔に首をかしげた。

 そういう覗き屋を見て三島はもう相手にしなくなった。手元に広げていた書類を覗き屋から隠すように手で覆って読み始めた。

 

 


14:はじめチョロチョロ、なかパッパ

2021-01-20 09:23:46 | 小説みたいなもの

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 歌舞伎役者が演じる四十八手の姿態がプリントされたハンカチをしまうと、「このウイルスは感染の広がりかたを見ると天然とはだいぶ違いますね。最近は遺伝子工学が発達してゲノム編集などの技術は日進月歩ですから、天然のウイルスに相当手を加えられているのではないかと推測しています」

「もとは蝙蝠のウイルスだと言われていますがね」

「そうかもしれません、しかし人間の手が加えられているとしか考えられない」

「たとえば」

「部長ははじめチョロチョロなかパッパというたとえをご存じですか」

徳川氏は妙なことを言い出した。

「いいえ、なんのことですか」と河野は目を細めて怪訝そうに問い返した。

「いや、これは失礼な質問をしました。若い部長が御存じのはずがない」と笑ったが、どう見ても徳川虎之介のほうが十五歳以上若そうだ。

「飯を炊くときのコツなんですがね、もっとも電気炊飯器ではありません。かまどで薪を炊くときです」

こいつは一体幾つなのだろうと河野は蝋人形のような相手ののっぺりした顔を見た。

「いや、これは失礼しました。ようするに初めの火加減はゆっくりと弱めにチョロチョロとして、途中から一気に火勢を強めるとおいしいご飯が炊けるということを分かり易くいったことわざでして、コロナウイルスの拡散の具合が似ていませんか。最初は感染しても子供や若者は発症しないと安心させて、その後変異種が続々と出てきて、重症化率もあがり、若者にも重症化するものが出てきたり、深刻な後遺症が出てくる」

「たしかにそういう経緯をたどっていますね。」

「これが意図的にウイルスに仕込まれたものだとしたらどうですか」

「たしかに天才バカボンいやバカ・ボンブみたいだ。変異種の出現のスピードも速すぎる。これも生物兵器として設計されたなら、理想的な展開ですね。相手は対応のしようがない」

 部長が徳川のいったことを頭の中で吟味していると、彼はブリーフケースから書類を取り出した。

「これは企画書でして、当方の仮説と御社の協力をいただけた場合に実証実験を行う場合の概略が記してあります」

とA4用紙数枚を閉じた書類を部長のほうに滑らした。

「なるほど、、」と書類を手に取るとざっと目を通した河野は「お預かりします。社内で検討させていただきます。実施するとなると社内で稟議を取らなければなりません。しばらくご猶予をいただきます」と回答した。

 来客を帰したあと、自席に戻った河野は企画課長を読んで面談の要旨を教えて徳川氏から預かった企画書を渡して検討するように命じた。

 数日後企画課長が報告に来た。「よく出来ていますね。試してみる価値はあるでしょう。それほど出費もなさそうですし」

「そうか、それでは稟議を作成してくれたまえ」

 


13:葵生物化学研究所

2021-01-19 08:29:15 | 小説みたいなもの

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業界三位の大手製薬会社北国製薬の応接室で研究開発部長の河野太郎は若い白面の貴公子然とした男性と相対していた。差し出された名刺には株式会社葵生物化学研究所代表 徳川寅之介とある。

「それで2145年型コロナウイルスのワクチンの開発と言うお話でしたが」河野は客に問うた。昨年AD2145年の初めから流行し始めた新型コロナウイルスの猛威はすさまじくすでに世界の人口の3パーセントに当たる3億人が死亡している。感染者は地球全体で60億人に達している。「貴社でもワクチンを開発していらっしゃるのですか」と甲は疑わしそうに聞いた。この頃はどの製薬会社も大学などの研究機関でも躍起になって特効薬やワクチンの開発に夢中で一番乗りを目指している。彼はしげしげと相手を見た。初対面の挨拶をしたときにはその背の高いのに驚いた。180センチはある河野より頭半分高い。190センチは超えているだろう。そして顔色がまるで大理石のような光沢を放つ異様な白さで、蝋人形か彫刻のような印象を与えた。

 ソファに座った徳川は長い足を持て余すように動かしていたが、

「ええ、私共でも研究しております。小さな会社ですのでもっぱらコロナが中心でして」

葵研究所と言うのは初めて聞いた。おそらくどこにも上場していない会社だろう「で、どのような」

「このコロナは自然発生的なものでしょうか」

「そうではないという意見もありますね。生物兵器という説もあるようです」

「私共は小さな機関ですから大規模な実験は出来ません。まず状況を分析して仮説をたてます。そうしてそれを検証する段取りになりますね。ところがそれには莫大な資金と大規模な研究施設が必要となります」

なるほど、と河野は合点がいった。それでウチに資金を出させ、研究施設を利用しようという考えらしい。

「それでどんな仮説を立てられたのですか」

「部長はバカ爆弾というのをご存じでしょうか」と徳川は聞いた。河野はその時に気が付いたのだが、徳川氏の白目は異常に面積が小さい。その代わり黒目は目全体の7、8割を占めている。

「馬鹿爆弾? さあ」

「時限爆弾の一種でして、二十世紀の第二次世界大戦中各国で開発されたものです。航空機からでもあるいは砲撃でもいいが、弾頭が地面に落下しますよね。だけど爆発しない。そういうことはよくありますが、それは誤作動でしてね。ところがこの種の爆弾では意図的に落下直後は爆発しないように設計されている。それで不発弾かと思って近づくと爆発するという仕掛けです」

「ははあ」何しろ二百年以上も前の話である。河野が知っているわけがない。初めて聞く話である。

「それそれが今度のコロナと関係があるんですか」

 徳川は出された茶を一口含んだが、なにか毒物を検知したかのように慌てて口を離してポケットから出したハンカチで唇をぬぐった。

 


12:あなた顔はおかしいわね

2021-01-17 08:48:22 | 小説みたいなもの

 合同庁舎55階の食堂はほぼ満員だった。カウンターには長い列が出来ていた。勝は列の最後尾に並んだ。前に並んでいたのは同期の岸なのに気が付いた。彼は国防省動員課で働いている。列は亀みたいに少しづつ進んでいく。

「忙しいのかい」と後ろから声をかけた。

岸は「うん、今中期計画の作成中でね」

「どんなところが問題なんだい」

「どうも情勢が流動的でね。特に北方、西方の蛮族の動きが不穏だ」

「ふーん」

「それでね、場合によっては君のところにも相談に行くかもしれない」

「てえっと、なにか兵員が不足するのか」動員課の岸が人口調節庁と打ち合わせをしたいというのだから、そんなことかな、と思って聞いた。

「そうなんだ、兵器の調達は問題がないんだがね。兵員となるといろいろ難しい。すべてロボットに頼り切るわけにはいかない」

「それはそうだろうな」

「中期計画と言うと、どのくらい先なんだ」

「ま、五年から十年だな。どうも今の体制だと兵員不足が深刻なんだよ」

「ぎりぎりだな。むずかしいかな」

「一応備えておかないとね。計画がまとまったらお願いに行くかもしれないよ」

 彼らの順番がきた。岸はナポリタンにコーヒーを選んだ。勝は天津丼とオレンジジュースを取った。食堂の席は満席だった。2人はトレイを持ってきょろきょろと空席を探しながら中にはいった。後ろから「おい、勝」と野太い声がかかった。振り向くと厚生省薬物課の田村だった。なるほど彼のそばに空席がある。二人は隣に落ち着いた。彼はカツカレーを食べていた。

「久しぶりだな」

「お互いに忙しいからな。そのうちに飲みに行くか」かれもまた同期なのである。そのテーブルは北側の大きな窓に面していた。勝が向こうを眺めると筑波山が黒々と雲の上に浮かんでいる。昨夜は関東に強風が吹き荒れて朝の湿度は20パーセントしかなかった。こういう日には雲一つない空の下に筑波がくっきりと見える。勝は急になんだか気持ちが悪くなって顔をしかめて腹のあたりを抑えた。その様子を見ていた岸は「どうした。調子が悪いのか。少し痩せたな」と改めて不思議そうな顔をして彼をしげしげと見つめた。

「いや、なんでもない」というと視線を窓の外からテーブルの上に移した。やがて不快感は薄くなっていった。

「働きすぎじゃないか。人口庁は人使いが荒いからな」

そういえば、今朝洗面所で髭をそっていた時のことを彼は思い出した。朝食の時にセックス・パートナーの裕子が「あなたの顔がおかしいわね」と言った。彼は改めてしげしげと鏡を見たが目が少し血走っているくらいで特に変化は分からなかった。

「最近すこし働きすぎじゃないの」

GHQ勧告で労働時間は週二十時間となっているが、勝の最近の勤務時間は週に三十五時間をこえている。もっとも彼女のほうでも彼に対して飽きがきているのかもしれない。三か月も続いたのは彼にしても珍しい。GHQもあまり長い間特定のセックス・パートナー関係が続くのは歓迎していない。そろそろ分かれる潮時かもしれない。

 勝は回想から岸の声に呼び返された。

「例の通り魔事件は一向に収まる気配がないな。GHQでもこの間会議を開いたというじゃないか。どうなっているんだ。君も会議に出ていたんだろう」

「ああ、結論なんてまだ出ていない。とにかく現状を多面的に分析把握して調査を継続しようということになった」

田村が割り込んだ。「その件だけどね、我々のところにも照会があったよ」二人は彼を見た。

「なんでも、薬物関係から調べろということでね。一つはアヘンの耐性についてというのと、なにか刺激性のドラッグがひそかに街に出回っている形跡はないか、調べろとさ」

「刺激性のドラッグというと?」

「アヘンはどちらかと言うと、うっとり方だろう、言い方は変だが、何もしなくてうっとりとして非活動的になる。それが恍惚状態なんだが、一方で刺激性と言うか、向精神作用をもたらす薬物があるんだ。やたらと活動的になるというか、攻撃的になる。無鉄砲になる。ようするにハイになるわけだ。若年層には本来的にアヘンは向かないんだよ」

「アヘンは人工的に涅槃状態になるわけか」

「まあ、そうもいえるな」

 

 


11:夢の傾向一変す

2021-01-16 19:50:46 | 小説みたいなもの

彼は寒さに震えながら駅前のバス停のベンチで目が覚めた。リュックサックが無くなっている。慌ててポケットを確認したところ財布は不思議なことに残っていた。彼はふらつく足で震えながら近くの交番に駆け込んだ。被害を訴えると新米らしい警官が用紙をとりだして、いろいろと細かいことを聞き出して記入している。時間のかかることおびただしい。

「そんなことより、そのバーへ踏み込んで捜査してくれというと、新米は困ったような顔をして奥の仕切りの後ろに入って指示を仰いだ。頼りないことおびただしい。やがて五十年配の男が防刃チョッキに片腕だけ通して寝ぼけ眼をこすりながら面倒くさそうな顔をして出てきた。

「どこのバーですか」と無愛想に聞いた。

わからないんだ、「なんていうバーです」。分からない。

老年の寝起きの警官はあきれたような表情をした。

勝が興奮して喚きたてるものだから、早朝の出勤者も交番の前に、何事ならんとたかりだした。年配の警官は面倒くさそうに、新米に「場所を確定してこいや」と命じた。

 新米と二人でくだんの悪徳バーを探索したが、昨日も道に迷った挙句にぶち当たった店であるから、いざやってみると勝にナビゲイト出来るわけもない。どこにもそんな店はない。30分もするとさすがの新米も怒こりだした。交番に戻ると調書を取られたが、勤務先はと聞かれて彼は咄嗟に役所に知られたらやばいことになるかもしれないと気が付いた。下手をするとデメリットが付く。財布は無事だし、デイパックは取られたのか、失くしたのか判然としない。なかには事務所から持ち出した書類は入っていなかったはずだと思うと、彼は被害届はいいや、と言い捨てて交番を飛び出した。

 勝はもともとあまり夢を夢を見るほうではない。消化の悪い脂っこい夕飯を食べた夜などたわいのない夢をみるが、起きたあとは覚えていない。ところが最近毎晩夢を見るようになった。それが馬鹿に鮮明なのである。キリスト紀元二千年だったころの古代の映画業界の惹句風に表現すると極彩色天然色なのである。立体的なのである。とにかく生々しい。目覚めてからもその記憶は消えない。

「素っ裸になるわよ」と白塗りの妖怪に惑わされてからである。どうもあの狭い地下のバーで飲まされたビールの中になにか盛られたのかもしれないな、と彼は疑った。

 したがって夢の中にあったことを現実のように取り違えることがある。ある時など、大月駅近くの繁華街にあるバーにもう一度行こうとしたことがある。しかし、いくら探してもそんな店はない。そのうちに、ああそれは夢に見たことだったと納得したのである。そんなことが続いたので彼は克明な日記をつけ始めた。それまでは小型のビジネス手帳に簡単なメモのようなものを書き込んでいただけであったが、今回は6号の大型大学ノートを買って日記と言うよりも時記を残すようになったのである。おまけにその横に証拠としてその日に受け取った商店や飲食店のレシートを残らず添付した。レシートには店名、所在地、発行時刻が印刷してある。行動確認には最適である。

 随時日記を紐解いて彼の表象が現実のものか、夢の中の物なのか確認しているのである。夢の中には極めて不快なものが多い。あとは何でこんな夢を見るのか現実の彼の生活と全然関係のない場面が出てくる。極楽のような夢はみない。もっとも一説によるとそのような夢をみるようになると死期が近づいている証拠だという人もいる。

 

 

 


10:素っ裸になるわよ

2021-01-13 11:39:50 | 小説みたいなもの

 従来型エレベーターでビルの一階に下りると彼は日の落ち切った街路におぼつかない足取りでさまよい出た。すこしふらついた。さきほど機内で浴び続けた強烈な西日でホワイトアウトしたらしい。繁華街には灯りが瞬きだした。娘に約束した人形を買おうと見当をつけておいた目的の店に向かって歩きだした。しばらく歩いても目的の店が見つからない。おかしいな、と訝ったが、あたりを見回すとすでに灯火きらめく商店街はとっくに通り過ぎて、うそ寒い灯火もまばらな陰気な路地に迷い込んでしまっていた。先ほどのホワイトアウトで完全に方向感覚がくるってしまったようだ。勝はあせって無茶苦茶にあっちへ曲がり、こっちの角を反対方向に曲がって、すこしでも明るい商店街に出ようとしたが、どうも同じところをぐるぐる回っているらしい。腕時計を見ると一時間以上道を見失っている。日は完全に暮れて路地はほとんど暗闇が支配していた。

 そろそろ疲労が足に来ていた。喉が渇いてきたが飲むものを携行していなかった。突然暗闇のなかからなまめかしい声で「素っ裸になるわよ」と声がした。びっくりしてそのほうを見るとちまちましたビルとビルの間の暗闇に白首が浮かんでいた。不自然に真っ白な顔の女が立っていた。真っ赤に塗った薄い唇が開いている。口の中は真っ黒な闇だった。女は首から露出している胸元まで異様にしろい。

 女はもう一度誘うように「素っ裸になるわよ」と誘った。「立ちなさいよ」と女に叱責されて海綿体を充血させない男はいない。おなじく「素っ裸になるわよ」といきないり不意を突かれて「乗らない」男はいない。たとえ、人口調節局のエリート職員であってもおなじである。まして今彼はホワイトアウトしてまともな判断ができない。

 にっこり邪気がなさそうに笑った女は先に立って歩きだした。勝はふらつく足で無抵抗について行った。人が一人ようやく通れるような所に入ると明かりのついて戸口があった。女はその中に入っていく。中はものすごく暗い。足元もよく見えない。女はその奥にある階段を下りていく。「急だから気を付けてね」と言いながら。

 地下は狭苦しいスナックのような作りで2・5メートルのバーにテーブル席が一つあるだけであった。女はそこに彼を座らせると、何にするかきいた。ビールがいいなというと、女は席を立ってカウンターに行った。

 おんなはビールと頼みもしないオードブルらしきものがのった大皿を運んできた。これを見て勝はやや正気がもどり、やばいなと不安になった。女がビールの酌をした。その手を見て彼は正気に戻った。彼女の手は土方のようにごつく大きく茶色に変色していて、太い静脈が手の甲をはい回っている。白首はめちゃくちゃにおしろいを塗っていたのだ。

 彼は脱出計画を思いめぐらしながらビールを飲んだ。なんだか妙な刺激が舌や喉を不快に刺激した。やばいと本能的の思った彼はグラスをテーブルに置いた。体中がかっとしてきたと思ったら、おんなもテーブルもその上に乗ったオードブルもどきの大皿もみんな回りだした。彼はぼんやりとしてきた目をこすりながら皆左回りなのを不思議そうに眺めた。意識が唐突にシャットダウンした。

 


9:人口庁

2021-01-11 08:40:39 | 小説みたいなもの

 退庁した勝五郎(カツ・ゴロウ)は霞ケ浦の第一号合同庁舎の屋上から予約した迎車ヘリタクシーに乗り込んだ。サングラスをかけた人相の悪い運ちゃんに「八王子にやってくれ」と命じると横の座席にどさりとこげ茶色のデイパックを放り出した。彼は内閣府直属の人口調節庁統計課の主任である。

 人口調節庁はGHQの最重要官庁である。官庁としては最重要の部署である。古代シナの格言に治水は政権維持のかなめである、というのがある。星人の格言では治・人口が、すなわち人口調節が最高の政策課題なのである。正調マルサス流の考え方である。すべての経済活動がうまく機能するかどうかは、生産能力と需要量がバランスしていることである。この比重がどちらかに傾いても政権運営は不安定になる。マルクスの亡霊が這い出してきかねない。

 統計データからこのバランスが崩れそうに予測されると、人口庁は経済産業省に指導を行う。その方向は予測データに基づき、投資の拡大であり生産の増強である場合もあり、投資の抑制であったり、減産である。一方、厚生省には人口の抑制か増加を要請する。供給側の調整は古代の、つまりキリスト紀元21世紀でもありふれた政策であった。人口の調整も政策課題であったが、人為的に大幅で急速な、つまり実効性のある調整は不可能に近かった。しかし、星人治下ではその当時に比較すると相当迅速に、効率的に対応できるようになっている。二千年も安定した統治が続いているのもまったく人口調節の効果である。

 GHQは基本的に従来の地球人の統治方法を踏襲したが、この問題については革命的な変更を行った。すなわち一回一匹いや間違えた、人口を増やすときには一人ずつ膣口からひりだすのではなくて一つの受精卵を繰り返し分裂させて最高1024人の胎児を生み出す一卵性多胎児生産技術を彼らはすでに持っていたのである。その反対に人口が過剰になるときは受精卵を作らない、あるいは一切孵化させない。そのためにはすべての受精卵のコントロールが必須となる。

 そのために、彼らは家庭での出産すなわち膣からの出産を禁止した。膣口出産は国家転覆罪や殺人とおなじ重罪となった。しかし性欲は禁止しなかった。そんなことをすれば若者が反乱をおこす。

 かれらは乱交は積極的に推奨したが、家庭内出産は禁止したのである。このような状態が千年ほど続いたが、家庭制度を存続させていては効率的な運用ができないので、家庭制度を禁止した。おそらくこれが彼らがもっともラディカルに人間に加えた政策である。

 いまでは健康な若者から強制的に精子と卵子の提供を義務付けて、冷凍保存し、統計庁の決定に基づき、適宜受精卵の分裂回数を調節して、人口の増減を調節している。また、人間の成長を早める技術も保有していて、肉体労働可能年齢を最短で十歳に短縮可能である。また精神労働可能年齢を十五歳まで引き下げることができるのである。

 西に向かうヘリタクシーに殺人的な西日が襲いかかった。地下に引きずりこまれようとしている太陽が最後の抵抗をしているような強烈な殺人光が地平線の下から突き上げてくる。勝はサングラスを携行していなかったので、まともに沈みゆく西日の照射を目に浴び続けた。下方には一千年前に渤海国の核ミサイル攻撃で破壊されて半永久的に放棄された旧東京市街の無人の廃墟が静まり返っている。

 


8:斥力エレベーター

2021-01-09 08:53:47 | 小説みたいなもの

 会議は全省庁の参加する分科会の設立と専門家の調査チームを立ち上げ、全力をあげて至急実情の把握を目標とすることを決議して終了した。

 地上にオフィスやねぐらのある参加者はハッチを通って斥力エレベーターに乗り込んだ。エレベーター操縦士は「全員着席してください。かばんや荷物はしっかりと抱えて下さい」とアナウンスした。ひとり力士上りのような肥大漢が座席に尻を押し込めず立っていると、「立っている人はレールにしっかりとつかまってください。カバンはしっかりと持っていてください」と注意した。

 彼はエレベーターのハッチを閉めると機体を止めていたフックを外した。エレベーターは宇宙船の下っ腹を離れて急速に落下を始めた。客席のシートベルトが乗客の腹に食い込む。高度千メートルに達すると操縦士は斥力レバーを思い切り前に押し倒した。機は官邸前庭にあるヘリポートの芝生の上にふんわりとソフトランディングした。

 首席補佐官助手の丙は官邸に入ると五階の自分のオフィスに入った。応接セットのソファには見るからに卑しそうなだらしのない服装をした先客がいた。

「よお、会議はどうだったい」

丙は顔をしかめた。覗き屋の庚戌(かのえいぬ)は大学時代の同級生である。卒業後十年ほど交流がなかったが、さるパーティでばったりと再会した。庚戌は卒業後、いくつかの業界紙を渡り歩いていたが、当時はさる実話雑誌の記者をしていた。

「俺に書かれるようなことをするなよ」と彼は丙に脅しめかして冗談を言ったのである。その後丙が役所で出世していくと、彼も取材に頻繁に来るようになった。

「今日の会議でなにか決まったかい」。どこかでさっきの会議のことを聞きこんだらしい。

「いや、定例の会議だよ」

「隠すなよ、今年になってから頻発している『通り魔事件』の対策会議だと聞いたぜ」

たしかに実話雑誌の取材網は広いらしい。

「まあな、相変わらず早耳だな」と丙は譲歩した。

「それで捜査状況はどうなっているんだい」

「全然進捗していないらしいな」

「甲が責任者じゃ、無理だろうな」と彼は見下したように言った。

「ところで、君の取材網の広さに信頼して聞くのだが、君のほうで何か情報は持っているのかい。事件や犯人について」と丙は反転に転じた。

「いや、今のところはなにもない」

「一つ調べてくれよ、役所が出来ないような取材情報も貴重だからな」

「そうだな、そうしよう。これは相対取引だぜ。君のほうでもなにか動きがあったら連絡してくれるな」

丙は無言であったが、表情で同意した旨を覗き屋に伝えた。

秘書がお茶を差し替えに入室した。庚戌は脂ののった彼女の旨そうな尻を撫でまわした。

 


7:星人の日本人統治法の一例

2021-01-06 08:39:37 | 小説みたいなもの

「お答えいたします」と甲はかすれた声で言った。

「実行犯はAカテゴリーからEカテゴリーにまんべんなく散在しております」

一座に驚きと懸念の声がさざ波のように広がった。「Aクラスにもいるのか」

特Aはどうですか、と丁が念を押して聞いた。

「特Aにはいないようであります」と甲が答えると出席した日本人の間に安どの声が広がった。彼らはみんな特Aなのである。

星人の統治方法は間接統治である。二千年前に地球を支配する前から彼らは将来の支配方法について検討していた。日本の歴史や民族性についても先行して日本に潜入していた特務員によって調べられていた。その結果、現在のような間接統治方法が採用されたのである。

 地球のキリスト紀元1945年、大東亜戦争に勝利したアメリカは間接統治方式を採用して大成功を収めていた。アメリカは意識的に日本の統治中枢を破壊せずに残したのか、はたまた偶然そうなったのかもしれないが、日本の官僚制度は敗戦時壊滅せず機能していた。アメリカはこの制度を活用した。いわば『背のり』をしたのである。これが極めて有効であったのを知って星人もこれを採用したのである。

 日本の敗戦の三か月前に壊滅したドイツでは国家の統治機構は完全に破壊されていたのに対して日本ではアメリカによる統治に使える国家組織が温存されていたのである。アメリカは戦前(キリスト紀元1945年前)にあった華族制度を廃止し軍備を解除したが、あとは若干の修正を加えただけであった。そして間接統治のかなめとして、GHQの直接下部機構として日本人の政治家や高級官僚を特Aクラスとしたのである。彼らのトップは日本人の首相であり、各大臣である。実質的には星人の構成するGHQに本当の実質的な首相や大臣がいるのであるが、表向き、日本人大衆には特Aクラスの人間が支配層のように受け取られたのである。

 以下Aクラスは上級公務員クラス、BCDEはいわば士農工商の復活版である。キリスト歴の19世紀に哲学者ヘーゲルは労働は疎外であると喝破したが、星人は疎外率の少ない順にBCDEを割り振った。したがってBクラスにはもろもろのいわゆる芸術家が割り当てられた。ただし、テレビなどのマスコミで働く人間は芸能人を含めて疎外度がはなはだしいので最下級のEクラスに分類されたのである。

 それで、と労働大臣が質問した。「各クラス間の実行犯の率は同程度ですか」

「そうですね」と甲は手元のリポートを見ながら首をひねっていたが、苦し紛れに「心持ちですが、階級が下のほうがパーセントは高いようですね」といい加減な答弁したのである。

「おもしろいね」と教授が呟いた。「そうすると地方のほうが実行犯の割合は少ないということになるかな。もっとも最近では農業も大規模化、機械化、産業化が進んでいるから都会の会社員とか工場労働者と労働疎外率はあまり変わらないかもしれないが」

甲はこれに対してなにか答えなければならないと思ったのか、しきりに報告書をひっくり返していたが「多少はその傾向があるようであります」といい加減な逃げをうった。

 

 

 


6:政治的テロの可能性

2021-01-03 08:59:26 | 小説みたいなもの

 ここまで陳述して喉が干上がってしまった甲はテーブルの上から秘書の乙に命じて特注したさつまいも汁のボトルを取り上げて喉に湿りをくれた。本部長閣下が質問した。

「テロの可能性はありますか、政治的な意図と言うか」

「お答えいたします。それは今のところ見つかっていません、そうだな」と甲は隣に座っていた公安部長を睨み下ろした。

「それは一件もありません」と公安部長の癸巳(ミズノトミ)が答えた。

「断言出来るのかね」

「100パーセントございません」

「そう断言できるものかね」と本部長は疑い深そうに呟いた。政治的テロならそれなりに犯人を手繰る手だてがある。正体をあぶりだすことが出来るんだがな、と考えた。

「犯人は自己主張をまったくしないのかね」と念を押した。

「いや、それは」と甲は慌てて割り込んだ。「犯人の中には非常に饒舌なものがおります」

「それで言っていることは同じなのかね」

「いえ、それがまちまちでして」

「たとえばどんなことだ」

「さきほどもご紹介いたしましたが、昨日の秋葉原事件の犯人はSNSをやっておりまして、そこで誹謗中傷されて仲間外れにされたというのであります」

「なんだい、そのSNSとかいうのか」

「インターネットを介して会話と言うか意思疎通というかぺちゃくちゃやるのであります。いろいろなサービスがございましてほかにツイッターとか掲示板とかラインとか無数にございます。そうそう、掲示板で仲間外れにされたというので犯行に及んだと主張する犯人もありました」

「それで、そこでは政治的、反政府的主張をしているのですか」

「さあ、それは少ないと思います」

「じゃあ、どんなことを『話す』のですか」

「今どこにいるとか、どこに昨日行ったとか、どこの飯屋がうまかったとか、およそ、会話を交換する意味のないことのようです。そうだな」と甲は陪席する部下に聞いた。

「それで、そういう話を仲間内で交換するのか。それで相手にされないと怒り狂うわけだな」

「ああ、そうでした、昨日の秋葉原事件の犯人はゲームマニアでして、ゲームの話ばかりしていたようです」

「一体幾つの男なんだ」

「たしか35歳だったな」と甲は公安部長に確認した。

「いい大人のなのにな」と誰かが感慨を漏らした。

教授が発言した。「その男の陳述は興味深いな。ほかにありますか」

「いや、逮捕したばかりでして今申し上げたことだけがこれまでの陳述で分かっております。引き続き聴取をしてまいります」

「そうですか、ぜひ供述の全体をまとめて報告してください」

「かしこまりました」

 

労働大臣が発言した。「犯人たちの生活様式とか職業に共通点はありますか」

甲は不意を突かれて慌てて癸巳と囁きかわした。